後漢書卷八 孝靈帝紀第八によると
(中平五年冬十月)甲子、帝自稱「無上將軍」、燿兵於平樂觀。
(西暦188年10月16日に帝自ら「無上将軍」を称し、平楽観において兵を輝かせた。)
とのことで
中央研究院兩千年中西暦轉換で西暦(といっても日付は旧暦のまま)に変換すると、後漢の霊帝(劉宏、33歳)は西暦188年10月16日に「無上将軍」を自称したとのこと。今年で1819周年、来年に1820年という節目を迎える……と言っても来年、何かあるというわけではなさそうだが。
ちなみに霊帝は翌年の4月丙辰(11日)に34歳で亡くなったんだけど、その間に「無上将軍」として何かしたというわけではなさそうだけど。
同時期に設立された西園八校尉には一応、動きがある。同年十一月に八校尉の一人、下軍校尉の鮑鴻は葛陂賊討伐にあたる。ところがそこで横領したせいか(後漢紀より)、翌年の三月、獄に入り死んでいる。
<関連>閏1月28日は司馬師の命日
http://cte.main.jp/newsch/article.php/514
4月11日は霊帝崩御の日
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西園八校尉を設立したことも併せて考えると、
それなりに兵事、つまり宮中の外にも目を向けようとしていたのでしょうか。
その翌年にすぐ逝去している点も、小説的なネタになりそうな感じではありますね。
でも単に例のごっこ遊びだったとしたらイヤだなぁ…。
朕も将軍を名乗ってみたーい、みたいな(笑)
後漢書何進伝を見ると、「無上将軍」を称する際、何進と共に数万人の兵を列べたり、営を築いたり、霊帝が鎧をつけたりと大がかりなことをしてますが、どうもセレモニーっぽく見えますね(笑)
「無上将軍」はどこかの地方の賊が自称しているみたいな響きで笑えるんですが、ちょっと前、その旨を知り合いに言ったら、愛宕元・冨谷至/編『中国の歴史 上』(昭和堂)に「太平道にも影響をあたえた初期道教の影響をうけているといわれ」と載っていると返されました。
確かに「無上」と検索すると『太平経』に「稱無上之君」とかそれっぽいのがいくつか引っかかるんですが、道家は馴染みがなくこれ以上、踏み込むと迷宮に入ったようになるので、踏み止まりました(汗)
ここらへんから何進と上軍校尉の蹇碩の対立構造が出てくるころなので、確かに小説のネタになりそうですね。