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メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」


  • 2011年11月15日(火) 23:51 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,166
研究 ※前記事 メモ:「魏晋南北朝時代における地方長官の発令「教」について」

 下記関連記事で『東洋史研究』電子版の公開が開始されたことを伝えたが、まだ電子化されてない分が多い。

※関連記事 『東洋史研究』電子版公開開始(2011年3月10日-)

 そのため、下記関連記事で追記したように、「東洋史研究大会」のおりに『東洋史研究』13冊を購入する。そこで刊行から三年以上経過したバックナンバーは1冊各100円で売られていた。

※関連記事 赤壁地名考―孫呉政権と江南の在地勢力(2011年11月3日)

 その論文は下記のもの。CiNii(国立情報学研究所提供サービス)内のページへのリンクも続けて記す。リンク先で読めるという訳ではないが。

唐 長孺/著、川勝 義雄/訳「魏晉南北朝の客と部曲」(『東洋史研究』Vol.40 No.2 (198109) pp.253-276 東洋史研究会 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/40002659755

CiNii

 この論文が掲載されている『東洋史研究』Vol.40 No.2は下記の東洋史研究会のサイトのバックナンバーによると、1000円で購入できるという。

・東洋史研究会
http://wwwsoc.nii.ac.jp/toyoshi/

 そもそもこの論文が収録される『東洋史研究』Vol.40 No.2を購入しようと思った経緯は題名に「部曲」とあり、それに関係する49ページの本文に「部曲とは軍隊の編成を指す言葉であって、のちに私兵を指すようになったものである。」とあり、前々からの疑問を解消できそうだったためだ。
 ネットのコミュニティでは特に根拠を示されずに論じられることが多々ある。それで済めば良いが、平行線を辿る議論や誤った情報の拡散浸透等の元凶になりうるのでたちが悪い。それらの中で「部曲=私兵」といったものがある。確か筑摩書房から出ている『三国志』訳本では「部曲」をそのまま「私兵」と訳す箇所があるため、それを無批判に覚えてしまう人にとっては仕方のないことかもしれない。
 とは言っても下記関連記事で触れたが、『続漢書』志二十四百官一の「其領軍皆有部曲。大將軍營五部、部校尉一人、比二千石;軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。」や久保田文次「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究─特に漢代の部隊編成を中心として─」(『駿台史学』74号、1988年)にあるように、「部」と「曲」は軍内のグループの規模を示す言葉であり、「郡県」、「大夫士」や「功労」と同じように、「部曲」は二字の語で同系列で大小の違う文字を組み合わせる語と認識しており、そこには私属する意味が見出せないため、日々、違和感を抱いていた。

※関連記事
 鄒靖
 メモ:「功次による昇進制度の形成」

 まずはページ数付きで目次から示す。

35 はじめに
36 一 客の身分低下と農業勞働における普遍的使用
39 二 蔭客の特権に對する晉代の制限
46 三 永嘉の亂以後の北方における大族の蔭戸
49 四 南北朝後期の部曲と隋初の浮客
56 註

 読み進めていくと、素人目ながら時代区分論的な考えの影を感じたので、そういったものを考慮していた。また、この記事で触れるのはサイトの特性上、タイトルにある「魏晋南北朝」のせいぜい魏晋になるだろう。
 「はじめに」では、タイトルにある客と部曲が、法律的には私属として規定されたことを指摘し、しかし、同時に合法的なものだけでないことも指摘する。
 「一」の冒頭で「客」の本来の意味が「宗族の成員でないもの」や「他郷の人」と言い、身分が低い意味は含まれないと説く。『漢書』巻二十七中之上五行志の「今陛下棄萬乘之至貴、樂家人之賤事;厭高美之尊稱、好匹夫之卑字;崇聚票輕無誼之人、以為私客」の「無誼」(品行がよくないこと)、つまり漢の成帝に無頼遊侠の徒が当てられたとする。次に賓客が生産に従事する例として『後漢書』列伝十四馬援伝を挙げ、賓客が牧畜と農業に従事し、戦争の時に馬援の部曲になる例が挙げられる。『水経注』巻二河水の苑川水条に「苑川水地為龍馬之沃土、故馬援與田戸中分、以自給也」から馬援と賓客である「田戸」と(収穫を)半分に分けており、田戸が耕作した地はいずれも上林苑や牧師苑で馬援の私有地でないと指摘する。さらに時代を下った例として『三国志』巻三十八蜀書糜竺伝の「東海朐人也。祖世貨殖、僮客萬人、貲産鉅億」と「先主轉軍廣陵海西、竺於是進妹於先主為夫人、奴客二千、金銀貨幣以助軍資;于時困匱、賴此復振。」を挙げ「僮客(奴客)」が劉備の部曲になることがあげられ、さらに当時は「奴」と「客」とを厳格に区別する必要がないとする。さらに『太平寰宇記』巻二十二海州東海縣 縣理城条所引『水経注』を引き「糜郎の隷」、つまり僮客と見なされる者らが農耕に従事していた点を挙げる。仲長統『昌言』理乱篇の「豪人之室、連棟數百、膏田滿野、奴婢千羣、徒附萬計。」および損益篇の「井田之變,豪人貨殖,館舍布於州郡,田畝連於方國。(中略)刺客死士、為之投命。」を例に挙げ、「徒附」を客とし「豪人」のかかえる奴婢や徒附は郡国に跨る大土地と結びついたものと推測されている。『三国志』巻一魏書武帝紀「(建安元年(紀元196年)冬十月)天子拜公司空、行車騎將軍。是歳用棗祗・韓浩等議、始興屯田。」とその注所引『魏書』の「是歳乃募民屯田許下、得穀百萬斛。於是州郡例置田官、所在積穀。」を取り上げ、屯田はいわば国家の私田であり、田官(屯田客)は国家の私客とし、屯田は当時一般に行われた大土地経営の方式をまねたものとし、宮崎市定「部曲から佃戸へ--唐宋間社会変革の一面-上-」(『東洋史研究』Vol.29 No.4 (197103) pp.30-65 東洋史研究会)のP.32にある屯田が天子の荘園という性質を持つことを指摘されたのを論者は「妥当な見解」とする。ここで三国呉の屯田に触れる。屯田を開き、屯田客のみならず一般民までも、賞賜として功臣に支給したと言い、さらにその賦役が免除されたのを「復客」と称されたと言う。その例として『三国志』巻五十四呂蒙伝の「別賜尋陽屯田六百人」が挙がっていた。
 「二」の冒頭で、法律上、客の身分低下を規定することのなかった例として『三国志』巻二十三魏書常林伝の「太守王匡起兵討董卓、遣諸生於屬縣微伺吏民罪負、便收之、考責錢穀贖罪、稽遲則夷滅宗族、以崇威嚴。林叔父撾客、為諸生所白、匡怒收治。」を挙げ、常林の叔父が客をむち打ったため王匡が怒って「收治」したことに、客が(法の及ぶ)良民であったことを暗示するという。『三国志』巻十二魏書司馬芝伝の

郡主簿劉節、舊族豪俠、賓客千餘家、出為盜賊、入亂吏治。頃之、芝差節客王同等為兵、掾史據白:「節家前後未嘗給繇、若至時藏匿、必為留負。」兵已集郡、而節藏同等、因令督郵以軍興詭責縣、縣掾史窮困、乞代同行。芝乃馳檄濟南、具陳節罪。太守郝光素敬信芝、即以節代同行、青州號芝「以郡主簿為兵」。

を例に挙げ、劉節の客の王同を兵にできたのが客を匿うことを認められなかったためと指摘し、「賓客千餘家」を「(劉)節家前後未嘗給繇」の「(劉)節家」の範囲に含まれる点を指摘する。『三国志』巻五十四呉書周瑜伝の「時年三十六。權素服舉哀、感動左右。喪當還呉、又迎之蕪湖、衆事費度、一為供給。後著令曰:「故將軍周瑜・程普、其有人客、皆不得問。」」を挙げ、逆に他の家の「人客」を「問」うことができた可能性を指摘し、賜客と復客以外の人客の庇護は不法と見なされたという。『晋書』巻九十三王恂伝の「魏氏給公卿已下租牛客戸數各有差、自後小人憚役、多樂為之、貴勢之門動有百數。又太原諸部亦以匈奴胡人為田客、多者數千。武帝踐位、詔禁募客、恂明峻其防、所部莫敢犯者。」にある「詔禁募客」は咸寧三年から四年まで(紀元277-278年)とし、『晋書』巻二十六食貨志の「(泰始五年(紀元269年)正月癸巳)豪勢不得侵役寡弱、私相置名。」(※後の記述で「私相」に「ひそか」とルビ)と同様のものであると指摘する。『晋書』巻三十七高陽王睦伝の

咸寧三年、睦遣使募徙國内八縣受逋逃・私占及變易姓名・詐冒復除者七百餘戸、冀州刺史杜友奏睦招誘逋亡、不宜君國。有司奏、事在赦前、應原。詔曰:「中山王所行何乃至此、覽奏甚用憮然。廣樹親戚、將以上輔王室、下惠百姓也。豈徒榮崇其身、而使民踰典憲乎!此事當大論得失、正臧否所在耳。苟不宜君國、何論於赦令之間耶。其貶睦為縣侯。」乃封丹水縣侯。

での司馬睦の罪は「招誘逋亡」(逃亡者を招誘した)であり、「募徙」「私占」は「募客」に相当するという。(『晋書』巻二十六食貨志に)「及平呉之後」(太康元年、紀元280年)に「戸調之式」を制定し、そこに「而又得蔭人以為衣食客及佃客、品第六已上得衣食客三人……」とあり、品に応じた「衣食客及佃客」を保有する基準を規定したことと、佃客は『隋書』巻二十四食貨志の「其佃穀、皆與大家量分」の所とし、「客皆注家籍」とあるように客全ては主人の戸籍の下に付けられることを指摘する。(『晋書』巻二十六食貨志に)「其應有佃客者、官品第一第二者佃客無過五十戸、第三品十戸、」とあり、ここでの「五十戸」は文脈から「十五戸」の誤りとした上で、合法で認められた客でもその数が甚だ少ない点を指摘する。その後、東晋以降について触れられる。
 「三」はタイトル通り三国から大きく外れるのでここでは割愛。
 49ページの「四」の冒頭は前述した文で始まり、『三国志』巻十六魏書任峻伝の「峻又別收宗族及賓客家兵數百人、願從太祖。」や『三国志』巻十八魏書呂虔伝の「太祖在兗州、聞虔有膽策、以為從事、將家兵守湖陸。」を挙げ、曹操の下へ任峻や呂虔が家兵を組織したという。加えて前述の糜竺の例を挙げ、それぞれ曹操や劉備の下で部曲になったとする。客の身分が低下し、部曲の身分も低下したが、当時の部曲という名称は身分を示す言葉でないという。それ以降、劉宋時代の末期以降の話に移るので割愛。

※次記事 メモ:日中における『三国志』の受容と再創造の概況

※追記 范陽の盧氏について――盧植・盧毓と漢魏交代期の政治と文化――(2016年6月)

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