・大澤良貴さんのサイト「OVER LOAD」
http://overload-system.net/
数ヶ月前、上記のサイトの掲示板の「三国志3」スレッドを見ていたら、貨幣と銅山と赤壁の戦いについて(←ちょいと端折りすぎた説明)、気になる書き込み(2005年5月8日以降)があった。
それで素人目に見て、「湖北省銅緑山」(黄石市南西二十五キロ)って当時、なんて呼ばれていた山なんだろう?、って気になった。
そこですぐ軽く調べたらいいものの、そのままにしていたら、ブログ「GOGO三国志!」によるとどうも「コミック三国志マガジン」5号の「随筆三国志」でそこらへんのことが書かれているらしい。銅は赤金(あかかね)ともいうし表紙の赤とかかってるのかな。
・ブログ「GOGO三国志!」
http://blog.goo.ne.jp/aoitako
・その記事
http://blog.goo.ne.jp/aoitako/e/2d2b25b62e2ebeecc019cade0c9d3713
まだ読んでないんで、まぁ、読むときの予習がてら、軽く銅山について調べておこうと思い、それだったらまず続漢書の郡国志だって思って、郡国志を「銅」や「赤金」で検索をかけてみる。
そうすると注も含めて銅が出てくるところの地名が出てきた出てきた……京兆尹藍田、越〓郡[工β]都、越〓郡靈關道、益州郡兪元・裝山、益州郡賁古・采山、[牛建]為屬國朱提(山)、上黨郡沾・少山、太原郡晉陽・懸甕之山、南郡臨沮・荊山。
……と江夏郡あたりには全然、出てこない。まぁ、郡国志に出てこない銅の産出地なんてたくさんあるし。じゃ三国志やその注にはでてくるか、と調べてみる。呉に関係するところ。三国志呉書周瑜伝の注に引く江表伝で周瑜は孫権の統治している土地について「鑄山為銅」(山を鋳て銅にして)と言及している……ってこれじゃ江夏郡と関係するかどうかわからない。あと、三国志呉書朱異伝の注に引く文士伝には「鍾山之銅」という記述が……と鍾山は丹陽郡にあるから違う。次は三国志呉書の諸葛恪伝。丹楊郡のことを「山出銅鐵」(山に銅や鉄がでて)と書かれている。と、これは江夏郡じゃない。
行き詰まったので、立ち戻って元の掲示板でリンク張ってある遺跡のページを見てみる。
http://www.china.org.cn/Beijing-Review/Beijing/BeijingReview/Japanese/99Oct/bjr99-40j-23.htm
あ、そうか、この遺跡は商から漢の時代だから、後漢や三国時代ってわけじゃないんだ。というわけで、史書の調べる範囲を広げてみる(といっても正史類とそれぞれの注だけど)。
そうすると、目に付いたのが「章山之銅」という文字。史記貨殖列伝や漢書地理志で見かける。そしてこの章山はまさに江夏郡にある。おぉ、と思って、譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)で確認してみると章山は……黄石市から250キロメートルも離れている! 違う山だ!
バショクショック!
というわけで、当時の山の名前は見つからなかったんだけど、再び予習ネタ。手元の本の中で関係ありそうなもの。西嶋定生/著「中国古代の社会と経済」(1981 東京大学出版会)に当時の経済について詳しくのっている。「第六章 魏晋・南北朝時代の社会と経済」の「一 農業と商業」。
魏では貨幣流通が衰退し現物経済のしめる比重が大きくなったとかで。魏の文帝の即位の翌年に「五銖銭の流通を禁止して穀物や布帛を交換手段とすることを命令した」、とか。呉から始まる「南朝諸国では、貨幣流通も比較的盛んであった」とかで。
※追記
邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア(2011年9月6日)
※追記
SOUL 覇 第2章 2集(2012年8月30日)
サイト管理者はコメントに関する責任を負いません。
大澤さんの意見は、貨幣経済に集中しすぎているきらいがありますね。現代の貨幣とあの時期の貨幣は基本的な機能・役割もまた違うものです。文献では貨幣貨幣と言っていますし、古銭も出てはきますが、現実的には現物経済が幅を利かせていたと思います。
それから「銅緑山」ですが、殷の時が最高で、殷は青銅器用の銅をとるために、ここに植民都市を建設したくらいです。言われるとおり漢代くらいであらかたいい鉱脈は取り尽くしたのだと思います(少なくとも当時の技術では)。また大型青銅器を作るわけでもないので、ただ貨幣を造るのに(おそらく枯渇気味であった)「銅緑山」目当てに・・・ということは、ちょっと考えにくいと思います。「銅緑山」にひっぱられすぎた議論でしょう。他にも文献上知られない銅山はあったはずですから。ちなみに三星堆の青銅は雲南省と四川省の間の金沙江あたりのものですよ^^; 文献になんて出てきません(笑)
以上、感想まで♪
記事の意図を正確に読んでいただき恐縮です。それからわかりやすくくわしいコメントもありがとうございます。
未だに「コミック三国志マガジン」のコラムを読んでいないです(汗) 次号の後編共々、いろいろ楽しみです。
(もしかしてそのコラムに三星堆の青銅のことがかかれているんでしょうか。。。)
仁雛様のコメントも大変勉強になりました。
ブログにも書きましたが、曹操の通貨供給計画が赤壁の戦の原因という推測はとても面白かったです。
結局敗戦で失敗に終わり、その後の魏でも通貨不足に悩まされた事から見ても、これも一つの説として捉えてもいいと思います。
(…コラムには三星堆の事は書かれていませんでした。)
「随筆三国志」によると、銅緑山は世界遺産にも指定されているそうなので、世界遺産を調べれば見つかりそうです。眺めも素晴らしいのかもしれません。
自分でちょっと調べてみて、長江の南には銅が付く地名が多いのにも、驚きました。
…それでは、失礼いたしました。
つまりは銅山は名前が知られていない(文献に出てこない)ところにも、大鉱脈はあって、なおかつ古代ではかなり遠方であっても(流通していて)利用されていたということです。
それから三国に分かれてからも、かなり流通・交易もありましたから。呉の朱然墓の漆器は、蜀で生産された漆器が多いです。
ということで、わざわざ軍事的に支配下に置かなくとも、通貨の原材料を供給することはできるのであって、
当時廃山に近い存在になっていただろう「銅緑山」目当てにわざわざというのは、銅山にちょっと引きずられすぎた考えだということです。
もちろん着眼点は面白いですし、地域のさまざまな資源を利用しようとして版図を広げることは当たり前のことですけども。
さらに流通について詳しいコメントありがとうございます。
なるほど三星堆はそういう意味だったんですね。
「銅緑山」指定じゃなくて、あの地域全体のことだと説得力が増すような……と書きつつ、まだ記事、読んでないのですが。
「三國時金屬貨幣似不甚通行,而非金屬貨幣則反甚通用。」のあたりとか。