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メモ1:清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)
2024年3月11日月曜日、第19回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR「清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族」の昼休みが終わり13時から再開。その前に午前中、参考文献で見かけた論文が実はリポジトリにあって、さらにそこに三国関連の論文を見かけたので、チェックしてた。
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リンク:魏晋南朝の民爵賜与について(九州大学東洋史論集 第30号 2002年4月)
・京都大学人文科学研究所
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/
・第19回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR『清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族』
https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/symposium/tokyo-kanseki-seminar-2024-03-11.html
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清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)
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三国志の考古学 呉の名将・朱然(京都府京都市2024年6月15日)
・一橋大学一橋講堂
https://www.hit-u.ac.jp/hall/
今回2本目「13:00~14:00 ◎講 演 厚葬から薄葬へ――曹操とその一族の墓を掘る 京都大学人文科学研究所准教授 向井佑介」。カラー両面印刷で綴じており、8ページのA4冊子がレジュメとなる。
お墓の話と。レジュメp.1、「はじめに」。「厚葬から薄葬へ」と。日本では古墳時代から飛鳥・奈良時代にあたると。大化の薄葬令の文、スライドに原文を映し出す←そのままスライドで曹操曹丕の薄葬令を引用、つまり大化の薄葬令に曹操曹丕の薄葬令が引用されていると。レジュメp.1後半 便利なように東洋史事典から写し(曹操の経歴の参照に)。やはり下記関連記事の西高穴大墓が中心のテーマになるね。
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リンク:曹操高陵在河南得到考古確認(2009年12月27日)
p.2「1. 曹操の系譜とその墓地」。『三国志』巻一魏書武帝紀の冒頭。『水経注』巻二十三陰溝水から、曹嵩、曹騰、曹褒(騰の兄)の碑があるという記述。p.2 1977年の発掘。あまりしっかりした報告が出てない。p.2 後漢の曹操宗族墓の発掘〔安徽省亳県博物館1978〕元宝抗1号墓:(レジュメには文字で室の順番が書かれていたりと)曹胤(葬送の叔父)と推定。p.3董園村1号墓。曹嵩説「延熹七年」(164)の碑文。董園村2号墓。銅縷玉衣、玉枕があった。曹騰説がある。馬園村2号墓 p.3 1982年発掘、曹四孤堆附属1号墓(レジュメに配置図がある)曹憲の銅印がでている。曹操の長女?構造。以上の墓の特徴をp.3の末尾にまとめられる(1)多くの墓が東向き開口(2)石の墓門、塼築の墓室(3)前室-中室-後室で左右に側室・耳室(4)銀縷玉衣・銅縷玉衣・玉枕を使用。厚葬の特徴→三国時代どう変化するか?4番目の特徴が厚葬と。
p.3「2.“曹操高陵”の発見」鄴城西14kmあまり西高穴村付近 曹操宗族墓の特徴 東向き p.4 西高穴2号墓、こちらの方が大きい。東向き開口の塼築の墓室。p.4「被葬者をめぐる議論」史料と当時の鄴城の位置を照合しつつ。史料1 『三国志』の西門豹祠 史料2 グーグルアースの画像をまじえた『元和郡県図志』。大きさは後漢の墓と同じぐらい。それらと比べこの墓は整然と作られている。墓内部写真、タグ魏武王常所用格虎大戟、参考に他の墓からの戟。噂の石枕画像、曹操が常に使っていた意味の文字があると。史料3 三国志 魏公 史料4 三国志 薄葬指示と「武王」、この史料どおり金玉珍宝じゃなく圭や璧が残る。墓主60歳前後 婦人50歳前後、20歳前後。
p.5曹休のお墓。食器の類、銅印。p.6「(4)洛陽曹魏大墓の新発見」2014年発見。皇族のお墓と推定。2号墓は明帝説。p.7「3.厚葬から薄葬へ――曹操墓における転換」『甘藷』劉向伝 王符『潜夫論』 薄葬を美徳としていたが普及していなかった。p.8盗掘との関連。曹操の墓がエポックメイキングになって薄葬が実践にうつされたと。
「14:00~14:20 ◎休憩」
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