司馬法の嚴位第四に「起譟鼓而進、則以鐸止之」なんて書いてあるけど、退却の時も鐸を鳴らすんだっけ?なんて今、悩んでいる清岡です。こんばんは。
※追記
『イナズマイレブンGO クロノ・ストーン』で劉備登場(2012年10月3日)
さてサイト「
呉書見聞」のBBSでの
ニセクロさんの6月17日の書き込みを見て思い出したんですが、続漢書百官志にも軍の規模(大将軍の?)とそれに応じた官職が書かれているのですね。しかも俸禄付き。以下、抜粋。
其領軍皆有部曲。大將軍營五部、部校尉一人、比二千石;軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。曲下有屯、屯長一人、比二百石。
つまり、大将軍には五部があって、それぞれの官職と俸禄、()内にその軍事組織の単位を書くと、
部校尉、比二千石(部)・軍司馬、比千石(部)
─軍候、比六百石(曲)
─屯長、比二百石(屯)
ってことになりますね。
それと籾山 明/著「漢帝国と辺境社会 長城の風景」(中公新書1473、中央公論新社、1999年)の111ページによると(孫引きになるけど、元は 久保田文次 1988「青海省大通県上孫家塞115号漢墓出土木簡の研究─特に漢代の部隊編成を中心として─」『駿台史学』74号 だそうです)、出土木簡に見られる漢の軍団編成は、
軍尉(校)
─司馬(部)
─候(曲)
─五百将(官)
─士吏(隊)
─什長(什)
─伍長(伍)
だそうです。漢と後漢の違いはあれど結構、似ているところがありますね。あと「通典 卷第一百四十九 兵二 法制」に載っている後漢魏武軍令の歩戰令に「伍中有不進者、伍長殺之;伍長有不進者、什長殺之;什長有不進者、都伯殺之」とあるので、什長の上には都伯がいるのかな、とあれこれ思ってます。
全然、関係ないですけど、三国志の筑摩訳本などで「部曲(私兵)」なんてありますけど、「部曲」(部と曲)自体は単に軍組織を指している言葉でたまたまその箇所の部曲が私兵的扱いがされているって意味でしょうか。「部曲=私兵」ではないですよね??
あとこれを見ても「
侯」と「候」とでは縦線一本違ったら意味がかなり違うことがわかりますね。「夏侯覇」を「夏候覇」と間違って検索している人や「夏侯惇」を「夏候惇」と間違って表記している人! 夏侯さんに失礼なのでお気をつけてくださいね。
で、話を本題に戻しますと、以前、三国志ニュースのコメント(下記URL)で、
むじんさんが指摘してくださった鄒靖について。
そうそう下の自サイトのページにもあるように
後漢書応劭伝によると中平二年の鄒靖は北軍中候って官職です。
・京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040504.html
※しかし、ここの応劭のセリフの訳、当時も思っていたけど我ながら酷い訳ですね。機会を見つけて書き直したいと思います。
「北軍中候」って北軍の中曲(ってあるの? 前曲や後曲みたく)の候って意味でしょうか?
それから三国志蜀書先主伝に鄒靖が出てきていて(三国演義に似たように出て来るんで劉備関連の人として有名?)
<本文>
靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。
<清岡のテキトー訳>
靈帝の時代の末、黄巾が起こり、州郡おのおのは義兵をあげ、先主(劉備)はその屬従を率い、校尉の鄒靖に従い、黄巾賊を討ち戦功があり、安喜尉(安喜県の尉)になった。
てな感じで、鄒靖は校尉って官職です。
降格がないとすると、鄒靖は軍組織で北軍中候→校尉と昇進していると思われます。ということで、劉備の黄巾戦は中平二年(西暦185年)以降ってことになります。
余談ですけど、三国演義の「第一回:宴桃園豪傑三結義、斬黄巾英雄首立功」、つまり黄巾と戦う時の劉備の年齢は28歳なんですよね(「及劉焉發榜招軍時、玄德年己二十八歳矣」)。三国演義でも史実の劉備と没年・享年が同じなのでこれは中平五年(西暦188年)に相当します。光和七年(西暦184年)、あるいは中平元年(西暦184年)ではないのが不思議ですね。
※追記
メモ:「魏晉南北朝の客と部曲」
※新規関連記事
古代中国の24時間(中公新書2021年11月18日刊行)
※新規関連記事
増補新版 漢帝国と辺境社会(2021年11月30日発売)
サイト管理者はコメントに関する責任を負いません。
五営を掌監し、屯騎、越騎校尉などが属しています。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_hyakkan4.html
前、読んだことあるんですが、全部、読んでなかったようですね(汗)
改めてみると、ポストとしての「北軍中候」(六百石)と組織としての「北軍中候」の二種類あるイメージですね。
北軍中候は州における刺史みたいな役目でしょうか。
州には郡太守がいる感じで。