※関連記事
2005年11月~「中国古典小説選」全12巻
上記関連記事にあるように、以前、2005年11月20日から刊行された『中国古典小説選』を紹介したんだけど、それらを図書館で見かけ、ふと紹介していないものに三国関連ではないかというのあるのに気付く。
・HOME|明治書院
http://www.meijishoin.co.jp/
・中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他【歴代笑話】
http://www.meijishoin.co.jp/search/index.php?BOOK_ID=BKS009410
それが上記の出版社サイトの上記書籍ページにある竹田晃・黒田真美子/編、大木康/著『中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他【歴代笑話】』(ISBN978-4-625-66411-3、2008年11月10日発売6720円)収録の『笑林』だ。
『笑林』の撰者は『隋書』巻三十四経籍志三に「笑林三卷 後漢給事中邯鄲淳撰。」とあり、邯鄲淳だと判る。 その人物は『三国志』巻二十一魏書王粲伝に
自潁川邯鄲淳・繁欽・陳留路粹・沛國丁儀・丁廙・弘農楊脩・河内苟緯等、亦有文采、而不在此七人之例。
とあり、同じく『三国志』巻二十一魏書王粲伝に注があり、そこで『魏略』が引かれ、
淳一名竺、字子叔。博學有才章、又善蒼・雅・蟲・篆・許氏字指。初平時、從三輔客荊州。荊州内附、太祖素聞其名、召與相見、甚敬異之。……及黄初初、以淳為博士給事中。
と列伝があり、後漢末から三国(魏)の人物であることが判る。ちなみに『三国志』巻二十二魏書陳羣伝の「父卒」の部分に『三国志集解』では注がついており、「紀卒於建安四年六月見邯鄲淳陳君碑」(陳紀は建安四年六月に卒去したと邯鄲淳による陳君碑に見える)と出てくる。
『笑林』は名前の通り笑話集であり29話収録されており、散逸したものの、『太平御覧』、『太平廣記』、『藝文類聚』等に収録されており、それらが魯迅『古小説鈎沈』等に集められていて、『中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他【歴代笑話】』でもそれが底本となる。
『三国志』が対象とする時代と同時代とあって、風俗や用語等で参考になる。また、「漢司徒崔烈」、「葛龔」、「孔文舉(孔融)」等、近い時代や同時代の人物が見える。
これを収録する『中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他【歴代笑話】』では現代語訳、原文、書き下し文、語注、余説の五項目が設けられている。
<追記>
この書籍での『笑府』部分で三国を題材にしているのは以下の通り。
『笑府』
巻四 方術部 三阿弟
漢時有一神相来訪劉玄徳。劉使観相、相者曰、汝相甚好、白面而白心。因令相雲長、相者曰、汝相亦好、赤面而赤心。劉聞之、急握張翼徳手曰、三阿弟険矣。莫相罷。
巻六 殊稟部 看戯
有演琵琶記者、找戯是荊釵逼嫁。忽有人嘆曰、戯不可不看、極是長学問的。今日方知、蔡伯喈母親、就是王十朋的丈母。
有演琵琶記而找関公斬貂蝉者。郷人見之、泣曰、可惜、好個孝順媳婦、辛苦了一生、被紅臉蛮子害了。
※戯曲に『関大王月夜斬貂蝉』というのがあると注釈。
或款郷下親家、而演琵琶記者。既十余齣、郷人謂其無殺陣也、怒見声色、主家陰嘱優使為之。戦甚酣、郷人大喜、顧主翁曰、這才是、我不説也罷、只道我不在行了。
曾見弋陽腔搬伯喈、里正妻与趙五娘跌打、則相殺亦未足奇。
巻十三 閏語部 千里馬
関公乗赤兎馬、日行千里。周倉握刀従行、日亦千里。行憐之、欲覓一良馬賜焉而遍索、無千里者。只一馬日行九百、乃厚価市之贈倉。倉乗馬従公、一日差百里、両日差二百里。倉恐失公、仍下馬歩行。而又不忍棄馬、乃以索攢馬蹄、懸之刀頭、掮之而飛走。
※追記
横山光輝三国志おもしろゼミナール(1984年7月)
<追記終了>
※2014年2月4日追記。2日日曜日から不特定多数のドメインからやたら「笑林 現代語訳」とか「書き下し」とか検索され、一件、大阪からとわかるのがあるので、そこらへんの大学やら高校やらで課題が出たのかな。ネットで済まそうとする安易な動き。
※新規関連記事
戦争にまつわる残酷な話(月刊しにか2001年8月号)
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