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先のレス、余計なお世話みたいで申し訳なかったのですが、また発言させて下さい。
私は歴史系の方々から見るとまだまだ知識がないせいか、「歴史群像シリーズ」は内容理解に助かったことが多いのですが・・・。演義ではこう変えられたが、実際はこうだよ、と書いてあったのでわかりやすく、なぜ変えられたのか、という過程に興味をそそられました。史実研究の側ではおもしろみに欠けるかもしれませんが、私はここまで深く演義との混在が問題になったからこそ、出版社もあえて両者をあげて説明していると思っていたのですが。その過程を説明しようとした出版社はやっぱりダメなんでしょうか。
話がそれるのですが、産経新聞で日本古代史を研究し、今は「日本書紀」「古事記」を取り上げている「蘇る民族の歴史」という連載をしていますが、今週は「三国志」のいわゆる「魏書東夷伝」の話になり、権力者となった司馬仲達がなぜ景初二年に訪れた倭の使節にだけ銅鏡を百枚も与えたのかや、銅鏡を作成する過程である、景初三年の1月1日に明帝は亡くなった為、12月が2回あり、慌ただしい歴改正を知らぬ工人が、ありもしない景初四年という年号を彫り込んだせいではないか、それこそが真実味を帯びる、などという記事がありました。
「司馬仲達」の文字にひかれたのがきっかけでしたが、こういう側面的な歴史検証を読むとまた三国志の時代背景をつかむきっかけになりますね。
・・・三国志というと出来事をそのまま表さなきゃいけないようなところがありますが、遊び心というのも変ですが、真っ直ぐ見るのとまた違った眼を養うのも必要かなとか。
要は、こういうしっかりとした歴史研究の上で、確かな推測をしようとする姿勢を持った歴史系三国志の本が出るととてもおもしろいと思うのですが。どうでしょうか。
・・・先日の記事で、昔の漫画家は文学や映画など色々なものを研究して漫画を描いているが、最近の漫画家は、その描かれた漫画を読んでから漫画を描くからだんだん小さな狭いものになるとありました。
小説からいうと、三国志小説を読んで、また三国志小説を書くからつまらないのが多くなっているのかな、と。演義読み、それで書かれた小説を読み、また小説を書くから焼き直しのものが多いのでしょう。
歴史系にしろ、娯楽系にしろ、最近は毒気もなく、強烈な印象を与える小説というのがない気がします。ワクワクしないというのは、一方で無難に済まそうとする作者の考えが伝わるせいかもしれませんね。
レスの場所を一カ所で済ましたようで、すみません。
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