※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
※以下の文はほぼ『三国志』と無関係。
2008年9月14日11:30。国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」の会場である立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室で一般聴講していた清岡は席を立ち、外に出る。
・立正大学
http://www.ris.ac.jp/
というのもの三国志学会の年会費を払い『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れるべく、その会場となる大東文化大学板橋キャンパスに向かうためだ。別に会費の支払は郵送等で行えば良いんだけど、ここは敢えてネタとして払いに行こうかと前から思っていた。そのネタというのはこの記事を見ている人が勝手に意味を読みとるってことも含まれる(笑)。
しかし、「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」の「与北魏平城京畿城邑相関的石刻史料的整理与研究工作」以降の発表を聴けないのは残念なんだけど、まぁ清岡の興味のない時代なので良いのかなぁ、と(より正確には興味のない時代であるため少しも消化する自信がない)。後で気付いたんだけど、発表は母国語で行われ日本語訳もないため、中国語も韓国語も理解できない清岡には特に後悔することでもなかったんだけど。
数分掛けてJR大崎駅に向かい、11:39、そこから山手線渋谷方面行に乗り込み、12:06巣鴨に到着し降りる。12:14、都営三田線(西高島平行)に乗り込む。
今回の旅に合わせ、塩沢裕仁「洛陽八関とその内包空間-漢魏洛陽盆地の空間的理解に触れて-」(『法政考古学』第30集記念論文集)のコピーと落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』(ちくま新書)を借りたんだけど、前者は前日の高速バスの中で一通り読んだため、列車の中では後者を読んでいた。元々、店頭で少し立ち読みして面白そうだなと思っていたんだけど、借りれる当てがあったんで、買わずに借りてこの日に読んでいた。列車の中でその新書を読んで楽しんでいるんだけど、脳の別の片隅では、そう言えば店頭で見かけた後、ネット上のいろんなブログでこの本のことを取り上げていたことを思い出していた。互いに関係性があまりないいろんなブログで同じ本のことが取り上げられること、つまりブログ群に同報性が潜んでいるだな、と興味を抱く。同じような趣味を持っているから当たり前かもしれないが、見かけ上(何かのブログを参照したとかなく)、それぞれ独立しているブログが同じ報せを取り上げる現象は面白い。それにこの本に関してそれぞれのブログでは感想なり書評なりが書かれており、どれも読んでいて楽しめるし、総じて多角的にその本について知ることができる。ところが別のジャンルや層のブログ群を見て回ると、こういった楽しみ方ができなくなってしまうこともある。どこの層かはここでは特定するようなことは書かないが、最近では、北方謙三先生が今度は『史記』を題材にして書くとか、少し前ではキャナルガーデンの人物像とかを取り上げたブログ群の極端な例では、それぞれのブログ(あるいはSNSの日記)で独立して報じている点では前述の本の事例と同じなんだけど、ブログ記事で書かれている内容は単に事実が述べられ、一言端的な感想(というか動物的反応)が添えられているぐらいで総じて無個性であるため、前述の事例のように同じことを報せていても見て回って楽しむことができない。さらにはあたかも第一発見者のようなテンションで書かれるとげんなりした気分になる。その層のブログ群の中で互いに情報のやりとりがあれば、互いに意識するものだから個性が出てきて、その無個性が変わるかもしれないと何となく思っている。だけど、あるブログの書き手とそれとは別のブログの書き手の趣味趣向が互いにとても似ていて、互いに似ている記事を書いているんだけど、まるで別の国、別の世界に住んでるかの如く、互いに交流しているどころか認知している気配もない、そういうことは多々見かけるんで、いつまでも見かけ上、別々の閉じた系に居るんだろうな、と予想が付く。まぁ、ブログがネットのコンテンツの中でもより私的なものと認知されているならば、そういう現象が起こるのも道理なのかもしれないし、部外者がとやかく思うことでもないんだろうけど。どちらにせよ、清岡の脳の大半では『甲骨文字に歴史をよむ』を読みつつ、脳の局所的なところで「ブログの同報性キモい」というフレーズがぐるぐる回っていた。もちろん自分に向けたフレーズでもあるんだけどね。
※追加 古代中国の虚像と実像(2009年10月20日)
そうこうしている間に12:31、西台駅到着。同じ東京都内と言うのに、最寄駅に着くまで一時間もかかってしまうなんて、と悪態をつきながら、そこから大東文化大学板橋キャンパスに向けて歩く。清岡は「学会の類ではスーツ」と決めていたものだから、この日はスーツ。大崎駅に行くまでもそうだったんだけど、炎天下の中、スーツ姿で歩いているためか、汗がダラダラ出てきて、歩きながらも何度もハンドタオルで顔をぬぐっていた。少なくとも次の公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」ではカジュアルな服装で行こうと決心する。おまけにこの日は前日の諸葛亭とホテルの無料パン以来、何も口にしていない。すでに一周回って特にお腹が減っているわけではなかったんだけど、道中の欧州カレー専門店の店頭で売っているカレー弁当が妙に美味しそうに見えていた。
10分余りで大東文化大学板橋キャンパスに到着。
・大東文化大学
http://www.daito.ac.jp/
会場となる多目的ホールは過去の三国志シンポジウムでも三国志学会大会でも使われたことがないため、どこにあるのかしばらく目が泳ぐ。そうすると道しるべを見かけ(写真のようになぜか「三国志シンポジウム」の絵が使い回しされていた)、意外と近いところにあった。昨年、三国志学会 第二回大会で見かけた方が受付をやっておられ、そこで支払を済ませ、『三國志研究』第3号や「三国志学会 第三回大会」のレジュメを手に入れ任務完了。あとで気付いたんだけど、「三劉」の発表のレジュメが1/4から3/4ページまでしかなくこれは4/4ページが抜けているのか、それとも元からないのかよく解らなかった。
・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/
会場内へ入る。広めの会場だけど、休憩中なのか、人が4,5人しか居らず、前方のスクリーンでは映画『レッドクリフ』の予告編2分33秒バージョンが繰り返し流れていた。とりあえず画面が写り込まないように映像が流れていないときに、会場の様子をデジカメで撮る。
後から考えると戻っても清岡の理解の範囲外の発表であるため、しばらく三国志学会大会の会場に留まっても良かったが、そういう考えに及ばずすぐに踵を返し、西台駅を目指す。
13:04、西台駅発都営三田線(白金高輪行)に乗り込む。13:21巣鴨駅着。13:26、山手線池袋行に乗り、13:54大崎駅到着。14時過ぎ、立正大学大崎キャンパス11号館5階1151番教室に戻る。五番目の発表の途中だった。
15:40に七つの発表が全て終了し、15分の休憩を挟んでパネルディスカッションとのこと。
休憩時間になるとすぐに教室を出る。5階エレベータ近く、エレベータ出て右側に今回、汲古書院が出店していることが目に付いていたので、直で底へ足を運ぶ。もしかすると前日、神保町で購入できなかった『漢代都市機構の研究』が置いてあるのではないかという期待を元に並んでいる書籍を見ると、有ったんで、迷わず手に取り購入する。ふと見ると全品二割引ということで結果的に得した状態だった。ちなみに『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』も置いてあった。
チラシをいくつか貰ったけど、高村武幸『漢代の地方官吏と地域社会』というのが面白そう。以前、サポ板で話題に出ていた「秦漢代地方官吏の『日記』について」も収録されているしね(あと長沙呉簡関連の論文も執筆されている方のようだ)。まずは『漢代の文物』や『漢代都市機構の研究』と同じく図書館で借りてきて、よく使うようであれば購入という流れになるね。
※追記 『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)
しばらく書籍コーナーでうろちょろしていると、しずかさんと会ったんでしばらくしゃべる。昨年の三国志学会 第二回大会以来。
というわけで時間が来たので、教室に戻る。
※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート3(2008年9月14日)
※追記 魏晉南北朝史研究会 第13回大会(2013年9月14日)
※追記 孫呉政権と国史『呉書』の編纂(2014年3月)
※前記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)
前記事に引き続き、以下、清岡によるノート。
会場の前に掲げられていた辟雍碑の拓本がその役目を終えたということで外される。
●中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」
10:49スタート。予稿集のタイトルは「両晉南朝墓誌と公文書」。
予稿集に記した「史料」には二種類ある。取り上げる「墓誌」の該当部分とそれの「関連史料」。それに「西晉南朝墓誌一覧表」。
○はじめに
南朝において公文書がどういう役割を果たすか考えている。一般的に文献史料に引用される公文書ではなく墓誌に引用される公文書(策、詔、札)。策は一般的には引用されない。
現実的にどういう意味をもつか考える。文献史料の中では現実的な役割が見えにくく、墓誌に引用されておれば、少しはわかるのではないか、と。
南朝の墓誌において引用される公文書は策、詔、札しかないため、たくさんある公文書の中のごく一部に限った分析。
問題の所在。墓誌が公文書を引用する意味、同時に公文書が引用されている墓誌と引用されていない墓誌の違い。引用の仕方(直接引用、文献史料的に)、両者の差。
○1. 両晉南朝墓誌にみえる公文書
両晉南朝墓誌にみえる公文書は予稿集の23,24ページの「西晉南朝墓誌一覧表」にまとめてある。確認できているのが90件。直接引用しているのはさらに少ない。東晉の墓誌には今のところ、詔などの引用は一切ない。劉宋で詔引用する墓誌が現れ、梁の詔引用の墓誌が再びはっきり出てくる。墓誌の引用のし方の偏りと墓誌の定式等を含めた発展の経過に何か関連がないかが現在の関心。東晉の墓誌は逆の意味でのヒントになるのでは、と考えている。
内容だけでなく墓誌について形式、文字の書かれ方、文章の完成度など分析し結論を出す必要がある。
○2. 墓誌引用公文書の内容
まず西晉の墓誌。詔という形で引用されているのは『荀岳墓誌』しかない(※その後、「西晉南朝墓誌一覧表」を見ていく)。
『荀岳墓誌』の制作時期。「史料」/「墓誌」の該当部分を見ていく。陽と思われる部分に「君以元康五年七月乙丑朔八日丙申、歳在乙卯、疾病卒(中略)其年十月戊午朔廿二日庚辰葬…」とあるが、誌側の部分に別途「永安五年」の文字が見え、いつ制作されたかわからない。
(※清岡の感想。本筋とは関係ないが、『禮記』王制に「大夫士庶人三日而殯.三月而葬」とあって、実際に三ヶ月後に葬った記録が残っていることに感動を覚えた)
馬衡先生だと、元康五(295)年10月に作られ、九年経って、側面に書かれている奥さんの劉氏が死んで、そのとき附葬したときに加わったのであって、息子が自分で書いたんだろう、としている。福原先生は「墓誌が元康五年に制作され、永安元年に刻み加えられたのか、あるいは永安元年に始めて制作されたのか、よくわからない。」と慎重に述べている。
墓誌でどちらが陽か陰かわかりにくい。普通、陰と呼ばれるところに「年月日」と「詔」、詔によって任命された官職が書かれている(※予稿集に具体的な記述が列挙されている)。ここで先生が注目しているのは、例えば「二年(281)正月廿日(壬寅)、被戊戌(正月16日)詔書、除中郎」となっているところの16日に詔書を受けて20日に任命されたということ。このことに関し参考資料に、少し時代は下るが、『隋書』巻二十六百官志上 其用官式(※予稿集の「関連史料」に抜粋してある)に、詔の時間的な経緯が数日間の差として出てきている。同じようなに、八月二十五日に詔書があり、二十七日に太子舎人に除するという記載がある。具体的に公文書がどういう風に動いているか知ることができる。他には例のない事例として面白い。中郎や太子舎人に除するときには詔があるが、尚書左中兵郎、山陽令、中書侍郎には詔書の記録がない。府・州郡佐に詔書がないのは説明できるが(辟召されている)、それ以外のものには説明できない。もしかして典拠となる大事な辞令を失った?
文献中との詔の比較。『晉書』巻三 武帝紀に「武帝泰始三年九月甲申(中略)司空荀顗為司徒」とあり、『晉書』巻三十九 荀顗傳に詔の本文が記されている。同時に『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されており、荀顗へのこの詔は九月甲申詔書であろう。司徒とか司空とかの立場だから『晉起居注』に書かれるのはあるいは当然だけど、荀顗が亡くなった時の官職と同じである中書郎に起家した王濟について、起家したときの詔だと思われるものが『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に引用されている。
わざわざそういう形で官職名を引用している墓誌の役割はどういったものなのか(※こういうことを考えている最中とのこと)。
梁王の墓誌。かなり出ているはずだが実物として読めるのは桂陽王の蕭融とその妃の墓誌。それから永陽王蕭敷とその妃の墓誌(但し原物が残っていない)。
(※ここで「文献史料」に抜粋する『梁書』巻二十二太祖五王や巻五十一梁宋室上の話)亡くなった時の記録。梁が出来る前に桂陽王も永陽王も二人とも亡くなっている。しかしそれらの墓誌にはその年号が残っている。しかも永陽王敷の墓誌は亡くなって二十年経って作られた墓誌。桂陽王融の墓誌は実物がある。三年ほど差がある。詳しい詔がある(※「史料」の「墓誌」のところに抜粋)。興味深い点は、『藝文類聚』のところに「追封衡陽王桂陽王詔」があって、それとまったく同じ部分が桂陽王の墓誌に出てくる(※予稿で二重下線と下線で対応させている)。但し『藝文類聚』では衡陽王暢として出てくる。こういうふうに文献と墓誌で同じ言葉が引用されているが、そういう齟齬が起こっている。墓誌の詔と『藝文類聚』の詔の関係、と原作者であるの任昉、それらはどうなんだろうか。公文書というのを手掛かりにして、その当時の著名人の文集、墓誌、『藝文類聚』の関係について、意味があるのではないか、と。
公文書の長期保存。文書発給日時と墓誌作成された年月日との時間差がかなりある。『荀岳墓誌』の場合、二(281)年から元康五(295)年または永安元(304)年までで実際には十数年、場合によっては二十年以上、公文書が保存されている。こういうことは文献ではなかなか見れない現象。梁王墓誌の場合、天監元(502)年から普通元(520)年まで。約二十年の期間がある。このケースは梁王の家に詔が保存されたのか、任昉の文集に残されたものを墓誌作成時に引用されたのかという問題があるが、ともかく詔が長期にわたって下された家で保管されているということをこれで実感できる。文献ではなかなか見れない。
○3. 各文書の書式等について
策の書式。蔡邕『獨断』では「起年月日、稱皇帝、曰以命諸侯王三公、」とあり、このまま書式が桂陽王太妃の墓誌にある(※予稿に抜粋してある)。天監二年。他に天監三年の策は書式が省略されている。策の書式について、文献でいうと(※こちらも予稿に抜粋してある)、いくつか見えるが、年月日から起こしたものは残っていない。そういう意味で天監二年の策は『獨断』の書式をそのまま受け入れたいへん興味深い。
詔の書式。先ほどの荀岳の場合にはそのまま残っているわけではないが、梁王の場合には追悼で出てくる。それについてはすでに大庭先生が書いている。西晉について『北堂書鈔』巻五十二『晉起居注』に「(制詔)某官某某、云々、某以某為某官」と出てくる。南齊に下ると「門下、某官某某、云々、可某官、」という形に変わる。これは『文苑英華』巻三百八十沈約「沈文季加」などの文献だけでなく墓誌でもみることができる。
札の書式。時間の関係で省略。
○おわりに
詔や策を直接引用する場合にはやはりこれは実物が横にないとそのまま引用することは不可能なので、それを保管し、それをそのまま墓誌の上に書き写すということは一般的に亡くなった後の特権や身分保障をするという要素が大きいと思う。文書保管の時期も含め何か他に意味があるのだろうか。
(今回は省略したが)直接引用ではなくて、詔によってどこそこに遠征を行ったとかいう文言がいくつかでてくる(※予稿の「西晉南朝墓誌一覧表」において「●」でマークされている)。こういうのは命令を出された本人が詔を手元に保管していたのか、そうではなくて一般的な列伝の記載の形によって残していたのか、未だ見極めがつかない。もし直接引用するのではなくその人の事跡の中に「詔によってこういう行動した」と記されている場合、その墓誌は一般的な墓誌とは少し違う。いささか第三者的な叙述の性格を帯びているのではないか。
そういう西晉と梁以降の墓誌と、そういうのが現れない東晉の墓誌との間にそれなりに性格の違いがあるということは大まかな見通しとしては言える。
11:30終了。
※次記事 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復
※追記 六朝政治社会史研究(2013年2月5日)
※追記 中国都市論への挑動(2016年3月31日)
※前記事 プチオフ会「諸葛亭へ一顧しよう!」二次会(2008年9月13日)
2008年9月14日9:20。
蒲田駅近くのホテルを出て、京浜東北線で品川駅まで行き、乗り換えて山手線で大崎駅まで行く。そこから歩くこと数分で、立正大学大崎キャンパスの山手通り口に着く。
・立正大学
http://www.ris.ac.jp/
そこから会場となる11号館を探そうと思ったけど、ちょうどその山手通り口に關尾先生が立っておられて道しるべもあって、どうやら山手通り口に面した建物が11号館であってすぐそこのエレベータで5階に上がれば良いらしい。
5階に上がったらすぐ受付があって、そこで署名し予稿集やレジュメを貰い、1151番教室に入る。スタートの数分前とあって、結構、人が入っている。「長沙呉簡の世界」の時のように向かって右側三分の一のところに先生方が固まっているというわけではないが、みな通路に近い席に陣取っているものだから、通路から遠い真ん中の席が空いている。清岡は真ん中の前の方に座る。その後、席を立ち、会場の様子を写真に納める(※今見ると肖像権保護みたいな感じで良い感じでピンぼけしている・笑)。
というわけで、ここから以下は国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」についてのノート。但し清岡の興味のあるところしか触れていないし、中国語と韓国語を解しない清岡には書けないってのもあるけど。
※関連記事
国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
2006年3月11日「第二回 TOKYO 漢籍 SEMINAR」午前レポ
※追記 リンク:『魏晉石刻資料選注』
※追記 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)
●開会の挨拶・趣旨説明:伊藤敏雄氏(大阪教育大学)
※上記関連記事(上の方)からさらに引用したプログラム、以下、頭に「●」とあるのは同じ。
10:00。
というわけで「開会の挨拶・趣旨説明」が始まる。科研の三年目の報告だそうな。
●福原啓郎氏(京都外国語大学)「西晋の辟雍碑の再検討」
10:05。
予稿集では「晉辟雍碑の再検討 ─碑陰題名の分析を中心として─」というタイトル。
右上の写真のように会場には前もって何やら拓本が飾られており、それはどうやらこの発表で扱う晉辟雍碑の碑陽と碑陰とのこと。
福原先生曰く、今日の話は現在進行形の話とのこと。
会場で掲げている晉辟雍碑の拓本は去年の三月に洛陽の博物館で先生が購入したものという。「元々、五千元ですけど、四千元にまけて買ったものです」と告げ会場を沸かす。それは乾拓であり、一週間前に辻先生が購入された同じ四千元の拓本は湿拓とのこと。乾拓の方(書家用)が字がくっきりしていて、本当だったら湿拓の方が良いという。
予稿集とは別に追加資料がいくつかある。そのうちの一つに辟雍碑の碑陽と碑陰の釈文がある。[顧廷龍 1931]をベースにし劉承幹『希古楼金石萃編』(1933)、羅振玉『石交録』(1941)、『魏晉石刻資料選注』(2005)を整理したとのこと。
○はじめに
※予稿集から引用したタイトル、以下、頭に「○」とあるのは同じ。
西晋の碑は漢の時代に比べ非常に少ないため、この辟雍碑が目立つ。
(※ちなみに辟雍碑は石刻拓本資料(京都大学人文科学研究所所蔵)に収録されている)
民国二十(1931)年に洛陽近郊で発見された。この拓本は河南省博物院を初めいろんなところに展示されている。出土直後に顧廷龍・余嘉錫により基本的な考証は粗方終わっている。日本では[足立豊 1971][木島史雄 1996]があり、先生自身は「晉辟雍碑に関する一考察」(1998)を著した。この時の再検討が今回の発表。先生自身は二度ほど実物を見たという。初めは子どもにより落書きされるようなところに置いていたのが時代を経る事に碑の周りが整理されてきたそうな。
○1.晉辟雍碑の概要
高さが3mを超え、大型の漢碑に匹敵する(※以降、碑陽や陽陰に関し部分の説明)。
書体は隷書の八分で、書家の人もこの技法を参考にするため、拓本を売っていた人も書家には六千元で売ると言っていたそうな。
まずこの碑が偽刻かどうかという問題があるが、まずそれはない。それは出土の経緯や内容から考えてのこと。しかし謎や問題点は残されている。
この碑が立てられたのが咸寧四(278)年十二月。孫呉平定(280年3月15日)の一年半前。そのため碑陰に孫呉に関連する人物はいない。
民国二十(1931)年の出土地は偃師市太学村の漢魏洛陽故城南郊の太学遺址もしくは辟雍遺址。そのため立碑地は太学あるいは辟雍の境内にあったと推定。立碑後は恐らく永嘉五(311)年の洛陽陥落に伴い倒れ地中に埋もれ、発掘されるまで地中にあった。出土後、東大郊村に運ばれ、現在、その南街の路地の奥に立っている。
碑陽の刻文は題額、序、頌、立碑年月日からなり、題額「大晉龍興/皇帝三臨辟雍/皇太子又再莅之/盛徳隆煕之頌」と序と頌の内容が対応している。
序の内容は司馬氏(司馬懿、司馬昭、司馬炎)の台頭の賛美で「大晉龍興」に対応。注目しべきは司馬師に言及がない。これは当時の評価?微妙な問題? 次に泰始年間の武帝の三回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇帝三臨辟雍」に対応。最後に咸寧年間の皇太子司馬衷(暗愚で有名。のちの恵帝)の二回の辟雍における学礼への親臨の様子が描かれていて「皇太子又再莅之」に対応。この碑が立てられた意味は簡単に言えば皇太子をヨイショする。時代背景として皇太子の資格があるか問題になっていた。序に記された晉王朝の興盛と現皇帝・皇太子それぞれの親臨に対する頌があり、「盛徳隆煕之頌」に対応。
○2.碑陰題名の概要
碑陰は立碑の関係者。厳密に言うと現皇帝・皇太子それぞれの親臨の行礼へ参列した者だけど、太学によっているのは、皇太子親臨へ参列し立碑した「学徒」。碑陽の序の末尾にある「礼生・守坊・寄学・散生」。400名程度の学生が主体。
一列目のみ15行で二列目以降44行。構成要素は「礼生安平王沈弘道」のように肩書+本貫+姓名+字。ここでなぜ王沈を出したかというと『晉書』では西晉で有名な王沈は二名居るが、これは西晉で三人目かな、と。
碑陽と違い、碑陰は全体的に摩[シβ力]があり判読できない文字がある。特に両端がひどい。題名の総数は確定できないが計算上は409名。これらは五つのグループに分ける。
第一グループ。一列目の15名。所管の太常寺の長官・次官を除けば、講義の博士(上級の学官)。注目すべきは、史書に記載のあるのは『晉書』に立伝のある4名を含め11名も居る点。対照的に第二グループ以降は無名。
第二グループ。二列目11名。下級学官で行礼の責任者であろう。
第三グループ。二列目から六列目。題名の肩書は「都講」「主事」「礼生」の三種。大半が「礼生」(碑陽の「治礼学生」の略称)であり、「行礼」の「学徒」(実際に礼を行っている学生)。さらにこのグループは前半の鄭大射礼関係者と後半の王郷飲酒礼関係者に分けられる。鄭大射礼とは後漢の鄭玄が解釈したのに従ってやったもの。「王」は王粛。前者は咸寧四(278)年二月の大射礼、後者が咸寧三(277)年十一月の郷飲酒礼。
第四グループ。第六列の13行目から第九列の28行目までの148名。主に「弟子」。微妙な問題だけど、国子学の学官の名前もある。ちょうどこの時期、国子学ができた。
最後に第五グループがあるが、よくわからない。60名。多くは「弟子」。
「礼生・守坊・寄学・散生」は「行礼」の「学徒」である「礼生」と「列位」の「学徒」である「守坊・寄学・散生」に二分することができる。五つのグループと対応すると、「礼生」は「礼生」(第三グループ)で、「弟子」は碑陽の「守坊」に対応する。学生が主体ということだけど、学官もあるのでズレを感じる。
○3.後漢の顕彰碑の碑陰題名との対比
晉辟雍碑のルーツは漢碑、より限定すると後漢の顕彰碑。
碑陰題名が始まった後漢の顕彰碑だと、上から下に列に分かれ、漢碑は3列が普通。曹全碑は5列。晉辟雍碑は10列。ちなみに一番長いのは南朝の梁の20列。晉辟雍碑は漢碑と比較すると大きい。
漢安二(143)年の北海相景君碑54名など40~60名が多く、韓勅碑103名、冀州刺史王純碑200名以上であるが、晉辟雍碑は409名。
漢碑の題名の構成要素。大半は姓名は刻されている。その前には肩書と本貫が記される。肩書は官名・爵名・職名など。(※ここで孔宙碑、張遷碑の具体例)。孔宙碑、北海相景君碑、張遷碑に見られる肩書の頭に「故」「故吏」という碑主との関係を示す語が附される例も多い。
碑陽の序の末尾に孔宙碑「故吏門人」や衛方碑「海内門生故吏」など立碑関係者が記されていることが多い。また碑陰の篆額に孔宙碑「門生故吏名」、鄭季宣残碑(中平三(186)年)「尉氏故吏処士人」とある。このことから碑主と立碑関係者の関係は、門生故吏関係の端的な現象。
これらに対し、晉辟雍碑は学官と太学の学生であり、主体の学生の名称が「行礼」と「列位」、「列位」の「学徒」がさらに細分化されているのが特徴。
本貫の地名に関して。地名が記されている場合、郡県(孔宙碑)、郡のみ(王純碑、曹真碑(太和五(231)年頃)、廬江太守范指揮碑、漢碑にはほぼ無い)、県のみ(北海相景君碑)の三つに分類。晉辟雍碑は郡名のみ。
姓名の後に字、場合によっては醵金額が記される。字に関しては字が記されない場合もある。字の前に「字」と添える場合とそのまま続ける場合がある。張遷碑には数字の前に「銭」の字を加え、この醵金を当時、「義銭」(白石神君碑)や「奉銭」などと称していた。その点、晉辟雍碑には醵金はなく当然、学生が金を出した訳ではない。
碑陰題名、特にその構成要素を対比・検討した結果、晉辟雍碑は形式的には後漢の顕彰碑を踏襲している。門生故吏関係がの典型的な公偉の一つが、門生故吏が醵金して顕彰碑を立て、碑陰に名を刻むこと。碑陰題名に注目すると、晉辟雍碑は後漢の顕彰碑の系譜を引いている。列数と人数の相違は、後漢の顕彰碑が郡レベル(郷里社会)に対し、晉辟雍碑は国家レベル(全国)。
魏晋の何度もある立碑の禁(偶然か、晉辟雍碑が立った年にも立碑の禁が出ている)を挟んで、後漢の顕彰碑と晉辟雍碑の間に断絶がある。つまり晉辟雍碑は国家による例外的な立碑。立碑の背景に存する門生故吏関係の否定を含意していると推測。ある意味、中央による回収吸い上げという、科挙における殿試の創設を連想せしめる動きは西晉王朝国家の性向を窺わせる。
○4.碑陰題名の本貫に対する分析
すでに前稿([1998])で検討した問題。当時の敵国である孫呉の版図内の揚・広・交の三州はまったくないが、すでに西晉の版図に繰り込まれて十五年になるにもかかわらず、旧蜀漢の版図に含まれていた梁・益・寧の三州も梁州の一名のみ。旧蜀漢の人士が入洛・出仕していたであろうにもかかわらず、旧蜀漢出身の学生が居ないのはどういう理由か。その他、北方の辺境に近い幽・并の二州も少ない。それとは対照的に同じ辺境に位置する涼・平の二州は特別枠が設けられているようだ。
涼州において敦煌郡出身の「散生」が6名刻されているがその他の郡は一名も見あたらないのは泰始五(269)年頃に勃発し咸寧五(279)年(立碑の翌年)に終息した禿髪樹機能の反乱の影響であろう(樹機能は咸寧三(277)年に本拠地を武威郡に定めた)。
これらは当時の西晉王朝を取り巻く国際・国内状況が生々しく迫っている。
「趙郡」(8名)と「趙国」(7名)が併存している点について。「趙郡」の場合、全員が第三グループに属する礼生で、「趙国」の場合、第三グループに属する礼生は一人もおらず、治礼舎人が1人、残りは弟子(第五グループ)。何を意味するか。ミスや不統一ではなく、碑陰題名の原稿作成の際に基づいたであろう名籍類の段階で異なっていたのだろう。司馬倫が琅邪王から新たに設けられた趙王に転封されたのが咸寧三(277)年八月癸亥(碑が立てられた前の年。『晉書』武帝紀)。礼生の場合、これ以前の名籍、弟子らの場合、これ以後の名籍に基づいていることになる。礼生はよくできる、しかも容貌の優れた人が選ばれたのではないかと言われているが、少なくとも長年、太学に居た人。
碑陰題名の学生は様々な要因により偏在していた。偏在として連動してさまざまな肩書を有していた。
○5.晉辟雍碑の歴史的意義
南方の孫呉と対峙していた泰始年間・咸寧年間の都洛陽の城南の辟雍において学礼への皇帝・皇太子自身の臨席、およびそれに対する顕彰のための立碑には、その背後に新たなる権威を創出せんとする強い意志が感じられる(※この記事のこの文はほとんど予稿集の写しになっている)。西晉王朝にとっては、秦漢帝国瓦解後の魏晋国家の課題、曹魏滅亡後の西晉の課題という二重の課題があり、学礼親臨と立碑との二段階の演出はその試み。
両者の目的は、礼教政策による視覚的な権威の創出であり、同時期の国子学の創設などとともに「礼教国家」建設の一環であった。同時に立碑当時、二十歳の暗愚な皇太子司馬衷の箔付けをも兼ねた。厳密には咸寧年間の皇太子の親臨と晉辟雍碑の立碑、「盛徳隆煕之頌」の直接の対照は皇太子の顕彰にあった。
立碑の主体に関し武帝、側近の官僚、儒学関係の学官などが想定されるが、建前かもしらないが、碑陽の末尾の表現だと「行礼」「列位」の学生こそが主体と明記。碑陽の末尾に立碑の主体を示し、それに対応し碑陰に具体的な題名を刻すという形式は、後漢の顕彰碑のそれの踏襲。後漢の顕彰碑を支えた門生故吏関係(晉辟雍碑では門生の関係)を何らかの形で生かそうとしたのではないか。碑陰には学生だけでなく学官もふくまれており、ズレがあり、そこには西晉王朝の「下」から自発的に盛り上げという演出が馬脚を現しているのではないか。強いて言うなら門生故吏関係の利用。主体の学生も本貫の点で、当時の西晉の版図全体といえ、さまざまな要因による地域偏在などが見られ、当時のさまざまな地域の状況が如実に反映している。
『洛陽伽藍記』穀水の条によると、当時、太学には熹平石経、正始石経、『典論』碑、太学賛碑、太学弟子賛碑などに、泰始二(266)年には晉辟廱行礼碑が加わるなど石碑が林立していた。『洛陽伽藍記』に記載はないが、立碑の禁の最中、新たに立てられた巨碑、晉辟雍碑は当時の人々の目にどのように映ったか。
◎1'.郷飲酒礼と大射礼の歴史的展開
※予稿集とは別に用意されたプリントのタイトル
(※プリントの表側には文章で書かれており、それと違い口頭では簡単に述べられる)最初、氏族共同体から始まった。儒学の中に取り込まれた。後漢時代に郡レベルでいろいろ学校で行われた。後漢末になると行われなくなり、国家レベルになる。鄭玄や王粛の学説を利用して復活する。
(※さらにプリントの裏側に、【行礼】【親臨】【立碑】【碑陰題名】【内藤湖南】の項目について、後漢と西晉との対応表がある。それについて説明。最後の項目では「地方の名望家」と「〔中央の〕貴族」。現在進行形で考えておられるとのこと)
10:47終了。
※次記事 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート2(2008年9月14日)
・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・2008年公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」
http://sekio516.exblog.jp/8583706/
上記ブログ記事から下記へ引用。
※但し他のソースを参照しつつ日付を一部訂正。
--引用開始---------------------------------------------------------
日 時:2008年10月11日(土),12日(日)
会 場:愛媛大学法文学部,8階大会議室
日 程:
10月11日:公開講演(愛媛大学法文学部人文学会との共催)―午後3時~6時
藤田勝久氏(愛媛大学)「中国古代の簡牘と記録簡―日本古代木簡との比較―」
今津勝紀氏(岡山大学)「古代の荷札木簡について」
ミニシンポジウム
10月12日:研究発表―午前の部(午前9時~12時)
王子今氏(中国・中国人民大学)「中国古代交通システムの特徴―秦漢出土資料を中心として―」
金秉駿氏(韓国・翰林大学校)「古代中国南方地区の水運」
上野祥史氏(国立歴史民俗博物館)「漢代北方の地域社会と交通―県城遺跡と漢墓の技術から―」
10月12日:研究発表―午後の部(午後1時30分~5時)
松原弘宣氏(愛媛大学)「古代交通研究の現状」
佐藤 信氏(東京大学)「日本古代の交通と出土木簡」
近江俊秀氏(橿原考古学研究所)「考古学よりみた古代道路研究」
シンポジウム「古代交通と出土文字資料について」
コメンテーター:角谷常子氏(奈良大学),谷口 満氏(東北学院大学)
入場無料・事前申し込み不要
主 催:愛媛大学「資料学」研究会,愛媛大学研究開発支援経費・特別推進研究プロジェクト,新潟大学超域研究機構プロジェクト,東北学院大学アジア流域文化研究所
共 催:愛媛大学法文学部人文学会
--引用終了---------------------------------------------------------
・愛媛大学
http://www.ehime-u.ac.jp/
ここが「三国志ニュース」なもんだから、お見苦しいながらもいちいち関連性を説明しないといけないんだけど、シンポジウムの発表の取り扱う範囲に三国時代の前の漢代が含まれており、交通に関し共通することは多いのだろう。
というわけで、私が興味のあるのは12日午前中に集中している。
JRからの正式発表はまだだけど、例年であれば「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」の利用期間なので、今年もあるのだったら、それを利用して行くのもいいかも。土曜日を往路に当てて、日曜日に午前の発表を聴講しおえたら、すぐに復路に着くという方法。私の住居から片道10時間程度。
<9/11追記>
というわけで下記のサイトによると、「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」は1枚3回分で9180円。利用期間は2008年10月4日-19日。
・JR西日本
http://www.westjr.co.jp/
<追記終了>
※関連記事
国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
三国志学会 第三回大会
※追記 「東アジアの出土資料と交通論」ノート1(2008年10月12日)
※追記 資料学の方法を探る(2011年11月26日)
・關尾史郎先生のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」
http://sekio516.exblog.jp/8374955/
上記ブログ記事から下記へ引用。
--引用開始---------------------------------------------------------
日 時:2008年9月14日(日),午前10時~午後5時30分
会 場:立正大学大崎キャンパス,11号館5階1151番教室
主 催:科学研究費補助金(基盤研究(B))「出土史料による魏晋南北朝史像の再構築」(代表:伊藤敏雄大阪教育大学教授)
プログラム:
午前の部(10時~12時15分)
開会の挨拶・趣旨説明:伊藤敏雄氏(大阪教育大学)
福原啓郎氏(京都外国語大学)「西晋の辟雍碑の再検討」
中村圭爾氏(大阪市立大学)「晋南朝石刻と公文書」
李 凭氏(中国・華南師範大学)「与北魏平城京畿城邑相関的石刻史料的整理与研究工作」
午後の部(1時15分~5時30分)
趙水森氏(洛陽師範学院図書館長)「洛陽魏晋南北朝墓誌的発現収蔵与研究」
朴漢済氏(ソウル大学校)「魏晋南北朝時代墓葬制度的変化和墓誌銘的流行」
窪添慶文氏(立正大学)「正史と墓誌」
パネルディスカッション:司会・葭森健介氏(徳島大学)
閉会の挨拶:關尾史郎(新潟大学)
入場無料・事前申し込み不要
--引用終了---------------------------------------------------------
三国志学会 第三回大会と日程が被る歴史系シンポジウムがあると前々から人伝えに聞いていたけど、これだったんだね。こちらは「入場無料・事前申し込み不要」とのことで、つまり一般でも行けるってこと?。どちらに行くか迷うところ。
※追記関連記事 公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)
※追記 「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開」ノート1(2008年9月14日)
・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/
上記「三国志学会」のサイトで、2008年9月14日に開催される「三国志学会 第三回大会」のプログラムが発表されていたので下記へ引用する。
--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第三回大会
日時:2008年9月14日(日)10時~17時20分
会場:大東文化大学 板橋校舎 多目的ホール
東武東上線、東武練馬駅 徒歩25分
都営三田線 西台駅 徒歩10分
参加費:500円(入会された方は無料です)
板橋キャンパス周辺地図
※ スクールバスはありません。都営線西台駅より、徒歩が便利です。
三国志学会年会費:2000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。
プログラム
開会の辞 (10:00~10:10)
三国志学会会長 狩野 直禎
研究報告 (10:10~12:00)
10:10~11:00
矢田 博士 (愛知大学経営学部教授)
「魏における五言詩の流行と西晋における四言詩の盛行について」
11:10 ~ 12:00
綿谷 直之 ・ 清水 健史 (超級三国志遺跡紹介HP《三劉》管理人)
「史実と民間伝承からみる三国志遺跡」
お昼休み (12:00~13:00)
講演会 (13:00~17:20)
13:00 ~ 14:20
周文業 (首都師範大学中国伝統文化数字化研究中心常務副主任)
通訳:中川諭 (大東文化大学文学部教授)
「『三国演義』版本と三国歴史地理のデジタル化とその応用」
14:30 ~ 15:50
早田輝洋 (大東文化大学元教授)
「満州語『三国志』について」
16:00 ~ 17:20
沈伯俊 (四川省社会科学院・四川大学文学院教授)
通訳:伊藤晋太郎 (二松学舎大学文学部専任講師)
「諸葛亮をめぐる疑惑を解く」
狩野直禎会長傘寿記念行事 (17:40~17:50)
『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』贈呈式
狩野先生傘寿記念パーティー(18:00~20:00)
参加費:3,000円
会 場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------
トピックスとしては研究者以外の方の報告が含まれていることかな。件のサイトは下記。
・超級三国志遺跡紹介ホームページ≪三劉≫
http://kankouha.cool.ne.jp/
あと目に付くことがあって、今回、素人目に見て東洋史分野の発表がないような気がする。
※関連記事
第3回 三国志学会大会は2008年9月14日日曜日開催
第2回三国志学会大会ノート(2007年7月29日)
2006年7月30日「三国志学会 第一回大会」ノート
※追記関連記事
公開シンポジウム「東アジアの出土資料と交通論」(2008年10月11日12日)
国際学術シンポジウム「魏晋南北朝史と石刻史料研究の新展開―魏晋南北朝史像の再構築に向けて―」(2008年9月14日)
※追記 メモ:立正大学大崎キャンパスと大東文化大学板橋キャンパスの往復
※追記 三国志学会&BS熱中夜話(三劉)
※追記 三国志学会 第四回大会(2009年9月5日龍谷大学)
※追記 四川省を満喫しよう!(2014年7月26日)
今日がバレンタインデーであり、業者の思惑が目に付きやすい日だからというわけではないけど、没ネタ救済にお一つ記事を。
『真・三國無双5』と廉価版「プレイステーション3(PS3)」の同梱商品を11月11日に発売すると、2007年10月10日に発表されて、直後、コーエーネット 2697.Q の株価が急激に上がった。
それを見て思い付いたのが、株を買ってその譲渡益で『真・三國無双5』&廉価版「プレイステーション3(PS3)」を買うという、素人目に見てまるでヘビに自らのしっぽを食べさせるようなことをするというアホなネタを思い付いた。だけど、その後、目立ってコーエーあるいはコーエーネットの株価が上がるようなことはなかったので、そのネタは企画倒れということでそのままお蔵入り(結局、ゲームの方はシェアして買ったんだけどね・笑)
それで三国志関連の商品を扱っている企業で上場しているところは何もコーエーだけというわけではないので、これを機に思い付く限りピックアップしてみる。ここでは銘柄の前には「●」をつけておく。
また何が三国志と関係するか判りやすいように株の銘柄以外にも商標の権利者と商標を下記、特許電子図書館で調べ、その情報を添える。ここでは権利者の前には「◆」を入れ、その後に商標や商願を並べる。
・特許電子図書館
http://www.ipdl.inpit.go.jp/
ただし登録商標も商標出願も特に区別していないのでご注意を。また、「商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務」を以下に明記しないので、一見、同じ登録商標が複数の権利者に跨っているように見える。
さらに関連性が判りやすいようにコメントを入れ、適時、三国志ニュースでの参考記事もあげておく。
●コーエー 9654.T
●コーエーネット 2697.Q
◆株式会社光栄
三国志
三國志
三國無双
真・三國無双
無双OROCHI
三國志英傑伝
※ご存知、シミュレーションゲームの『三國志』を初めとして三国志や三国演義を題材としたゲームを多数作っている企業。コーエーネットはコーエーの卸子会社。
※関連記事
ソースネクスト、WIN「三國志VIII」と「信長の野望 蒼天録」新要素を追加するパワーアップキットを発売
『真・三國無双5』(PS3/Xbox360版)11月11日発売決定
『無双OROCHI 魔王再臨』(PS2版)4月3日発売
三國志英傑伝(携帯ゲーム)
※追加関連記事 株式会社コーエーネットの完全子会社化
※追加 テクモとコーエーが経営統合に向けて協議開始
※追記 『真・三國無双』シリーズに登場してほしい武将を募集(2011年3月24日-4月7日)
※追記 三国志魂(スピリッツ) 上(2012年3月28日)
※追記 火間虫入道のエイプリルフール・ネタ2012
※追記 三国志(Mobage2012年4月30日)
●セガサミーホールディングス 6460.T
◆株式会社セガ
三国志大戦
三国志\大戰\3594T.net\NET
※関連記事
『三国志大戦3』稼働開始(2007年12月13日)
●バンダイナムコホールディングス 7832.T
◆株式会社バンダイ
三国志
ビービー せん し\BB戦士\さん ごく でん\三国伝\風雲豪傑編\ふううんごうけつへん
三国伝
◆株式会社バンダイナムコゲームス
中原の覇者\CHUGEN NO HASHA
三国誌略
※「中原の覇者」はファミリーコンピューターのゲーム『三国志 中原の覇者』関連だろう。
※関連記事
三国伝キャラクター人気投票2008(2008年1月25日-3月25日)
iモード用戦略ゲーム「三国誌略」
●エイベックス・グループ・ホールディングス 7860.T
◆エイベックス・エンタテインメント株式会社
REDCLIFF\レッドクリフ
※エイベックス・エンタテインメントはエイベックス・グループ・ホールディングスの子会社。
※関連記事
呉宇森(ジョン・ウー)監督『レッドクリフ(RED CLIFF)』報道まとめ
●カプコン 9697.T
◆株式会社カプコン
三国志
天地を喰らう
◆株式会社サード・ライン
天地を喰らう
※関連記事
2007年2月1日「天地を喰らうRPG II 諸葛孔明伝」i-mode配信開始
※追記 天地を喰らう(リミックス2012年8月3日17日31日9月14日)
●ジャレコ・ホールディング 7954.Q
◆株式会社ジャレコ
FIELD COMBAT\フィールド コンバット
※関連記事
三國フィールドコンバット(2007年5月31日iアプリ配信開始)
●ジー・モード 2333.Q
◆株式会社ジー・モード
三国志年代記
※関連記事
横山光輝 三国志年代記(2007年10月17日配信開始)
●学習研究社 9470.T
※歴史群像シリーズなどで三国志関連の本が見受けられる。最近では小説の『天破 三国志』がある。
※関連記事
2006年3月 歴史群像シリーズ83「演義三国志」
天破 三国志 3(歴史群像新書、2007年8月31日)
●コナミ 9766.T
※『鋼鉄三国志』関連で商品展開している株式会社コナミデジタルエンタテインメントはコナミグループ。また関連性は判らないが「鋼鉄三国志」は別の権利者に商標がある(下記)。
<追記>
※上記のようなことを書いていたらコメント覧にてご指摘を頂きました。ありがとうございます。
というわけで、権利者情報を直下に移動しました。
※追記 『クイズマジックアカデミー5』三国志検定(2008年7月17日配信)
●アサツー ディ・ケイ 9747.T
◆株式会社日本アドシステムズ
鋼鉄三国志
<追記終了>
※関連記事
『鋼鉄三国志』第26話(2008年3月26日)
●スクウェア・エニックス 9684.T
※スクウェア・エニックスから出ている漫画雑誌『月刊少年ガンガン』で『ブレイド三国志』、また『月刊Gファンタジー』で『まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん』がそれぞれ連載中。
※関連記事
『ブレイド三国志』4巻(2007年11月22日)
呂布子ちゃん関連情報
●角川グループホールディングス 9477.T
※角川書店から出ている漫画雑誌『ケロケロA(エース)』にて『BB戦士三国伝~英雄激突編~』連載中
※関連記事
『BB戦士三国伝~英雄激突編~』(漫画)連載開始
私が思い付く中で、こういう風に上場している株の銘柄で三国志と関連する企業は以上だけど、それ以外にあれこれ目に付いた商標があったので、下記に挙げておく。
◆株式会社竹屋
三国覇王伝
※関連記事
2006年11月13日「CR三国覇王伝」ホール導入
◆WIN NET TECHNOLOGY株式会社
三国争覇伝\サンゴクソウハデン
※関連記事
三国争覇伝(パチスロ)
◆株式会社エヌエイチケイエンタープライズ
三国志
※関連記事
人形劇「三国志 桃園の誓い」(NHKアーカイブス)
◆アークシステムワークス株式会社
ゲーミックス
※関連記事
2006年11月28日「ゲーミックスVol.1 横山光輝 三国志」公式サイトオープン
◆ゲームヤロウ株式会社
三国志豪傑伝\さんごくしごうけつでん
※関連記事
『三国志豪傑伝』11月下旬クローズβテスター募集開始予定
◆株式会社リクルート
コミック三国志マガジン
※一つも裏をとってないから関連性や信憑性は知らないが、昔、メディアファクトリーの元社員さんがメディアファクトリーをリクルートのエンターテインメント部門と喩えていたことを思い出した。
※関連記事
コミック三国志マガジン(2007年9月27日配信開始)
◆株式会社メディアファクトリー
一騎当千
※関連記事
『一騎当千Dragon Destiny』関連商品
<おまけ>
◆尾崎酒造株式会社
蒼天航路
あと余談だけどロールプレイングゲームを「RPG」と表記するのは、「ロールプレイング」が商標登録されているからだ、と以前、小耳に挟んだんだけど、今、特許電子図書館で検索すると、確かに「ロールプレイング」が出てきた。
※追記 リンク:Sanguozhi Game Archives~三国志ゲームアーカイブス
※追記 登録商標「三国志検定」
※追記 大トロ倶楽部(1987年4月17日-1990年7月20日)
※追記 12月10日は 歴史シミュレーションゲーム『三國志』の日
※追記 三国志大戦トレーディングカードゲーム公式ウェブサイトのエイプリルフール・ネタ2015
※追記 三国志ツクール(2015年12月10日)