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ノート4:三国志学会 第五回大会


  • 2012年8月14日(火) 00:54 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,492
研究 ※目次 ノート:三国志学会 第五回大会(2010年9月11日)

※前記事 ノート3:三国志学会 第五回大会

 14:30、司会からアナウンスが入り、稀代麻也子先生(筑波大学人文社会学系准教授)の紹介が入る。稀代先生は青山学院大学の大学院ご出身だそうな。
 レジュメはA3用紙1枚、A4縦書きで4ページだ。以下、その時のノート。

○研究報告 14:00~14:50「劉楨―「文学」の「感」」

 具体的には劉楨は江淹「雑体詩」(建安詩人に模擬した作品)によってどのように捉えられていたかを考察。
 レジュメの「資料01」では今回の報告での主な人物を並べ、今回の報告に関することを記述した。曹丕(建安十六年に五官中郎将となる)、曹植(三曹の一人。丁儀・丁廙は側近)、王粲(字は仲宣、建安七子の一人)、劉楨(字は公幹、建安七子(+孔融、陳琳、徐幹、阮瑀、応瑒))、謝霊運(385-433、元嘉三大家の一人)、鮑照(414?-466、元嘉三大家の一人、字は明遠)、江淹(444-505、字は文通)
 劉勰『文心雕龍』(中国で最初の体系的な文学理論)、鍾嶸『詩品』(対象を五言詩に絞り上中下に分けて批評)、蕭統『文選』(撰の詞華集。中国古典文学の骨格)。いずれも中国の文学史上において非常に重要な書物。
 江淹「雑体詩」(建安詩人に模擬した作品)は三十種ですべて五言詩。4番目から7番目にかけて建安七子が取り上げられている。「4魏文帝(遊宴)曹丕/5陳思王(贈友)曹植/6劉文学(感遇)楨/7王侍中(懐徳)粲」
 劉楨の作品は『文選』に十首ある。『文選』はジャンル別に作品が収められていて、その中で詩に関しては内容によって23に分けられている。劉楨の作品十首の内訳は、巻二十公讌に一首、巻二十三贈答に八首、巻二十九雑詩に一首入っている。レジュメの資料03には『文選』に収められる他の建安七子の作品を挙げている。
 『文選』巻二十公讌・巻二十二遊覧、曹子建「公讌詩一首」、王仲宣「公讌詩一首」、劉公幹「公讌詩一首」、魏文帝「芙蓉池作一首」。描かれているのは、宴会の状況にかかわらず、主人の側が描かれたことりの詩として参考となる。雑体詩がみしているのが、曹丕の詩に関しては芙蓉池の作であるということになるので、合わせて(レジュメに)挙げた。
 『文選』巻三十雑擬上・巻三十一雑擬下の江文通「雑体詩三十首」に劉楨の作をまねたのが二首収められている。他には謝霊運「擬魏太子鄴中集詩八首」に、孔融を除いた建安七子の六人と曹丕と曹植に模擬して合わせて八首、模擬詩を作っており当然、劉楨がその中に入っている。『文選』では鮑明遠「学劉公幹体一首」だけが鮑照の劉楨模擬詩。
 レジュメの資料05-08には、模擬詩の、(風景で擬する)劉文学(感遇)楨、魏文帝(遊宴)曹丕、陳思王(贈友)曹植、王侍中(懐徳)粲を挙げている。

資料05
劉文学(感遇)楨
01蒼蒼山中桂 02團團霜露色 03霜露一何緊 04桂枝生自直 05橘柚在南國 06因君為羽翼 07謬蒙聖主私 08託身文墨職 09丹采既已過 10敢不自彫飾 11華月照方池 12列坐金殿側 13微臣固受賜 14鴻恩良未測。

 この作品で具体的にどのように劉楨に模擬しているのか、ということを考える。曹丕「与呉質書」「公幹有逸気、但未遒。其五言詩之善者、妙絶時人。」、曹丕『典論』論文「劉楨壮而不密」、劉勰『文心雕龍』体性「公幹気褊、故言壮而情駭」、劉勰『文心雕龍』才略「劉楨情高以会采」と言っている。これらの例から劉楨が、「逸気」、「壮」、「気褊」、「情高」とでており、そういった力強さ、心情の気高さ、高潔さを持っていったと取られていたことがわかる。
 鍾嶸『詩品』序「降及建安、曹公父子、篤好斯文。平原兄弟、鬱為文棟、劉楨・王粲為其羽翼」ということで、これに見える「羽翼」は、資料05の06に出てくる言葉だ。鍾嶸『詩品』上「其源出於古詩。仗気愛奇、動多振絶、真骨凌霜、高風跨俗。但気過其文、彫潤恨少。然自陳思以下、楨称独歩」ということで、これにより劉楨が力強く表現欲に満ちているというイメージが浮かび上がってくる。
 「審美品藻式」(趙紅玲『六朝擬詩研究』25頁、上海辞書出版社2008年)によると鮑照と江淹の模擬詩を同じグループに属するものとする。謝霊運「擬魏太子鄴中集詩八首」序「卓犖褊人、而文最有気。所得頗経奇」とある。劉楨に擬した詩の本文は曹操に見出され山東から出てきて才能を発揮し活躍してすごしているという内容になり、劉楨の一生について幸せなものとなぞって、しかしもっと身を立てるといった上昇志向のものとなっている。劉勰は劉楨を「褊」、せまいとか身寄りがないとかの意味で、という文字で評しているが、謝霊運もそう評している。謝霊運の擬詩は劉楨の人生をなぞりながら、最後に謝霊運自身の願いを書かれているように読むこともできるが、あるいは「褊」としての評判からくる感情移入かもしれない。
 鮑明遠「学劉公幹体一首」「艶陽桃季節、皎潔不成妍」とある。この鮑照という人物は、豊かな才能に恵まれながら、家の名を重んじる華やかな社会の中ではなかなか認められないという境遇を味わった人物だ。劉楨に擬した詩を載せて、華やかな世界で存分に輝けない高潔な人をかぐわしい花に例え描写するのも、やはり鮑照自身の考えが表されているのではないか。このように謝霊運や鮑照のようなそれぞれ目にした詩人自身の顔が出ている、と言える。

・『三国志』巻二十一魏書劉楨伝注所引『典略』
文帝嘗賜楨廓落帶、其後師死、欲借取以為像、因書嘲楨云:「夫物因人為貴。故在賤者之手、不御至尊之側。今雖取之、勿嫌其不反也。」楨答曰;「楨聞荊山之璞、曜元后之寶;隨侯之珠、燭衆士之好;南垠之金、登窈窕之首;鼲貂之尾、綴侍臣之幘:此四寶者、伏朽石之下、潛汙泥之中、而揚光千載之上、發彩疇昔之外、亦皆未能初自接於至尊也。夫尊者所服、卑者所脩也;貴者所御、賤者所先也。故夏屋初成而大匠先立其下、嘉禾始熟而農夫先嘗其粒。恨楨所帶、無他妙飾、若實殊異、尚可納也。」

というふうに劉楨は相手の言葉を受け入れながらも、自分を自分として停留するというそういう拒否の仕方をしている。この話には劉楨の気性がよく表れている。

・『三国志』巻二十一魏書劉楨伝注所引『典略』
其後太子嘗請諸文學、酒酣坐歡、命夫人甄氏出拜。坐中衆人咸伏、而楨獨平視。太祖聞之、乃收楨、減死輸作。

これについて宋翔凰『過庭録』巻十五で

公幹以北面諷之、当以此触魏武之忌、故借甄氏事収之

という解釈をしている。曹丕の下にいる「諸文學」ということで「文学」という言葉が出てきているが、この場合の文学も雑体詩にある「劉文学(感遇)楨」の「文学」も、武帝が太子に申しつけるようにしたといわれる「文学」という官のことになる。

・渡邉義浩『三国政権の構造と「名士」』(汲古書院2004年3月)P.346
(建安文学)の制度化は、建安十六年(二一一)年に曹丕が五官中郎将となり、五官将文学の設置された時点に求め得る…政治的に宣揚された「文学」の中に、政治的意図が含まれないはずはあるまい。

 甄氏をイメージした、という劉楨の行動が、曹丕がよりによって宴席で自分の奥さんを部下たちの前でむすびあかしたということに対する抗議であるならば、劉楨の真っ直ぐな視線は相手がたとえ権力者、曹丕であっても、良くないことは良くないと、はっきり行動で示せる真っ直ぐさをよく表している。

・『世説新語』言語注所引『文士伝』
磨之不加瑩、雕之不増文、稟気堅貞、受之自然

 劉楨が石を磨かされている時に、曹操に「石何如?」と聞かれたときの劉楨の答え。石の持つ素晴らしい性質を、人間の高潔さ、自分の高潔さと結びつけて、これ以上、隆起しようがないと要っている。この後、劉楨は続けて、だけれど、くにゃくにゃしていてまっすぐにすることができないという。自分の正しさを石の硬くて美しい光沢に、自分が罪人にされた不当を石のような曲がっていることに例えている。石の美しい模様ですらも曲がってはいけないというそこまで真っ直ぐな劉楨の巧みな言い方に、曹操によって劉楨は即日、釈放されたというわけだ。

・劉楨「雑詩一首」
職事相填委、文墨粉消散。馳翰未暇食、日昃不知晏。沈迷簿領間、回回自昏乱

 そこまでの真面目さを表す詩になっている。「文墨」という言葉は「劉文学(感遇)楨」にも出てくる。

 劉楨は「公讌詩一首」を書いていた。その特徴として、

・Fusheng Wu "Written at Imperial Command" P.43, State University of New York2008
Liu Zhen's Poem demonstrates that in a formal poem to one's royal patron, self-expresion did not always have to be sacrificed.

と書かれる。また、

・林田慎之助『六朝の文学 覚書』43頁、創文社2010
「公讌詩」の詩をみても、実にきめこまかい自然描写がなされていて、いきとどいている。

というふうな言い方がされている。

・劉楨「贈従弟三首」其二
亭亭山上松、瑟瑟谷中風。風聲一何盛、松枝一何勁

 これが「劉文学(感遇)楨」の「01蒼蒼山中桂 02團團霜露色 03霜露一何緊」に似ている部分がある。文献によっては「亭亭」が「青青」となっている。似ていることに関して

・陳祚明『采菽堂古詩選』巻二十四
起四句頗似公幹

というふうな言い方がされている。

・劉楨「贈従弟三首」其二
豈不羅凝寒、松柏有本性

・劉楨「贈従弟三首」其三
豈不常勤苦、羞與黄雀群

このような表現について

・梅家玲『漢魏六朝文学新論 擬代与贈答篇』147頁、北京大学出版社2004
(「贈従弟三首」)通過「豈無」「豈不」之転折設問、将所詠嘆対象的殊異処、在和其他事物的対比中鮮明地凸顕出来

 「豈不」の後に状況が来て、その状況がそうであるのか、と結局は強調している。一方、「劉文学(感遇)楨」に「10敢不自彫飾」という強調表現がある。

・伊藤正文『建安詩人とその伝統』178頁、創文社2002
より知的な王粲に比して、より情的な劉楨と対置させることが可能

とあり、「劉文学(感遇)楨」の「03霜露一何緊」に「一何」の強調表現があり、これについても劉楨の詩の特徴がよく出ている。前述した劉楨「贈従弟三首」其二にも「風聲一何盛」とある。

・劉楨「贈徐幹一首」
我独抱深感、不得與比焉

 これは徐幹に会えない寂しさを感動しやすい詩人は、深く深く感じていたと読まれる。「劉文学(感遇)楨」は劉楨に模擬したものだが、限られた字数の中で表現しなければならないので、当然、深くされていることが多い。

・劉楨「贈従弟三首」其三
何時当来儀、将須聖明君

 これは今は聖明君なんていないと言っており、このような批判をともなうのは、「劉文学(感遇)楨」では読み込まれていない。劉楨の詩が十首取られている内の贈答詩は八首を占めている。収録されている作品は書き方が似ている。このように詩風はまぎれもなくそれに近い。にもかかわらず「劉文学(感遇)楨」では劉楨を○○と捉えていない。これは

・亀山朗「劉楨贈答詩論」中国文學報 47、1993.10
対人性にあまり縛られないという、劉楨の贈答詩製作に対する独自な姿勢

という、劉楨の贈答詩の性格がそうさせているといえる。

 江淹が模擬した曹丕、曹植、王粲、劉楨との考え方の違いについて見ていく。「宴」と題されているのは曹丕だけ。雑体詩は宴を建安文学の中心と捉えている(※清岡注。報告の当初は曹植を「そうち」と発音されていたが、この頃以降は「そうしょく」と発音されている)。
 「魏文帝(遊宴)曹丕」は、過ぎ去った幸せを今、仲間との歴史に視点を置きながらうたった、主催者の側からの公讌詩、といえる。あとの三人については基本的に

・川合康三『中国のアルバ』89頁、汲古書院2003
建安文人の公讌詩群には、共通した特徴が認められる。それは文人たちが宴に招かれたことを主催者に対して感謝し、主催者をことほぐという要素が、程度に濃淡はあれ、いずれにも含まれていることである

ということになる。雑体詩の王粲に擬した詩「王侍中(懐徳)粲」は昔の幸と今の幸との自分史の転換点に当時を見ている。「陳思王(贈友)曹植」は「王侍中(懐徳)粲」と逆に、幸せから不幸せの転回点に当時を見ている。特徴的なのは、彼のものだけは公讌ではなくはっきり私宴として歌い上げられている。これに対し、劉楨のものはあくまで自分の感情から述べられている。王粲や曹植のようには今と昔という捉え方をしてなくて、今、この時を詠じる指針として表れている。このように見ていくと、建安詩人の部分についても、まぎれもなく

・高橋和巳『中国文学論1』309頁、河出書房新社全集15 1978
「雑体詩」三十首は、いわば〈詩の列伝〉

・衣川賢次「六朝模擬詩小考」中国文學報31、1980.4
詩的遺産目録

ということがわかる。

・森博行「江淹〈雑体詩〉三十首について」中国文學報27、1977.4
「雑体詩」三十首も、制作者江淹自身の内面の幾分かを含むであろう。それは、前代の詩人の如何なる面を、如何なる詩を模擬対象として取り上げるか、という創作前の選択の段階に、既に現れている

とある。どこをとりだすか、という点においても劉楨の詩で確かに行われていた。

・劉楨「遂志賦」
幸遇明后、因志東傾。

の「遇」、

・劉楨「遂志賦」
揚洪恩于無涯、聴頌声之洋洋

の「恩」、

・魏劉楨詩
幸蒙庇養恩、分恵不可貲

の「恩」とあり、恩遇に対してどんな反応がおこったか、というのを描いている。これに対して「劉文学(感遇)楨」では書かれていない。江淹は劉楨に模擬しているので、より劉楨らしい詩を作りだしたのではないか。

・和田英信「模擬と創造 六朝雑擬詩小考」集刊東洋学100、2008.11
まねつつ創るという逆説が、必ずしも逆説とは認められないという点に中国の古典文学の特質の一つを見るべきかもしれない。

とあり、劉楨自身の作では恩遇に対してちゃんと反応しているが、雑体詩の表現ではその方向にはいかない。また、どんなことがあっても自分を変えないことを「劉文学(感遇)楨」の「03霜露一何緊」に表現されており、ここにある「緊」について、以前は「急」という部分に注目している。これは次々と途切れなく続いて、こちらに手を掛けてくる自然現象にも決して怯まない、という表現になるが、劉楨自身は

・魏劉楨詩
風雨雖急疾、根株不傾移

ということで、回りの状況がいくら酷くてもそこから動かないと表現しているが、雑体詩ではその頑固さをとらずに、すみやかに元に戻る強さの方の表現として選んでいる。雑体詩では劉楨の特徴として取り入れなかったことも当然ながらたくさんある。

・劉楨「魯都賦」
蒙雪含霜、不渝其色

・鈴木修次『漢魏詩の研究』606頁、大修館書店1967
劉楨は「玄」ということばと「素」ということばを、詩において好んで用いる。

 あからさまに書かれていないのは反骨精神旺盛な部分。しなやかさ強さとして表現される。
 「劉文学(感遇)楨」は劉楨自身の作として紛れ込むことがある。明の時代の『建安七子集』の中の「劉公幹集」にある。先行研究でも指摘がある。少なくとも明代の一時期、この作品を劉楨のものと見なした人がいて、そのテキストによって劉楨を(知った)人もある程度いるだろう。
(※これ以降、まとめ。省略)

 15:21終了、場内拍手

 司会による講評。

Q. (BABIさんより)江淹は元嘉三大家と並び称される詩人か?

A. 詩人としては非常に有能だが、時代によって評価が違う。貴族社会の中においては駄目だったかもしれない。

Q. (続けて、模擬詩の確認の後、)模擬詩をつくったときは江淹がどのくらいの地位に居たときか?

A. はっきりとはわかっていないが、江淹は晩年には才能が枯渇したというエピソードが残っているので、それほど、晩年ではない。

Q. (梨奈さんから)「魏文帝(遊宴)曹丕」の「07月出照園中」は劉楨本人が書いた公讌詩にまったく同じのがある(『文選』巻二十 公讌)。それに関わりがあるかどうか気になった。

A. 指摘の通りで、公讌詩というのはまったく同じ表現を使うことがある。まったく一緒というのも一つの特徴でもある。

(司会より)「○○」(※大事な専門用語が聞き取れず)というやつ。めでたい自然をよむことで、宴会の雰囲気作りをする。

Q. (ひろおさんより)(最後の方は現代的な考えだと思うが)模擬詩を作った人々は模擬詩をどんな形で捉えたか。

A. 建安の詩人が名前を出しての作品をはじめた。作者名を書く側も意識しながら競い合うが、それと同時に場の雰囲気を中で、作り合う雰囲気を大切にする部分がすごくある。そのため、本によってまったく同じ言葉なのにまったく他の人の名が付けられていたりすることがよくある。そのため、言葉に対して文字に対して伝統を重んじることが一貫して感じられる。

Q. (続けて)特定の個人ということはない?

A. 公共性が結構、入ってくる。批評し合って作ることをするので、工夫を当然、彼らはしている。

(司会より)作者という意識がこの時代、やっとでてくる。作者という意識は建安以降。そうすると、模擬すること、真似すること、体感すること、は我々の意識よりもっとスムーズに、なりかわってよむことは多々ある。川合康三「身を焼く曹植」(『三國志研究』第五号)に「発語者と作者と考えるのは大きな誤解だ」という旨が書かれてある。作者と作品世界の発語者とが分かれるのはやはりこの建安文学からだとおっしゃる。

※関連記事 三國志研究第五号(2010年9月11日)

 15:30終了。拍手。15:50まで休憩とのことで。

※この研究報告と関連し、この一年後の2011年8月27日発行の『三國志研究』第六号に稀代麻也子「江淹「雑体詩」の劉楨」という論考が収録されている。

※関連記事 三國志研究第六号(2011年8月27日)

 
○コーヒーブレイク(15:00~15:30)

 この後、清岡はおさっちさんに模擬詩というのを初めてしった驚きを話し出して、しばし研究報告について話していた。
 その後は教室の外に出てあれこれ書籍を物色していた。やはり汲古書院では学会価格の2割引ってことで。
 あとかたせんさんの手帳に質問めいたことがびっしり書かれていたのにツッコミを入れたり、と。
 枚数制限があるんで削りまくったとか、論文の苦労話をUSHISUKEさんに言ったり。逆に或る書籍の裏話を聞いたり。
 おさっちさんと三口宗さんとはサイトの話をしたり。
 まぁ、あとは全般的に今回の研究報告について方々で話していた。

 15:50ぐらいに伊藤晋太郎先生から告知で、レジュメと共にフライヤーが配布されていた二松學舎大学文学部シンポジウム2010「非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像」が2010年10月31日に二松学舎大学で開催されるとのこと。

※関連記事 非常之人 三国志の覇者・曹操の人物像(2010年10月31日)


※次記事 ノート5:三国志学会 第五回大会

※追記 中国逍遥(2014年5月20日)

※追記 レポ:兀突骨に行くまで(2015年8月1日)

※新規関連記事 全譯 後漢書 別冊 後漢書研究便覧(2016年12月5日)

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