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京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)
040504
<<西方からの進軍(孫氏からみた三国志28)


   皇甫嵩(字、義真)は烏桓の兵、三千人を呼ぶよう中央へ要請した。040229-10)

   前回、唐突に「烏桓」という名称を出したんだけど、これは何かというと、異民族の名前。
   以前、「<<舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)」で鮮卑という異民族についてふれたんだけど、この烏桓も鮮卑と同じく東胡(人)の一派だそうな1)
   漢の時代の初頭に、東胡は匈奴の冒頓にその国を滅ぼされ、生き残った人々が「烏桓山」という山に行き、それで「烏桓」と名乗ったそうな……とこれは「舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)」で少し触れていたか。

   話戻して、要請を受けた中央では、ます北軍中候の鄒靖という人が皇帝に次のように上言した2)
「烏桓の人々は弱く、鮮卑を徴発しはじめた方がよいでしょう」

   この鄒靖がいうに、数年前まで戦っていた鮮卑の方がいいと。
   どうやら、その上言は皇帝から四府(大将軍、太尉、司徒、司空の役所)に伝わったようだ。
   それで、大将軍・何進の掾(属官)の韓卓(字、子助?)3)という人は次のように考え意見する。
「烏桓の人々は少ないですが、鮮卑と代々、仇敵で、もし烏桓が募兵を受ければ、すぐに必ず鮮卑が烏桓の家を襲います。烏桓がそれを聞いたら、それに応え軍を棄て救いに帰還するでしょう。実際、無益なだけではなく、さらに三軍(全軍)の情を阻むでしょう(全体の士気に影響する)。鄒靖は辺塞(国境)の近くにいて、そのいつわりをさぐります。もし鄒靖に鮮卑の軽騎五千人を募集させるよう命じるなら、必ず敵を破る効果が出るでしょう」

   どうやらこの韓卓は鮮卑を募集することに賛成のようだ。

   これに何苗の掾の応劭(字、仲遠)と言う人が次のように反論する。
「鮮卑は漠北(北の砂漠)に隔たっていて、犬や羊を群れさせ、君主の導きはなく、粗末な家にいて、そのため、生まれつき欲張りで乱暴で、信義にとらわれず、過去に障塞(国境の砦)を数回、犯し、そのため、安らかな年はなかったのです。ただ互市(異民族との市場)にいたり、来て従い服従します。かりそめにも国内の珍しい財宝をほしがり、畏れず徳をしたいません。会計がこと足りるまで得れば、転じて害をなすでしょう。これを朝廷が外にして、内にしないのは、おそらくこのためでしょう。過去、匈奴はそむき、度遼将軍の馬続と烏桓校尉王元は鮮卑五千騎あまりを募兵し、また武威太守の趙沖は鮮卑を率い、反乱した羌を征討しました。醜虜(異族)を捕らえ斬るには、すでに言うにおよばないほどで、鮮卑はあふれていて、多くは無法者でした。軍令で裁くと、そのときは怒りやすく乱を起こしました。統治は少しゆるむと、そのときは略奪され損なわれます。住人を脅かすと旅商人をかすめとり、他人の牛、羊をむさぼり、他人の兵、馬を略奪します。たまものはすでに多く、去ることに承諾せず、物で武器を買おうと再びほしがります。辺境の将は聞き入れず、絹を集め、これを焼こうとします。辺境の将は恐怖し、その反乱を畏れ、ことわりなだめ、あえて拒否することはありません。今、悪賢い敵は滅んでおらず、羌族は巨大な害をなしており、深い後悔へといたる場合は、後追いできましょうか。私が隴西の羌胡を募集し背いていない者と親しくし守り、その精勇をえらび、賞功を多く得るでしょう。(隴西?)太守の李参は冷静で謀(はかりごと)を持っており、必ずよくすすみ励み死力であたるでしょう。まさに漸消の計略(漸次、消えている計略)と思われ、すぐに望むことはよくないでしょう」

   応劭の意見は烏桓も鮮卑も募集せず、羌胡の中で反乱に荷担していない者たちを募集すればいいというもの。
   韓卓は再び応劭を同じように非難する。
   そのため、皇帝は詔(みことのり)で百官を朝堂(議事堂)に集わせたが、みな、応劭のいうことに従う。

   その場ではみな納得したからといって、烏桓も鮮卑も募集されなかったかというと、それは別の話
   (えぇ、別の回へと続く)


   一度、話が中央にうつったので、そのまま京師(らく陽)の話に続く。

   京師というと、おそらくこの時期、朱儁(字、公偉)と共に孫堅(字、文台)は荊州南陽郡から京師へと戻り、京師で何らかの職務を与えられているのだろう(思いっきり推測、<<参照

   京師にいた文台が目の当たりにしたであろう、事件が起こる。
(と書きつつ、文台は出ません・汗)

   後漢書の五行志によると、中平二年(西暦185年)二月己酉の日(10日)。京師にある南宮雲台に火災発生4)

   続いて、庚戌の日(11日)、樂成門が燃え、北闕(宮城の北門)までおよび、道を西へわたり、嘉コ殿や和歡殿を焼く。雲台の火災は自ら起こったと考えられ、榱(たるき)の先端が数百が同時に並んだところに、美しい灯火が連なりはじめ(こんなみやびな訳で良いんだろうか?)、その日、ことごとく焼き、白虎門、威興門、尚書台、符節台、蘭台におよぶ。
   そもそも雲台の物は周りの家で造られるところで、図書、術籍(術に関した書籍?)、珍玩(珍しいもの)、宝怪(珍しい宝?)がすべて所蔵されている。京房の易伝(京房字君明、漢の時代の人5)。その占い?)によると、「君主が道理を思わないと、その妖火が宮廷を焼く」とのこと。

   君主とはこの場合、皇帝のこと。その皇帝が道理を思わないってことだけど、その時期はどうだったかというと、思いつくのが一年前から十ヶ月続いていた黄巾の乱。
   後漢書の五行志によると乱があっても、皇帝は私欲を抑えず礼儀に立ち返らず、荒くみだれることはなはだしかったそうで、その行いを列挙すると、詔(みことのり)を雨のようにしき、騎士を電光のように激発し、政治は賄賂をもって行われていて、気に入った側女たちを宮殿に入れ、連ねて配下を封建し爵位を授けたそうな。
   爵位を乱発していて諸侯がいっぱい生じたので、京都では「今年、諸侯の歳だ」と語り合っていたとのこと。
   天の戒めは「賢行をすて、淫行をたたえ、何によって旧典(古い制度)をおさめようか」と言っているようだったとのこと。そのため、その台、門、秘府(天子の書庫)を焼いたんだろう、と。

   火事との関連性はわからないけど、癸亥の日(24日)、廣陽門の外の屋が自壊する6)
   火は半月でようやくおさまる。

 
   しかし、後始末が大変。
   いろいろ燃えちゃったものを建て直すにしても先立つものが要る。
   というわけで、なんと、一畝あたり十銭。全国くまなく徴収することになった7)
   ちなみに、一畝とは広さの単位で、一辺百歩の正方形の広さ。今の単位に換算すると、459平方メートルとのこと8)
   後漢書の宦者列伝によると8)、このアドバイスを皇帝にしたのは中常侍張讓趙忠。覚えている人は覚えていると思うんだけど、過去、何回か「孫氏からみた三国志」で登場して、この企画ではサブレギュラー(?)みたいなもの(例えば<<ここ参照)。臨時にとるなんて取られる方はたまったもんじゃない。黄巾の乱で荒れたばかりだというのに。
   太原、河東、狄道の諸郡に材木および文石(文様のある美しい石)を発注し、州や郡ごとで小分けし京師へ運んでいた。黄門や常侍(ともに宦官の役職)は、不十分に運んでくる者たちをすぐとがめ問い、ひどくなじって安くすることで、十分の一の値で買い、再びこれを売ることで(普通の値段で売って、差額を儲けていた?)、修理を担当している官吏はすぐに材木などを受けるということはなかったという。また、続漢書によると皇帝の親戚たちや縁故たちも同じことをしていたらしい7)。物流の間に、黄門、常侍、皇帝の親戚たちや縁故たちが入っていたせいで、材木はついに腐り積もり、宮室はなかなか修理されなかったという。
   さらに実際、徴集している地方の官吏たちのボスの、刺史や太守は、繰り返し私的な調役を増やしていたので、百姓が嘆いていた。普段の詔(皇帝の命令)は徴集の内容で、それらのどれも「中使」と呼ばれる西園のうまかいを内密に仲介させ、州や郡を恐れ動揺させ、多くの賄賂を受けていたとのこと。刺史、二千石の官吏、茂才・孝廉は昇任し、皆、軍を助け宮室の修理費を求め、それが大郡では二、三千万までいき、残りはそれぞれ差があった。当の官者(修理を担当している官吏?)はみな、まず西園で普通の価格を入れ、後でそれを得て去っていた。銭があっても成し遂げられない者は、時として自殺した。
   そういったことの一例をあげると、河内郡出身に司馬直(字、不明)という人がいたそうな。その司馬直は清らかだという名声により鉅鹿太守に着任した(前任は多分、郭典→<<参照)。そのとき、各郡に徴集するよう命令が下っていた。ところが司馬直はその割り当てを三百万減らした。そして、嘆きながら言った。
「民の父母のためということに反し、時代が求めていると称することで、百姓をしいたげるだなんて、私には耐えられません」
   司馬直は命令に従わなかった。
   その後、司馬直は孟津(京師近くの河水の南岸)まで行き、今の世の失われたことや古今のわざわいの戒めを徹底的に上書し、すぐ薬を飲んで自殺した。書は皇帝に渡され、一時、宮廷の修理費の銭を集めるのを止めた。皇帝もようやく自分が何をしたか少し気付いたんだろう。

   とは言っても現状が変わるわけではなく、燃えた建物は何年も復旧しなかったらしい。

   何だか、皇帝もその親戚も宦官も官吏もトホホな人なことで…
   もちろん天下は騒ぎ乱れ、盗賊が増えたんだけど。




1)   烏桓について。「烏丸」とも書くらしいんだけど、よく知らない。後者だと思わず「からすま」と読んでしまう(京都の地名ね)。と話がそれたけど、ソースは後漢書より(余談だけど、今、知られている漢書の志って元々、漢書なんだけど、ここではどう表記するか迷っている)。「烏桓者、本東胡也。漢初、匈奴冒頓滅其國、餘類保烏桓山、因以為號焉。」(「後漢書卷九十   烏桓鮮卑列傳第八十」より)   烏桓側の史料がないのは残念だけど、他民族からその民族のことがわかるっていうのって面白いねぇ。
2)   鄒靖の上言から始まったこと。実は「劭字仲遠。少篤學、博覽多聞。靈帝時舉孝廉、辟車騎將軍何苗掾。」から始まる、後漢書の応劭の伝のところから。ただ、何苗がこの時期、車騎将軍じゃないと思うんだけど、史書でたまにある、官名や元号がきっちりしていないってやつかな(例。中平元年三月に黄巾討伐をする車騎将軍・皇甫嵩)。「中平二年、漢陽賊邊章・韓遂與羌胡為寇、東侵三輔、時遣車騎將軍皇甫嵩西討之。嵩請發烏桓三千人。北軍中候鄒靖上言:「烏桓衆弱、宜開募鮮卑。」事下四府、大將軍掾韓卓議、以為「烏桓兵寡、而與鮮卑世為仇敵、若烏桓被發、則鮮卑必襲其家。烏桓聞之、當復棄軍還救。非唯無益於實、乃更沮三軍之情。鄒靖居近邊塞、究其態詐。若令靖募鮮卑輕騎五千、必有破敵之效」。劭駮之曰:「鮮卑隔在漠北、犬羊為群、無君長之帥、廬落之居、而天性貪暴、不拘信義、故數犯障塞、且無寧歳。唯至互市、乃來靡服。苟欲中國珍貨、非為畏威懷コ。計獲事足、旋踵為害。是以朝家外而不内、蓋為此也。往者匈奴反叛、度遼將軍馬續・烏桓校尉王元發鮮卑五千餘騎、又武威太守趙沖亦率鮮卑征討叛羌。斬獲醜虜、既不足言、而鮮卑越溢、多為不法。裁以軍令、則忿れい作亂;制御小緩、則陸掠殘害。劫居人、鈔商旅、たん人牛羊、略人兵馬。得賞既多、不肯去、復欲以物買鐵。邊將不聽、便取けん帛聚欲燒之。邊將恐怖、畏其反叛、辭謝撫順、無敢拒違。今狡寇未殄、而羌為巨害、如或致悔、其可追乎!臣愚以為可募隴西羌胡守善不叛者、簡其精勇、多其牢賞。太守李參沈靜有謀、必能獎雌セ其死力。當思漸消之略、不可倉卒望也。」韓卓復與劭相難反覆。於是詔百官大會朝堂、皆從劭議。」(「後漢書卷四十八 楊李てき應霍爰徐列傳第三十八」より)
3)   Q.ここの韓卓の字は子助か? A.すみません、あまり調べずに書いてます。以下、引用元です。「卓字子助。臘日、奴竊食祭其先、卓義其心、即日免之。」(「後漢書卷六十八   郭符許列傳第五十八」の注に引く「袁山松書」より)
4)   南宮雲台、燃ゆ。こちらも後漢書の志より。『中平二年二月己酉、南宮雲臺災。庚戌、樂成門災、延及北闕、度道西燒嘉コ・和歡殿。案雲臺之災自上起、榱題數百、同時並然、若就縣華鐙、其日燒盡、延及白虎・威興門・尚書・符節・蘭臺。夫雲臺者、乃周家之所造也、圖書・術籍・珍玩・寶怪皆所藏在也。京房易傳曰:「君不思道、厥妖火燒宮。」是時黄巾作慝、變亂天常、七州二十八郡同時倶發、命將出衆、雖頗有所禽、然宛・廣宗・曲陽尚未破壞、役起負海、杼柚空懸、百姓死傷已過半矣。而靈帝曾不克己復禮、虐侈滋甚、尺一雨布、すう騎電激、官非其人、政以賄成、内嬖鴻都、並受封爵。京都為之語曰:「今茲諸侯歳也。」天戒若曰:放賢賞淫、何以舊典為?故焚其臺門祕府也。』(「後漢書志第十四   五行二」より)
5)   「京房易傳曰」。脚注4)でこういうこと、書いていて、はじめ、「京」っていうぐらいだから都のことだろう。「房」ってのは多分、坊に通じてて区画のことだろう、なんて思っていたら、京房という人がいたようだね(汗)。とんだ大恥をかくところだった。と言っても、まだまだこの企画にはそういう爆弾がありそうだけど。「京房字君明、東郡頓丘人也。」(「漢書卷七十五 列傳第四十五」より)。例によってあまりこの人のことは調べてない(汗)
6)   癸亥の出来事。本紀より。本紀は相変わらずシンプル。「二月己酉、南宮大災、火半月乃滅。癸亥、廣陽門外屋自壞。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。じゃ、志をあたってみようとみてみると、「中平二年二月癸亥、廣陽城門外上屋自壞也。」(「後漢書志第十三   五行一」より)とのこと。こちらもシンプル。もうちょい火事との関連性とか知りたかったなぁ。
7)   臨時徴収の話。後漢書本紀だと、「税天下田、畝十錢。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)となる。あ、脚注6)の続きね。これだと何の目的で臨時で税金をとったかわからない。そこで後漢紀を見てみると、あったあった。「收天下田畝十錢、以治宮室。州縣送材及石、貴戚因起賤買入己、官皆先經貴戚然後得中。宮室連年不成、天下騷擾、起為盜賊。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。あと、「十倍」ってくだりだけど、ここの「御覽卷九二引續漢書」ね。「黄門常侍斷截州郡送林・文石、掌主史譴呼不中、退賣之、貴戚因緑賤買、十倍入官、其貴戚所入召者、然後得中。」
8)   後漢書の宦者列伝より。というより、2004年8月7日に追記。その関係で、大幅に本文を改修。次回の銅臭の話まで元々、このページにあってけど、文章量のバランスから移動した。
   まぁ、話戻して宦者列伝に載っている臨時徴収の話。「明年、南宮災。讓・忠等説帝令斂天下田畝税十錢、以修宮室。發太原・河東・狄道諸郡材木及文石、毎州郡部送至京師、黄門常侍輒令譴呵不中者、因強折賤買、十分雇一、因復貨之於宦官、復不為即受、材木遂至腐積、宮室連年不成。刺史・太守復搦調、百姓呼嗟。凡詔所徴求、皆令西園[馬芻]密約敕、號曰「中使」、恐動州郡、多受[貝求]賂。刺史・二千石及茂才孝廉遷除、皆責助軍修宮錢、大郡至二三千萬、餘各有差。當之官者、皆先至西園諧價、然後得去。有錢不畢者、或至自殺。其守清者、乞不之官、皆迫遣之。時鉅鹿太守河内司馬直新除、以有清名、減責三百萬。直被詔、悵然曰:「為民父母、而反割剥百姓、以稱時求、吾不忍也。」辭疾、不聽。行至孟津、上書極陳當世之失、古今禍敗之戒、即呑藥自殺。書奏、帝為暫絶修宮錢。」(「後漢書卷七十八   宦者列傳第六十八」より)。あいかわらずうまく訳せてないのでそれが本文にもろ悪影響がでている(汗)
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