三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
1 / 66 ページ 前へ→

【2854】2007年7月29日(日)三国志...[27]  /  【2244】太史慈の命日について[3]  /  【3838】雑号将軍らの開府に及び幕...[8]  /  【3829】なぜ曹操は渡河を試みたの...[2]  /  【3833】『三國志 周瑜傳』出版[1]  /  【3831】関プチ2015[1]  /  【3828】三国志を題材にした演劇公...[0]  /  【3803】魏晋の役人(獄吏)について...[11]  /  【3825】最強三国志ゲーム降臨!![0]  /  【3797】9/14大興寺関帝像拝観|関...[9]  /  

【2854】2007年7月29日(日)三国志学会 第二回大会
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAIL  - 2007/7/1(日) 10:44 -

引用なし
パスワード
   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第二回大会(2007年7月29日(日)午前10時〜午後5時)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。


・三国志学会
http://www.daito.ac.jp/sangoku/

--引用開始---------------------------------------------------------
三国志学会 第二回大会

日時:2007年7月29日(日)午前10時〜午後5時
会場:大東文化大学 板橋校舎 30114教室
   (東武東上線、東武練馬駅下車、スクールバスが運行されています。)
参加費:500円(入会された方は無料です)
三国志学会年会費:2000円

プログラム

会長挨拶

  三国志学会会長 狩野 直禎

報告(午前10時10分〜午後1時)

 谷口 建速(早稲田大学大学院文学研究科)
 「長沙走馬楼呉簡にみえる「限米」――孫呉政権初期の財政についての一考察」

 伊藤 晋太郎(慶応義塾大学講師)
 「関羽文献の本伝について」

 休憩

 狩野 雄(相模女子大学准教授)
 「建安文学における香りについて」

 松本 浩一(筑波大学教授)
 「台湾における関帝信仰の諸相」

お昼休み

講演(午後2時〜午後4時)

 李殷奉(韓国仁川大学国語国文科講師),通訳 金文京(京都大学人文科学研究所所長)
 「韓国における三国志演義の受容と研究」

 林田 愼之助(神戸女子大学名誉教授)
 「私の中の三国志」

懇親会(午後6時〜)
 参加費:2000円
 会場:グリーンスポット
(大東文化大学板橋校舎内)
--引用終了---------------------------------------------------------

【3774】2013年9月14日(土)三国志学会 第八回大会
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2013/8/4(日) 7:49 -

引用なし
パスワード
   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第八回大会(2013年9月14日土曜日10時-17時半)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。
大会の会場は龍谷大学、つまり京都ですが、大会とは別に同年9月21日土曜日に例年の「一般講演会」が「三国志学会シンポジウム」になり、二松学舎大学 九段校舎1号館 中洲記念講堂(東京都千代田区)で開催されるそうです。内容は「関羽シンポジウム」とのことです。併せて下記に引用し紹介しておきます。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/
※昨年とURLが変更となりました。

※上記の三国志学会のサイトの「大会ご案内」のページからプログラム等を下記へ引用。
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第八回大会
日時:2013年9月14日(土)
メイン会場:龍谷大学 大宮学舎東コウ103教室
(理事会会場兼控室:同104教室)
http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html
参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

 プログラム
○ 会長挨拶 (10:00〜10:10)

○ 報告 (10:10〜15:45)

 川手翔生(早稲田大学大学院文学研究科)
 「士燮像の形成過程―ベトナムにおける「士王」評価をめぐって―」

 後藤裕也(関西大学講師)
 「「搶古城」故事について」

 渡邉将智(大東文化大学講師)
 「後漢における「内朝官」の解体と九卿の再編」

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「鄭玄の経学と西高穴一号墓」

○ 講演 (16:00〜17:30)

 池田秀三(京都大学名誉教授)
 「王肅の学問」

○ 懇親会 (18:00〜20:00)
場所は未定

 三国志学会シンポジウム
日時:2013年9月21日(土)
場所:二松学舎大学 九段校舎1号館地下 中洲記念講堂
(東京都千代田区三番町6−16)
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/a7.htm


○ 関羽シンポジウム―思想・宗教と文学
(13:00〜17:30)

司会
 渡邉義浩 (早稲田大学教授)

パネラー
 仙石知子(日本学術振興会特別研究員)
 「毛宗崗本『三国志演義』における「関公秉燭達旦」について」

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「「関帝聖蹟図」と『三国志演義』」

 二階堂善弘(関西大学教授)
 「元帥神としての関羽」

 小島毅(東京大学教授)
 「関羽と春秋学」

○ 懇親会 (18:00〜20:00)
 会場:未定
 参加費:未定
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【3814】三国志学会 第九回大会 2014年9月6日、1...
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2014/8/16(土) 23:36 -

引用なし
パスワード
   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第九回大会(2014年9月6日、13日土曜日)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。
 例年と違い、片方を大会、片方をシンポジウムという位置づけではなく、東京大会、京都大会と分けるようで、昨年の会場と同じく、東京大会は二松学舎大学 九段校舎1号館 中洲記念講堂(東京都千代田区)で、京都大会は龍谷大学 大宮学舎清和館3Fホール(京都市下京区)とのことです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

※上記の三国志学会のサイトの「大会ご案内」のページからプログラム等を下記へ引用。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第九回 東京大会
日時:2014年9月6日(土)
場所:二松学舎大学 九段校舎1号館地下 中洲記念講堂
(東京都千代田区三番町6−16)
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/a7.htm

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○報告(13:00〜17:30)

 谷口建速(大東文化大学非常勤講師)
 「走馬楼呉簡よりみる孫呉政権の軍糧確保と運用」

 稀代麻也子(筑波大学准教授)
 「阮籍の青い鳥ー江淹からみた詠懐詩」

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「何晏『論語集解』における玄学的解釈」

 石井仁(駒澤大学准教授)
 「曹丕の五官中郎将任官とその歴史的意義」

○懇親会(18:00〜)


三国志学会 第九回 京都大会
日時:2014年9月13日(土)
会場:龍谷大学 大宮学舎清和館3Fホール
(京都市下京区七条通大宮東入大工町125-1)
http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html

プログラム
○ 会長挨拶(10:00〜10:10)

○ 報告(10:10〜12:00)

 袴田郁一(早稲田大学大学院修士課程)
 「吉川英治『三國志』における人物形象 −「三絶」を中心に」

 清岡美津夫(NPO三国志フォーラム)
 「なぜ横山光輝は官渡の戦いを描かなかったのか」

○ シンポジウム「『三国志演義』とは何か」(13:00〜17:30)

司会進行
 竹内真彦(龍谷大学経済学部教授)

報告者
 小松謙(京都府立大学文学部教授)

 後藤裕也(関西大学非常勤講師)

 上原究一(日本学術振興会特別研究員PD)

 井口千雪(日本学術振興会特別研究員DC)

○ 懇親会 (18:00〜)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【3836】三国志学会 第十回大会 2015年9月5日、1...
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/7/31(金) 7:21 -

引用なし
パスワード
   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第十回 京都大会と東京講演会(2015年9月5日、12日土曜日)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。
 例年と違い、東京講演会の方は二松学舎大学ではなく早稲田大学ですのでご注意を。京劇が上演されるのが特長で、多くの一般の方々がいらっしゃるかもしれませんね。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

※上記の三国志学会のサイトの「大会ご案内」のページからプログラム等を下記へ引用。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十回 京都大会
日時:2015年9月5日(土)
場所:龍谷大学 大宮学舎 東黌103教室
http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

 プログラム
○ 狩野直禎会長挨拶(10:00〜10:10)

○ 報告(10:10〜12:00)

 並木淳哉(駒澤大学大学院修士課程修了)
 「党錮事件と三公九卿」

 柿沼陽平(帝京大学講師)
 「曹魏と西晋の土地と税制」

○ お昼休み(12:00〜13:00)

○ 報告(13:00〜16:00)

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「関帝の肖像について」

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「曹魏の異民族政策」

 牧角悦子(二松学舎大学教授)
 「曹操と楽府−「新詩」「新声」の語をめぐって」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「最も愛される武将――『三国志演義』の趙雲像」

○ 懇親会 (18:00〜20:00)

 三国志学会 東京講演会
日時:2015年9月12日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館第一会議室
(本キャンパスとは別です)
http://flas.waseda.jp/flas/access/

 プログラム
○ 講演(13:00〜14:00)

 岡崎由美(早稲田大学文学学術院教授)
 「三国志と演劇」

○ 京劇実演(14:30〜16:00)34号館452教室

 張春祥(新潮劇院)「蘆花蕩」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「明君か? 梟雄か?――『三国志演義』の劉備像」

○ 懇親会(18:00〜20:00)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【3850】三国志学会 第十一回大会(2016年9月3日講...
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/8/27(土) 0:39 -

引用なし
パスワード
   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

http://cte.main.jp/newsch/article.php/3612
↑以下、ここからの引用の引用ですが、今年も東京での講演会と京都大会の2箇所での開催です。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十一回 京都大会
日時:2016年9月10日(土)
場所:龍谷大学 響都ホール
https://www.ryukoku.ac.jp/ryudaihall/access/

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○ 狩野直禎会長挨拶(10:50〜11:00)

○ 報告(11:00〜15:45)

 長谷川隆一(早稲田大学大学院文学研究科)
 「通婚関係から見る孫呉政権の構造」

 渡邉将智(就実大学講師)
 「范曄『後漢書』の人物評価と後漢時代」

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「「関帝文献」における関帝のひげについて」

 狩野雄(相模女子大学教授)
 「死を告げる匂い−三国志孫呉の感覚風土と時を超えて「知」ること」

○ 座談会(16:00〜17:30)

 「狩野直禎会長を囲んで」
  福原啓郎(京都外国語大学教授)
  石井仁(駒澤大学教授)
  渡邉義浩(早稲田大学教授)

※ 懇親会は、今年は用意しておりません。

三国志学会 講演会
日時:2016年9月3日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館3階第一会議室
(本キャンパスとは別です)
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus

プログラム
○ 講演(13:00〜17:30)

 佐々木正治(江蘇師範大学外国語学院日本語学科講師)
 「中国三国時代の考古学―魏を中心に」

 潘偉斌(河南省文物考古研究院・研究員)
 「安陽曹操高陵に関する調査の進展と研究の最新成果」
 早稲田大学文学学術院共催(入場無料)

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「二人の親魏王」

※ 懇親会は、今年は用意しておりません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−
開催通知のはがきでは、福原先生のご所属 と潘先生の報告題目、ならびに東京講演会の講演順に誤りがありました。 お詫びして訂正させていただきます。
事務局長 渡邉義浩
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

・ツリー全体表示

【2244】太史慈の命日について
   - 2006/2/27(月) 19:41 -

引用なし
パスワード
   どなたか太史慈の命日を知っている方は居ますか?
色々なサイトを回ってみたのですが一向に見つかる気配がなく、
ここに書きこまさせていただきました。
どなたか知っていらっしゃる方が居たら教えてください。
お願い致します。

【2246】Re:太史慈の命日について
 呂珪 WEB  - 2006/3/1(水) 1:46 -

引用なし
パスワード
   緑さんはじめまして。私なぞがお答えしてよいか迷うところですが、さしあたり。

太史慈の伝は『三国志』呉書巻四にあり、それによると「年四十一にして、建安十一年に卒す」 とあるので、ここから生没年は西暦166年〜203年、ということが解ります。しかし緑さんがお探しの命日となると、申し訳ありませんが史書に書いていないので解りませんとしかいいようがありません。命日が史書に記されるのは通常皇帝くらいなものです。ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、このあたりは『三国志』自体の成立問題とかかわってくるので今回は割愛。
つまるところ家臣クラスでは生没年が解るだけで儲けもの(有名どころでは趙雲が生年不詳ですね)なんです。
また諸葛亮や周瑜の命日(こちらでも熱く議論しておられましたね)というものはよく言われますが、何れも史書以外のソース(『演義』等)が元なので、その信憑性は言わずもがな…。

というか、全く答えになっておらず申し訳ありません(汗)

【2874】孫権の忌日
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/8/5(日) 8:13 -

引用なし
パスワード
   >ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、

古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。

今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。

三国志呉書呉主伝

(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。


三国志呉書諸葛恪伝

翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。


中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。

というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。

【3849】Re:孫権の忌日
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/4/29(金) 2:53 -

引用なし
パスワード
   結局、当時の私は思い込みで中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]を見ていたのでは?という結論ですが、9年近くの時を超え訂正です。

・呉下の凡愚の住処
http://ameblo.jp/ancyon/

・東呉大帝孫権の命日
http://ameblo.jp/ancyon/entry-12154100528.html


・ア団 (Vitalize3K) on Twitter
http://twitter.com/Vitalize3K

・Twitter / Vitalize3K: 「最後になりますが『建康實録』には「(神鳳元年)夏四月乙未,帝崩於内殿」と記載され、『集解』には「潘眉曰:呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未,乃二十六日傳文脱二字也」とあります。ですので16日ではなく26日だと考えてます。
...
http://twitter.com/Vitalize3K/status/725690134247526400

多分、当時、『三国志集解』を持ってなかったんで、それに当たるという基本が私になかったと。ちなみに『三国志』巻四十七呉書呉主伝の「時七十一」の集解部分が「權疾困召諸葛恪孫弘滕胤呂據孫峻屬以後事見諸葛恪傳」とあり、特に日付のことがかかれてないのですが、上記四番目のリンク先にあるように、巻六十四呉書諸葛恪伝の「今月十六日乙未」の集解部分が「潘眉曰呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脱二字也」とあり、神鳳元年四月の十干十二支の乙未が二十六日なので、諸葛恪伝で「二」の字が抜けているとのことです。


▼清岡美津夫さん:
>>ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、
>
>古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。
>
>今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
>そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。
>
>三国志呉書呉主伝
>
>(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。
>
>
>三国志呉書諸葛恪伝
>
>翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。
>
>
>中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。
>
>というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。

・ツリー全体表示

【3838】雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
教えて  まりもこ  - 2015/10/9(金) 0:00 -

引用なし
パスワード
   知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。

まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
問題はその下の雑号将軍らです。
朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。

Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?

第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。

上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。

Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か


最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。

Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)

Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか

以上です。よろしくお願いします。

【3843】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:17 -

引用なし
パスワード
   ありがとうございます!
袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>
>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>
>>以上です。よろしくお願いします。
>
>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>
>※[木曷]について書かれた文字について
>--引用開始-----------------
>    候史吏已取
>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>    萬年燧長已取
>--引用終了-----------------
>
>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>
>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>※関連記事
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

【3844】Re:遷偏將軍營下督
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:21 -

引用なし
パスワード
   私が勘違いしちゃってたみたいですね。すみません。
となるとやはり将軍と開府は純粋には紐付けされてなく、基本的には個別に開府儀同三司の権限を授けられるというのが正式な形みたいですね。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。

【3845】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
雑談  R・F  - 2015/10/14(水) 0:31 -

引用なし
パスワード
   清岡さん
いつも的確な回答ありがとうございます。
私も同様の疑問を持っていたので、勉強になりました。

で。私も俸禄についての素朴な疑問があと一つあります。便乗するようで申し訳ないのですが、ご教示いただけるとありがたいです。

疑問というのは、「閏月」のある年の俸禄はどうなっていたのか、ということです。
年俸を13分割して払っていたのか? それとも1ヶ月分は特別予算として計上して、他の月と同じ額を払っていたのでしょうか?
高級取りの上級官僚はともかく、下級の吏や兵などは少ない給与を13分割されたら暴動を起こしかねないような気もするのですが。かといって、13か月分を払うと、単純計算で予算が約8%増えます。

どうなのでしょう?

▼まりもこさん:
>ありがとうございます!
>袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。
>
>▼清岡美津夫さん:
>>こんばんわ。
>>
>>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>>
>>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>>
>>>以上です。よろしくお願いします。
>>
>>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>>
>>※[木曷]について書かれた文字について
>>--引用開始-----------------
>>    候史吏已取
>>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>>    萬年燧長已取
>>--引用終了-----------------
>>
>>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>>
>>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>>※関連記事
>>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413

【3846】Re:遷偏將軍營下督
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/24(土) 12:19 -

引用なし
パスワード
   こんにちわ。

>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、

というわけで、本筋とはあまり関係なく、棚卸しですが、

・三国時代の都督制(『創文』2007年6月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/659

上記のリンク先で触れましたように、後漢末(というより曹操の下)での初期の都督は「憲兵の職」の意味合いがあるそうで、この呉書の場合の「督」でも軍営での「憲兵の職」の意味合いが強いのかな、と愚考しておりました。

・『三国志』巻十五魏書賈逵伝注所引『魏略』
是時大將軍雖有禁令、而芻牧者多。故孚因此夜到、以鼓一中、自稱都督、歴北圍、循表而東、從東圍表、又循圍而南、歩歩呵責守圍將士、隨輕重行其罰。

・『通典』巻一百四十九 兵二 法制「魏武軍令」
吾將士無張弓弩於軍中。其隨大軍行、其欲試調弓弩者得張之、不得著箭。犯者鞭二百、沒入吏。不得於營中屠殺賣之、犯令沒所賣皮。都督不糾白、杖五十。


▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。

・ツリー全体表示

【3829】なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 酒井  - 2015/4/4(土) 8:36 -

引用なし
パスワード
   こんにちは。久々に投稿させていただきます。

とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。

荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。

当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。

個人的には以下の理由があったのかなと思います。
1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。


と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。


曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

【3830】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
多分…  R・F  - 2015/5/12(火) 0:18 -

引用なし
パスワード
   ▼酒井さん:

浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。


一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。

本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。

後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。

では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。

良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。

まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。

やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。

>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>
>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>
>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>
>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>
>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>
>
>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>
>
>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

【3835】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 MK  - 2015/6/30(火) 19:41 -

引用なし
パスワード
   >2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。

そういう考えはあったと思います。実際江陵への急行は成功しました。
又、年齢による焦りもあったと思います。


「武帝紀」には、
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
と簡潔に記されているのみです。

演義の派手なストーリーはハ陽湖の戦い(朱元璋vs陳友諒)がモデルだと言われています。
赤壁の戦いは実際にはさほど規模が大きくなかったと思います。

荊州は7つの郡:南陽郡、南郡、江夏郡、未開発の南方4郡からなっておりましたが、
劉表亡き後の荊州争奪戦の一環として赤壁の戦いを捉えるのが宜しいかと思われます。
荊州には戦乱を避けて避難していたよそからの移住者と、地元出身者との間で意識の違いがありました。
魏は、劉砲鮃濾「気札献腑Ε茱シ襪抜楚綢亟澆瑠莨襪鮖拉曚靴泙后」
文聘の士官により、最大の人口を有する南陽郡の住民を安堵させました。
地元の豪族にとってはそもそも劉表自身(エン州山陽郡出身)がよそからの移住者で、良く統治してくれる為政者なら誰でも抵抗はありません。

但し、曹操は徐州での大虐殺で評判を落とし、魯粛、糜竺、諸葛亮をはじめとする徐州出身者に限っては無条件に敵視されています。
徐州出身者と、劉キを支持していた勢力は劉備を支援します。
劉キと関羽は漢水系の水軍を編成して要衝 夏口に向かうことに成功します。
劉備、趙雲、張飛、諸葛亮らは江陵へ向かい、守備兵と長江系の水軍を傘下に収めようと試みますが、
曹操軍の軽装騎兵が急行し、道中蹴散らされ失敗します。
(もし曹操が急がなければ、劉備軍は江陵を拠点にできたはずでした。)

曹操はさらに夏口の南東に位置する、銅貨幣などの生産地である湖北省銅緑山を支配下にする事を欲します。
そのためには長江を渡らなければなりません。

賈ク伝には、
今はまだ危ないが、数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、
そのときにはもう、軍を出すまでもなく、向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと進言したことが記されています。
(参考までに、曹操は屯田制度を確立し、兵糧を安定的に生産する体制が優れていました。)

賈詡は客観的に正確な状況を把握する能力に優れているので、
たとえ疫病が蔓延しなくても、曹操にとってそもそも不利な情勢だったのでしょう。

江陵確保に失敗しこれから荊州南部を経営して勢力を充実させたい劉備勢力にとって、
長江南部まで進出され、貨幣生産地まで奪われるのは致命的です。

恐らく曹操自身が長江を渡る戦いを指揮したと思われますが、負けて撤退しました。ただ、さほどの大軍は投入していなかったと思いますし、
疫病が流行さえしなければ、複数の路から侵攻する作戦を立てられたでしょう。
また、余り長く都を空けておくと反乱等が生じるという事情もあったかもしれません。留守を任せられる器量に一番すぐれた息子が死んでいます。

疫病が大流行した船は、人を載せるには使えないのでひとまとめに隔離されたでしょう。その中には官吏士卒の重病人が放置されたかもしれません。
焼かれるがままになったことでしょう。
また、南郡、江夏郡北部の住民で飢え死にしたものも多かったでしょうから、
赤壁の戦い後には相当数の遺体が散乱した凄惨な状況になったことでしょう。


▼R・Fさん:
>▼酒井さん:
>
>浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。
>
>
>一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。
>
>本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。
>
>後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
>実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。
>
>では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。
>
>良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
>後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。
>
>まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
>疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
>これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
>孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。
>
>やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。
>
>>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>>
>>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>>
>>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>>
>>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>>
>>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>>
>>
>>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>>
>>
>>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。

・ツリー全体表示

【3833】『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人 WEB  - 2015/6/16(火) 18:32 -

引用なし
パスワード
   先日『三國志 周瑜傳』を出版致しました。

しかしながら、誠に申し譯ないのですが、現在iOS端末(iPhone・iPad)には對應してをりません。いま原因を調査していただいてゐるところです。

ただし、Kindle、PC、Mac、もしくはAndroid端末をお持ちの方はアプリを入手してもらへれば、購入して讀んでいただくことができると思ひます。詳しくは下記商品ページにてご確認ください。

それではどうぞよろしくお願ひ致します。

『三國志 周瑜傳』(投稿エラーを防ぐためにURLは切り離してゐます)

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%80%E5%91%A8%E7%9

1%9C%E4%BC%9D-%E8%92%BC%E4%BA%95%E6%82%A0%E4%BA%BA-

ebook/dp/B00ZO5LQW2/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1434446417&sr=1-1

【3834】Re:『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人  - 2015/6/20(土) 17:18 -

引用なし
パスワード
   iOS端末對應になりました。

・ツリー全体表示

【3831】関プチ2015
話題提供  清岡美津夫 WEB  - 2015/5/20(水) 0:03 -

引用なし
パスワード
   こんばんわ。

[#3798]
↑ここで書きましたように、昨年「関プチ5 全国ツアー」を企画し、
今年も同様のプチオフ会企画を進めます。
ここを総合ツリーとしますね。

http://cte.main.jp/kanpetit/
↑総合ページはこちらになります。
個々のプチオフ会の案はここに情報をあげていきますが、それら以外の三国志ネタをからめたプチオフ会のネタがありましたら、ここで返信にて教えて下さると幸いです。

【3832】8月の計画
 清岡美津夫 WEB  - 2015/5/20(水) 0:13 -

引用なし
パスワード
   こんばんわ

今のところ、

8月1日土曜日 8/1北九州 兀突骨で酒池肉林?!
http://cte.main.jp/kanpetit/20150801/kprof.cgi

8月8日土曜日 横浜中華街関帝廟 関帝誕に行くプチオフ会

8月15日土曜日 京都の古書市でブックハンティングプチオフ会

となります。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>[#3798]
>↑ここで書きましたように、昨年「関プチ5 全国ツアー」を企画し、
>今年も同様のプチオフ会企画を進めます。
>ここを総合ツリーとしますね。
>
>http://cte.main.jp/kanpetit/
>↑総合ページはこちらになります。
>個々のプチオフ会の案はここに情報をあげていきますが、それら以外の三国志ネタをからめたプチオフ会のネタがありましたら、ここで返信にて教えて下さると幸いです。

・ツリー全体表示

【3828】三国志を題材にした演劇公演のご紹介です
 サンケイホールブリーゼ E-MAIL  - 2014/12/27(土) 17:48 -

引用なし
パスワード
   管理者様

初めて投稿いたします。不適切でしたら削除お願いいたします。

私は大阪の劇場「サンケイホールブリーゼ」の大光(だいこう)と申します。このたび三国志を題材にした演劇公演を上演することになり、ぜひご紹介させていただけないでしょうか。

舞台「リインカーネーション・リバイバル」

2012年に西田大輔が描くオリジナル三国志として、アーティスト米倉利紀に加え、舞台「戦国BASARA」シリーズの中村誠治郎・広瀬友祐ら人気俳優を迎え東京で上演。翌13年には再演及び、次作「リバース」で二ヶ月連続公演を果たし追加公演含め全ステージ完売しました。“長坂の戦い”(リインカーネーション)、“赤壁の戦い”(リインカーネーション・リバース)を、シリーズタイトルの「転生」をテーマにファンタジックな要素を加えて描いた新感覚三国志です。今作品「リインカーネーション・リバイバル」では三国志時代の幕開けとなる“黄巾の乱”を描く。シリーズの“始まり”を紐解く物語となっています。

2015年1月10日(土)18:30
       11日(日)13:00・18:30
サンケイホールブリーゼ(大阪市北区梅田2−4−9)
指定席7,500円(税込)

ご予約・お問い合わせ
ブリーゼチケットセンター 06−6341−8888(11〜18時)

公演HPは http://officeendless.com/sp/revi/

・ツリー全体表示

【3803】魏晋の役人(獄吏)について質問です
 ろこ  - 2014/6/19(木) 20:26 -

引用なし
パスワード
   はじめましてこんにちは。

魏晋の獄吏について教えて頂きたいのですが、彼らの当時の地位はどの辺りに
あったのでしょうか?(特に中央で政治犯などを収容している所の人たち)
三国志だと獄中の華佗の世話をしていた獄吏なんかの話がありますが…
役人としてはエリートなのですか?
彼らに九品官人法でいうところの官品は与えられていたのでしょうか。
(あれば何品くらいだったのでしょうか。)
また、刑獄は廷尉の管轄下でよろしいのでしょうか。

三国時代の役人制度について調べているのですが、よくわかりませんでした。
ご存知の方がおられましたら、ご教授願います。

【3811】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
 マルチーズ  - 2014/6/30(月) 7:15 -

引用なし
パスワード
   ▼ろこさん:
>なるほど…やはり獄吏はどちらかというと賤しい職業だったのですね。
>卒の階層が固定化されたということは、そこから出世していくのも難しそうです…

豪族以外の庶民から出世するのも難しいです。官僚に必要な教養(現在の学歴)を身につけるお金がないからです。逆に言うと、教養さえ身につければ出世もできます。三国時代でも卒から官僚になった人はごく少数ですがいます。

たとえば、後漢後期の潁川鄢陵の庾乗、潁川許昌の陳寔は役所の雑用をする卑しい身分でした。しかし、有力者の知遇を得て学問を習得してエリートの仲間入りを果たしました。二人の子孫は魏晋時代に宰相を輩出する名門中の名門として絶大な権勢を誇りました。

奴隷から官僚になった人もいます。魏の王象は奴隷でしたが、楊俊という人物に見込まれて教育を受けて大学者になりました。曹操に仕えて出世街道を歩き、曹丕が即位すると散騎常侍(侍従職)に就任し、列侯の爵位を与えられて貴族に列しました。

>獄掾は獄吏よりマシみたいですが、やはり獄舎に務めている人々はエリートではないのです よね。よく囚人に対して偉そうにしている描写を見ましたので、偉い役人なのだと思ってました。 勉強になります!

掾になれるのは豪族かそれに準じる出自なのでエリートです。エリートにもいくつもの階層がありますが。掾や史の肩書き持ってたらエリートと思って間違いないです。

【3812】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
解決  ろこ  - 2014/7/3(木) 18:36 -

引用なし
パスワード
   ▼マルチーズさん:
ご回答ありがとうございました!


>廷尉は現在の最高裁にあたります。郡国で判決が確定しなかった事件、もしくは大逆罪などの重大事件、皇帝が直接廷尉に取り扱いを命じた事件などを扱います。ですから、それらの事件の関係者が収容されるものと考えてください。

特に気になっていた部分だったので、大変参考になりました。
獄舎の造りとかも廷尉直属だと違っていたのかなと思ってみたり…

>豪族以外の庶民から出世するのも難しいです。官僚に必要な教養(現在の学歴)を身につけるお金がないからです。逆に言うと、教養さえ身につければ出世もできます。三国時代でも卒から官僚になった人はごく少数ですがいます。
>たとえば、後漢後期の潁川鄢陵の庾乗、潁川許昌の陳寔は役所の雑用をする卑しい身分でした。しかし、有力者の知遇を得て学問を習得してエリートの仲間入りを果たしました。二人の子孫は魏晋時代に宰相を輩出する名門中の名門として絶大な権勢を誇りました。
>奴隷から官僚になった人もいます。魏の王象は奴隷でしたが、楊俊という人物に見込まれて教育を受けて大学者になりました。曹操に仕えて出世街道を歩き、曹丕が即位すると散騎常侍(侍従職)に就任し、列侯の爵位を与えられて貴族に列しました。

具体例まで示して下さって、とても分かりやすいです。(一部文字化けしてしまいましたが…)
教養を身につけるための環境が大きく影響するとはいえ、出自によって出世の道が閉ざされるという訳ではないのですね。時代が少し異なりますが、九品官人法のせいか貴族以外出世できないものと思っていました。

>掾になれるのは豪族かそれに準じる出自なのでエリートです。エリートにもいくつもの階層がありますが。掾や史の肩書き持ってたらエリートと思って間違いないです。

やはり役人様ですね…では廷尉の獄舎で務めていた獄掾や獄吏はかなりエリートでしょうね。獄卒はもう少し地位が低いと。


ご丁寧なご回答ありがとうございました!
私自身あまり中国史には明るくないので、的外れな事を言ってたらお恥ずかしいですが…
とても参考になりました。本当に助かりました。また何かありましたら質問させて下さい!

【3826】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/16(火) 1:06 -

引用なし
パスワード
   [#T3797]

昨日、上記のオフ会でここのツリーについてR・Fさんと話していて思い出したのですが、
直接的な答えでないにしろ、下記のツリーが参考になるかと思います。

[#T1359]

出典が明記されているため、自力で裏をとったり辿ったりしやすいですので。

【3827】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
感謝♪  ろこ  - 2014/10/9(木) 3:46 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:
はじめまして。返信が遅くなってしまって申し訳ありません。
最近ここにこなかったもので…;;

オフ会お疲れ様です&情報ありがとうございました!
さっそく辿ってみます。出典元も探してみますね。
最近再び調べ始めたところでしたので、とても参考になりました。

ありがとうございました!

・ツリー全体表示

【3825】最強三国志ゲーム降臨!!
 ばんたけ  - 2014/9/9(火) 9:37 -

引用なし
パスワード
   凄すぎる三国志ゲームアプリが出ました!!その名も【三国魂(ソウル)】グラフィックがチョー綺麗です!無課金でもメッチャ遊べます!ゲームスタート時に招待コード(303021J)を入力するとイイモノもらえます!https://itunes.apple.com/jp/app/san-guo-hun-wu-liao-ben-ge/id875222431?mt=8

・ツリー全体表示

【3797】9/14大興寺関帝像拝観|関プチ5 全国ツアー
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2014/5/6(火) 21:32 -

引用なし
パスワード
   こんばんわ。

2014年9月14日日曜日、京都の大興寺関帝像を拝観しようとするプチオフ会関連のツリーに致します。
それについての質問や話し合いはこちらのツリーでできるようにしましょう。
参加表明フォームは下記のように用意いたしました。

http://cte.main.jp/kanpetit/20140914/kprof.cgi

[#3752]
↑ここで書いたような2013年と似たような感じで2014年も清岡はいろんな所に行くので、それで全国を回るついでにオフ会したいな、と思い、「関プチ5 全国ツアー」をひそかに企画していました。
そんな中、2014年9月14日日曜日、京都の大興寺関帝像を拝観しようとするプチオフ会の話が持ち上がってきたので、まずはそちらの企画を先行させますね。

とりあえずその経緯は下記リンク先参照のことです。

http://togetter.com/li/663618

【3821】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
 清岡美津夫 WEB  - 2014/9/4(木) 6:26 -

引用なし
パスワード
   こんにちわ、書き込みありがとうございます。

>こんばんは。『壽三升景清』は非常に関心があるのですが、もし観劇する場合でしたら三等席(4,000円)だと助かります。私事で恐縮ですが、それ以上だとかなり厳しいです…
>関羽の羽子板についてですが、今日中に問い合わせてみたいと思います。

そこもポイントなんですよね、少なくとも数千円のお金がかかるということが。
2,3人だとすぐに見る見ないの合意がとれそうなんですが。
関羽ネタは劇中の数ある内の一つで、費用対効果(?)が低いですし、全員の合意をとるまで時間がかかりそうですね。
(個人的には当日、夕方から東京に向かう予定ですので、私も経済的に厳しいです。なので、羽子板やチラシで雰囲気だけでも味わってみなさんとの談義で補完したいかな、と)

あと時間も14:30終了なんで、目の前にバス停があるとはいえ、休日に祇園を脱出して吉田山の近くまで30分で行くには厳しいかもしれません。

値段的(2000円)にも時間的(13:45-14:30…と終了時間同じなんですが)にも余裕のある三升席も考えたのですが、関羽ネタが見れるかどうかわかんないですし。

・【7月28日更新】『壽三升景清』三升席のご案内
http://www.kabuki-bito.jp/news/2014/06/post_1124.html

あ、問い合わせしていただけると助かります(日曜日あたりに行こうかと思ってましたので)。

>また南座のある京都・四条駅から徒歩10〜15分のところに「三国志」という中華料理屋がありますので、もし南座に行くのであれば、昼食はこちらで摂るのはいかがでしょうか。
>http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26021964/

それも候補の一つでしたが、私自身、行ったことがないため、三国ネタがどの程度かわからず、ネットで見た感じでは宇治の四川麻婆豆腐・坦々麺専門店「三国志」より少なそうですかね。少人数でのオフ会の時に改めて行きたいと思いました。

【3822】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
 教団 E-MAIL  - 2014/9/4(木) 14:32 -

引用なし
パスワード
   こんにちは、歌舞伎十八番の「羽子板」について南座に問い合わせました。

サイトに「劇場入口を入って右手に展示している」とありますが、劇場自体に入る段階で料金(観劇代)が発生してしまうため、残念ながらそれを無料で見るのは無理とのことでした。

候補としては外れてしまいますね…

【3823】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
感謝♪  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/5(金) 7:11 -

引用なし
パスワード
   ▼教団さん:
>こんにちは、歌舞伎十八番の「羽子板」について南座に問い合わせました。
>
>サイトに「劇場入口を入って右手に展示している」とありますが、劇場自体に入る段階で料金(観劇代)が発生してしまうため、残念ながらそれを無料で見るのは無理とのことでした。
>
>候補としては外れてしまいますね…

こんにちわ、問い合わせていただいてありがとうございます!
結果はみれなくて残念ですが、その分、時間に余裕ができそうでランチを楽しみましょう。

【3824】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
追記  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/5(金) 20:32 -

引用なし
パスワード
   ▼清岡美津夫さん:
>>また南座のある京都・四条駅から徒歩10〜15分のところに「三国志」という中華料理屋がありますので、もし南座に行くのであれば、昼食はこちらで摂るのはいかがでしょうか。
>>http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26021964/
>
>それも候補の一つでしたが、私自身、行ったことがないため、三国ネタがどの程度かわからず、ネットで見た感じでは宇治の四川麻婆豆腐・坦々麺専門店「三国志」より少なそうですかね。少人数でのオフ会の時に改めて行きたいと思いました。

USHISUKEさんからのタレコミ情報によると残念ながら同じ中華料理店で「和福順」という店名になっていたそうです(汗)

・ツリー全体表示

  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
1 / 66 ページ 前へ→
ページ:  ┃  記事番号:   
461,706
(SS)C-BOARD v3.8 is Free