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何進暗殺から董卓秉政へ(孫氏からみた三国志45)
2008.03.07.
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   『後漢書』何進伝1)によると、ついに何進(字、遂高)は行動に移した。
   (中平六年)八月、何進は長楽に入り太后に申し、諸常侍以下を尽く誅殺し、三署郎を選び、宦官廬(宿直室)へ入り守らせるように要請した。諸宦官は互いに言う。
「大将軍は病気を理由に喪に望まず、葬を送らず、今、たちまち省に入り、これは何を思っているのか?   竇氏の事件が再び起こるのではないか?」
   また張讓らは人をやってひそかに聞き込み、その言葉を申し上げて、乃ち常侍の段珪・畢嵐ら数十人を率い、兵を持って密かに闥(門)の側から入り、省中に伏した。
   何進が出るに及び、いつわりにより太后の詔書で何進を召した。省闥(宮中)に入り座り、張讓らは何進を責めて言う。
「天下が乱れたのは   我ら同僚の罪だけではありません。先帝はかつて太后を快く思わず、ほぼ成敗しようとしていましたが、我ら同僚は涙を流し泣き、弁護して罪を救おうとし、各々、家財千万を出し礼をなし、喜びを合わせ意を上げましたが、卿(あなた)の門戸を頼みたいと欲しました。その上、今、我の仲間の種族を滅したいと望むのは甚だしくはありませんか?   卿(あなた)は省内が汚れているとおっしゃいますが、公卿以下の忠清な者は誰でしょう?」
   このため、尚方監の渠穆は剣を抜き嘉徳殿の前で何進を斬った。張讓・段珪らは詔書をなし、故(もと)の太尉の樊陵を司隸校尉になし、少府の許相を河南尹にした。
   尚書は詔板(詔書)を得て、これを疑い言う。
「大将軍が出て協議することを要請します」
   中黄門は何進の頭をなげうって尚書に与えて言う。
「何進は謀反し、すでに誅殺に伏した」

   『後漢書』本紀2)、『後漢紀』3)によると、これらの一連のことは八月戊辰(二十五日)に行われたとのこと。
   霊帝崩御後、蹇碩董太后の勢力を次々と制した何進も宦官を断ずる前に、宦官らによりここで潰えた。

   『後漢書』何進伝の記述に戻る。
   何進の部曲将の呉匡と張璋は元より親幸されており、外に在って何進が害を受けたことを知り、兵を率い宮に入り、宮閤を閉じることを欲した。袁術(字、公路、『三国志』魏書袁術伝12)によると、司空の袁逢の子で袁紹の従弟)と呉匡は共にこれを切り攻め、中黄門は武器を持ち閤を守った。日暮に集まり、袁術は南宮の九龍門および東西の宮を焼くことにより、張讓らがでるよう脅したいと欲した。張讓らは入り太后に告白し、大将軍が兵反し、宮を焼き尚書闥(もん)を攻めたため、太后・天子および陳留王を率いることで、また省内の官属を脅すため、複道によって北宮へ逃亡すると言った。尚書の盧植(字、子幹)は閣道の窓の下において戈を執って、段珪を仰ぎ攻めた。段珪らは恐れ、そのため太后を釈放した。太后は閣に身を投げ免れた。

   袁紹(字、本初)と叔父の袁隗はいつわって樊陵・許相を詔書で召しこれを斬った(『後漢書』本紀だと「偽の司隸校尉の樊陵と河南尹の許相」という説明)。その上、何苗と袁紹は兵を引き朱雀闕の下で駐屯し、趙忠らを捕獲し、これを斬った。
   呉匡らは元より何苗を怨んでおり、何進の同心とはならず、また宦官と同謀していると疑い、そのため軍中に命令し言う。
「大将軍を殺した者は即ち車騎(何苗のこと)で、士吏ら(士と官吏たち)は復讐しようとしないのか?」
   何進は元より仁恩が有り、士卒は皆、涙を流して言う。
「致死することを願います!」
   呉匡はついに兵と董卓の弟の奉車都尉の董旻を率い、何苗を攻め殺し、その屍を苑中に棄てた。
   袁紹はついに北宮の門を閉じ、武器を執り宦者を捕らえ、老いも若きも無く皆殺した。あるいは髭の無い者も誤って殺された者もあって、自ら発露し(体を露わにし)後に免れた。死者二千人余りとなった。袁紹は何進の兵を頼りに宮に迫り、あるいは端門屋に登ることで、省内へ攻めた。

   以上は『後漢書』本紀によると庚午(八月二十七日)の出来事とととなっている。
   何進という領袖を失い、早くも勢力内で内紛が起こる一方、袁紹はついに宦官の一掃を実行した。
   『後漢書』何進伝の記述に戻り、さらにその後の展開を追う。

   張讓・段珪らは困迫しついに帝と陳留王ら数十人を率い、穀門(京師の北門)を歩き出て、小平津に奔走した。公卿は並んで、平楽観を出て、従者を得られず、ただ尚書の盧植は夜に河上に馳せ、王允は河南中部掾の閔貢をやり盧植の後を随行させた。閔貢は至り、剣を手に数人を斬り、残りは皆、河に身を投げ死んだ。日が明け、公卿百官が天子へ奉迎に及び宮へ帰還し、閔貢を郎中にし都亭侯に封じた。

   この辺りの下りをより詳しく見るため別の史書を追う。

   まず『後漢書』本紀の注に引く『獻帝春秋』4)から。
   河南中部掾の閔貢は天子が出るのを見て、騎を率いこれを追い、〔曉におよび〕河上に至った。天子(皇帝)は飢え渇き、(閔貢は)羊を貢ぎ納め、これを進め、はげしい声で張讓らを責めて言う
「君(あなた)は宦官の僕、刀と鋸の残をもって、汚泥を越え、日月にしたがい、国恩を売り歩き弄び、賤を貴に導き、帝主を脅迫し、王室を覆し、漏刻(水時計)を止め、河津に遊んでいます。新(後漢の前の国号)が亡んで以来、姦臣賊子は未だ君者の如くにはありません。今すぐに死なずとも、我は汝を射殺します』
   張讓らはおそれいり、手を挟み再拜叩頭し、天子に向いて別れて言う
「臣ら(わたくしたち)は死にますが陛下はご自愛してください」
   (張讓らは)ついに河に身を投げ死んだ

   次が『三国志』魏書董卓伝の注に引く張璠『漢紀』5)から。
   皇帝は八月庚午(二十七日)に諸黄門(宦官の官職)から脅され、穀門を歩いて出て、河上に走り至った。諸黄門は既に河に身を投げ死んだ。その時、皇帝は年十四で、陳留王は年九で、兄弟は二人きりで夜に歩き行き宮に還りたいと欲し、闇の中で眠り、遂に火の光で行き、数里におよび、民家に到達し、露車に載り送った。辛未(二十八日)、公卿以下と卓は共に北芒阪下に帝を迎えた。

   同じく注に引く『獻帝春秋』5)から。
   これよりさき童謡に言う。「侯は侯に非ず、王は王に非ず、千乗万騎が北芒に走る」
   その時、董卓(字、仲穎)は至り、顕陽苑に駐屯した。皇帝がまさに還ると聞き、衆を率い帝を迎えた。

   同じく注に引く『典略』5)から。
   皇帝は董卓の兵を望み見て泣いた。群公は董卓に言う。
「兵を退ける詔がある」
   董卓は言う。
「公は諸人を国の大臣にしましたが、王室を正すことができず、国家を流離させ、なぜ兵を退けることができるのでしょうか?」
   遂に共に入城した。

   同じく注に引く『獻帝紀』5)から。
   董卓と皇帝は語り、話し終えられず。さらに陳留王と話すことに及び、禍と乱が起きた理由を問うた。陳留王は初めから終わりまで失することなく答えた。董卓は大いに喜び、すなわち廃立の考えがあった。

   同じく注に引く『英雄記』5)から。
   河南中部掾の閔貢は皇帝および陳留王を守り、雒舍に至り止まった。皇帝は独り一つの馬に乗り、陳留王と閔貢は共に一つの馬に乗り、雒舍から南行した。公卿百官が北芒阪下に迎え奉じ、故(もと)の太尉の崔烈は前にあり導いた。董卓は歩騎数千を率い迎えに来て、崔烈は大声を出し避けさせた。董卓は崔烈をののしって言う。
「昼夜三百里来て、我は卿(あなた)の頭を断つことができないというのに、何を避けると言うのでしょうか?」
   また(董卓は)陳留王に小走りに行き言う。
「我は董卓で、我に従い抱かれてください」
   すなわち閔貢の抱いている中から陳留王を取った。
   陳留王は董卓に抱かれるのに就かず、董卓と陳留王併せて馬で行った。

   『後漢書』董卓伝6)より。
   董卓は(京師に)至る前に何進は敗れ、すなわち虎賁中郎将の袁術は南宮を焼き、宦官を討つことを欲したが、中常侍段珪らは少帝および陳留王を脅し、夜に小平津に走った。董卓は言葉を交わし、対面することを辞めずにいることができた。陳留王と語り、遂に禍乱の事に及んだ。董卓は陳留王を賢いとみなし、その上、董太后から養われていたので、董卓は自ら董太后と同族とし、廃立の考えも持った。

   これらの史書では董卓が次に何を成すかこの頃から抱いていたことになる。
   『後漢書』本紀によると、(皇帝は)辛未(二十八日)、宮に帰った。天下に大赦し、光熹を改め昭寧とした(つまり「昭寧」に改元した)。

   『後漢紀』によると、この日、六つの璽を得たが、伝国璽を失った、とのこと。

   何進が亡くなったため、『後漢書』董卓伝や『三国志』魏書董卓伝7)を中心にその後の展開を追う。
   以前、董卓が入ったとき、歩騎(歩兵・騎兵)は三千に過ぎず、自ら兵が少ないことを嫌い、遠近が服さないところを恐れ、四、五日昼に率い、ただちにに夜に潜伏し出軍し営に近付き、明朝にすなわち、大いに旌鼓を連ね還り、洛中の無知者に西の兵が再び至ったと思わせた。間もなく何進および弟の何苗の先に領するところの部曲(軍隊)が皆、董卓に帰し、董卓はまた呂布(字、奉先)に執金吾の丁原(字、建陽)を殺させその衆を合わせ、卓の兵士は大いに盛り上がった。

   以前、孟津を焼いたことで記した丁原がここに来て殺されたわけだけど、もう少し詳しく追ってみる。『三国志』魏書呂布伝8)より。
   何進は敗れ、董卓が京都に入り、まさに乱をなし丁原を殺しその兵衆を併せようと欲した。董卓は呂布に丁原の信頼があると見て、呂布を誘い丁原を殺す命令を下した。呂布は丁原の首を斬り董卓を詣で、董卓は呂布を騎都尉にし、はなはだこれを愛で信頼し、父子を誓った。
   呂布は弓馬に慣れ、膂力が人より優れ、号して飛将とした。次第に遷り中郎将に至り、都亭侯に封じられた。董卓は自ら人に無礼にまみえ、人が己を謀ることを恐れ、進退に常に呂布を置き自衛とした。そのため、董卓は気が強く気が短く、怒り悩まず、かつて(呂布に)少しの失意があり、手戟を抜き呂布になげうった。呂布は素早く撃ちこれを避け、董卓に振り返り謝り、董卓の意もまた解かれた。

   話を本筋に戻し、『三国志』魏書董卓伝より。
   これに先だって、何進は騎都尉の太山出身の鮑信を所在にやって募兵させ、赴き至って鮑信は袁紹に言う。
「董卓は強兵を抱き、二心が有り、今、早からず図り、まさに制されるところとなります。その初めに及び、疲労に至っているため、これを襲い擒にすることができます」
   袁紹は董卓を恐れ、敢えて発しようとせず、鮑信は遂に郷里に還った。
   このとき、久しく雨がふらないことにより、(董卓が)図り、司空の劉弘が免じられ、董卓がこれに代わった。

   『後漢書』袁紹伝9)より。
   この頃(『後漢紀』によると「癸酉」、六月三十日あるいは八月三十日。また『三国志』魏書袁紹伝10)によるとこの頃、袁紹の叔父の袁隗が太傅となっている)、董卓の考えは廃立を欲しており、袁紹に言う。
「天下の主は、賢明を宜しく得て、霊帝を思う毎に、人に怨み憤らせるだろう。董侯(陳留王のこと)は継ぐことができ、今、まさにこれに立つ(即位する)」
   袁紹は言う。
「今上(皇帝)では春秋より富み、天下において善くない宣言は未だありません。もし公(あなた)が礼に違い情に任せ、嫡子を廃し庶子を立てれば、衆を恐れさせ考えは未だ安定しないでしょう」
   董卓は剣を抑え紹を叱咤して言う。
「豎子(こわっぱ)、はっきりしろ!   天下の事は我にはないのか?   我はこれになるを欲し、誰が敢えて従わないというのだ!」
   袁紹は機転で偽り答える。
「この国の大事は、太傅に出てもらい、これをはかりましょう」
   董卓は再び言う。
「劉氏の類は再び遺すには足りないだろう」
   袁紹は顔色を変えて言う。
「天下の健者はただ董公のみでしょう!」
   (袁紹は)刀を横たえ、長く揖し(立った状態で拝する)、すみやかに出た。上東門に節を懸け、冀州へ走った。

   董卓は賞金をかけ募集し袁紹を求めた。その時、侍中周珌と城門校尉の伍瓊は董卓に信じられ、侍らされていて、伍瓊らはひそかに袁紹のために董卓を説いて言う。
「それ廃立は大事であり、非常の人が及ぶところです。袁紹は要領に達せず、恐れ出奔したのであって、二心があったのではありません。今、急ぎこれに賞金をかけていますが、情勢は必ず変わるでしょう。袁氏は恩を樹立し四世におよび、門生故吏は天下にあまねく居て、もし豪傑を掌握することで徒党を集め、英雄はこれに頼り起きれば、則ち山東は公の有する地では無くなります。これを許すにおよばず、一郡守を授け、免罪において袁紹を喜ばせば、必ず患いが無くなるでしょう」
   董卓はしかりと思い、すなわち使者をやって袁紹に勃海太守を授け、邟鄉侯に封じた。袁紹はなお司隸(校尉)を兼ねて称した。

   袁紹と董卓の下りは『三国志』魏書袁紹伝にもあるが、「この国の大事は、太傅に出てもらい」より前の下りは載っていない。そのためか『三国志』魏書袁紹伝では裴松之が注に『獻帝春秋』11)の似たような箇所を引き補足している。その上で裴松之は「豎子」と言う下りが甚だ誤っているとしている(そういえば袁紹のセリフが後述する『後漢書』董卓伝にある盧植のセリフに似ている部分がある)。

   さらにこの頃、袁紹に続き、いつの頃かはっきりしないものの逃亡する者が出たことは確かなようだ。『後漢書』袁術伝12)より。
   当時、董卓はまさに廢立を欲しており、袁術をもって後将軍にした。袁術は董卓の禍を恐れ、南陽に出奔した。

   話を元に戻し、袁紹、袁術に続き、さらに逃亡する者が居た。
   それは典軍校尉の曹操(字、孟徳)。『三国志』魏書武帝紀13)より。
   董卓は上表し太祖(曹操のこと)を驍騎校尉にし、謀を与えることを欲した。すなわち太祖は姓名を変え、密かに東へ帰った。関を出て、中牟を過ぎ、亭長に疑われるところとなり、捕らえられ県を訪れ、邑中で、ある人がこれを盗み知り、請い解放し得た。

   この話には裴松之の注14)で様々な文献が引き合いに出される。
   『魏書』に言う。
   太祖は董卓が必ず敗北し終えるとし、遂には拝命されたことにつかず、郷里へ逃げかえった。数騎を従え、昔馴染みの成皋出身の呂伯奢のところを訪れた。伯奢は不在で、その子と賓客は共に太祖を脅し、馬と物をとるが、太祖は刃を手に数人を撃ち殺した。
   『世語』に言う。
   太祖が伯奢を訪れ、五子は皆、在り、賓に備え禮を司った。太祖は自ら董卓の命令に背いたため、己を謀ると疑い、剣を手に夜に八人を殺し去った。
   孫盛『雑記』に言う。
   太祖はその食器の音を聞き、己を図ると思い、ついに夜これを殺した。すでに行い、悲しみいたみ言う。
「すなわち我が人に背くが、人が我に背くな!」
   遂に行く。
   『世語』に言う。
   中牟はこれ(曹操)を亡命人だと疑い、県において捕らえるところが見えた。その時、掾もまたすでに董卓の書を受けていた。ただ功曹はこれが太祖だと悟り、世が乱れることにより、天下の雄俊を捕らえるのはよろしくなく、述べることでこれを釈放すると命じた。


   話を元に戻す。
   董卓はそれらに影響を受けた様子もなく事を成そうとしていた。
   『後漢書』董卓伝より。
   (董卓は)朝廷に策をほのめかし、司空の劉弘を免じ、自らがその代わりとなった。議を集めることで廃立しようとした。百僚が大いに集まり、すなわち董卓は首を奮い言う。
「大者は天地であり、その次が君臣であり、為政をする所以だ。皇帝は愚かで弱く、宗廟を奉じることで天下の主となることはできない。今、伊尹・霍光に依ることを欲し、さらに陳留王を立てたいと欲するがどうであろう?」
   公卿以下、敢えて対立しようとするものはなかった。董卓はまた高らかに言う。
「昔、霍光は策を定め、延年は剣を抑えた。敢えて大議を阻む者があり、皆、軍法をもってこれに従った」
   座る者は震え上がった。尚書盧植は一人言う。
「昔、太甲はすでに立ちましたが不明で、昌邑の罪は千余りを過ぎ、故に廃立の事がありました。今上(皇帝)は春秋より富み、行いは徳を失ったことはなく、前言のことにはありません」
   董卓は大いに怒り、座ることを止めた。明日、再び、群僚を崇徳前殿に集め、遂に何太后を脅し、少帝を廃することを謀った。(董卓は)言う。
「皇帝は喪に有り、人の子の心に無く、威儀は人君の類出はなく、今、廃し弘農王にする」
   すなわち陳留王が立ち(皇帝になり)、このため獻帝となった。また議により何太后を永楽太后にするよう迫り、憂死させるに至り、婦姑の礼に逆らい、孝順の節を無くし、永安宮に遷り、遂に(何太后は)殺されることで崩御した。

   この一連のことについて『後漢書』本紀を見てみる。
   まず、『後漢書』孝靈帝紀によると、

   九月甲戌(1日)、董卓が廢帝し弘農王とした。

となっており、また『後漢書』孝獻帝紀によると、

   九月甲戌(1日)、(陳留王の劉協が)皇帝位に即し、年九歳だった。皇太后は永安宮に遷った。天下に大赦した。昭寧を改め永漢にした(改元した)。丙子(3日)、董卓は皇太后の何氏(何太后)を殺した。

となっており、先に示した『後漢書』董卓伝にある何太后の崩御は九月三日だと言うことがわかる。

   また『後漢書』盧植伝15)に盧植のその後が書かれている。霊帝崩御の時からの話に戻り、始めは重複する箇所となる。
   皇帝は崩御し、大将軍の何進は中官を誅殺しようと謀り、并州牧の董卓を招くに及び、それにより太后を恐れさせた。盧植は董卓が荒々しく、制するに難しいことを知り、必ず後の患いを生むとし、これを止めることに固辞した。何進は従わなかった。董卓が至るにおよび、その結果、朝廷をしのぎ虐げ、すなわち朝堂に百官が大会し、議で廃立を欲した。群僚は敢えて言わず、盧植は独り抗議し、同意しなかった。董卓は怒り会を止め、まさに盧植を誅殺しようとしており、その話は董卓の伝にある
   盧植は元より蔡邕(字、伯喈)と交流があり、蔡邕はそれより先、朔北の地に遷り、盧植は独り上書でこれを請うていた。蔡邕はその時、自ら董卓と会い、故に往き盧植の事を請うた。また議郎の彭伯は董卓を諫めて言う。
「盧尚書は海内の大儒、人の望みです。今、まずこれを害せば、天下は恐怖で震えます」
すなわち董卓はこれを止め、盧植の官を免じるのみとした。

   一方、蔡邕はというと、『後漢書』蔡邕伝16)より。
   中平六年、霊帝は崩御し、董卓は司空になり、蔡邕の高名を聞き、これを招いた。病気を称して、就かなかった。董卓は大いに怒り罵って言う。
「我の力は人を集めることができ、蔡邕は遂に高くそびえる(わだかまる)ものとなり、踵を返さなかった」
   また、勅令を切り、州郡は蔡邕を挙げ府に詣でさせたが、蔡邕はそれだけを得たわけではなく、至り、祭酒に割り当てられ、幾度もはなはだ敬いを表した。高第に挙げられ、侍御史になった。また持書御史に転じ、尚書に遷った。

   何進が殺され、その何進が京師へ招いた董卓により一気に勢力図が塗り替えられ、それに反発する人士も多く出た。
   この行方は次回に続く。




1)   『後漢書』竇何列傳の記述。

八月、進入長樂白太后、請盡誅諸常侍以下、選三署郎入守宦官廬。諸宦官相謂曰:「大將軍稱疾不臨喪、不送葬、今[炎欠]入省、此意何為?竇氏事竟復起邪?」又張讓等使人潛聽、具聞其語、乃率常侍段珪・畢嵐等數十人、持兵竊自側闥入、伏省中。及進出、因詐以太后詔召進。入坐省闥、讓等詰進曰:「天下[小貴][小貴]、亦非獨我曹罪也。先帝嘗與太后不快、幾至成敗、我曹涕泣救解、各出家財千萬為禮、和悅上意、但欲託卿門戸耳。今乃欲滅我曹種族、不亦太甚乎?卿言省内穢濁、公卿以下忠清者為誰?」於是尚方監渠穆拔劍斬進於嘉德殿前。讓・珪等為詔、以故太尉樊陵為司隸校尉、少府許相為河南尹。尚書得詔板、疑之、曰:「請大將軍出共議。」中黄門以進頭擲與尚書、曰:「何進謀反、已伏誅矣。」

進部曲將呉匡・張璋、素所親幸、在外聞進被害、欲將兵入宮、宮閤閉。袁術與匡共斫攻之、中黄門持兵守閤。會日暮、術因燒南宮九龍門及東西宮、欲以脅出讓等。讓等入白太后、言大將軍兵反、燒宮、攻尚書闥、因將太后・天子及陳留王、又劫省内官屬、從複道走北宮。尚書盧植執戈於閣道窗下、仰數段珪。段珪等懼、乃釋太后。太后投閣得免。

袁紹與叔父隗矯詔召樊陵・許相、斬之。苗・紹乃引兵屯朱雀闕下、捕得趙忠等、斬之。呉匡等素怨苗不與進同心、而又疑其與宦官同謀、乃令軍中曰:「殺大將軍者即車騎也、士吏能為報讎乎?」進素有仁恩、士卒皆流涕曰:「願致死!」匡遂引兵與董卓弟奉車都尉旻攻殺苗、棄其屍於苑中。紹遂閉北宮門、勒兵捕宦者、無少長皆殺之。或有無須而誤死者、至自發露然後得免。〔死〕者二千餘人。紹因進兵排宮、或上端門屋、以攻省内。

張讓・段珪等困迫、遂將帝與陳留王數十人歩出穀門、奔小平津。公卿並出平樂觀、無得從者、唯尚書盧植夜馳河上、王允遣河南中部掾閔貢隨植後。貢至、手劍斬數人、餘皆投河而死。明日、公卿百官乃奉迎天子還宮、以貢為郎中、封都亭侯。

董卓遂廢帝、又迫殺太后、殺舞陽君、何氏遂亡、而漢室亦自此敗亂。

2)   『後漢書』孝靈帝紀に引き続き『後漢書』孝獻帝紀より。

後漢書 孝靈帝紀

(中平六年)

八月戊辰、中常侍張讓・段珪等殺大將軍何進、於是虎賁中郎將袁術燒東西宮、攻諸宦者。庚午、張讓・段珪等劫少帝及陳留王幸北宮德陽殿。何進部曲將吳匡與車騎將軍何苗戰於朱雀闕下、苗敗斬之。辛未、司隸校尉袁紹勒兵收偽司隸校尉樊陵・河南尹許相及諸閹人、無少長皆斬之。讓・珪等復劫少帝・陳留王走小平津。尚書盧植追讓・珪等、斬數人、其餘投河而死。帝與陳留王協夜步逐熒光行數里、得民家露車、共乘之。

辛未、還宮。大赦天下、改光(喜)〔熹〕為昭寧。

并州牧董卓殺執金吾丁原。司空劉弘免、董卓自為司空。

九月甲戌、董卓廢帝為弘農王。

自六月雨、至于是月。

論曰:秦本紀說趙高譎二世、指鹿為馬、而趙忠・張讓亦紿靈帝不得登高臨觀、故知亡敝者同其致矣。然則靈帝之為靈也優哉!

贊曰:靈帝負乘、委體宦孽。徵亡備兆、小雅盡缺。麋鹿霜露、遂棲宮衛。



後漢書 孝獻帝紀

孝獻皇帝諱協、靈帝中子也。母王美人、為何皇后所害。中平六年四月、少帝即位、封帝為勃海王、徙封陳留王。

九月甲戌、即皇帝位、年九歲。遷皇太后於永安宮。大赦天下。改昭寧為永漢。丙子、董卓殺皇太后何氏。

3)   『後漢紀』(後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五)より。

(中平六年)

八月庚寅〔一〕、太白犯心星。

戊辰、大將軍何進白太后、將決其事、謀欲盡誅諸常侍、選三署郎補其處。中常侍張讓・段珪相謂曰:「大將軍常稱疾、不臨喪葬、今忽入省、此意何為?竇氏意復起邪?」使侍者聽之、〔具〕(冥)聞進言。出坐省戸下、讓謂進曰:「天下憤憤、亦非獨我曹也。又先帝嘗與太后不快、幾至成敗、我曹泣涕救解、各出家財且千萬、共為禮、和悅上意、但欲託門戸於卿耳。今卿云何欲滅我曹種族、不亦太甚乎!卿言省内濁穢、公卿已下忠清、為誰乎?」於是尚方監渠穆拔劍斬進。珪・讓偽詔以故太尉樊陵為司隸校尉、故司空許相為河南尹。尚書得詔疑焉、請大將軍出議之。中黄門以進首與尚書曰:「何進謀反、以伏誅。」

進部曲將呉匡將兵在外、聞進被誅、欲將兵入、宮門閉。虎賁中郎將袁術燒南宮青瑣門、欲以迫出珪等。珪等不出、持太后・天子・陳留王幸北宮崇德殿。苗聞進死、陳兵朱雀闕下。進・苗素不相友善、進死、匡恐為苗所害、乃言曰:「大將軍欲誅諸常侍、車騎不欲。今大將軍死、車騎在、殺大將軍者、即車騎也。吏士能為大將軍復讎也?」進遇吏兵素有恩、皆涕泣曰:「願效死。」匡乃[口妾]血為誓、引兵攻苗、戰於闕下、兵破、斬苗首。

辛未、帝還宮、公卿百姓迎於道。并州牧董卓適至、聞帝在外、單騎迎於北芒上。卓與帝言、不能對;與陳留王言、及禍亂之事。卓以王賢、有廢立之意。

是日、幸崇德殿、大赦天下。得六璽、失傳國璽。

武猛都尉丁原將河内救何氏、拜執金吾。何進兄弟既死、其部曲無所屬、皆歸卓。卓使原部曲司馬呂布〔殺原而〕盡并其衆。京師兵權、惟卓為盛。

先是進遣騎都尉太山鮑信募兵、亦適至。信謂紹曰:「卓擁強兵、有異志、今不早圖、將為所制。及初至疲勞、襲之可擒也。」紹畏卓、不敢發、信遂還鄉里。

六月雨、至於九月乃止。卓諷有司以久雨免司徒丁宮・司空劉弘、卓代為司〔空〕(徒)、假節鉞虎賁。

癸酉、卓謂司隸校尉袁紹曰:「人主宜立賢明、天下豈有常。每念靈帝、使人憤毒。今當立『董侯』、不知能勝『史侯』否?為當且爾、劉氏種不足復遺。」紹曰:「今上未有不善害於天下、若明公違禮、任意廢嫡立庶、四海恐不從明公議也。」卓叱紹曰:「豎子!天下事豈不在我?我欲為之、誰敢不從!」紹橫刀長揖曰:「天下健者豈唯董公!」既出、遂奔冀州。卓以廢帝議示太傅袁隗、隗報如議。

九月甲戌、卓大會群臣於崇德殿。卓曰:「大者天地、其次君臣、所以為治也。今皇帝闇弱、不可奉宗廟、為天下主。今欲依伊尹・霍光故事、立陳留王何如?」公卿已下、皆惶恐不敢對。盧植對曰:「按尚書、太甲既立、不明、伊尹放之桐宮。又昌邑王立二十七日、罪過千條、是以霍光廢之。今上富於春秋、行未有失、此非前事之比也。」卓大怒、欲誅植。議郎彭伯諫曰:「盧尚書海內大儒、天下之望也。今先害之、恐天下震怖。」卓乃止。

是日、卓脅太后與群臣廢帝為弘農王、讀策、太后流涕、群臣莫敢言。丁宮曰:「天禍漢室、喪亂弘多。昔祭仲廢忽立密、春秋善之。今大臣量宜為社稷計、誠合天心、請稱萬歲。」太傅袁隗解帝璽綬、立陳留王為皇帝、年九歲。太后遷於永安宮。

袁宏曰:「丁宮可謂非人矣!以為雖伊尹之事、猶將涕泣而從之、而況凌虐其君、而助贊其惡。夫仁義者、人心之所有也。濃薄不同、故有至與不至焉。當其至者、在君親之難、若身首之相衛也;其不至者、猶有兒女之愛焉。無情於斯者、不得豫夫人倫矣。

盧植稱病而退、從近關出、卓遣人殺之、不及、隱於上谷、數年後疾卒。

植字子幹、涿人也。師事扶風馬融、與北海鄭玄友善、所學不守章句、皆研精其旨。身長八尺二寸、剛毅多大節、嘗喟然有濟世之志、不苟合取容、言論切直、不好文辭。飲酒至一石而不亂。融妃后家、絲竹歌舞者不絕於前、植侍坐、數年、目未嘗一眄。融以是尤敬異之。學終辭歸、闔門教授、不應州郡之命。建寧中徵為博士、補九江、廬江太守、為政務在清凈、弘大體而已。病去官、徵拜議郎、與蔡邕・楊彪等並在東觀、補續漢記。植將終、敕其子斂具單衣、葬以土穴、其子從之。

丙子、太后何氏崩。董卓殺之也。

4)   『後漢書』孝靈帝紀の注に引く『獻帝春秋』より

獻帝春秋曰:「河南中部掾閔貢見天子出、率騎追之、(北)〔比曉〕到河上。天子飢渴、貢宰羊進之、厲聲責讓等曰:『君以閹宦之隸、刀鋸之殘、越從洿泥、扶侍日月、賣弄國恩、階賤為貴、劫迫帝主、蕩覆王室、假息漏刻、遊魂河津。自亡新以來、姦臣賊子未有如君者。今不速死、吾射殺汝。』讓等惶怖、叉手再拜叩頭、向天子辭曰:『臣等死、陛下自愛。』遂投河而死。」

5)   『三国志』魏書董二袁劉傳(董卓のところ)の注より。


張璠漢紀曰:帝以八月庚午為諸黃門所劫、步出穀門、走至河上。諸黃門既投河死。時帝年十四、陳留王年九歲、兄弟獨夜步行欲還宮、闇暝、逐螢火而行、數里、得民家以露車載送。辛未、公卿以下與卓共迎帝於北芒阪下。獻帝春秋曰:先是童謠曰:「侯非侯、王非王、千乘萬騎走北芒。」卓時適至、屯顯陽苑。聞帝當還、率眾迎帝。典略曰:帝望見卓兵涕泣。群公謂卓曰:「有詔卻兵。」卓曰:「公諸人為國大臣、不能匡正王室、至使國家播蕩、何卻兵之有!」遂俱入城。獻帝紀曰:卓與帝語、語不可了。乃更與陳留王語、問禍亂由起;王答、自初至終、無所遺失。卓大喜、乃有廢立意。英雄記曰:河南中部掾閔貢扶帝及陳留王上至雒舍止。帝獨乘一馬、陳留王與貢共乘一馬、從雒舍南行。公卿百官奉迎於北芒阪下、故太尉崔烈在前導。卓將步騎數千來迎、烈呵使避、卓罵烈曰:「晝夜三百里來、何云避、我不能斷卿頭邪?」前見帝曰:「陛下令常侍小黃門作亂乃爾、以取禍敗、為負不小邪?」又趨陳留王、曰:「我董卓也、從我抱來。」乃於貢抱中取王。英雄記曰:一本云王不就卓抱、卓與王併馬而行也。

6)   『後漢書』董卓列傳より。

初、卓之入也、步騎不過三千、自嫌兵少、恐不為遠近所服、率四五日輒夜潛出軍近營、明旦乃大陳旌鼓而還、以為西兵復至、洛中無知者。尋而何進及弟苗先所領部曲皆歸於卓、卓又使呂布殺執金吾丁原而并其眾、卓兵士大盛。乃諷朝廷策免司空劉弘而自代之。因集議廢立。百僚大會、卓乃奮首而言曰:「大者天地、其次君臣、所以為政。皇帝闇弱、不可以奉宗廟、為天下主。今欲依伊尹・霍光故事、更立陳留王、何如?」公卿以下莫敢對。卓又抗言曰:「昔霍光定策、延年案劍。有敢沮大議、皆以軍法從之。」坐者震動。尚書盧植獨曰:「昔太甲既立不明、昌邑罪過千餘、故有廢立之事。今上富於春秋、行無失德、非前事之比也。」卓大怒、罷坐。明日復集群僚於崇德前殿、遂脅太后、策廢少帝。曰:「皇帝在喪、無人子之心、威儀不類人君、今廢為弘農王。」乃立陳留王、是為獻帝。又議太后蹙迫永樂太后、至令憂死、逆婦姑之禮、無孝順之節、遷於永安宮、遂以弒崩。

7)   『三国志』魏書董二袁劉傳(董卓のところ)より。

靈帝崩、少帝即位。大將軍何進與司隸校尉袁紹謀誅諸閹官、太后不從。進乃召卓使將兵詣京師、并密令上書曰:「中常侍張讓等竊幸乘寵、濁亂海內。昔趙鞅興晉陽之甲、以逐君側之惡。臣輒鳴鐘鼓如洛陽、即討讓等。」欲以脅迫太后。卓未至、進敗。中常侍段珪等劫帝走小平津、卓遂將其眾迎帝于北芒、還宮。時進弟車騎將軍苗為進眾所殺、進・苗部曲無所屬、皆詣卓。卓又使呂布殺執金吾丁原、并其眾、故京都兵權唯在卓。

先是、進遣騎都尉太山鮑信所在募兵、適至、信謂紹曰:「卓擁彊兵、有異志、今不早圖、將為所制;及其初至疲勞、襲之可禽也。」紹畏卓、不敢發、信遂還鄉里。

於是以久不雨、策免司空劉弘而卓代之、俄遷太尉、假節鉞虎賁。遂廢帝為弘農王。尋又殺王及何太后。立靈帝少子陳留王、是為獻帝。

8)   『三国志』魏書呂布(張邈)臧洪傳より

呂布字奉先、五原郡九原人也。以驍武給并州。刺史丁原為騎都尉、屯河內、以布為主簿、大見親待。靈帝崩、原將兵詣洛陽。與何進謀誅諸黃門、拜執金吾。進敗、董卓入京都、將為亂、欲殺原、并其兵眾。卓以布見信于原、誘布令殺原。布斬原首詣卓、卓以布為騎都尉、甚愛信之、誓為父子。

布便弓馬、膂力過人、號為飛將。稍遷至中郎將、封都亭侯。卓自以遇人無禮、恐人謀己、行止常以布自衛。然卓性剛而褊、忿不思難、嘗小失意、拔手戟擲布。布拳捷避之、為卓顧謝、卓意亦解。

9)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。

靈帝崩、紹勸何進徵董卓等眾軍、脅太后誅諸宦官、轉紹司隸校尉。語已見何進傳。及卓將兵至、騎都尉太山鮑信說紹曰:「董卓擁制強兵、將有異志、今不早圖、必為所制。及其新至疲勞、襲之可禽也。」紹畏卓、不敢發。頃之、卓議欲廢立、謂紹曰:「天下之主、宜得賢明、每念靈帝、令人憤毒。董侯似可、今當立之。」紹曰:「今上富於春秋、未有不善宣於天下。若公違禮任情、廢嫡立庶、恐眾議未安。」卓案劍叱紹曰:「豎子敢然!天下之事、豈不在我?我欲為之、誰敢不從!」紹詭對曰:「此國之大事、請出與太傅議之。」卓復言「劉氏種不足復遺」。紹勃然曰:「天下健者、豈惟董公!」橫刀長揖徑出。懸節於上東門、而奔冀州。

董卓購募求紹。時侍中周珌・城門校尉伍瓊為卓所信待、瓊等陰為紹說卓曰:「夫廢立大事、非常人所及。袁紹不達大體、恐懼出奔、非有它志。今急購之、埶必為變。袁氏樹恩四世、門生故吏遍於天下、若收豪傑以聚徒眾、英雄因之而起、則山東非公之有也。不如赦之、拜一郡守、紹喜於免罪、必無患矣。」卓以為然、乃遣授紹勃海太守、封邟鄉侯。紹猶稱兼司隸。

10)   『三国志』魏書董二袁劉傳(袁紹のところ)より。

靈帝崩、太后兄大將軍何進與紹謀誅諸閹官、太后不從。乃召董卓、欲以脅太后。常侍・黃門聞之、皆詣進謝、唯所錯置。時紹勸進便可於此決之、至于再三、而進不許。令紹使洛陽方略武吏檢司諸宦者。又令紹弟虎賁中郎將術選溫厚虎賁二百人、當入禁中、代持兵黃門陛守門戶。中常侍段珪等矯太后命、召進入議、遂殺之、宮中亂。術將虎賁燒南宮嘉德殿青瑣門、欲以迫出珪等。珪等不出、劫帝及帝弟陳留王走小平津。紹既斬宦者所署司隸校尉許相、遂勒兵捕諸閹人、無少長皆殺之。或有無鬚而誤死者、至自發露形體而後得免。宦者或有行善自守而猶見及。其濫如此。死者二千餘人。急追珪等、珪等悉赴河死。帝得還宮。

董卓呼紹、議欲廢帝、立陳留王。是時紹叔父隗為太傅、紹偽許之、曰:「此大事、出當與太傅議。」卓曰:「劉氏種不足復遺。」紹不應、橫刀長揖而去。紹既出、遂亡奔冀州。侍中周毖・城門校尉伍瓊・議郎何顒等、皆名士也、卓信之、而陰為紹、乃說卓曰:「夫廢立大事、非常人所及。紹不達大體、恐懼故出奔、非有他志也。今購之急、勢必為變。袁氏樹恩四世、門世故吏遍於天下、若收豪傑以聚徒眾、英雄因之而起、則山東非公之有也。不如赦之、拜一郡守、則紹喜于免罪、必無患矣。」卓以為然、乃拜紹勃海太守、封邟鄉侯。

11)   『三国志』魏書董二袁劉傳(袁紹のところ)の注に引く『獻帝春秋』等

獻帝春秋曰:卓欲廢帝、謂紹曰:「皇帝沖闇、非萬乘之主。陳留王猶勝、今欲立之。人有少智、大或癡、亦知復何如、為當且爾;卿不見靈帝乎?念此令人憤毒!」紹曰;「漢家君天下四百許年、恩澤深渥、兆民戴之來久。今帝雖幼沖、未有不善宣聞天下、公欲廢適立庶、恐眾不從公議也。」卓謂紹曰:「豎子!天下事豈不決我?我今為之、誰敢不從?爾謂董卓刀為不利乎!」紹曰:「天下健者、豈唯董公?」引佩刀橫揖而出。臣松之以為紹於時與卓未搆嫌隙、故卓與之諮謀。若但以言議不同、便罵為豎子、而有推刃之心、及紹復答、屈疆為甚、卓又安能容忍而不加害乎?且如紹此言、進非亮正、退違詭遜、而顯其競爽之旨、以觸哮闞之鋒、有志功業者、理豈然哉!此語、妄之甚矣。

12)   『後漢書』劉焉袁術呂布列傳(袁術のところ)より。

袁術字公路、汝南汝陽人、司空逢之子也。少以俠氣聞、數與諸公子飛鷹走狗、後頗折節。舉孝廉、累遷至河南尹・虎賁中郎將。

時董卓將欲廢立、以術為後將軍。術畏卓之禍、出奔南陽。

続けて『三国志』魏書董二袁劉傳(袁術のところ)より。

袁術字公路、司空逢子、紹之從弟也。以俠氣聞。舉孝廉、除郎中、歷職內外、後為折衝校尉・虎賁中郎將。董卓之將廢帝、以術為後將軍;術亦畏卓之禍、出奔南陽。

13)   『三国志』魏書武帝紀より。

金城邊章・韓遂殺刺史郡守以叛、眾十餘萬、天下騷動。徵太祖為典軍校尉。會靈帝崩、太子即位、太后臨朝。大將軍何進與袁紹謀誅宦官、太后不聽。進乃召董卓、欲以脅太后、卓未至而進見殺。卓到、廢帝為弘農王而立獻帝、京都大亂。卓表太祖為驍騎校尉、欲與計事。太祖乃變易姓名、間行東歸。出關、過中牟、為亭長所疑、執詣縣、邑中或竊識之、為請得解。卓遂殺太后及弘農王。

14)   『三国志』魏書武帝紀の注より。

魏書曰:太祖以卓終必覆敗、遂不就拜、逃歸鄉里。從數騎過故人成皋呂伯奢;伯奢不在、其子與賓客共劫太祖、取馬及物、太祖手刃擊殺數人。世語曰:太祖過伯奢。伯奢出行、五子皆在、備賓主禮。太祖自以背卓命、疑其圖己、手劍夜殺八人而去。孫盛雜記曰:太祖聞其食器聲、以為圖己、遂夜殺之。既而悽愴曰:「寧我負人、毋人負我!」遂行。

世語曰:中牟疑是亡人、見拘于縣。時掾亦已被卓書;唯功曹心知是太祖、以世方亂、不宜拘天下雄雋、因白令釋之。

15)   『後漢書』吳延史盧趙列傳(盧植のところ)より。

帝崩、大將軍何進謀誅中官、乃召并州牧董卓、以懼太后。植知卓凶悍難制、必生後患、固止之。進不從。及卓至、果陵虐朝廷、乃大會百官於朝堂、議欲廢立。群僚無敢言、植獨抗議不同。卓怒罷會、將誅植、語在卓傳。植素善蔡邕、邕前徙朔方、植獨上書請之。邕時見親於卓、故往請植事。又議郎彭伯諫卓曰:「盧尚書海內大儒、人之望也。今先害〔之〕、天下震怖。」卓乃止、但免植官而已。

16)   『後漢書』蔡邕列傳より。

中平六年、靈帝崩、董卓為司空、聞邕名高、辟之。稱疾不就。卓大怒、詈曰:「我力能族人、蔡邕遂偃蹇者、不旋踵矣。」又切敕州郡舉邕詣府、邕不得已、到、署祭酒、甚見敬重。舉高第、補侍御史、又轉持書御史、遷尚書。


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