・三国志学会第一回大会ノートお昼休みからの続き
http://cte.main.jp/newsch/article.php/402
14時に定刻通り始まる。
○劉世徳(中国社会科学院教授)、通訳 伊藤晋太郎(慶応義塾大学講師)「『三国志演義』嘉慶七年刊本試論」
今回はレジュメというより「≪三国志演義≫嘉慶七年刊本試論」という11ページの論文が配られている。それはタイトルも含め簡体字で書かれている。以降、ここで表示できる漢字に置き換える。
劉世徳先生は中国の三国志演義学会の会長でだそうな。司会の金文京先生によると、中国の古典小説研究の権威とのこと。
講演のスタイルは前日の
劉先生の大学院特別講演会「曹操殺呂伯奢」と同じくまず劉先生が中国語で話し、随時、その後に通訳の伊藤先生が訳されていくというものだ。
なぜ劉先生が三国演義の版本について研究しているかのお話。三国演義の版本については日本の方が先を行っていて、中国人の方も急いで追いつかないといけないとのこと。そういう考えの元、一人に日本人学生(博士課程)をとったとのこと。もちろんその学生は版本研究。彼の論文は優秀だと評価されたので、研究所では彼を版本研究にとどめようとしたそうな。ところが彼はその研究所から去ることになったとのこと。その理由は彼が結婚することになったんだけど、彼は家を貰えなかったからとのこと。その後、彼は商売替えし、三国演義から完全に離れてしまったとのこと。
その後、劉先生自ら、版本の研究をすることになったとのこと。
劉先生が今まで嘉慶七年刊本の研究をしてきた理由。その版本というのは希なものだから。イギリスの学者、アンドリュー・ウエスト(論文の除魏安?)の「三国演義版本考」という本によると、嘉慶七年刊本はアメリカのハーバード大学にしかないとのこと。その版本というのは紹介する価値がある。
その版本の特徴は福建省の建陽というところで清の時代(嘉慶七年)に刊行されたとのこと。
嘉慶七年刊本は二つの版本の流れが合流している性質がある。この趨勢は明代の終わりから清代の初めに始まった。福建省の建陽にあった出版社のあるものが南京の方へうつった。本来は上三分の一が絵で残り下三分の二が字だったんですが清代になりその形式を捨て去った。この時代の版本は毛宗崗本にどんどん近づいた。この版本は毛宗崗本についてた絵を移植している。また金[又/土][口又]という有名な文芸評論家の名を勝手に使っている。毛宗崗本に近づいているのに毛宗崗本とは称されていない。福建省の建陽の版本は風下におかれていて絶体絶命の状況にあった。
嘉慶七年刊本は12幅(12枚)の絵がある(論文にその人物が書かれている。昭烈帝、張飛、諸葛亮、趙雲、姜維、曹操、張遼、許チョ、呉大帝、周瑜、魯粛、司馬懿)。その中に関羽だけ居ない。
明代、関羽は重きを置かれていた。嘉靖本とその復刻本の区別がある。嘉靖本には関羽がどのように殺されるか詳しく書かれている。復刻本ではそういう場面がない。どう書き換えられたかというと、天から関羽を呼ぶ声(「はやくおいでよ」)がした、というふうに書き換えられている。このように明代には関羽を尊重して書き換えが行われている。同じように関羽の名前もでず「関公」と置き換えられている。それに対し、嘉慶七年刊本では関羽の絵がなくなっている。明代から清代の初めにかけて関羽を神様にする機運が高まっていたが、嘉慶年間になると関羽崇拝のブームが覚めてきた。
嘉慶七年刊本は簡本(二十巻)であり、福建の本は簡本と繁本の二種類に分かれる。それら簡本は「志伝」と「英雄志伝」の二種類がある。嘉慶七年刊本を劉龍田刊本と黄一鶚刊本とで比較した。論文の比較は全面的ではないかもしれない。
次に論文の構造と結論についての話。
論文は八つの部分で構成。一は概況。二はいくつかの注意点。ここで四つの問題について述べている。一つ目は嘉慶七年刊本に書かれた作者の出身地が間違っている。二番目に関羽がいない点。三つ目は誤字が多い。四つ目はコスト削減のため臨機応変的な処置をとっている。
三番目のテーマはこれが福建省の出版なのかどうか。三つの問題。一つは劉先生は福建省出版と認識している。その理由は書店、序文の作者や巻の構成などから。三つ目は二つの可能性がある。一つの可能性は福建の書店が出版した。二つ目の可能性は余所の書店が福建の古い版本をつかって出版した。
四番目のテーマは三国演義第240節の題名について述べられている。三つの問題について述べている。一つ目は目次と本文の題名の不一致。二つ目は第139節、本文に関索は出てこないが、本の先頭にある目次には関索の文字が見える。三つ目は節のタイトルに誤字が見られる。→黄一鶚刊本によく似ている。
五番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の一。235節の本文を例にとって述べている。いろんな本を比べ文字を見ると「簡本」に分類。他の簡本に比べてもかなり簡略化されている。
六番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の二。33節と175節の末尾。33節の最後の部分には三つの違いがある。嘉慶七年刊本は明代の黄一鶚刊本の系列の簡略化された本と同じ。
七番目のテーマ。一部分をみて全体を判断する、其の三。関索の挿話について述べている。結論。嘉慶七年刊本は基本的に黄一鶚刊本、明代の劉龍田刊本と同じ。別の系統にある周曰校刊本とは異なる。
八番目は終わりに。すでにお話ししたのでここでは繰り返さない。
○質疑応答
たいがあさんからの質問。三国志演義の版本について、日頃から疑問に思っていたことの質問。三国志演義の英訳(テイラー訳)について。英訳本と和訳本(小川環樹訳)とに内容が食い違う部分がある。例えば三顧の礼のシーンで諸葛亮が吟じる詩のところ。
※ここらへんは「三国志ファンのためのサポート掲示板」で出ていた話題なので以下のリンク先を参照のこと
http://cte.main.jp/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=2023
これら二つは版本が元々違うのか?
→司会の金文京先生が(和訳の話なので)劉先生には答えることはできないとし、まず話の確認から。小川環樹訳は毛宗崗本とのこと。それから誰がおわかりになるか? と呼びかける。しばし二、三人からの中国語が会場に響き渡る。
(※中国文学のイギリス人の訳と日本人の訳について中国人と韓国人が中国語で話し合っているのを多くの日本人が静かに見守るという何とも国際色豊かなシーンだと清岡は内心思っていた)
司会の金先生は「それは面白い問題ですね」と話す。
→(劉先生の中国語の話を金先生が日本語に訳して)まとめると、結論としてはお答えできない。なぜなら劉先生自体、英訳も和訳も見ていないから。一般的な状況としてそれらは毛宗崗本に基づいて訳されている。毛宗崗本と一言にいってもそれは複雑で毛宗崗本の中でもいろんな違いがある。もしかすると英訳と和訳とでは元にした本が違うのかも。もし同じものに基づいていたら違いは起こらないだろう、と劉先生は信じているとのこと。明らかな例をあげると毛宗崗本では冒頭で詩があげられているが、本来の羅貫中のにはなかった
ここらへんは{前日の三国志シンポジウムの基調報告にあった話だ)
→さらにここから実際に諸葛亮の詩の違いについての確認。英訳にあたるような版本はない、とのこと。意訳ではないか? この間、やっぱり中国語が飛び交う。
(清岡がたいがあさんにきくと今、英語の文が手元にないとのこと。あとで清岡がノートPCでサポ板のツリーを見せる)
周文業先生からの質問。嘉慶七年刊本を劉先生はどこでみたのか?
→亡くなった方の蔵書の中で見た。
ハーバード大学のものと劉先生のみた本は同じものか?
→同じものであろう
12幅の絵で関羽が居ない理由は? それは単に抜けているだけでは?
→その可能性は小さいだろう。ハーバード大学の方の本でも関羽が居ないから。
周先生の理解では関羽崇拝ブームがどんどん高まっていった。劉先生との考え方以外で説明できることはないか?
→関羽崇拝は文化現象。明代の終わりから清代の初めまで関羽崇拝が高まったことは間違いない。清代中頃、関羽崇拝がさがっていったかどうかは検討の余地がある。劉先生は版本の話だけで述べた。関羽崇拝がどんどん高まっていったという根拠は?
周先生による別の考え方。関羽を崇拝するあまり怖ろしくて絵にもできなくなった(場内笑)。それは証拠があって清代に関羽のお芝居をすることが禁止された例がある。
→劉先生。関羽があるべきところにはあるはずだし、必要なければないはずだ。(何か例が出たけど清岡失念)。お芝居というのは特殊な状況で版本の問題は別。しかし、周先生の解釈も否定できない。
33節の末尾に三つの違いがあるということだけどどれが正しいか?
→字数の調整による違い。区切り方によってそれぞれのテキストに違いがでてきた。(その後、「紅楼夢」の例があげられる。) 話を通すと全部、同じだが、どこで区切るかによって違う。33節の末尾について専門に論文を書いたことがある。建陽で火事が起き出版業がだめになったことがある。数年前に建陽にいったことがあるが出版業が盛んだった時代のいかなる痕跡も残っていなかった。建陽の出版業は時代が下るごとに縮小していった。出版の中心は浙江省の杭州や南京の方へ移っていった。(以下、専門的な話が続く)
司会の金先生からのコメント。こういったテキストの研究というのは必要なものではあるが、非常に退屈なこと。劉先生の講演の冒頭で学生さんが版本の研究を離れるのも当然か、なと(場内笑)。もう一人名前の出ていたイギリスの人も今は銀行員になっていて、刊本研究をやめている。これから版本研究をやる人はご参考に、とのこと(場内笑)
○10分休憩
ここで清岡は
昨日一瞬、会った仁雛さんと会い、挨拶。
あと清岡はさっきのたいがあさんの質問に関してたいがあさんとあれこれ話す。それからKJさんとUSHISUKEさんとでホールの入り口の外側近くで雑談。三国志シンポジウムって中国語に訳すと三国志座談会なんだ。
そうするとホールの後ろの方でげんりゅうさんが話している人がいた。あまりにも自然な光景だったので、清岡はてっきりげんりゅうさんの出身大学関連の人(げんりゅうさんの先輩)かな、と思っていたら、渡辺精一先生だった(汗)。あまりにも唐突なことだったので、心の準備ができないまま、結局、清岡は渡辺先生にお話することができず仕舞いだった。その後、USHISUKEさんやKJさんあたりは渡辺先生とお話していたかな。ちなみにげんりゅうさんの話によると、渡辺先生もこちらのことをげんりゅうさんの出身大学関連の人だと思っていたとのこと。
・三国志学会第一回大会ノート6へ続く
http://cte.main.jp/newsch/article.php/407
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