※前記事
リンク:「漢代の扁書・壁書」
漢代においての地方官吏の日常については前々から興味があって、下記掲示板の書き込みにある論文について気になっていた。
・Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? (※「
三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=one&no=2546
その論文は下記の論文。
高村 武幸「秦漢代地方官吏の『日記』について」(『古代文化』54(9) (2002) pp.22-33,63-64)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000449115
下記関連記事で触れた高村武幸/著『漢代の地方官吏と地域社会』の「後記」によると、この論文は大幅に書き改められた上で、この書籍の「第二部 漢代官吏の社会と生活」の「第一章 秦漢代地方官吏の「日記」について」に収録されたという。
※関連記事
『漢代の地方官吏と地域社会』(汲古叢書75 2008年)
・株式会社汲古書院
http://www.kyuko.asia/
・汲古叢書 75 漢代の地方官吏と地域社会 - 株式会社汲古書院
http://www.kyuko.asia/book/b9728.html
その漢代の部分の元となる史料は尹湾六号漢墓簡牘であり、中でも「元延二年日記」と命名された冊書が主となる。前述の論文に先んじて、基礎的研究の論文が下記のようにあり、ウェブ上で閲覧できる。
西川 利文「尹湾漢墓簡牘の基礎的研究──三・四号木牘の作成時期を中心として──」(『文学部論集』第83号 (199903) pp.1-17 佛教大学)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473019
参考までにページ数付きで目次から示す。
1a はじめに
3a 一 三・四号木牘の作成時期推測の前提
4a 二 墓主の経歴
5b 三 三・四号木牘の作成時期及び性格
6b 四 三・四号木牘と五号木牘との関係
6b (一) 両種木牘の作成間隔推測の前提
8b (二) 五号木牘の作成時期
10b おわりに──今後の展望を兼ねて──
12a 注
「はじめに」によると、尹湾漢墓群及びその六号墓を中心にした簡牘群は1993年に発掘され、1997年9月に正式な報告書『尹湾漢墓簡牘』が出版されたという。
「一」では、先にサイト「三国志ファンのためのサポート掲示板」で投稿したように(下記)、論文の本筋から外れ漢代の「考課」に注目してしまう。その他、この簡牘と伝世文献史料として『漢書』巻二十八地理志との地名を比較すると、違う部分がありそこから年代を決めるところが興味深かった。
・漢代・三国志時代の官職について (※「
三国志ファンのためのサポート掲示板」投稿)
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3558
「二」では前述の「元延二年日記」中心に論じられている。
「四」「(二)」で五号木牘の用途について論じられており、その一つの可能性として九月を年度末とする上計(下記が史料の一つ)が俎上に載せられていた。結局、直接の関連性は否定されていたが、中央に送る考課関連の資料作成のための前提作業とされている。
・『続漢書』志二十八百官志五劉昭注
盧植禮注曰:「計斷九月、因秦以十月為正故。」
「おわりに」によると、この木牘に見られる長吏は功次による昇進の事例が多いが、対照的に察挙による就官の例が少ないという。「秀材三名、方正二名、孝廉一名」。これを補足することとして、注(55)に「三・四号木牘に見える郎官(侍郎・郎中・郎中騎)出身者は全部で一〇名である(「貶秩郎中」とされる者一名を含む)。」とある。
※追記
メモ:「功次による昇進制度の形成」
※次記事
リンク:『法制史研究』『書学書道史研究』
※追記
范陽の盧氏について――盧植・盧毓と漢魏交代期の政治と文化――(2016年6月)
サイト管理者はコメントに関する責任を負いません。