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相国の董卓と関東諸将(孫氏からみた三国志46)
2008.04.11.
<<何進暗殺から董卓秉政へ(孫氏からみた三国志45)


   中平六年九月(紀元189年9月)、「<<涼州と幽州の顛末」(孫氏からみた三国志43)で紆余曲折があって太尉となった劉虞(字、伯安)から始まる。『後漢書』劉虞伝1)より。

   董卓(字、仲穎)の秉政に及び、使者をやって劉虞(字、伯安)に大司馬を授け、進んで襄賁侯を封じた。

   ここで大司馬について。
   『続漢書』百官志2)によると、「建武二十七年(紀元51年)、(大司馬から)改めて太尉とした」とのことなので、元々は三公に列せられる官職。元々、太尉と同じ官職なので、太尉が無くなったかというとどうもそうではないらしい

   劉虞が降りた太尉の座に今度は董卓が就くことになる。『後漢書』董卓伝3)により。『三国志』魏書董卓伝4)でも同じようなことが書かれてある。

   董卓は太尉に遷り、前将軍の事を領し、節を加え斧鉞虎賁を伝え、さらに郿侯に封じられた。

   こうして大司馬と太尉が並び立つ事態となる。
   董卓が就いていた司空の座に誰が就いたかとそれは楊彪(字、文先)。
   またこれらがいつかというと『後漢書』本紀5)にまとめて載っている。

   乙酉(中平六年九月十二日)、太尉の劉虞をもって大司馬とした。董卓は自ら太尉となり、鈇鉞・虎賁を加えた。
   丙戌(十三日)、太中大夫の楊彪が司空となった。
   甲午(二十一日)、豫州牧の黄琬が司徒になった。

   黄琬(字、子琰)については以前、「<<涼州と幽州の顛末」(孫氏からみた三国志43)で取り上げた。

   この人事に関しては『後漢書』董卓伝3)に記述にある。

   董卓と司徒の黄琬、司空の楊彪はともに鈇鑕(刑器)を帯び、闕に詣で上書し、陳蕃、竇武および諸党人の理を追うことで人望に従った。これにおいて、ふたたび陳蕃らは位を爵し、子孫を抜擢して任用した。

   陳蕃竇武は党錮の禁の被害者にあたり、この董卓の態度は次のように『後漢書』本紀5)にもある。

   使者をやって故(もと)の太傅の陳蕃と大将軍の竇武らの祠を弔った
   冬十月乙巳(三日)、霊思皇后(何后のこと)を葬った。
   白波賊が河東へ進寇し、董卓はその将の牛輔をやってこれを撃った。

   白波賊と牛輔のことは次のように『後漢書』董卓伝3)にもある。

   以前、霊帝の末、黄巾余党の郭太らは(并州)西河の白波谷で再び起こり、(并州)太原に転じ進寇し、ついに(司隷)河東を破り、百姓が三輔へ流転し、号して「白波賊」とし、十万余りを集めた。董卓は中郎将の牛輔をやってこれを撃ち、退かせることができなかった。

   『後漢書』本紀5)によると董卓は太尉に飽きたらずさらに上の新設の位に就く。

   十一月癸酉(一日)、董卓は自ら相国となった。
(閏)十二月戊戌(二十八日)、司徒の黄琬は太尉となり、司空の楊彪は司徒となり、光祿勳の荀爽は司空となった。
   扶風都尉を省き、漢安都護を置いた。

<2011年4月3日追記>
   ここの荀爽については<<「西華の忠馬物語」(孫氏からみた三国志21)に書かれており、『三国志』巻十魏書荀彧伝17)の冒頭やその注18)にも書かれている。以下、両者を続けて記す。

   荀彧は文若と字し、(豫州)潁川潁陰人だ。祖父の荀淑は、季和と字し,(豫州汝南郡)朗陵令となった。漢の順、桓の間に当たり、当世に名を知らしめた。子八人を有し、号して八龍と言う。荀彧の父の荀緄は、濟南相だ。叔父の荀爽は、司空だ。
   荀彧は若い時に、南陽の何顒がこれを異とし、「王佐の才だ」と言う。
   『続漢書』に言う。
   荀淑は高才を有し、王暢、李膺は皆、師と思い、朗陵侯相に為り、神君と号称された。
   『張璠漢紀』はいう。
   荀淑は博く学び高行を有し、李固、李膺を同志友善に与し、李昭を小吏に抜擢し、幼童の黄叔度(黄憲)を友とし、賢良方正で徴し、対策して梁氏を痛切に論難し、出て朗陵侯相を補し、卒官した。八子は儉、緄、靖、燾、詵、爽、肅、旉である。音は数ある。荀爽は慈明と字し、幼きころから学を好み、年十二で春秋、論語に通じ、経典を思いふけ、徴命に応じず、十数年積んだ。董卓が政を執り、再び荀爽は徴され、荀爽は遁去を欲し、吏はこれを急ぎ助けた。詔が郡に下り、即ち平原相を拝した。苑陵に行き至り、また光祿勳を追拜した。三日視事(政務を処理)し、司空を策拝した。荀爽は布衣より起き、九十五日で三公に至った。荀淑は昔、西豪里に居し、県令の苑康は言う。
「昔高陽氏は才子八人を有し、其里を著し高陽里としました」
   荀靖は叔慈と字し、その上、至徳を有し、名はこの荀爽に次ぎ、終身隠居した。『皇甫謐逸士伝』では、或る人が許子将に問う。
「荀靖と荀爽とはいずれが賢いでしょうか」
   許子将は言う。
「二人とも玉であり、慈明(荀爽)は外に明かで、叔慈(荀靖)は内に潤う。」
   『典略』に言う。中常侍の唐衡は女を汝南の傅公明に嫁がせたいと欲し、傅公明は娶らず、荀彧に与えるのに転じた。父の荀緄は唐衡の勢を慕い、荀彧のためこれを娶った。荀彧は論者の譏る所と為った。
   臣松之が案じるに、『漢紀』が言うに、唐衡は桓帝の延熹七年に死に、荀彧を計するに年始二歳の時であり、則ち荀彧の婚の日であり、唐衡の沒から久しい。勢を慕いこの言が不然となる。臣松之は又おもうに、荀緄は八龍の一であり、かりそめにも得るものでは決してなく、将に迫られ然りとして、どうして勢に慕うと云うだろうか。昔、鄭は齊と誓うことで譏るに致ことはなく、雋生は霍を拒むことで美に見え、譏に致のは失援に在り、美に見えるのはその慮遠(将来のことを考える)を楽しみ、並んで交至の害が無く、故に各々、得て其の志のみを全うする。閹豎(宦官)に至り事を用い、四海が息をひそめる。左悺、唐衡は、生存した人口を殺した。故に当時に於いて諺は「左は天を廻し、唐は独り座す」と云い、威権に二つと無いと言う。これに順じれば則ち六親を安んじ、違反すれば則ち大禍が立ち至る。この誠を保つと容易く亡び、恥を覆い全の日を定めた。昔、蔣詡は王氏に娶り、清高の操を損なわず、荀緄のこの婚が、どうして傷つくというのだろうか。

<追記終了>

   董卓が相国になった以後は次の『後漢書』董卓伝3)に詳しい。『三国志』魏書董卓伝4)でも同じようなことが書かれてある。

   董卓を尋ね進め相国にし、朝に入っても小走りに走らず(小走りするのが規則)、剣を持って、くつを履き殿に上がった。(董卓の)母は封じられ池陽君となり、令丞を置いた。
   この時洛中の貴戚室は次第に金帛財産を互いに望み、家家は富んだ。董卓は兵士を自由にさせ、その廬舍を突き、婦女を淫らに略奪し、資物を脅し取り、これを「捜牢」といった。人情は崩れ恐れ、朝夕を保たなかった。何后を葬るに及び、文陵を開き、董卓は尽く藏中の珍物を取った。また公主に姦淫乱行し、宮人を略奪し娶り、残虐な刑罰を行い、みだりに罰し、睨めば必ず死に、群僚は内外で自ら固く守れるものはなかった。董卓は軍を派遣を試みて、(豫州潁川郡)陽城に至り、当時の人は社下に会い、ことごとくこれを斬るよう命じ、その車重を乗せ、その婦女を載せ、頭を車轅に繋げることにより、声高く吟じながら、還った。

   この横暴の一端は以下の『後漢書』列女伝6)にも書かれてある。

   皇甫規の卒去の時に及び、(皇甫規の)妻の年はなお盛んで、容色が美しかった。董卓は相国になりその名を承け、軿輜百乗と馬二十匹をもって娶り、奴婢は銭帛で路を充たした。妻はすなわち軽い服で董卓の門に詣で、跪き、自ら陳情し、はなはだ痛ましいことを告げた。董卓は傅奴侍者は尽く刀を抜きこれを囲み、言う。
「孤(わたし)の威は教え、四海(てんか)をなびき従わせようと欲し、どうして一婦人により行わないことがあろうか!」
   妻は免じないことを知らず、乃ち立って董卓を罵って言う。
「君は羌胡の種であり、毒は天下を害しているのになお未だ足りないのですか!   妾の先人は清徳で世に広がりました。皇甫氏は文武で才が上で、漢の忠臣となりました。君は親しくその趣で吏を使い走らせるのではないのでしょうか?   あえてあなたの夫人に非礼を行うことを欲するのでしょうか」
   董卓はすなわち庭の中へ車を引き、その頭を軶に懸け、むち打ち代わる代わる下した。妻は杖を持つ者に言う。
「なぜ重ねないのか?   速く尽くし、従えばよいでしょう」
   遂に車の下で死んだ。後に人が画を描き、号して「礼宗」と言った。

   皇甫規は皇甫嵩(字、義真)の父親の弟で以前、名前だけでていた(「<<涼州の将と良い宦官・悪い宦官」(孫氏からみた三国志18))。
   『後漢書』董卓伝3)の記述に戻る。

   董卓は元より天下の同じ病は閹官(宦官)と聞き、誅殺することが真心で善良であるとし、それに及び事に在り、無道を行うといえども、なお欲望に耐え、ことさらに自らを飾り、群士を抜擢し用いた。すなわち吏部尚書の漢陽出身の周珌、侍中の汝南出身の伍瓊、尚書の鄭公業、長史の何顒らを任じた。処士の荀爽をもって司空にした。その党錮に染まった者である陳紀、韓融の徒を皆、列卿にした。市中の隠者は多く顕わし抜擢された。尚書の韓馥をもって冀州刺史とし、侍中の劉岱を兗州刺史とし、陳留出身の孔伷を豫州刺史とし、潁川出身の張咨を(荊州)南陽太守とした。董卓の親愛するところ、並びにすえられず職に顕れたが、将校止まりだった。

   この抜擢された人々を挙げていく。まず周珌(毖)。『三国志』魏書董卓伝の注に引く『英雄記』7)によると、「周毖、字は仲遠で、武威人だ」とのこと。さらに『三国志』蜀書許靖伝8)によると以下のような記述がある。

   霊帝が崩御し、董卓が政治に乗じ、漢陽出身の周毖を吏部尚書とし、許靖(字、文休)と共に天下の士の進退を謀議し、汚れを沙汰し、市中の隠者を明らかにし抜擢した。潁川出身の荀爽、韓融、陳紀らを進んで用い、公、卿、郡守にし、尚書の韓馥を冀州牧、侍中の劉岱を兗州刺史、潁川出身の張咨を南陽太守、陳留出身の孔伷を豫州刺史、東郡出身の張邈を(豫州)陳留太守、許靖は(益州)巴郡太守に遷ったが就かず、御史中丞になった。

   前述の『後漢書』董卓伝にもある、この周毖と許靖(字、文休)による人事が後々に響いてくることになる。次に伍瓊、鄭公業、何顒。『三国志』魏書董卓伝の注に引く『英雄記』7)によると、「伍瓊、字は徳瑜で、汝南人だ。」とのこと。『後漢書』鄭太(泰)伝9)によると次のような記述が出てくる。

   公業らと侍中伍瓊、卓の長史の何顒は共に卓を説いて、袁紹を(冀州)勃海太守とすることで、山東の謀を発した。

   袁紹(字、本初)が勃海太守になった経緯は人物が違うまでも前回の「<<何進暗殺から董卓秉政へ」(孫氏からみた三国志45)で書いた。次に荀爽(字、慈明)。司空になるまでの記述が『後漢書』荀爽伝10)にある。

   後に公車で大将軍の何進の従事中郎となった。何進はその至らないことを恐れ、迎え推薦し侍中にし、何進が敗れるに及び、詔命により中断した。献帝が即立し、董卓は輔政し、再びこれ(荀爽)を徴集した。荀爽は命令から逃れたいと欲し、吏は急ぎこれを保ち、去ることができなかった。再び就くことで(青州)平原相に拝した。(丹陽郡)宛陵に至り行き、再び光祿勳に追って為り、三日、事を見て、進み司空に拝した。荀爽は自ら徴命を受け、台司(三公)に登るに及び、九十五日経った。

   このように内外で董卓は人材を充実させていったが、あることがきっかけで大きく動き出す。その前に『後漢書』本紀5)の記述に戻る。

   詔で光熹・昭寧・永漢の三号を除き、中平六年に再び戻した。


   こうして激動の中平六年が終わりに年が明け元号が初平に改められる。初平元年は紀元190年となる。
   何日かは明確ではないが、初平元年一月に大きな事件が起こる。『三国志』魏書武帝紀11)より。

   初平元年の春正月に後将軍の袁術、冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、(司隸)河内太守の王匡、勃海太守の袁紹、陳留太守の張邈、(兗州)東郡太守の橋瑁、(兗州)山陽太守の袁遺、(兗州)済北相の鮑信が同時に共に兵を起こし、衆はそれぞれ数万だった。

   前述したように周毖と許靖が挙げた地方長官、韓馥、孔伷、張邈、劉岱が董卓に反旗を翻すことになった。それぞれの駐屯地は以下の『後漢書』袁紹伝12)に載っている。続けて、参考となる地図を挙げる。

   初平元年、袁紹は遂に勃海で兵を興し、従弟の後将軍の袁術と冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、(徐州)広陵太守の張超、河内太守の王匡、山陽太守の袁遺、東郡太守の橋瑁、済北相の鮑信らが同時に蜂起し、衆は各々数万になり、董卓を討つことで名をなした。袁紹と王匡は河内に駐屯し、孔伷は(豫州)潁川に駐屯し、韓馥は(冀州)鄴に駐屯し、残りの軍は皆、(兗州陳留郡)酸棗に駐屯した。
司隷あたり
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)


   ここで細かい話になるが、この時期に冀州刺史の李邵という人物が出てくる。刺史の官職とは知ってのとおり牧の元の官職であり、冀州牧の韓馥の前任なのか、重なる時期があったのか不明。ともかく『三国志』魏書司馬朗伝13)に次のような話がある。

   後に関東は兵を起こし、故に冀州刺史の李邵の家は(司隸河内郡)野王(県)に居し、山険に近く、移り(司隸河内郡)温(県)に居することを欲した。司馬朗(字、伯達)は李邵に言う。
「唇と歯の喩えは、ただ虞と虢のように温と野王が即ちこれになるのでしょう。今、かの地を去りここに居すこと、これは朝亡の期を避けることになります。その上、君は国人の望であり、今、寇が未だ至らないうちに、まず移れば、帯山の県は必ず驚き、これにより民の心は搖動し悪者の原に開かれ、盗まれ、郡内がこれを憂うことになります」
   李邵は従わなかった。辺山の民は乱れることとなり、内に遷り、ある者は侵入し略奪された。

   また逆に南陽太守の張咨のように、周毖と許靖が挙げた地方長官のうち董卓へ反旗を翻した形跡がない者もいた。
   さらに地方長官ではないが、地方で兵力を有していながら、結果的に董卓へ反旗を翻さなかった例もある。はっきりとした時期がわからないが、まず『後漢書』蓋勳伝14)より。

   皇帝が崩御することに及び、董卓は少帝を廢し、何太后を殺し、蓋勳(字、元固)は書で言う。
「昔、伊尹や霍光は権力をもって功を立て、なお憂慮されているというのに、足下(あなた)は小醜(小悪人)であり、何でこれを終えますか?   賀者が門に在り、弔者は廬に在るというのに(まだ喪の期間だというのに)、慎まないでいるとは!」
   董卓は書を得てこれを非常に恐れた。議郎として徴集した。そのとき、左将軍の皇甫嵩は精兵三万を(司隸)扶風に駐屯させており、蓋勳は密かに助け合いまさに董卓を討とうと約束した。たまたま皇甫嵩(字、義真)もまた徴集を受け、衆が弱いため蓋勳が独立できず、ついに並んで京師に帰還した。公卿以下、董卓にへりくだらない者はなく、ただ蓋勳は長揖(拝せず、深くお辞儀するだけ)礼を争い(礼制上、見下し)、見者は皆、色を失った。

   蓋勳側でも皇甫嵩の動きがわかるが(それまでの蓋勳や皇甫嵩に関しては「<<涼州と幽州の顛末」(孫氏からみた三国志43)を参照)、さらに皇甫嵩側でもそれが明確になる。『後漢書』皇甫嵩伝15)より。

   後に政治を乗ずることに及び、初平元年、すなわち皇甫嵩は徴集され、城門校尉になり、これを頼りに(董卓が)これを殺そうと欲した。嵩はまさに行こうとすると、長史の梁衍は説いて言う。
「漢室は微弱で、閹豎(宦官)は朝廷を乱し、董卓といえどもこれを誅殺し、国において尽く忠誠を不能にし、ついに京邑の略奪を繰り返し、意に従い立を廃しました。今、将軍(あなた)は徴集され、大きくは危険と禍に則り、小さくは困惑と屈辱に則っています。今、董卓は洛陽(京師)に在り、天子は西に来ていただき、将軍の衆をもって、精兵三万をもって至尊を迎え接し、逆賊を討つ令を奉じ、海内に命令を発し、兵を徴集し、帥(軍)を群れれば、袁氏はその東に迫り、将軍はその西から迫り、この擒となします」
   皇甫嵩は従わず、ついに徴集に就いた。有司は旨を承け、皇甫嵩を奉じ吏に下し、まさにこれを遂に誅殺しようとした。
   皇甫嵩の子の皇甫堅壽と董卓は元より親交があり、長安より洛陽へ亡命し、董卓へ帰投した。董卓はまさに酒を置き喜び会い、皇甫堅壽は直前に正し責め、大義をもって責め、叩頭し泣いた。坐者は感動し皆、席を離れこれを請うた。董卓はすなわち起き、引き寄せ共に座った。皇甫嵩を捉えることを免じさせ、ふたたび皇甫嵩に議郎をうけさせ、御史中丞に遷らせた。

   また、短い記述ながらも後に繋がるため、河南尹の朱儁(字、公偉)についても記述する。『後漢書』朱儁伝16)より。

   当時、董卓が政治をほしいままにし、朱儁をもって宿将にし、外ではなはだ親しく受け入れたが、心ではこれを嫌っていた。


   こうして董卓勢力とそれに対抗する勢力が明確になってきたが、この流れは次回へ続く。




1)   『後漢書』劉虞公孫瓚陶謙列傳の記述。

及董卓秉政、遣使者授虞大司馬、進封襄賁侯。

2)   『続漢書』百官志より。

太尉、公一人。本注曰:掌四方兵事功課、歲盡即奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌亞獻;大喪則告謚南郊。凡國有大造大疑、則與司徒、司空通而論之。國有過事、則與二公通諫爭之。世祖即位、為大司馬。建武二十七年、改為太尉。

3)   『後漢書』董卓列傳より。次回以降のネタバレ含む。

卓遷太尉、領前將軍事、加節傳斧鉞虎賁、更封郿侯。卓乃與司徒黃琬・司空楊彪、倶帶鈇鑕詣闕上書、追理陳蕃・竇武及諸黨人、以從人望。於是悉復蕃等爵位、擢用子孫。

尋進卓為相國、入朝不趨、劍履上殿。封母為池陽君、置(丞)令〔丞〕。

是時洛中貴戚室第相望、金帛財産、家家殷積。卓縱放兵士、突其廬舍、淫略婦女、剽虜資物、謂之「搜牢」。人情崩恐、不保朝夕。及何后葬、開文陵、卓悉取藏中珍物。又姦亂公主、妻略宮人、虐刑濫罰、睚眥必死、群僚内外莫能自固。卓嘗遣軍至陽城、時人會於社下、悉令就斬之、駕其車重、載其婦女、以頭繫車轅、歌呼而還。又壞五銖錢、更鑄小錢、悉取洛陽及長安銅人・鍾虡・飛廉・銅馬之屬、以充鑄焉。故貨賤物貴、穀石數萬。又錢無輪郭文章、不便人用。時人以為秦始皇見長人於臨洮、乃鑄銅人。卓、臨洮人也、而今毀之。雖成毀不同、凶暴相類焉。

卓素聞天下同疾閹官誅殺忠良、及其在事、雖行無道、而猶忍性矯情、擢用群士。乃任吏部尚書漢陽周珌・侍中汝南伍瓊・尚書鄭公業・長史何顒等。以處士荀爽為司空。其染黨錮者陳紀・韓融之徒、皆為列卿。幽滯之士、多所顯拔。以尚書韓馥為冀州刺史、侍中劉岱為兗州刺史、陳留孔伷為豫州刺史、潁川張咨為南陽太守。卓所親愛、並不處顯職、但將校而已。初平元年、馥等到官、與袁紹之徒十餘人、各興義兵、同盟討卓、而伍瓊・周珌陰為內主。

初、靈帝末、黃巾餘黨郭太等復起西河白波谷、轉寇太原、遂破河東、百姓流轉三輔、號為「白波賊」、眾十餘萬。卓遣中郎將牛輔擊之、不能卻。

4)   『三国志』魏書董二袁劉傳より

於是以久不雨、策免司空劉弘而卓代之、俄遷太尉、假節鉞虎賁。遂廢帝為弘農王。尋又殺王及何太后。立靈帝少子陳留王、是為獻帝。卓遷相國、封郿侯、贊拜不名、劍履上殿、又封卓母為池陽君、置家令・丞。卓既率精兵來、適値帝室大亂、得專廢立、據有武庫甲兵、國家珍寶、威震天下。卓性殘忍不仁、遂以嚴刑脅眾、睚眥之隙必報、人不自保。嘗遣軍到陽城。時適二月社、民各在其社下、悉就斷其男子頭、駕其車牛、載其婦女財物、以所斷頭繫車轅軸、連軫而還洛、云攻賊大獲、稱萬歳。入開陽城門、焚燒其頭、以婦女與甲兵為婢妾。至于姦亂宮人公主。其凶逆如此。

5)   『後漢書』孝獻帝紀より。

初令侍中・給事黄門侍郎員各六人。賜公卿以下至黄門侍郎家一人為郎、以補宦官所領諸署、侍於殿上。

乙酉、以太尉劉虞為大司馬。董卓自為太尉、加鈇鉞・虎賁。丙戌、太中大夫楊彪為司空。甲午、豫州牧黄琬為司徒。

遣使弔祠故太傅陳蕃・大將軍竇武等。冬十月乙巳、葬靈思皇后。

白波賊寇河東、董卓遣其將牛輔擊之。

十一月癸酉、董卓〔自〕為相國。十二月戊戌、司徒黃琬為太尉、司空楊彪為司徒、光祿勳荀爽為司空。

省扶風都尉、置漢安都護。

扶風都尉を省き、漢安都護を置いた

詔除光熹・昭寧・永漢三號、還復中平六年。

初平元年春正月、山東州郡起兵以討董卓。

6)   『後漢書』列女傳より。

安定皇甫規妻者、不知何氏女也。規初喪室家、後更娶之。妻善屬文、能草書、時為規荅書記、眾人怪其工。及規卒時、妻年猶盛、而容色美。後董卓為相國、承其名、娉以軿輜百乘、馬二十匹、奴婢錢帛充路。妻乃輕服詣卓門、跪自陳請、辭甚酸愴。卓使傅奴侍者悉拔刀圍之、而謂曰:「孤之威教、欲令四海風靡、何有不行於一婦人乎!」妻知不免、乃立罵卓曰:「君羌胡之種、毒害天下猶未足邪!妾之先人、清德奕世。皇甫氏文武上才、為漢忠臣。君親非其趣使走吏乎?敢欲行非禮於爾君夫人邪!」卓乃引車庭中、以其頭縣軶、鞭撲交下。妻謂持杖者曰:「何不重乎?速盡為惠。」遂死車下。後人圖畫、號曰「禮宗」云。

7)   『三国志』魏書董二袁劉傳(董卓のところ)の注に引く『英雄記』より。

毖字仲遠、武威人。瓊字德瑜、汝南人。

8)   『三國志』卷三十八蜀書八許麋孫簡伊秦傳第八より

許靖字文休、汝南平輿人。少與從弟劭俱知名、並有人倫臧否之稱、而私情不協。劭為郡功曹、排擯靖不得齒敘、以馬磨自給。潁川劉翊為汝南太守、乃舉靖計吏、察孝廉、除尚書郎、典選舉。靈帝崩、董卓秉政、以漢陽周毖為吏部尚書、與靖共謀議、進退天下之士、沙汰穢濁、顯拔幽滯。進用潁川荀爽・韓融・陳紀等為公・卿・郡守、拜尚書韓馥為冀州牧、侍中劉岱為兗州刺史、潁川張咨為南陽太守、陳留孔伷為豫州刺史、東郡張邈為陳留太守、而遷靖巴郡太守、不就、補御史中丞。

9)   『後漢書』鄭孔荀列傳より。

公業等與侍中伍瓊・卓長史何顒共說卓、以袁紹為勃海太守、以發山東之謀。

10)   『後漢書』荀韓鍾陳列傳より。

後公車徴為大將軍何進從事中郎。進恐其不至、迎薦為侍中、及進敗而詔命中絶。獻帝即立、董卓輔政、復徴之。爽欲遁命、吏持之急、不得去、因復就拜平原相。行至宛陵、復追為光祿勳。視事三日、進拜司空。爽自被徵命及登台司、九十五日。

11)   『三國志』卷一 魏書一 武帝紀第一より。次回のネタバレ含む

初平元年春正月、後將軍袁術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・河内太守王匡・勃海太守袁紹・陳留太守張邈・東郡太守橋瑁・山陽太守袁遺・濟北相鮑信同時倶起兵、眾各數萬、推紹為盟主。太祖行奮武將軍。

12)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。次回以降のネタバレ含む

初平元年、紹遂以勃海起兵、(以)〔與〕從弟後將軍術・冀州牧韓馥・豫州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・陳留太守張邈・廣陵太守張超・河内太守王匡・山陽太守袁遺・東郡太守橋瑁・濟北相鮑信等同時俱起、眾各數萬、以討卓為名。紹與王匡屯河内、伷屯潁川、馥屯鄴、餘軍咸屯酸棗、約盟、遙推紹為盟主。紹自號車騎將軍、領司隸校尉。

13)   『三國志』卷十五 魏書十五 劉司馬梁張溫賈傳第十五より。

後關東兵起、故冀州刺史李邵家居野王、近山險、欲徙居温。朗謂邵曰:「脣齒之喻、豈唯虞・虢、温與野王即是也;今去彼而居此、是為避朝亡之期耳。且君、國人之望也、今寇未至而先徙、帶山之縣必駭、是搖動民之心而開姦宄之原也、竊為郡内憂之。」邵不從。邊山之民果亂、内徙、或為寇鈔。

14)   『後漢書』虞傅蓋臧列傳より。

及帝崩、董卓廢少帝、殺何太后、勳與書曰:「昔伊尹・霍光權以立功、猶可寒心、足下小醜、何以終此?賀者在門、弔者在廬、可不慎哉!」卓得書、意甚憚之。徴為議郎。時左將軍皇甫嵩精兵三萬屯扶風、勳密相要結、將以討卓。會嵩亦被徴、勳以衆弱不能獨立、遂並還京師。自公卿以下、莫不卑下於卓、唯勳長揖爭禮、見者皆為失色。

15)   『後漢書』皇甫嵩朱儁列傳(皇甫嵩のところ)より。

及後秉政、初平元年、乃徴嵩為城門校尉、因欲殺之。嵩將行、長史梁衍說曰:「漢室微弱、閹豎亂朝、董卓雖誅之、而不能盡忠於國、遂復寇掠京邑、廢立從意。今徵將軍、大則危禍、小則困辱。今卓在洛陽、天子來西、以將軍之眾、精兵三萬、迎接至尊、奉令討逆、發命海內、徴兵群帥、袁氏逼其東、將軍迫其西、此成禽也。」嵩不從、遂就徵。有司承旨、奏嵩下吏、將遂誅之。

嵩子堅壽與卓素善、自長安亡走洛陽、歸投於卓。卓方置酒歡會、堅壽直前質讓、責以大義、叩頭流涕。坐者感動、皆離席請之。卓乃起、牽與共坐。使免嵩囚、復拜嵩議郎、遷御史中丞。

16)   『後漢書』皇甫嵩朱儁列傳(朱儁のところ)より。

時董卓擅政、以儁宿將、外甚親納而心實忌之。

17)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。

荀彧字文若、潁川潁陰人也。祖父淑、字季和、朗陵令。當漢順・桓之閒、知名當世。有子八人、號曰八龍。彧父緄、濟南相。叔父爽、司空。
彧年少時、南陽何顒異之、曰:「王佐才也。」

18)   『三国志』巻十魏書荀彧伝注より。

續漢書曰:淑有高才、王暢・李膺皆以為師、為朗陵侯相、號稱神君。張璠漢紀曰:淑博學有高行、與李固・李膺同志友善、拔李昭於小吏、友黃叔度于幼童、以賢良方正徴、對策譏切梁氏、出補朗陵侯相、卒官。八子:儉・緄・靖・燾・詵・爽・肅・旉。音敷。爽字慈明、幼好學、年十二、通春秋・論語、耽思經典、不應徴命、積十數年。董卓秉政、復徴爽、爽欲遁去、吏持之急。詔下郡、即拜平原相。行至苑陵、又追拜光祿勳。視事三日、策拜司空。爽起自布衣、九十五日而至三公。淑舊居西豪里、縣令苑康曰昔高陽氏有才子八人、署其里為高陽里。靖字叔慈、亦有至德、名幾亞爽、隱居終身。皇甫謐逸士傳:或問許子將、靖與爽孰賢?子將曰:「二人皆玉也、慈明外朗、叔慈内潤。」
典略曰:中常侍唐衡欲以女妻汝南傅公明、公明不娶、轉以與彧。父緄慕衡勢、為彧娶之。彧為論者所譏。臣松之案:漢紀云唐衡以桓帝延熹七年死、計彧于時年始二歳、則彧婚之日、衡之沒久矣。慕勢之言為不然也。臣松之又以為緄八龍之一、必非苟得者也、將有逼而然、何云慕勢哉?昔鄭忽以違齊致譏、雋生以拒霍見美、致譏在於失援、見美嘉其慮遠、並無交至之害、故得各全其志耳。至於閹豎用事、四海屏氣;左悺・唐衡、殺生在口。故于時諺云「左迴天、唐獨坐」、言威權莫二也。順之則六親以安、忤違則大禍立至;斯誠以存易亡、蒙恥期全之日。昔蔣詡姻于王氏、無損清高之操、緄之此婚、庸何傷乎!


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