※前記事
メモ:「洛陽八関とその内包空間」
昨年の夏前ぐらいに、後漢に関係し私が好きそうだということで、何かのついでにコピーした論文を知人から渡される。それを下記の記事のように旅のお供として読んでいた。
※関連記事
第9回三顧会前夜祭(2008年8月15日)
前々から六百石の州刺史と二千石の郡太守との関係に疑問を抱いていたので、それもあって興味深く読めていた。 それが下記の論文(
前述したCiNiiに情報があるもののダウンロードはできないようだ)。
植松慎悟「後漢時代における刺史の「行政官化」再考」(『九州大学東洋史論集』No.36 (200803)pp.1-33, ISSN:02865939)
※リンク追記。こちらでダウンロードできる。
・後漢時代における刺史の「行政官化」再考 - 九大コレクション | 九州大学附属図書館
http://hdl.handle.net/2324/25844
※関連リンク
・九州大学東洋史学研究室
http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/his_ori/
まずはページ数付きで目次から示す。
1 はじめに
3 一 刺史改革の意義と監察
9 二 刺史の「行政官化」再考
17 三 「皇帝の使者」としての刺史と地方支配構造
26 おわりに
28 註
「はじめに」では地方軍閥の結集の単位が「両漢交替期」では郡、「後漢末三国時代」では州であったと書かれている。そのため、後漢一代で州制が一段と展開し、それを解明することが地方支配の変遷を知る上で重要な意味を持つという。「行政官化」は「制度的・名目的には監察官である刺史が実質的には行政官と同じ存在になったとされる現象」とのこと。
「行政官化」を踏まえ、州を国家と地方社会との結節点とし検討した小嶋茂稔氏による研究に触れる。それに対し六百石の刺史が二千石の太守を統轄するという「位次の序」が失った体制が後漢時代を通じ維持された理由に疑問を呈している。この「位次の序」とは『漢書』巻八十三 朱博伝の「刺史位下大夫、而臨二千石、輕重不相準、失位次之序。」にある前漢末の成帝期の言葉だそうな。この後、刺史から州牧になったものの、『後漢書』光武帝紀に「(建武十八年)是歳、罷州牧、置刺史。」とあるように後漢初頭に刺史に戻し官秩も六百石に戻す改革を行ったという。この論文では「位次の序」とは異なる秩序論理を探り、州が後漢代で地方支配構造でどういった位置づけなのかを追求するという。
「一」では後漢初頭の刺史に戻した改革(論文では「刺史改革」)について論じられる。この改革で「(1)州牧による奏事の廃止」「(2)州による劾奏の手続き変更」(※共に論文より)が実施されたという。それぞれ論じられる。
「(1)」について前漢以来、年末ごとに刺史・牧は京師に帰還し中央政府に「奏事」として報告していたという。それを建武十一年にそれを廃止し、郡国の上計吏を通じて地方を把握したという。その理由として『続漢書』百官志の注に引く『東観漢記』に載る張酺の上言にある「數十年以來、重其道歸煩撓、故時止勿奏事、今因以為故事。」の「煩撓」やが『続漢書』百官志の劉昭注の「省入惜煩」が挙げられている。
ここで視点が上計制度に転じる。上計を担っていたのは前漢では郡の丞、国の長史、後漢では属吏から選ばれた上計掾史であり、こうした変化の理由は先行研究より本郡出身者の方が郡国内に精通しているからとする。中央からの派遣である刺史と牧にもこれと同じ背景があったと記される。
奏事は後漢代に廃止され、それにより刺史が治所に常駐し、地方長官的色彩を帯びたと、、先行研究も踏まえ記される。刺史改革後の中央と州との繋がりについては『後漢書』顯宗孝明帝紀の「(永平九年夏四月)令司隸校尉・部刺史歲上墨綬長吏視事三歳已上理状尤異者各一人、與計偕上。」を引いて説明されている。
「(2)」は『後漢書』朱浮伝の建武六年頃のころとして記載があり、州牧は三公府の審査を経ることなく太守と県の長吏の黜退(※退け放出する)を皇帝へ弾劾する権限があるという。加えて、『後漢書』光武帝紀の建武六年六月辛卯の司隷校尉・州牧に属県吏員の削減を指示する詔書を引いている。つまりは州が郡国を越え県レベルの人員を把握する立場にあるという。
論点が中央官制に移り、先行研究より、諸州を監察する大司徒司直が廃止されたことが示される。『後漢書』馬援伝に載る馬厳の上奏ではそれを復活するよう求めているという。
刺史改革が実施された目的について「(1)軍備縮小による軍事権の剥奪」「(2)低秩官による監察」(※共に論文より)の二点から検討されている。
「(1)」は光武帝による軍備縮小が関係し、刺史改革に先立ち、建武六年の都尉廃止、同七年の郡国の常備軍撤廃、同十五年頃までの宿将功臣の兵権剥奪などがあったという。加えて刺史は安帝期まで軍事職務に関与することがなくなる。刺史改革以前、州僕は軍事政権の一端を担っていたという。
「(2)」については、光武帝期に、比二千石の大司徒司直の廃止、御史台(御史中丞千石、侍御史・治書侍御史六百石、蘭台令史百石)の確立、六百石の刺史復活と、低秩官による監察への転換があり、皇帝との繋がりを強く意識されたという。
『後漢書』郅寿伝より刺史を頂点とし州の「部從事」、郡の「督郵」も含めた監察体制が構築されたという。『後漢書』賈琮伝より後漢末の霊帝紀でも刺史が監察官であるという認識があったという。つまり刺史改革によりこういった基本方針が明確にされたという。
「二」の冒頭では、「刺史が地方行政に関与するようになるとして、その形は郡県による行政と同様なものであったか」「刺史と守相との間に、あるいは州と郡国との間に如何なる相違があったのか否か」(※両者とも論文より引用)という二つの疑問が提示されている。
『続漢書』百官志 州郡の丞の劉昭注にある西晋武帝の詔を引き、そこに「賦政」「治民」が区別され刺史は賦政しないと理解されている。一見、「行政官化」に関わる先行研究と矛盾する点を以降、確認されている。
『後漢書』肅宗孝章帝紀の永平十八年や『後漢書』順帝紀の永建六年に見られる州による救荒政策、『後漢書』周挙伝に見られる広い意味での行政職務(太原郡の旧俗を改善する)の実例を引き、これら刺史が行政職務に携わることを三つの形式に分けている。
「(1)州に対して実務行政を命じる詔令から窺える形式」。『後漢書』順帝紀に「(延光四年十一月)乙亥、詔益州刺史罷子午道、通褒斜路。」とあるよう実務行政の事例があるが、同じ「褒斜道」で『金石萃編』巻五 開通褒斜道石刻に郡徒を使って開通させた事例があり、州がどのように工事へ関与していたか不明であるという。
「(2)州・郡国両者を対象として出された詔令から窺える形式」。『後漢書』明帝紀の永平十三年の「刺史・太守…」や『後漢書』和帝紀の永元八年の「刺史・二千石…」というように刺史と守相が同じ任務を遂行する記述が示されている。逆に『後漢書』章帝紀の元和元年二月の詔では郡国のみに具体的な指示があるという。
「(3)州に対して郡国(または郡県)による実務行政の催促を命じた詔令から窺える形式」。『後漢書』桓帝紀の永興二年六月の詔、安帝紀の永初元年十一月の勅で郡国や郡県長吏が実務行政を行うが詔や勅は州が承けているという。
(2)(3)から郡県が実務行政を執行し、州はその監督・指揮する監督行政を担っていたという。それを補う形で『後漢書』殤帝紀の延平元年秋七月の勅や『後漢書』章帝紀の建初元年春正月の詔が引かれている。
論点は、なぜこういった行政の形式になったかに移る。そこで州府の人的規模に着目されている。『続漢書』百官志の州郡のところで「本注曰、員職略與司隸同」とあり、そこから州府の吏構成と司隸校尉の構成が同じとし、『続漢書』百官志の司隷校尉の条から「司隸校尉一人、比二千石」「從事史十二人」「假佐二十五人」を引き、合計37人であると示している。さらに表1で後漢と晋との州吏数の比較をしており、その結果、州域が狭くなっているにも関わらず一州あたりの吏数が増加する傾向にあるとしている。表2では河南尹と洛陽令の属吏数(※『続漢書』百官志の注に引く『漢官』。927人、796人)と郡県数が示されており、州府の人的規模の小ささが示されている。河南尹・洛陽令は京師の洛陽がある郡・県であるため、一般的な郡県にも触れられており、『後漢書』陸続伝では会稽郡で「掾史五百餘人」以上であり、後漢郡県の属吏は数百人規模であることが示されている。また、論者の私見では『続漢書』百官志にある州吏の事例が霊帝期の州牧設置以降のものであることが示されている。
「三」では後漢の刺史と皇帝との関係が当時の人々からどのような認識がされ、どのような意味を持っていたか考察されるという。まず刺史が常駐するようになった後漢においても「皇帝の使者」として認識されていた点について着目されていく。
前漢刺史では、『漢書』巻八十二 朱博伝より冀州刺史の朱博自ら「使者」と名乗っていると指摘される。『後漢書』和帝紀注引の『十三州志』に「(侍御史)出有所案、則稱使者焉」、『続漢書』百官志注引の蔡質『漢儀』に「(※司隸校尉)入宮、開中道稱使者」とあり、侍御史や司隸校尉などの監察官は「使者」と称しているという。光武帝期の州牧も「皇帝の使者」として認識され、その例として『後漢書』朱浮伝の「陛下以使者為腹心、而使者以從事為耳目」を引いている。続けて刺史改革後に視点が移り、『後漢書』張禹伝の「吏民希見使者」(※清岡注。たまたま手元の電子テキストで見かけたけど、太平御覧に引く司馬彪『續漢書』張禹伝も同様)あたりが引かれている。
『漢書』巻七十二 龔勝伝 師古注から「示若尊敬使者、故謂之使君。」を引き、論点が刺史の異称「使君」に移る。それらの用例が時期、対象官職、史料、出典の項目がある「表3 漢代「使君」の用例」(pp.22-23)にまとめられている。その特徴として「(1)中央から派遣された使者や皇帝の側近官が主な対象官職」「(2)地方に常駐する官では州牧・刺史が多く一般行政官に対しては使用されない」(※共に論文より)という二点が挙げられている。(1)について『漢書』巻六十六 王訢伝を引き繡衣御史を使君と呼んでいる事例が示され、(2)については刺史・牧以外では『東観巻記』巻二十 西羌伝を引き護羌校尉を使君と呼んでいる事例が示されている。
「位次の序」と異なる秩序論理とは、後漢刺史が「皇帝の使者」と認識されていたことのようだ。
『続漢書』祭祀志 社稷の条から「唯州所治有社無稷、以其使官。」を引き、州で社(土地神)が祀られていたが、稷(五穀神)が祀られなかった理由が「使官」であるからと示される。それを補足するかのように『漢旧儀』から「使者監祠、南向立、不拜」を引き、使者が皇帝の名代ということが示唆されている。
※次記事
メモ:「秦漢時代の爵と刑罰」
※追記
リンク:模範解答でいいのか(ニュースな史点2012/4/30の記事)
※追記
横山光輝「三国志」の魅力に迫る(2010年10月5日)
※2013年6月リンク追記
・拝受(13/06/12)
http://sekio516.exblog.jp/20727369/
※「植松慎悟「漢代における州牧と刺史に対する認識をめぐって」,『九州大学東洋史論集』第41号:28-51頁,2013年3月.」とのこと。
※2015年9月7日追記。
・後漢時代における刺史の「行政官化」再考 | 九大コレクション | 九州大学附属図書館
http://hdl.handle.net/2324/25844
※追記
2016年度(第28回)日本秦漢史学会大会(2016年11月19日)
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