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「東アジアの出土資料と交通論」ノート4


  • 2009年1月10日(土) 11:59 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    3,219
研究 ※前記事 「東アジアの出土資料と交通論」ノート3

 会場の写真を見ると分かるように長い机が縦に並んでいる会場配置になっている。清岡の座っている席の左でずっとノートPCで写真を見ていた人がいらっしゃったんだけど、やはり発表者だった。

 ノートPCの入れ替え中、司会による次の発表の紹介が入る。
 11:10。次の発表が始まる。予め配られたレジュメはA4の1枚と何かの記事(P32-33)のコピー。後者は発表後に司会からアナウンスがあったんだけど、山川出版社の鶴間 和幸・黄 暁芬/著『中国古代文明 (世界歴史の旅)』からのものだそうな。

・山川出版社
http://www.yamakawa.co.jp/

※追記 ノート1:三国志学会 第五回大会

●黄 暁芬氏(東亜大学)「秦直道の調査と研究」

 地域の研究課題としてあって、どういうような形で秦直道が展開されるか、あるいは築造方法はどうか等、注目されていたが、状況が難しいところもあってあまり進まなかった。
 二年前から、陝西省考古研究院と一緒に調査することとなった。従来の研究見解、昨年からの地質調査、8月の段階ではGPS調査、それらを今回、まとめた。

○I.従来の認識

○[秦直道の築造と時期]

 一般的には天下統一を遂げた秦の始皇帝の国家プロジェクトとして立ち上がり、極めて短期間で設計・築造されたとされている。これまでの研究では文献史料についてはよく取り上げられている。史書での代表的な記述はレジュメに取り上げている。

三十五年、為直道、道九原、通甘泉。
 『史記』六国年表

始皇欲游天下、道九原、直抵甘泉、迺使蒙恬通道、自九原抵甘泉、塹山堙谷、千八百里。道未就。
 『史記』蒙恬列伝

 三十七年の段階で始皇帝はこの道路を通ったこともあって、急ピッチで建築された。『史記』では「甘泉」となっているが、始皇帝の時代は「林光宮」という名前。直道は秦の時代につくったもので、場所は同じ陝西省の淳化県。そこから北上し九原郡が終点。推定では全長700km、750kmあるいは600kmと推定ではいろいろある。そのようなこれまでの推定は文献中心。

○[秦直道についての見解]

 代表的な最初で原点的な学説、史念海「秦始皇直道遺跡的探索」『文物』1975年10期では、

  陝西省淳化県→甘粛省華池県東→陝西省定辺県→内蒙古東勝・包頭市

となっている。西側を回って甘粛省に入ってそのまま内蒙古の境域に入る。現在も有力な学説になっている。
 もう一人の学説は靳之林1984 陝西省~内蒙古、(観点紹介)週刊誌『瞭望』第43期。この方は美術の専門の人。自分なりの調査。西側を回らなくても陝西省の中に直道の遺跡があるんだ、という考え方。
 これが二つの代表的な考え方。

(※清岡注。「一番最初」「今現在」と日本人が言いがちな重語が出てくるほど、日本語に慣れておられるようだ)

○II.GPS・GISを用いた秦直道の調査と探索

○1.直道の測量調査とルート検証

 2007年に陝西省考古研究院を中心に四つのトレンチ調査を実施した。さらに甘粛省などの他の調査結果を足している。それらを映像資料を交えつつ紹介する。

(※清岡注。豊富な写真をプロジェクターで映し出しての発表だったため、この記事では以降、その状況をほとんど説明できていない)

○2.直道の立地と建築形式 [直道、埡口、行宮]

 (※陝西省の甘泉宮遺跡の写真)
 今年は綺麗になっていたが、以前行ったときは、見学できなかった。北部は危険で調査できなかったが、ここ二、三年間、陝西省の文化財の保護に力を入れているため、整備が進んでいる。(※版築の址や去年までなかった石碑の写真など)。遺跡があると思われるところを発掘調査せずに観光用の道路ができている。たいへん悲惨な状況。
 調査はその甘泉宮遺跡を起点として始まる。甘泉宮の地元の研究者は他の地域の文献に基づいており、直道の起点は甘泉宮の北の門としている(※写真で説明)。山の水の叛乱の影響で、その地点は200年前から堀になっているため、わかりにくい状況になっている。
 GPS調査のデータから、そこからほぼ○○方向(※清岡注。聞き取れず。しんばく?)に走っている。
 北上すると石門関に付く。その北側に出ると本格的な直道に入る。海抜は600m程度。まだ低い方で高い所へ向かう。子午嶺へ登る。
 史念海先生の考え方では陝西省に寄らずにそのまま甘粛省の方向に行っている。そのため甘粛省に調査に行くと、子午嶺の分水嶺になっているが、そこはある程度、南北方向に走る。富県と甘泉県の西側に曲がる。
 甘粛省は省政府指定の直道の石碑が重要文化財として立っている。甘粛省の研究者の論文では道路幅は6-8mとなっている。そこから漢代のものが出ているが、それは秦の直道かどうかたいへん疑問。
 そこからまた陝西省に戻る。基本的に山の上に出る。海抜1100-1300mほど。山の尾根に道がある。幅30-40m。のちの自然破壊もあって狭いところでは20m。
 基本的に山の上であり、できるだけ真っ直ぐ行くが東西方向に流れる川をどうしてもさけられない。その場合、山から下りる(※その写真も映し出される)。そういった陝西省側の地形、遺跡の状態はとても残りが良い(※傾斜が判りやすい地形と道の址の写真も映し出される)。直進の上山道。『史記』では直道の作り方のキーワード的なもの「塹山堙谷」が出てくる。山を削った跡が至るところで見られる(※写真も映し出される)。山頂の直道の特徴は道路を真っ直ぐ進む、そして道路の両側は楼閣のようなイメージ。残される遺跡は自然に残っているもの、人工的に作ったものがあって、ここがあれば道路をここに取っているとはっきりわかる。これらの道は地元の農民から「聖人条」と呼ばれている。山の上のため、車で行けず歩くしかなく調査は大変(※豊富な写真が紹介され続けている)。直道の側に版築が残されている。
 楡林まで来ると地形が変わっていて判らなくなる。砂漠地帯で探すのも大変。

○3.沿線の関連施設 [郡県城址、亭障、烽火台]

 楡林の西側に郡県城址がある。四角い城郭。
 楡林から北は直道について様々な説がある。
 内蒙古では三年ほど前、大々的に、ここが直道だ、と強調され、「天下第一路」の碑が立ち、秦直道博物館が立ったが、その博物館は現在、閉鎖されている(※写真と共に紹介されて会場では笑いが起こる)。内蒙古の方は有力な史料がないので、展示の案すべてを陝西省に委託。陝西省の方でも秦直道の博物館を立てようと計画している。内蒙古は砂漠で検証のしようがない。
 終点の包頭市近くではなかなか直道の有力が根拠が見あたらない。包頭市の郡の中の遺跡は残りが良い。南北に分かれる二つの城壁の城址遺跡がある。北城は古い文献に乗っている(※現在の版築を写真で紹介)。南側の城壁は漢の五原郡のもの。保存状態が良い。
 (※直道の調査とGPSデータを合わせたもので解説)

○III.直道遺跡の試掘と認識
○1.陝西省富県直道の試掘

 2006年の年末、2007年の五月にトレンチ調査を実施。四つの地層があった。
 (※写真を見せつつ)一番下の層は秦漢。版築の層がある。側溝がある。轍の跡が見えるが、真ん中を走っていない。それは秦の始皇帝あるいは漢の武帝しか走れない道があるためとも考えられる。まだトレンチ調査の段階なので、はっきり言えない。

○2.築造方法と技術の考察

 「塹山堙谷」は具体的には判らず解釈のしようもなく、また『史記』は何を根拠にしているか判らなかったが、陝西省の甘泉県ではよくその状況が残っている。
 (※山と谷の写真が出てくる)谷は版築で埋められている。今でも版築は高さ十数メートル残っている。夏は木々が生い茂ってよく判らなかったが冬に行くと、山が削られた状況がよく判った。地山に一列並んで穴があった。何かの施設があったと思われる。

○IV.壮大たる秦直道工程とその意義

 秦の直道は漢の時代に引き続き、工事され、漢の皇帝も司馬遷(『史記』に書かれている)も直道を通った。当時は皇権政治の現れ、そして漢の時代まで、匈奴との攻防戦への一つの有力な国家軍事的防御施設として役割を果たしていた。「過酷の労役により帝国の崩壊へと導かれた要因の一つ」(※レジュメより)とも考えられる
 12:18終了。

 ここで上野先生から二点補足説明。
 一点。降水量から現状では乾燥地。
 もう一点。陶磁器から木材への変換と陶磁器の燃料として当時、木材しか考えられないので、木材の存在があったのではないか。そう考えると木材の存在や植生がある程度支えるものがあったと考えられる。


 12:20、昼休みに入る。
 午後は日本史関連なので、ここで清岡は会場から出る。

お昼寝中。

 写真のように犬は玄関から富士通のパソコン、FMRシリーズの段ボールの中に移動していた(笑)


※次記事 「魏晋南北朝時代における冠服制度と礼制の変容」ノート

※追記 東アジア古代都市のネットワークを探る(2015年9月26日27日)

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