※前記事
メモ:「功次による昇進制度の形成」
手元に一つの論文のコピーがある。冨谷至/編『東アジアにおける儀礼と刑罰』(日本学術振興会 科学研究費基盤研究(S)「東アジアにおける儀礼と刑罰」研究組織、2011年3月20日発行)のP.21-55に収録された佐藤達郎「魏晋南北朝時代における地方長官の発令「教」について」だ。前記事や下記関連記事と同じ著者となる。
※関連記事
リンク:「漢代の扁書・壁書」
この『東アジアにおける儀礼と刑罰』は、ネットを見ると下記ブログ記事等にその書名が見える。
・關尾史郎のブログ
http://sekio516.exblog.jp/
・拝受(11/04/11) (※上記ブログ記事)
http://sekio516.exblog.jp/14592822/
・拝受(11/04/28) (※上記ブログ記事)
http://sekio516.exblog.jp/14694439/
まずはページ数付きで目次から示す。
21 はじめに
22 I 漢代の教について;補論
22 (1) 漢魏の教の基本的性格
24 (2) 漢代の教の発令過程
29 (3) 教の発令の場
33 II 三国西晋時代の教
33 (1) 三国西晋の教の基本的性格
35 (2) 三国西晋時代における教の発令過程
39 III 東晋南朝の教
39 (1) 東晋南朝の教の形式
43 (2) 東晋南朝の教の内容的傾向
49 (3) 地方長官と属僚・地方社会との関係
52 IV 北朝から隋代の教
註はその都度、ページの最下部に入れるタイプだ。
「はじめに」で、同著者の佐藤達郎「関於漢魏時代的『教』」(『法律文化研究』6輯, 2010年, 掲載予定)の続き(補足や「教」&「場」の検討)であることが明言されており、「教」についての解説がある。漢代から魏晋南朝までは「地方長官の自主裁量にかかる発令」であり、「礼を主軸とする地方統治の様相を窺う」とのこと。この論文では「特にその、地方長官と属僚、地方長官と地方社会との関係を関心の中心に置きつつ、この時代の教について検討を進めたい」とのこと。
「I」「(1)」で教は前漢先帝期からあり、前漢の教が二例挙がっており、前漢後半期の地方統治の重視が背景にあると指摘される
・『漢書』巻八十三薛宣伝
(薛宣為左馮翊。)及日至休吏、賊曹掾張扶獨不肯休、坐曹治事。宣出教曰:「蓋禮貴和、人道尚通。日至、吏以令休、所繇來久。曹雖有公職事、家亦望私恩意。掾宜從衆、歸對妻子、設酒肴、請鄰里、壹笑相樂、斯亦可矣!」扶慚愧。官屬善之。
・『漢書』巻八十三朱博伝
(朱博為琅邪太守。)齊郡舒緩養名、博新視事、右曹掾史皆移病臥。博問其故、對言「惶恐!故事二千石新到、輒遣吏存問致意、乃敢起就職。」博奮髯抵几曰:「觀齊兒欲以此為俗邪!」乃召見諸曹史書佐及縣大吏、選視其可用者、出教置之。皆斥罷諸病吏、白巾走出府門。郡中大驚。頃之、門下掾贛遂耆老大儒、教授數百人、拜起舒遲。博出教主簿:「贛老生不習吏禮、主簿且教拜起、閑習乃止。」
どれも郡太守→郡府の属官・属県の長官といった流れの命令。朱博伝の「出教置之」「出教主簿」から教に太守から下級の官に対する訓戒の性格を指摘。これらには儒教的「教化」強権的「教勅」の意味合いがあると推測。
王莽期から後漢における教について論じられる。
・『後漢書』列伝十九郅惲伝
久之、太守歐陽歙請為功曹。汝南舊俗、十月饗會、百里内縣皆齎牛酒到府讌飲。時臨饗禮訖、歙教曰:「西部督郵繇延、天資忠貞、稟性公方、摧破姦凶、不嚴而理。今與眾儒共論延功、顯之于朝。太守敬嘉厥休、牛酒養德。」主簿讀教、戸曹引延受賜。惲於下坐愀然前曰:「司正舉觥、以君之罪、告謝于天。案延資性貪邪、外方内員、朋黨搆姦、罔上害人、所在荒亂、怨慝並作。明府以惡為善、股肱以直從曲、此既無君、又復無臣、惲敢再拜奉觥。」歙色慚動、不知所言。門下掾鄭敬進曰:「君明臣直、功曹言切、明府德也、可無受觥哉?」歙意少解、曰:「實歙罪也、敬奉觥。」惲乃免冠謝曰:「昔虞舜輔堯、四罪咸服、讒言弗庸、孔任不行、故能作股肱、帝用有歌。惲不忠、孔任是昭、豺虎從政、既陷誹謗、又露所言、罪莫重焉。請收惲・延、以明好惡。」歙曰:「是重吾過也。」遂不讌而罷。惲歸府、稱病、延亦自退。
このように十月饗會にて「孝廉の推挙に際し教の宣読された事例」を挙げ、「儒教的な貢士の儀礼の一節」「太守の郡下への教化宣布を象徴するもの」の側面を指摘される。さらに「太守の息子によって属僚任命の教が出された事例」から「法的に規定された制度」ではなく「指摘慣行より自然発生的に生じたもの」であるのも指摘される。漢簡においても「具体的業務遂行の命令の中にも訓戒の義が込められているなど」確認されるそうな。また「私信における教も多く見られ」るそうな。後漢末において「曹操をはじめとする群雄が教による発令をしばしば行ったのも、一つにはこうした教の一種非公式な性格から理解することができる」
曹魏の地方長官について。教戒的な含意を持つものがよく見られるそうな。
・『三国志』巻十一袁渙伝注所引『魏書』
閒者世亂、民陵其上、雖務尊君卑臣、猶或未也
このように乱世であれば礼に基づく秩序の再建が求められるという。
「I」「(2)」で漢簡について見ている。まず中山茂「漢代における長吏と属吏のあいだ──文書制度の観点から──」(『日本秦漢史学会報』三、2002年)について触れ、そこに漢簡中に見られる候官内の属僚の上申「白」「奏」に対し長官の「教」「諾」による指示・承諾を与える形が行われたという。ちょうど朝廷内の群臣の上奏と皇帝の「制可」に比すると。また石刻でも確認され「邛都安斯郷石表」で属吏「白」に対し太守「教諾」がある。「張景碑」から、下級の県から見て丞も太守と連名で指令を発する主体であったととれるという。ここで「邛都安斯郷石表」が取り上げられる。『史記』索隠所引『華陽国志』より斯叟などのチベット系民族の居住地であったという。
・文物圖象研究室資料庫
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/ww.htm
※釈文を上記サイトから下記へ引用。大元は論文と同じく『漢代石刻集成』より。
《漢代石刻集成‧本文篇》: 119: 一一九 邛都安斯郷石表
(正面)領方右戶曹史張湛白、前換蘇示有秩馮佑轉為安斯有秩、庚子詔書聽
轉、示部、為安斯郷有秩、如書、與五官掾司馬蒍議、請屬功曹、定入應書時簿
、下督郵李仁、邛都奉行、言到日、見草、○行丞事常如掾、○主簿司馬追省、
府君教諾、○正月十二日乙巳、書佐昌延寫、○光和四年正月甲午朔十三日丙午
、越嶲太守張勃、知丞事大張□、使者益州治所下、三年十一月六日庚子。 ○
長常叩頭死罪敢言之。詔書聽郡、則上諸安斯二郷復除□齊□郷及安斯有秩、詔
書即日□□□勸農督郵書掾李仁、邛都奉行、勃詔□詔州郡叩頭死罪敢言之、○
□□□□□下庚子詔書、即日理判也、三月十四日丙午、詔書、太守勃行于東、
大官守長常叩頭死罪敢言之、○
使者益州□□□□治□□□□言□、○高官□□詔書、即日始君遷里□□□□
□□□等十四里、○將十四里丁眾受詔、高米
立石表、師齊驅字彥新。
(側面)越嶲太守丞掾奉書言、□□常□都□□□□□光和四年正月甲午朔十
三日丙午□□□□□□大官守長常□部曲、部勸農督郵書掾李仁、邛都□□□于
詔書、書到、奉行務□□□□□□□詔書□ □□真張湛、書佐延主。
領方右戸曹史・張湛の「白」に対し「府君」の越嶲太守張勃が「教諾」を下していると指摘される。その内容について論じられる。論点は「定入應書時簿」の解釈だと言い、「定入」は「定出」と対をなす帳簿統計上の語として漢簡で用いられ、「應書」の語も漢簡に見え、銭穀物品人員などの報告に添付される帳簿の類であり、「時簿」は漢簡で「四時簿」として三ヶ月ごとの定期報告の帳簿の意に用いられ、「定入の応書・時簿」と読み、復徐対象となった二郷を含む、邛都県の徴税に際する憑拠資料とするためではないか、と本報では結論付けられている。『続漢書』志二十八百官志五の「秋冬集課、上計於所屬郡國」を引き、県が管下の郷里からの徴収とその集計記録の毎年の郡国への報告を指摘し立碑に至る過程が推論される。次に「白」から教の発布に至る過程が論じられる。「白」による申請に対し、郡丞(代行)は賛同を示し、さらに主簿がその内容を「追省」、再確認した上で、太守に取り次がれ、その「教」による承諾がなされたという。
次に張景造土牛碑が例に出される。
※釈文を前述のサイト「文物圖象研究室資料庫」から下記へ引用。大元は論文と同じく『漢代石刻集成』より。
〔府告宛、男〕子張景記言、府南門外勸〔農〕土牛、□□□□調發十四郷
正、相賦斂作治、并土人犁耒艹蓎屋、功費六七十萬、重勞人功、吏正患苦、願
以家錢、義作土牛上瓦屋欗楯什物、歲歲作治、乞不為縣吏列長伍長、徵發小繇
、審如景〔言〕施行復除、傳後子孫、明檢匠所作務、令嚴、事畢成言、會廿□
府君教、大守丞印、延熹二年八月十七日甲申起八月十九日丙戍、宛令右丞慴告
追追鼓賊曹掾石梁、寫移□遣景、作治五駕瓦屋二閒、周欗楯拾尺、於匠務令功堅
、奉□畢成言、會月廿五日、他如府記律令。 掾趙述□□府告宛言、男子張景
以家錢義於府南門外守□□□瓦屋、以省賦斂、乞不為縣吏列長伍長小繇□□
認可の際、「審如景言」として上申の内容確認を、太守ではなく掾であり、教の発令にあたり属僚の意見表明が差し挟まれると指摘される。その一例として次のような『後漢書』列伝五十七党錮列伝を挙げる。
後汝南太守宗資任功曹范滂、南陽太守成亦委功曹岑晊、二郡又為謠曰:「汝南太守范孟博、南陽宗資主畫諾。南陽太守岑公孝、弘農成瑨但坐嘯。」
大庭脩「漢代制詔の形態」(同『秦漢法制史の研究』創文社1982年所収)より皇帝の発する詔勅を「皇帝自らの意志で発令する第一形式」「臣下の提案を皇帝が認可する第二形式」「提案を受けて審議を命ずる第三形式」を引き、地方長官の教は第一形式と第二形式が認められ典籍に残りにくいが第二形式が多いと指摘する。また『後漢書』列伝五十二陳寔伝の
家貧、復為郡西門亭長、尋轉功曹。時中常侍侯覽託太守高倫用吏、倫教署為文學掾。寔知非其人、懷檄請見。言曰:「此人不宜用、而侯常侍不可違。寔乞從外署、不足以塵明德。」倫從之。於是郷論怪其非舉、寔終無所言。倫後被徴為尚書、郡中士大夫送至輪氏傳舍。倫謂衆人言曰:「吾前為侯常侍用吏、陳君密持教還、而於外白署。比聞議者以此少之、此咎由故人畏憚強禦、陳君可謂善則稱君、過則稱己者也。」寔固自引愆、聞者方歎息、由是天下服其德。
に対し、中山茂氏は「教著とは数字簡で指示を与えた、太守の自発的意志に基づく任用、「於外白署」とは属吏からの白事簡を用いた上申に、太守が「諾」を与えた任用を指すのだろう」とするという。これに対し本報では後者も「教」(第二形式)としている。また「懷檄請見」とあり冨谷至「檄書攷」(同『文書行政の漢帝国』名古屋大学出版会、2010年)より檄の本質的機能の一つがその公示性にあったと指摘されることから、太守の教著や白に対する認可はいずれも衆目の中で行われたとする。また檄に記された教は発布の前に陳寔に渡され駁正を受けたと指摘する。
「I」「(3)」でしばしば主簿により読み上げられる教の宣読の場や意義について論じられる。佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)を踏まえつつ前述の『後漢書』列伝十九郅惲伝の箇所にある教の宣読について論じられる。
※関連記事
佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)
十月饗會、主簿讀教、露所言などは郡吏管下の県吏の会する面前、「府」、閤門内の廷と堂で行われたという。その様子の例としてホリンゴル壁画「拝謁・百戯図」(廷内で催される宴楽の様子)を挙げている。次の『漢書』巻七十六韓延壽伝でも宴会が「閤」の中の広間で催されたことを示すという。
行縣至高陵、民有昆弟相與訟田自言、延壽大傷之、曰:「幸得備位、為郡表率、不能宣明教化、至令民有骨肉爭訟、既傷風化、重使賢長吏・嗇夫・三老・孝弟受其恥、咎在馮翊、當先退。」是日移病不聽事、因入臥傳舍、閉閤思過。一縣莫知所為、令丞・嗇夫・三老亦皆自繫待罪。於是訟者宗族傳相責讓、此兩昆弟深自悔、皆自髡肉袒謝、願以田相移、終死不敢復爭。延壽大喜、開閤延見、内酒肉與相對飲食、厲勉以意告郷部、有以表勸悔過從善之民。
また次の『後漢書』列伝六十七酷吏伝(陽球伝)が挙げられており、この教中で属僚を「貴郡」と呼び掛け、属僚に対する礼意の寓せられている点を指摘する。
出為高唐令、以嚴苛過理、郡守收舉、會赦見原。辟司徒劉寵府、舉高第。九江山賊起、連月不解。三府上球有理姦才、拜九江太守。球到、設方略、凶賊殄破、收郡中姦吏盡殺之。平原相。出教曰:「相前蒞高唐、志埽姦鄙、遂為貴郡所見枉舉。昔桓公釋管仲射鉤之讎、高祖赦季布逃亡之罪。雖以不德、敢忘前義。況君臣分定、而可懷宿昔哉!今一蠲往愆、期諸來效。若受教之後而不改姦状者、不得復有所容矣。」郡中咸畏服焉。
また教の発布される堂と廷から成る空間の例として「謁見図」;「四川成都曽家包東漢画漢画像磚石墓」(『文物』1981年第10期)が挙げられていた。
「II」「(1)」にて、まず漢末の争乱期、特に曹操による教の事例が目立つという。下記の『三国志』巻二十四魏書王観伝を例に挙げ、実際には日常の事務的指令、主に「第二形式」の教が多く出されていたと本報で推測されている。
明帝即位、下詔書使郡縣條為劇・中・平者。主者欲言郡為中平、觀教曰:「此郡濱近外虜、數有寇害、云何不為劇邪?」主者曰:「若郡為外劇、恐於明府有任子。」觀曰:「夫君者、所以為民也。今郡在外劇、則於役條當有降差。豈可為太守之私而負一郡之民乎?」遂言為外劇郡、後送任子詣鄴。時觀但有一子而又幼弱。其公心如此。觀治身清素、帥下以儉、僚屬承風、莫不自勵。
次に『晋書』巻六十六劉弘伝の西晋末期の事を例に挙げ、前漢末から六朝にかけて州郡単位での各種の規約や心得が長官の裁量によって定められ、それの置廃も教によって命じられたと言う。
舊制、峴方二山澤中不聽百姓捕魚、弘下教曰:「禮、名山大澤不封、與共其利。今公私并兼、百姓無復厝手地、當何謂邪!速改此法。」又「酒室中云齊中酒・聽事酒・猥酒、同用麴米、而優劣三品。投醪當與三軍同其薄厚、自今不得分別」。
さらに懲戒の事例を次の『三国志』巻五十五呉書黄蓋伝で挙げている。
諸山越不賓、有寇難之縣、輒用蓋為守長。石城縣吏、特難檢御、蓋乃署兩掾、分主諸曹。教曰:「令長不德、徒以武功為官、不以文吏為稱。今賊寇未平、有軍旅之務、一以文書委付兩掾、當檢攝諸曹、糾擿謬誤。兩掾所署、事入諾出、若有姦欺、終不加以鞭杖、宜各盡心、無為衆先。」初皆佈威、夙夜恭職;久之、吏以蓋不視文書、漸容人事。蓋亦嫌外懈怠、時有所省、各得兩掾不奉法數事。乃悉請諸掾吏、賜酒食、因出事詰問。兩掾辭屈、皆叩頭謝罪。蓋曰:「前已相敕、終不以鞭杖相加、非相欺也。」遂殺之。縣中震慄。
「II」「(2)」ではまず「白」について論じられ、事例として『三国志』巻十一魏書張臶伝が挙げられる。
時鉅鹿張臶、字子明、潁川胡昭、字孔明、亦養志不仕。臶少游太學、學兼内外、後歸鄉里。袁紹前後辟命、不應、移居上黨。并州牧高幹表除樂平令、不就、徙循常山、門徒且數百人、遷居任縣。太祖為丞相、辟、不詣。太和中、詔求隱學之士能消災復異者、郡累上臶、發遣、老病不行。廣平太守盧毓到官三日、綱紀白承前致版謁臶。毓教曰:「張先生所謂上不事天子、下不友諸侯者也。此豈版謁所可光飾哉!」但遣主簿奉書致羊酒之禮。
この「白」がどのような形で行われたかでは、『世説新語』捷悟篇注所引『文士伝』において主簿のそれが「守者」(『世語』では「門下」)によって取り次がれ、教はその逆になるという。これは他の教や白と違い衆目の前で行われていないと指摘する。
楊脩字德祖、弘農人、太尉彪子。少有才學思榦。魏武為丞相、辟為主簿。脩常白事、知必有反覆教、豫為答對數紙、以次牒之而行。敕守者曰:『向白事、必教出相反覆、若按此次第連答之。』已而風吹紙次亂、守者不別、而遂錯誤。公怒推問、脩慚懼、然以所白甚有理、終亦是脩。後為武帝所誅。
次の『三国志』巻二十二魏書陳群伝が一例に挙げられ、長官の意を承け書記官が教の草案を起草し、綱紀の賛同を経て、公布されて教として発行したものと論じられる。
太祖辟群為司空西曹掾屬。時有薦樂安王模・下邳周逵者、太祖辟之。群封還教、以為模・逵穢德、終必敗、太祖不聽。後模・逵皆坐姦宄誅、太祖以謝群。
次の『晋書』巻三十九王沈伝を例に挙げ、刺史の王沈の教が郡に下される前に主簿らの「白」による駁正を受けることが示される。
尋遷尚書、出監豫州諸軍事・奮武將軍・豫州刺史。至鎮、乃下教曰:「自古賢聖、樂聞誹謗之言、聽輿人之論、芻蕘有可録之事、負薪有廊廟之語故也。自至鎮日、未聞逆耳之言、豈未明虚心、故令言者有疑。其宣下屬城及士庶、若能舉遺逸於林藪、黜姦佞於州國、陳長吏之可否、説百姓之所患、興利除害、損益昭然者、給穀五百斛。若達一至之言、説刺史得失、朝政寬猛、令剛柔得適者、給穀千斛。謂余不信、明如皎日。」主簿陳廞・褚剨曰:「奉省教旨、伏用感歎。勞謙日昃、思聞苦言。愚謂上之所好、下無不應。而近未有極諫之辭、遠無傳言之箴者、誠得失之事將未有也。今使教命班下、示以賞勸、將恐拘介之士、或憚賞而不言;貪賕之人、將慕利而妄舉。苟不合宜、賞不虚行、則遠聽者未知當否之所在、徒見言之不用、謂設有而不行。愚以告下之事、可小須後。」沈又教曰:「夫德薄而位厚、功輕而祿重、貪夫之所徇、高士之所不處也。若陳至言於刺史、興益於本州、達幽隱之賢、去祝鮀之佞、立德於上、受分於下、斯乃君子之操、何不言之有!直言至理、忠也。惠加一州、仁也。功成辭賞、廉也。兼斯而行、仁智之事、何故懷其道而迷其國哉!」褚剨復白曰:「堯・舜・周公所以能致忠諫者、以其款誠之心著也。冰炭不言、而冷熱之質自明者、以其有實也。若好忠直、如冰炭之自然、則諤諤之臣、將濟濟而盈庭;逆耳之言、不求而自至。若德不足以配唐虞、明不足以並周公、實不可以同冰炭、雖懸重賞、忠諫之言未可致也。昔魏絳由和戎之功、蒙女樂之賜、管仲有興齊之勳、而加上卿之禮、功勳明著、然後賞勸隨之。未聞張重賞以待諫臣、懸穀帛以求盡言也。」沈無以奪之、遂從剨議。
※「剨」は実際は[(丯刀)/石]
ここで一見、「屬城及士庶」で対象が管下の郡府と民衆の如く見えるが、「其宣下屬城及士庶」とあり対象は「宣下」する者たちだと指摘する。同じ事例の次の『北堂書鈔』巻七十二所引王隠『晋書』佚文にあり、「別駕主簿奉行、九郡施行」は曹魏末における文言を知ることおできる貴重な例であると指摘する。
王沈字處道、遷豫州刺史。教曰。若能舉遺逸。黜奸佞。陳長吏可否。皆給穀五百斛。別駕主簿奉行。九郡施行。
これにより教はまず別駕、主簿という州の綱紀の「奉行」を経て、管下の郡に「施行」を命ぜられるという。このような二重の構造をとることが、曹魏の遅くとも末までに、定式化され、書式として形を整えつつあったと指摘される。次の『三国志』巻十一魏書張臶伝や『晋書』巻四十二唐彬伝の事例でも実際には郡綱紀、州綱紀などへの発令とその同意を経ているのだろうとする。
旬日而卒、時年一百五歳。是歳、廣平太守王肅至官、教下縣曰:「前在京都、聞張子明、來至問之、會其已亡、致痛惜之。此君篤學隱居、不與時競、以道樂身。昔絳縣老人屈在泥塗、趙孟升之、諸侯用睦。愍其耄勤好道、而不蒙榮寵、書到、遣吏勞問其家、顯題門戸、務加殊異、以慰既往、以勸將來。」
元康初、拜使持節・前將軍・領西戎校尉・雍州刺史。下教曰:「此州名都、士人林藪。處士皇甫申叔・嚴舒龍・姜茂時・梁子遠等、並志節清妙、履行高潔。踐境望風、虚心饑渇、思加延致、待以不臣之典。幅巾相見、論道而已、豈以吏職、屈染高規。郡國備禮發遣、以副於邑之望。」
「III」以降は東晋南朝以降であるため、「三国志ニュース」の主旨から外れるため割愛する。
※次記事
メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」
※追記
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