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メモ1:清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)
2024年3月11日月曜日、前の記事のセミナーで参考文献にあがっていたのに気づき、その場で、検索した所、ネットのPDFで読めることがわかった。なので、下記関連記事の流れとなる。
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リンク:劉備出自考(国士舘人文学 第3号 2013年3月)
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リンク:魏晋南朝の民爵賜与について(九州大学東洋史論集 第30号 2002年4月)
それは下記の「九州大学学術情報リポジトリ」で読める、小林聡「西晋における礼制秩序の構築とその変質」『九州大学東洋史論集』第30号pp.27-60(九州大学文学部東洋史研究会2002年4月30日)だ。
・九州大学学術情報リポジトリ(QIR)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_browse/papers/
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九州大学入試の国語で三国関連2023(2月25日)
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リンク:魏晋南朝の民爵賜与について(九州大学東洋史論集 第30号 2002年4月)
・西晋における礼制秩序の構築とその変質
https://doi.org/10.15017/25801
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メモ:河西出土文物から見た朝服制度の受容と変容(2019年9月26日発行)
内容についてはそのPDFファイルを読んでもらうのが確実なのだけど、全体を把握しやすいように下記に目次をまとめる。
27 はじめに
28 一 西晋時代における官爵秩序の形成
30 1 「公」・「卿」クラスの礼制上の位置
34 2 「孤」クラスの成立
40 二 西晋的礼制秩序の変質
41 1 官品序列と官の清濁が礼制序列に及ぼした影響
46 2 礼制秩序における三省の位置
50 3 軺車制度の変化と魏晋南朝の官僚制
55 おわりに
56 注
礼制を規定するのは秩石を基幹とする位階序列と、王・五等爵を基幹とする爵制序列の二軸。魏晋以降、三公九卿にかわって尚書省、門下省、中書省、集書省、秘書省の官庁が中枢にきたと。「一」での漢末の動乱で礼制知識が失われたことに対する復活することより崩壊の根本的原因の克服優先→新たなる原理による再建・安定化って魏での流れが興味深い、それを受けての西晋てなことで「荀顗が儀注『晋礼』の編纂を、質充が『泰始律令』の編纂を、斐秀が官制改革と五等爵制の制定」など、周制の復活含むで。p.29で鄭玄説と王粛説との両グループ対立とか一筋縄ではいかない様も興味深い。p.30、後漢からの踏襲で、秩石と周制との対応は「一万石 公、中二千石以下=卿、千石以下=大夫、四百石以下=士」となると。「一 1」では「天人相関説的な三公観」(天と三公が関係すると)が出てくる。「災異策免」あるね、確かに。西晋の黄初二年に「災異策免」廃止、だけど、この三公観は議論が進められるそうで。p.32で「礼秩」という言葉の登場。「一 2」で西晋初期に「八公」制定。p.35でこの記事のきっかけになった「『晋書』巻二五、輿服志に、中二千石以下の安車制度の序列について」が出てくる。p.36に「侯伯執圭、子男執壁、孤執皮畠、卿執羔、大夫執雁、士執維。」と表題の「孤」が出てくる、身分ね。「二 1」は「服飾」から。p.42で私的服飾について禁物規定に言及。p.43に見出しの「清濁」が出てくる東晋以降、礼制世界で適用されると。「二 3」でいよいよこの記事のきっかけとなった前の記事関連の車制が出てくる。p.51で軺車を軍用車・大衆車と喩えてるね。p.52には引用された表が出てくる。p.60注(43)では『南斎書』の段階で元々馬だった軺車が牛に引かれると。
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メモ1:清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)
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