※関連記事
上智大学の入試で邪馬台国関連
上記関連記事にあるように昨年の上智大学の入試で『三国志』巻三十魏書東夷伝に関する問題があった。
・上智大学ホームページ
http://www.sophia.ac.jp/
今年も下記の読売新聞のサイト「大学入試速報2011」でチェックしてみる。
・大学入試速報2011 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://nyushi.yomiuri.co.jp/
そうすると、まず上智大学の入学試験の「文学部(国文、英文、ドイツ文、フランス文)・総合人間科学部(社会)・法学部(国際関係法)(2月6日実施)」での日本史 1 のAの文が出典を伏せた形で
・『後漢書』伝七十五東夷列伝
桓・靈閒、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。
の書き下し文だった。問1(1) はそれについて同じ歴史書の文を問う四択問題だった。選択肢では書き下し文だけど、(2)の「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」が正解なのだろう。
また、上智大学の入学試験の「外国語学部(フランス語、イスパニア語、ロシア語)(2月8日実施)」での国語 三ではまるまる『三国志』巻三十三蜀書後主伝注引『魏略』についての問題で、まず冒頭で下記の漢文が訓点と共に掲載されている。
・『三国志』巻三十三蜀書後主伝注引『魏略』
初備在小沛、不意曹公卒至、遑遽棄家屬、後奔荊州。禪時年數歳、竄匿、隨人西入漢中、為人所賣。及建安十六年、關中破亂、扶風人劉括避亂入漢中、買得禪、問知其良家子、遂養為子、與娶婦、生一子。初禪與備相失時、識其父字玄德。比舍人有姓簡者、及備得益州而簡為將軍、備遣簡到漢中、舍都邸。禪乃詣簡、簡相檢訊、事皆符驗。簡喜、以語張魯、魯為洗沐送詣益州、備乃立以為太子。
最後の問六ではこの注に含まれる下記の文の「後主生於荊州」、「初即帝位、年十七」の書き下し文を出し、どういった矛盾点が指摘されたか、六択中二つ選ぶ問いだった。
・『三国志』巻三十三蜀書後主伝注
臣松之案:二主妃子傳曰「後主生於荊州」、後主傳云「初即帝位、年十七」、則建安十二年生也。十三年敗於長阪、備棄妻子走、趙雲傳曰「雲身抱弱子以免」、即後主也。如此、備與禪未嘗相失也。又諸葛亮以禪立之明年領益州牧、其年與主簿杜微書曰「朝廷今年十八」、與禪傳相應、理當非虚。而魚豢云備敗於小沛、禪時年始生、及奔荊州、能識其父字玄德、計當五六歳。備敗於小沛時、建安五年也、至禪初立、首尾二十四年、禪應過二十矣。以事相驗、理不得然。此則魏略之妄説、乃至二百餘言、異也!又案諸書記及諸葛亮集、亮亦不為太子太傅。
あと上智大学の入学試験の「経済学部(経営)(2月7日実施)」での日本史 1 問2(4)(5) 箸墓古墳についての大きさと場所についての五択問題があった。
※参照記事
リンク:卑弥呼の墓
※次記事
立命館大学の入試で『三国志』巻三十魏書東夷伝
※追記
上智大学の入試で三国志関連2012
※追記
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