知人と鍋をつついてでてきた話。
個人的に目から鱗な話だったんだけど、表現力のなさから、この感動をWorld Wide Webに乗せても誰一人としてほとんど伝わらないんだろうなと思いつつ、記事で書いてみる。その場に居た人は「こんなに食い付いてくるとは」と言っていたぐらいだし。
まず関連リンクから。
・歴史と小説
http://cte.main.jp/newsch/article.php/256
話の発端はA氏がB氏の歴史小説のことを「コスプレ現代劇」と言っていたという話(A氏だけが思っていることじゃなく、多くのその筋の専門家たちも思っていた、ってのが興味深かった。裏話なので詳しくは書かないが。試しに「コスプレ現代劇」と検索するとまったく別の用例が出てくる)。そこから二転三転し、当たり前だけど、多くの歴史小説の読み手は四六時中そればかりを考えているんではなく、日常のごく限られた割合を使っているに過ぎないよな、と話していた。例えば通勤通学の行き帰りの電車で読むとか。それに多くの小説や読み物の一つの選択肢でしかないわけだし。そんな多くの人の中には、ある歴史小説の作品や歴史小説というジャンル自体が好きになって、小説についてあれこれ考えたり論じたりする人も出てくるんだろう。さらにそのうちの何割かが歴史小説にやたら「史実」やら「歴史的に正しい」やら「この話は本当のことか」やらとこだわる読み手が出てくるんだろう、って話になった。その場ではこの読み手を「中級者」とした。いや、この言葉はおかしいだろ、ってすぐに自己ツッコミを入れたんだけど、わざわざ改めて言葉を定義付けるのも会食の席でアホらしいので、そのまま「中級者」で流した。
「中級者」の視点から行くと、どうやら歴史小説は面白い面白くないよりそういった史実性を重視する傾向にあるんじゃないか、ってこと。その場に居た人は好んで歴史小説を読む人は居なかったのでネットを見て回ったときの印象でしかないのだけど。
読み手の要求が高まれば書き手もそれに対応するだろうし、あるいは読み手の要求が高まる理由が書き手の側にあるんだろう、と話が書き手側へと移っていった。そういった「中級者」を史実重視にさせる痕跡、あるいは「中級者」が史実重視にさせる痕跡はあるのか、という話になり、あれこれどんな痕跡があるかあげていた。歴史小説の作中以外のところから
自らの作品について書いていた例とか、小説なのになぜか参考文献があってそこに「アジア歴史事典」が上げられていた例とか(尤も大学の一回生が参考にする事典だそうなので学生の間ではネタとして語りぐさだそうだけど)、
作中の地の文で史書の記述を引用した例とか、究極的には歴史小説内で本来だったら見せる必要がなかった取材過程の描写まで作品に織り込んでいる例とか。それだけだと説得力なくとらえられるので、書き手が○○大学○○学科出ているとか、元々、新聞記者で取材力が高いとか、元々、そこの文化圏の人だとか、読み手が勝手に権威付けするんだろうか。(そういえば小説から外れた上に読み手の方の話になるけど、古い時代を取り扱った漫画の感想を書いたブログの記事で「この作者さんは学会に出るほど」ってのもあった。正確に引用しようと検索かけるがソースが見つからず。)
結局、こういった痕跡は「中級者」を意識して作品性を高めたりあるいは商業的価値を上げたりするため意図的につけているのか、それとも意識せず(天然で)ついてしまったのか、まったくの憶測で作品ごとにどうなんだろうとしゃべっていた。意図的に痕跡をつけ「中級者」の意識をコントロールしているとすれば、私だったら尊敬してしまう。
書き手が意図的なのか成り行きなのかは別として、読み手である「中級者」が歴史小説に含まれる史実性に価値を見いだしたりと、あたかも「歴史学」のような立場(と実際は違うけど)をとり、批評をしたり評価を下したりするような構造が大なり小なりあるのかな、という気がした。こういった構造をその席で私は「歴史学ファンタジー」と名付け一人で、はしゃいでいた。すぐに歴史ファンタジーや中華ファンタジーという用語と紛らわしいね、と自己ツッコミしていたけど。
「歴史学ファンタジー」(例によって会食の席で改める気がなかったのでこのまま)という考え方は私にとって目から鱗の視点で、いろんな現象を説明できるのではないか、という気になっていた。先に挙げた痕跡の例はまさに「歴史学ファンタジー」が成せる業なのかもしれないし、歴史の議論をしているのに出典として歴史小説をあげるのもこいつのせいかも。急に話が飛ぶけど、「魁!!男塾」の「民明書房」(分からない場合は検索してね)なんてまさに「歴史学ファンタジー」を逆手に取ったパロディーだしね(尤もあまりにも真に迫ったパロディーだったせいか、「民明書房」が実在していると多くの読者が勘違いしたそうだけど)。
書き手がこの「歴史学ファンタジー」を熟知していてこれを利用し、作品やそれに付随する文章などを通じて読み手を育て(?)「中級者」を大量生産し、結局、「中級者」は書き手により価値基準を与えられているので、良いお得意さんがたくさんいて精神的にも物質的にも裕福になるなぁ、なんて妄想を抱いてしまっていた。もしかすると読み手の側も読み手の側で「歴史学ファンタジー」を熟知していて「中級者」の一歩先に進み、歴史小説を「正しい、正しくない」とか「面白い、面白くない」とかで語らず、「歴史学ファンタジー」に則した見せ方が「うまい、うまくない」で語り出しているのかもしれない。そうなるとそういう読み手は「上級者」とか呼ぶと「中級者」以上にかなりずれてくるので、普通の読み手をマーク、「中級者」をスマーク、わかっていて楽しむ人をスマートなんて名付けたりして。妄想が妄想を呼びここらへんはすでに会食の場では口に出すのもはばかられるので、単にニヤニヤして「歴史学ファンタジー」という考え方に黙ってただただ感心しているだけだった(外からみたら変な人だね)
私も自分の小説に参考文献ぐらいは挙げておこうかな…と私が挙げても目の肥えた人に見せ方が下手とか言われて終わりそうだけど。
それから今、
All Aboutで「歴史小説」のガイドが募集されているので、誰かこれに応募して「歴史学ファンタジー」の観点から歴史小説を語ってくれないかな? なんて書いてみる。
と上記、関連リンク先の話題にとんで。「中級者」が率先して「歴史学ファンタジー」を形成しようとしているんだから、読み手の多くが歴史と小説を混同してしまうのも無理ないかな、と思ってしまった。
<2月27日追記>
なるほど、「教条主義」って言葉があるのか。
しかしどこのファン層もいろんな事情がありそうだ。
・落語2.0宣言(「
岡田斗司夫のプチクリ日記」内記事)
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/20_954e.html
※追記
私的メモ3:三国志関連初心者向け
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