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どうも、ジョージ真壁です。
むじんささん、御指摘・御意見、どうもありがとうございました。
このたびは、御指摘に対しての、私の回答と、意見を述べさせて
頂こうと思います。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
>ご意見を伺いますと、以下、4つの立場が明確に区分されてないような
印象を受けました。
>
>(a)正史を題材にとって学問を追究する(史学)
>(b)正史を題材にとって娯楽を追究する
>(c)演義を題材にとって学問を追究する(文学)
>(d)演義を題材にとって娯楽を追究する
>
>また、学問の側(a,c)が娯楽追究(b,d)の成果を取り入れることは
ない一方、娯楽の側(b,d)が学問追究(a,c)の成果を取り入れることは
正当な手続きであるというのもポイントです。したがって市場に流通する娯楽本が、
正史から話を取ってきたり、あるいは演義から取ってきたりするのは別段奇異なこと
ではなく、b,dを区別する必要はないように思われます。
なるほど。おっしゃられているように、4つの立場の境界について、少し(かなり)
曖昧だったかもしれません。改めて、私の意図を明確に宣言させていただきますと、
むじんさんの区分で言うところの、(b)(d)を、ハッキリ区別してほしい、という
ことになります。「同じ娯楽(先だっての皆様の御意見にある「娯楽系」とは意味が
異なる)なんだから、その成果をぶち込んでやれ」というのは、勘弁してほしい、
という嘆きなのです。
なぜなのか。
これは、レスリング・格闘技の世界で喩えるとわかりやすいかもしれません。
(プロレス・格闘技ファンの方々のお怒りを買うかもしれませんし、御存知ない方
にとっては、意味不明な喩えかもしれませんが、御容赦下さい)
むじんさんの区分における四つの区分を、格闘技界で言えば、下のようになるのでは
ないかと思います。
(a)真剣勝負を、スポーツとして鑑賞する。(アマレス・相撲・他のアマ格闘技)
(b)真剣勝負を、娯楽として楽しむ。(K−1。プライド等)
(c)ショーとしての戦いを、スポーツとして鑑賞する。(一部のプロレス団体等か)
(d)ショーとしての戦いを、娯楽として楽しむ。(一般的な興行プロレス等)
(b)と(d)は、同じ格闘技であり、「娯楽」を求めている点では同じだが、
一方は「真剣勝負(真実に近いもの)」、一方は「ショー(フィクション)」という
明確な違いがあります。そして、「娯楽として楽しむ」と一口に言っても、当然、この
両者は、「求められている娯楽内容」の中身も違ってきます。もちろん、人に
よって様々な楽しみ方もあるでしょうが、(b)の場合は主に、「真剣勝負における
その内容と結果を堪能し、誰が一番強いのかを確認する過程」を楽しむのに対し、
(d)は、「勝負に至るまでの派閥抗争・因縁・パフォーマンスなどの前フリから
堪能し、対決での技の応酬・展開の起承転結という物語」を楽しむものと考えます。
同じ格闘技であり、娯楽ですが、お客が要求するものは、まったくの別物です。
三国志も同じで、娯楽として三国志を捉えていることは同じでも、「歴史系」「文学系」
「娯楽系」の各者が求めている内容は、まったく別物だと考えております。
今、三国志の本などで行われていることは、真剣勝負に勝とうとしている武蔵
と、お客さんを見て楽しませたいグレートサスケが、同じリングに上がっている
ようなもので、見ている方としては、その意味を理解できません。格闘技の世界で
言えば、「人気者二人をリング戦わせれば、いいってもんじゃないやろ」という
ことになります。
両者は、明確に区分されてこそ、その本領が発揮されるものと考えます。
(もちろん、格闘技の場合は、グレートサスケがK−1のリングに上がる可能性が
ないわけではありませんが、その場合、主旨は統一されます)
以上が、私の最初の主張での主旨です。
というわけで、格闘技で喩えてみましたが、いかがだったでしょうか?
かえって意味不明になったかもしれない、との危惧もありますが、その場合は、
御容赦下さい。また、御意見、御感想などを賜れれば幸いです。
ジョージ真壁
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