右のは某所のネタで作った画像をさらにアレンジして作った画像。
元ネタは「
漢代物質文化資料図説」に載っている山東沂南の畫像石(東漢)の「戴有[巾責]之冠者」の絵。確か「
中国古代の服飾研究」にも載ってたっけ。
その画像を鏡像にしたり(それに合わせ服を改造)、髭をとったり、色を付けたりしてポップアートっぽくしてみた。
まず左の人物に注目。頭上の一番上に針金が折れ曲がったような部分が「梁」だ。それが三本あることで「三梁」と呼ばれる。それとは別に頭上にあるのが「[巾責]」。頭上の屋根みたいなのが「顔題」と呼ばれ、それから後側から上に出ている箇所は「耳」と呼ばれる。この「梁」や「[巾責]」をまとめて「進賢冠」と呼ばれる。
梁と「[巾責]」それから、顎にかけてある紐がどういう関係なのかよくわからない。進賢冠をかぶった人物の陶俑があってそのスケッチをみてみたら、[巾責]の外側を通って梁ごと紐で上側から抑えている感じ(晋 長沙)。
<7月14日追記>
枕流亭ブログで服飾のデータベースみたいなところの紹介があった。
・枕流亭ブログ
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/
・服飾史
http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20060713/p3
そこのリンクをさらっと辿ってみると、上の陶俑の写真があった。
http://www.pep.com.cn/200301/ca143223.htm
↑右から二つ目。
<追記終了>
ちなみに向かって右の顔の側面から出ているのは筆。元ネタにした画像は向かって左側から出ており、耳の上に筆を置いておく習慣があったとのこと(確か、「中国古代の服飾研究」にそこらへんのことが書いてあったかな)
続漢書の輿服志によると
進賢冠、古緇布冠也、文儒者之服也。前高七寸、後高三寸、長八寸。公侯三梁、中二千石以下至博士兩梁、自博士以下至小史私學弟子、皆一梁。宗室劉氏亦兩梁冠、示加服也。
つまり、進賢冠とは古の緇布冠で、文儒者の服だ。前が高さ七寸、後ろが高さ三寸、長さは八寸となる。公や侯は三梁、中二千石以下、博士に至るまで両梁(二梁)、博士から以下、小史や私学の弟子に至るまで、皆一梁となる。劉氏の宗室(親類)もまた両梁(二梁)の冠を服に加えている、となる。
身分によって梁の数が違ってくる。
それで画像の左が三梁の冠で、真ん中が両梁(二梁)となり、最後は一梁と言いたいところだけど、ここは想像で書いている。
というのも普通に考えると、針金みたいな梁の数が減っていくだけのような気がするが、畫像石で針金一本の梁を見かけたことがない。それに対して、画像の右のような幅のあるものを畫像石で結構、見かけ(但し、円筒上、そのまま大きくなっているのか、板を立てているものなのか、見ようによってはいろんな解釈ができる)、陶俑でも板を折り曲げたような冠を一例、見たことがある(成都羊子山)。なので、一梁はこんな感じだと予想。
※追記
メモ:「中国服飾史上における河西回廊の魏晋壁画墓・画像磚墓」
※追記
メモ:三国創作のための扶助会
※追記
第17回三顧会 午前(2012年8月14日)
※追記
第17回三顧会 午後(2012年8月14日)
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筆については董卓伝の渭陽君の箇所に出てきますね。
「簪」というとなんか頭のお団子に刺しているところをイメージします(笑)
今、「漢代物質文化資料図説」が手元にあるんで、該当個所の本文を見てみると「有時在進賢冠的一側還簪有”白筆”」(もちろん、元は簡体字)と書いてありました。おぉ。