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5月10日は曹操が魏公に為った日
上記関連記事の続きかな? 時代的には大幅に遡るが。
・『後漢書』紀九孝献帝紀
(永漢元年、紀元189年)十一月癸酉、董卓〔自〕為相國。
<清岡による訳>
(永漢元年、紀元189年)十一月癸酉(一日)、董卓は〔自ら〕相国に為る。
上記の『後漢書』紀九孝献帝紀永漢元年(中平六年)十一月条にあるように、旧暦で言う紀元189年11月1日は董卓字仲穎が相国に為った日だ。 この年の元号はややこしくて、下記リンク先にあるように、劉協が紀元189年9月1日に皇帝に即位した時に、昭寧から永漢に改号したんだけど、同じ年の十二月戊戌(閏12月27日)に詔で光熹・昭寧・永漢の三つの元号を除き、中平六年に戻したそうで。
・何進暗殺から董卓秉政へ(孫氏からみた三国志45)
http://cte.main.jp/sunshi/2008/0307.html
・相国の董卓と関東諸将(孫氏からみた三国志46)
http://cte.main.jp/sunshi/2008/0411.html
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4月13日は劉弁即位の日
ちなみに『漢書』巻十九上百官公卿表に、
相國・丞相、皆秦官、金印紫綬、掌丞天子助理萬機。秦有左右、高帝即位、置一丞相、十一年更名相國、綠綬。孝惠・高后置左右丞相、文帝二年復置一丞相。
<清岡による訳>
相国・丞相は皆、秦の官であり、金印紫綬で、天子に従い多くの機微を手助けする。秦に左右があり、高帝(高祖、劉邦)が即位すると、一人の丞相を置き、十一年に名を相国に換え、緑の授とした。恵帝・高后は左右に丞相を置き、文帝二年に再び一人の丞相を置いた。
とあり、相国は丞相と同じ臣下の最高位で、前漢の初期の一時期にあり、(ちゃんと確認してないが)後漢にはなかった官位だ。そのため三公と同じく敬称は「公」なんだろうね。三人称として姓+公で、二人称として「明公」……小説等の創作をする際には作中で間違っても「相国様」とか言わないように(笑) もちろん「閣下」もね。
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サテライト「三国志」群像(2012年8月20日-)
話を戻し、それを董卓がわざわざ復活させて自ら就くのは、名目的にも権威を強めるためだろうね。実の部分でも『三国志』巻六魏書董卓伝に「卓遷相國、封郿侯、贊拜不名、劍履上殿、又封卓母為池陽君、置家令・丞。」と特別扱いになっているし。
あと直接、関係ないが、下記のように京都に相国寺というのがあって、その寺の名を見るたびにいつも董卓を思い出していた……そもそも相国に就いたのは董卓だけじゃないし。
・相国寺 - 臨済宗相国寺派
http://www.shokoku-ji.jp/s_about.html
今、上記ページを見ると、寺の名と官の名には関係があるとのことで、下記関連記事でふれた「京都での三国志こじつけツアー」に含まれそうだね。相国寺は烏丸通り沿いにあるし。
※関連記事
三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)
※追記
メモ2:三国志フェス2013(2013年9月28日)
※8日公開予定
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映画 真・三國無双を見に行く小旅行(2021年10月23日)
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