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新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート1


  • 2012年3月22日(木) 00:21 JST
  • 投稿者:
    清岡美津夫
  • 閲覧数
    1,262
研究 ※目次 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)

※前記事 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート(2009年9月13日)

 予想より多い来客のためレジュメ増刷中で、開始が遅れる様子。ところが今は足りているとのことで、13時40分ぐらいに第1部の司会の阿部幸信先生が前に立ち、進行をする。

○開会の挨拶

 窪添慶文先生が登壇され、ちょうど10年前に長沙呉簡研究会ができた話題から入り、今回の主旨や科研(2つの班だそうな。レジュメにある二つのプロジェクトかな)について話される。

○報告I 魏晋簡牘研究への一視点

 13:47。關尾史郎先生が登壇され、プロジェクターでの報告を開始される。A4用紙片面印刷8ページのレジュメが予め配られていた。
 最近の成果を報告されるとのこと。30分だけなので駆け足気味だそうな。「パワポ」(※おそらくマイクロソフトの「Power Point」かと)を使うから座っての発表とのこと。

●1.はじめに
※以下、冒頭に「●」とある場合はレジュメからの引用。

 魏晋期の簡牘として樓蘭出土簡牘が著名だが、魏晋時代の簡牘はそれほど研究が活発でなかった。その理由は樓蘭が郡県制の枠外に位置する辺境であり、紙との併用で簡牘だけの史料でなく、カロシュティー文字のものとトータルで検討の必要があるからだという。
 ところから20世紀の後半以降、各地から簡牘が出てきて(朱然墓が有名)、それから呉簡が出土した。従来、基本的な史料あるいは一時史料として簡牘に改めて注目され、ちゃんと魏晋時代の史料として評価する段階にきているのではないか。

●2. 出土地別、魏晋簡牘一覧

 魏晋の簡牘としてどういう所からどういうものが出てきているのか。具体的に見ていく。

●1) 遺跡(フィールド)と墓葬

 秦漢時代の簡牘についての分け方はその性格に基づいて行われていたが、ここでもフィールド(遺跡)と墓葬の二つの区別に基づいて見ていく。まずフィールド(遺跡)についてさらに地域によっていくつか分けていく。
 まず長江以南。長沙走馬楼(呉簡)J22(プロジェクターに出土場所が映される)。あまりにも有名になったので詳しく説明する必要はないと思う。13年前の1996年に出土した。交差点の一角、走馬楼から日本の平和堂百貨店を建てる時に見つかった。14万枚ぐらいの大木簡(吏民田家莂)、木簡、木牘、竹簡、木楬、封検、籤牌等様々。年代で言えば220年から237年、三世紀前半。プロジェクターに映った写真が走馬楼、その南側が南側が東牌楼(まだ工事などで行っても見えない)。
 (レジュメの)(2)に入って郴州蘇仙橋J4,10。J4、2003年に井戸が見つかりその中に呉簡146枚(木簡、木牘、封検)。年代は長沙走馬楼呉簡より遅れる237?~243年。また未公開でJ10 西晋簡940枚余(四世紀の初頭八王の乱の最中)。江のすぐそばに井戸があったという。
 (3)南京秦准河南岸船板巷、木簡30枚(長沙呉簡の賦税納入簡と同じ形式。250年紀年を有する)
 新疆では、楼蘭遺址に代表されるのがいくつか出ている。、甘粛でも敦煌烽燧遺址や居延破城子(甲渠候官遺址)から魏晋時代のものが若干出ている。
 今まで注目されなかった墓葬のものがある。一つ一つ説明せず、レジュメで「【墓葬・長江以南】」と題して(1)から(8)まであり、全て名刺木簡が出土しており、一部では随葬衣物疏木牘が出土している。(※この後、スライドで名刺木簡の写真をみていく。年齢や字が書かれている様が示される)。またそれ(名刺木簡)は墓誌の役割を負っていたのではないか(關尾史郎「魏晋「名刺簡」ノート─長沙呉簡研究のために─」、『新潟史学』第60号:31-41頁、2008年)。
 【墓葬・新疆】では4点しかないので、共通のことが言えない。スライドで(4)トゥルファン未編号「五胡」以降墓の墓券?木楔(木牌)を見ている。墓誌に匹敵するような役割と言われている。
 【墓葬・甘粛】では近年、出土例が急増している。(6)高台駱駝城「五胡」墓の墓券?木牘を見ている。高台県というのは魏晋時代の文献で言うと酒泉と○○のほぼ中間にあって、酒泉郡の東よりの県が置かれた駱駝城なので、行政区画でいうと酒泉郡だという。続けてスライドで(5)高台駱駝城「五胡」墓の墓券?木牘を見ている。「十三年」と書いているのはおそらく升平十三年(紀元369年)で、その随葬衣物疏木牘について、長江以南のものはただのリストだが、これは付加文言を伴い人によっては道教的な鎮魂がなされているという。甘粛のお墓に出てきたものは随葬衣物疏木牘か墓券木牘、あるいはその両方が出土するケースが多い、出土地は現在の高台県、玉門市も含まれ、あるいは武威市に限定されている。はっきりしているのは現在のところ、長江以南のような名刺木簡が出てきてない。同じ甘粛の中でも敦煌はお墓の発掘が世界的に行われた所であり、酒泉・嘉峪関ではこの時期でも単独の出土例は報告されていない。敦煌では死者の鎮魂の目的では鎮墓文がいっぱい出てくるので敢えて墓券木牘をお墓に入れる必要がなかった。
 【墓葬・その他】にて、魏晋時代を通じ華北における簡牘の出土例は確認されてない。唯一六世紀後半(レジュメでは573年)に下った山東から晋末に随葬衣物疏1枚が出ている。
 【まとめ】に入って、(1)遺跡にせよ墓葬にせよ長江以南、甘粛(敦煌、居延、武威、高台、玉門に限定)も黄河以西に集中している。この偏在は自然条件に由来する可能性が高い。(2)紙も使われていたかもしれないがよくわからない。長沙では紙が仮に使われていたとしても使われる範囲が限定されていたのだろう。(3)墓葬簡牘は随葬衣物疏、名刺木簡、墓券木牘とあるが地域によって組合せは大きく異なる。長江以南で名刺木簡ばかりだが墓券木牘が作られなかったかというとそうではないだろう。少なくとも木や竹で書かれた墓券は出てきてない。(4)漢代までのような、書籍や法令の簡牘の出土例はない。但し玉門花海郷畢家灘出土の「晋律」残巻は帛。この時期の出土簡牘は、名刺のように、あくまでも被葬者を特定するもの、墓券のように鎮魂の意味を込めたものであった。

●2) 都城と地方(辺境)

 日本の場合は都城からの出土が多い。最近では地方木簡というカテゴリーを作って(平川南『古代地方木簡の研究』吉川弘文館2003年)地方から出てきたものを整理しているが、そもそも中国ではこのような都城木簡はほとんどない。その意味で2004年の南京での出土例は極めて貴重だ。秦漢以来、唯一の都城木簡(南京出土呉簡・西晋簡)だ。それは都城木簡という観点からどのようなことが言えるか。少なからず名刺木簡が含まれる。(スライドで見せながら)長沙呉簡からの名刺木簡は一種類と限られている。長沙呉簡の名刺木簡での本貫は「長沙益陽」でまさに長沙管内である。それに対し南京出土の名刺木簡の本貫だけ見ていくと宜春、陳國、廣陵、零陵と様々な地域である(賈維勇・胡舜慶・王志高「読南京新近出土的孫呉簡牘書法札記」『書法叢刊』2005年第3期:2-7頁、図版)。実は南京出土の名刺木簡は字がへたくそ。ともかく各地の人が都に赴いておそらく関係部署の官員に名刺を差し出したのだろう。つまり都でなければこのような多様な人々の名刺が一緒に出てくるのはありえないだろう。

●3. いくつかの問題

●1) 一般的な問題
 木簡から紙への書写材料の変遷について。關尾史郎『西域文書からみた中国史』(山川出版社・世界リブレット10、1998年)のようにかつて仮説を立てたことがある。この変遷過程は地域的に差を持ちながら行われた。遺跡と墓葬とを区別する必要がある。南京の場合はあまりにも小さすぎて紙を折りたたんだ封検と思わしきものが展示され(南京市博物館)、紙との併用が示唆される。郴州の場合、郴州市博物館に郴州晋関が展示されており画一的な木簡におおぶりな楷書で書かれている。長沙呉簡に比べ、郴州晋関は大きな木簡にどれもこれも大きな整った楷書体で書かれており、今までの木簡のイメージがひっくり返される。なぜそうなのかということは考える必要がある。
 長沙東牌楼から出土した後漢簡はあらゆる書体を含み、書道史の観点から非常に注目される。郴州呉簡も様々な書体を含む(關尾史郎「湖南省郴州市、蘇仙橋出土呉簡について」、『中国出土資料学会会報』第38号、14-16頁、2008年)。長沙呉簡に立ち戻ると、いろんな書体を含む(鶴田一雄「長沙走馬楼呉簡調査ノート」、『長沙呉簡研究報告』2008年度特刊、75-76頁)。南京晋簡もどうも画一的でない(賈維勇・胡舜慶・王志高「読南京新近出土的孫呉簡牘書法札記」『書法叢刊』2005年第3期:2-7頁、図版)。そうすると書写材料の変化に伴って書体も変化したと今まで語られてきたが、書写材料の変遷過程自体が非常に複雑で緩慢なのと同じように、書体の変遷過程も単系列で想定するのは誤りであろう。書体の変遷過程は同じようにそれ以上に混然としていたと考えないといけないのではないか。
 3世紀の東アジア動向を考えると、中国と各地域との交流が活発になった。各地域が中国から書写材料と文字を学び取った。そうすると仮定だが、呉簡を始め三国簡や晋簡が周辺の地域に大きな影響を与えたのではないか。そういう観点からすでに東アジア地方で簡牘を比較していくという研究グループが出てきている。

●2) 簡牘研究のなかで
 (※まずスライドで三つの簡牘を見せる)ある一定の区間で納税額を増えたり減ったりするが、そうすると、ある期間ではたくさんの種類の税を書かないといけないが、ある期間は税の種類が少ない。そうすると、ある時期では木牘が必要だが、ある時期は木簡で済まされたとなる。その木牘と木簡のカテゴリーをどこで区別するかは実ははっきりしていない。はじめから木牘に書くか、木簡に書くかは決まっていたのではなくて、必要に応じて、面積に応じて利用されたのではないか。
 長沙呉簡の吏民田家莂で竹簡、木牘といろんな種類がでてきたが、いずれも左右分券であった(※スライドでそれを見せる)。簿籍、納品書あるいは上行文書といった様々な性格を異にしたものが、等しく左右分券方式で重複して両者に分かれて運用された。機能的には共通性を有していた。
 簿籍の問題(※スライドで吏民田家莂を見せる)。書かなければならないデータは一件一件異なっており、それにより大木簡が太くなったり細くなったりし、限りなく木牘に近い大木簡、木簡でしかない大木簡。簿籍は編綴簡だと冨谷先生がおっしゃり(冨谷至『木簡・竹簡の語る中国古代 ─書記の文化史─』岩波書店・世界歴史選書、2003年のファイル簡)、吏民田家莂も簿籍で今見たように大木簡だ。里耶の名籍簡と吏民田家莂とは同じ様な大きさであり、つまり大木簡=簿籍という存在はここにまで遡ることも必ずできないわけではない。
 公文書の形状(※スライドでみせる)。長沙呉簡からいっぱいでてきたが、一枚一枚が上行文書で単独で機能するが、編綴溝があり実はこれが編綴されて動いていた。
 籾山明先生の研究で(籾山明「刻歯簡牘初探 ─漢簡形態論のために─」、『木簡研究』第17号、165-186頁)、秦漢時代、木簡の側面に刻歯が行われていたと言われているが、長沙呉簡が竹簡の類なので刻歯が不可能だが、それ以外の郴州呉簡でも刻歯が見られない。秦漢時代の木簡と魏晋時代の木簡との一つの違いをここに置くことができるかもしれない(まだ推測だが)。

(●4. おわりに)


 続けて次の報告に移る。

※次記事 新出魏晋簡牘をめぐる諸問題ノート2

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