三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3852】三国志学会 第十二回大会(2017年9月2日講...
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2017/8/31(木) 2:00 -

引用なし
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   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

http://cte.main.jp/newsch/article.php/3978
↑以下、ここからの引用の引用ですが、今年は京都での講演会と東京での大会の開催です。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十二回大会(東京)
日時:2017年9月9日(土)
場所:早稲田大学戸山キャンパス 38号館AV教室
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus
参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○石井会長代行挨拶 (10:00〜10:10)

○講演(10:10〜11:50)

 司会:清岡美津夫(NPO三国志フォーラム会員)

 ・梁蘊嫻(元智大学助理教授)
 「『三国志演義』と日本の絵入り本」

○報告(13:00〜16:00)

 ・渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「『古史考』と『帝王世紀』―儒教に即した古伝説の整理」

 ・上田望(金沢大学教授)
 「地域からみる『三国志演義』」

 ・牧角悦子(二松学舎大学教授)
 「三曹の楽府と詩―六朝文学の起点として」

 ・石井仁(駒澤大学教授)
 「曹操の『兵書接要』」

○講演(16:20 〜 17:50)

  講師紹介:仙石知子(早稲田大学講師)
 ・小川陽一(東北大学名誉教授)
 「関帝霊籤と明清社会」

○懇親会(18:00〜)

 早稲田大学戸山キャンパス第10会議室 33号館16階
  一般4000円、学生2000円

※ なお、講演は早稲田大学東洋哲学コースと 共催となっており、無料で聴講できます。

三国志学会 講演会(京都)
日時:2017年9月2日(土)
会場:龍谷大学響都ホール(アバンティ京都9F)
https://www.ryukoku.ac.jp/ryudaihall/access/
プログラム
○ 13:00〜16:00(開場は12:30〜)

 テーマ「私はなぜ三国志を研究するに至ったか?」
  総合司会 竹内真彦(龍谷大学経済学部教授)
 ・佐藤大朗(三国志学会会員)
 ・井口千雪(九州大学人文科学研究院文学部門講師)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・ツリー全体表示
<sage>

【3851】周瑜の先祖 周興さん
 ムゼ  - 2017/8/20(日) 21:51 -

引用なし
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   こんにちは。以前にもお世話になりました。
その節はありがとうございます。

今回は、周瑜の先祖、周興さんについて
です。
後漢書の周栄伝の中に登場しています。
文章に巧みで尚書郎になっています。
まではつたない私の解読力で追えたのですが、
中国サイト(初心者レベル解読力、しかも見失い)で見かけた歴史演義ゲーム織り交ぜたらしい
人物エッセイのなかで周興さんは地震計を作った張衡さんの
同僚ではないかと。確かに張衡伝の中には周興という名前のひとはでてくるのですが、この方は周瑜の先祖の周興さんと一致すると考えていいのでしょうか?
周瑜が天文気象知識に詳しい要因の一つにもなるかと思うと胸熱です。
先達の皆様よろしくお願いします。
・ツリー全体表示

【3850】三国志学会 第十一回大会(2016年9月3日講...
ニュ〜ス  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/8/27(土) 0:39 -

引用なし
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   すっかりこちらで紹介するタイミングを逸しましたが、[#?三国志学会]の大会のお知らせです。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

http://cte.main.jp/newsch/article.php/3612
↑以下、ここからの引用の引用ですが、今年も東京での講演会と京都大会の2箇所での開催です。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十一回 京都大会
日時:2016年9月10日(土)
場所:龍谷大学 響都ホール
https://www.ryukoku.ac.jp/ryudaihall/access/

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

プログラム
○ 狩野直禎会長挨拶(10:50〜11:00)

○ 報告(11:00〜15:45)

 長谷川隆一(早稲田大学大学院文学研究科)
 「通婚関係から見る孫呉政権の構造」

 渡邉将智(就実大学講師)
 「范曄『後漢書』の人物評価と後漢時代」

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「「関帝文献」における関帝のひげについて」

 狩野雄(相模女子大学教授)
 「死を告げる匂い−三国志孫呉の感覚風土と時を超えて「知」ること」

○ 座談会(16:00〜17:30)

 「狩野直禎会長を囲んで」
  福原啓郎(京都外国語大学教授)
  石井仁(駒澤大学教授)
  渡邉義浩(早稲田大学教授)

※ 懇親会は、今年は用意しておりません。

三国志学会 講演会
日時:2016年9月3日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館3階第一会議室
(本キャンパスとは別です)
https://www.waseda.jp/top/access/toyama-campus

プログラム
○ 講演(13:00〜17:30)

 佐々木正治(江蘇師範大学外国語学院日本語学科講師)
 「中国三国時代の考古学―魏を中心に」

 潘偉斌(河南省文物考古研究院・研究員)
 「安陽曹操高陵に関する調査の進展と研究の最新成果」
 早稲田大学文学学術院共催(入場無料)

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「二人の親魏王」

※ 懇親会は、今年は用意しておりません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−
開催通知のはがきでは、福原先生のご所属 と潘先生の報告題目、ならびに東京講演会の講演順に誤りがありました。 お詫びして訂正させていただきます。
事務局長 渡邉義浩
−−−−−−−−−−−−−−−−−−

━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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【3849】Re:孫権の忌日
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/4/29(金) 2:53 -

引用なし
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   結局、当時の私は思い込みで中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]を見ていたのでは?という結論ですが、9年近くの時を超え訂正です。

・呉下の凡愚の住処
http://ameblo.jp/ancyon/

・東呉大帝孫権の命日
http://ameblo.jp/ancyon/entry-12154100528.html


・ア団 (Vitalize3K) on Twitter
http://twitter.com/Vitalize3K

・Twitter / Vitalize3K: 「最後になりますが『建康實録』には「(神鳳元年)夏四月乙未,帝崩於内殿」と記載され、『集解』には「潘眉曰:呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未,乃二十六日傳文脱二字也」とあります。ですので16日ではなく26日だと考えてます。
...
http://twitter.com/Vitalize3K/status/725690134247526400

多分、当時、『三国志集解』を持ってなかったんで、それに当たるという基本が私になかったと。ちなみに『三国志』巻四十七呉書呉主伝の「時七十一」の集解部分が「權疾困召諸葛恪孫弘滕胤呂據孫峻屬以後事見諸葛恪傳」とあり、特に日付のことがかかれてないのですが、上記四番目のリンク先にあるように、巻六十四呉書諸葛恪伝の「今月十六日乙未」の集解部分が「潘眉曰呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脱二字也」とあり、神鳳元年四月の十干十二支の乙未が二十六日なので、諸葛恪伝で「二」の字が抜けているとのことです。


▼清岡美津夫さん:
>>ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、
>
>古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。
>
>今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
>そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。
>
>三国志呉書呉主伝
>
>(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。
>
>
>三国志呉書諸葛恪伝
>
>翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。
>
>
>中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。
>
>というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。
・ツリー全体表示

【3848】Re:明帝曹叡は曹丕の子か?
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/4/1(金) 5:50 -

引用なし
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   近年ますますアーカイブ化している当掲示板なので、
ツリーのリンクをしておきます→[#T2331]


▼如墨委面さん:
>明帝曹叡は文帝曹丕の子ではなく、袁紹の次男、袁煕の子だという説があるそうですね。
>
>明帝崩御の記事(明帝紀魏志第三)
>
>(景初)三年春正月丁亥(一日)…、帝崩于嘉福殿、時年三十六。……
>
>の後で、裴松之は次のように言っています。
>
>臣松之按:魏武以建安九年八月定[業β],文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳.時改正朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也.
>
>臣松之が按ずるに
>魏の武帝(曹操)は建安九年八月に[業β]を平定し、文帝(曹丕)は始めて甄后を娶ったから、明帝は(建安)十年に生まれたことになるが、この年の正月までを計算すると三十四年しかならない。この頃、改暦があり、故年の十二月を今年の正月にしているので、これを計算に入れても三十五年にしかならず、三十六歳にはならない。
>
>これを読むと、裴松之は、暗に、明帝は建安十年でなく建安九年に生まれたのではないか、と言っているように見えます。そうすると、明帝の父は文帝ではなく、甄后の夫であった袁煕だったということになりますが、さすがにそこまでは言っていません。
>
>曹叡は袁煕の子であるという説の根元は、多分、この裴松之の注にあるのでしょうが、これだけでは、この説を裴松之が言い出したと言うには無理があるという感じです。
>
>一体、この説は誰が言い出したんでしょう。
>
>この問題は、曹叡は曹丕の子であり、明帝崩御の記事の「時年三十六」は誤りである、とするのが正しいのでしょうが、私は最近、この「曹叡は袁煕の子」説が正しいような気がしています。
>
>                   委面如墨
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<sage>

【3847】Re:曹叡の死亡年の西暦表記
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2016/4/1(金) 5:49 -

引用なし
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   近年ますますアーカイブ化している当掲示板なので、
ツリーのリンクをしておきます→[#T2923]

▼伊比 学さん:
>Wikiをはじめ、どの情報を見ても曹叡の死亡年は「239」と表記してあります。
>
>彼は景初3年春正月に死去しており、景初3年は西暦239年のことなので、曹叡の死亡年は239年。別に問題無し。
>
>…と思っていたのですが、曹叡は景初元年に暦を景初暦に変えたため、曹芳が戻すまでの3年間は1月分繰り上がっていたはずです。
>ということは、景初3年正月は西暦239年1月ではなく、238年12月のことであり、曹叡の死亡年を西暦表記するときは「238」が正確なのではないのでしょうか?
>
>暦に詳しい方のご教示賜りたく存じます。
・ツリー全体表示
<sage>

【3846】Re:遷偏將軍營下督
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/24(土) 12:19 -

引用なし
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   こんにちわ。

>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、

というわけで、本筋とはあまり関係なく、棚卸しですが、

・三国時代の都督制(『創文』2007年6月号)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/659

上記のリンク先で触れましたように、後漢末(というより曹操の下)での初期の都督は「憲兵の職」の意味合いがあるそうで、この呉書の場合の「督」でも軍営での「憲兵の職」の意味合いが強いのかな、と愚考しておりました。

・『三国志』巻十五魏書賈逵伝注所引『魏略』
是時大將軍雖有禁令、而芻牧者多。故孚因此夜到、以鼓一中、自稱都督、歴北圍、循表而東、從東圍表、又循圍而南、歩歩呵責守圍將士、隨輕重行其罰。

・『通典』巻一百四十九 兵二 法制「魏武軍令」
吾將士無張弓弩於軍中。其隨大軍行、其欲試調弓弩者得張之、不得著箭。犯者鞭二百、沒入吏。不得於營中屠殺賣之、犯令沒所賣皮。都督不糾白、杖五十。


▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。
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【3845】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
雑談  R・F  - 2015/10/14(水) 0:31 -

引用なし
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   清岡さん
いつも的確な回答ありがとうございます。
私も同様の疑問を持っていたので、勉強になりました。

で。私も俸禄についての素朴な疑問があと一つあります。便乗するようで申し訳ないのですが、ご教示いただけるとありがたいです。

疑問というのは、「閏月」のある年の俸禄はどうなっていたのか、ということです。
年俸を13分割して払っていたのか? それとも1ヶ月分は特別予算として計上して、他の月と同じ額を払っていたのでしょうか?
高級取りの上級官僚はともかく、下級の吏や兵などは少ない給与を13分割されたら暴動を起こしかねないような気もするのですが。かといって、13か月分を払うと、単純計算で予算が約8%増えます。

どうなのでしょう?

▼まりもこさん:
>ありがとうございます!
>袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。
>
>▼清岡美津夫さん:
>>こんばんわ。
>>
>>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>>
>>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>>
>>>以上です。よろしくお願いします。
>>
>>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>>
>>※[木曷]について書かれた文字について
>>--引用開始-----------------
>>    候史吏已取
>>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>>    萬年燧長已取
>>--引用終了-----------------
>>
>>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>>
>>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>>※関連記事
>>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413
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【3844】Re:遷偏將軍營下督
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:21 -

引用なし
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   私が勘違いしちゃってたみたいですね。すみません。
となるとやはり将軍と開府は純粋には紐付けされてなく、基本的には個別に開府儀同三司の権限を授けられるというのが正式な形みたいですね。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。
>
>>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>>問題はその下の雑号将軍らです。
>>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の
>
>遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。
>
>の部分でしょうか?
>『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。
>
>営について [#3476]
>
>質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。
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【3843】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 まりもこ  - 2015/10/10(土) 22:17 -

引用なし
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   ありがとうございます!
袋でもってかえり木曷の内容で分配みたいな形だったんですか・・・なるほど勉強になりました。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>>
>>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>>
>>以上です。よろしくお願いします。
>
>Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。
>
>※[木曷]について書かれた文字について
>--引用開始-----------------
>    候史吏已取
>呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
>    萬年燧長已取
>--引用終了-----------------
>
>三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。
>
>※居延漢簡については下記サイトで検索可能
>・文物圖象研究資料庫 全文檢索
>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
>※関連記事
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/413
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【3842】Re:遷偏將軍營下督
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/10(土) 2:08 -

引用なし
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   こんばんわ。

前々回はとりあえずの投稿で失礼いたしましたが(おまけに私は後漢末を呉とミスリードしているっぽいですし)、質問の前提部分に立ち戻らせていただきます。

>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>問題はその下の雑号将軍らです。
>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。

ここの部分ですが、『三国志』巻五十六呉書朱績伝の

遷偏將軍營下督、領盜賊事、持法不傾。

の部分でしょうか?
『三国志』呉書で「督」と出ると以前、[#2588]で書いたようにややこしいのですが、それをとりあえず棚上げして、この文を素直に読むと「偏将軍の営の下の督に遷った」ってことで、「府」とは書かれておらず、明確に「営」、つまり軍営をさしているかと思います。

営について [#3476]

質問の本筋から離れるためアイコンを「雑談」といたしました。
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【3841】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/10(土) 1:28 -

引用なし
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   こんばんわ。

>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。

Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。

※[木曷]について書かれた文字について
--引用開始-----------------
    候史吏已取
呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
    萬年燧長已取
--引用終了-----------------

三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。

※居延漢簡については下記サイトで検索可能
・文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
※関連記事
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413


▼まりもこさん:
>知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
>残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
>※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
>今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。
>
>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>問題はその下の雑号将軍らです。
>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?
>
>第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。
>
>上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
>となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。
>
>Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か
>
>
>最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
>後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
>問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。
>
>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。
・ツリー全体表示

【3840】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 まりもこ  - 2015/10/9(金) 23:28 -

引用なし
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   ありがとうございます!
質疑応答等を見る限り

>大將軍の属官の説明だが、員数などに拘らず任命した節があり、
>それでも一応、(左將軍は)開府していることが「從事中郎」を任命していることからわかる。
中略
>(石井先生より)おそらく「將軍」自体に開府の権限はないので、
>劉備が許昌にいたときに開府儀同三司の権限を授けられていたのか、あるいは勝手に開府したのか。

とあるので将軍の上表とは別枠で権限与えられるか自分で勝手に名乗ってって感じぽいですね。しかも人数とかも結構好き勝手しちゃってるみたいです。
開府儀同三司の権限とか知らなかったので勉強になりました!

▼清岡美津夫さん:
>はじめまして
>そこらへんのことを知るのに、正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)にこだわるとなかなか理解が進まないような気もしますが、それはさておき、まずは詳しい方が答えやすいように、情報を共有化しておきます。
>
>・三国志学会 第四回大会ノート3
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/1410
>
>いや単に「開府」ということで、リンク先にある質疑応答のやりとりを思い出しましたので。
>それを読む限り雑号将軍だけだと「開府儀同三司の権限」は持ってないないかと。
>ただ呉の場合は、って尋ねられると私は即答できませんので、やはり他の方の意見を大人しく待ちます。
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【3839】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
紹介  清岡美津夫 E-MAIL  - 2015/10/9(金) 0:42 -

引用なし
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   はじめまして
そこらへんのことを知るのに、正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)にこだわるとなかなか理解が進まないような気もしますが、それはさておき、まずは詳しい方が答えやすいように、情報を共有化しておきます。

・三国志学会 第四回大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/1410

いや単に「開府」ということで、リンク先にある質疑応答のやりとりを思い出しましたので。
それを読む限り雑号将軍だけだと「開府儀同三司の権限」は持ってないないかと。
ただ呉の場合は、って尋ねられると私は即答できませんので、やはり他の方の意見を大人しく待ちます。

▼まりもこさん:
>知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
>残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
>※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
>今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。
>
>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>問題はその下の雑号将軍らです。
>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?
>
>第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。
>
>上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
>となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。
>
>Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か
>
>
>最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
>後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
>問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。
>
>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。
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【3838】雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
教えて  まりもこ  - 2015/10/9(金) 0:00 -

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   知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。

まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
問題はその下の雑号将軍らです。
朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。

Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?

第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。

上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。

Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か


最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。

Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)

Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか

以上です。よろしくお願いします。
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【3837】隔週刊 三国志DVD&データファイル創刊
紹介  清岡美津夫 E-MAIL  - 2015/10/5(月) 19:11 -

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   検索対策なんですが(そして検索で来る人はここまで注意が向かずおそらく気づかれないでしょうが)、下記の記事に誘導しておきます。講談社の分冊百科です。

隔週刊 三国志DVD&データファイル(隔週木曜日2015年10月1日-)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/3504
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<sage>

【3836】三国志学会 第十回大会 2015年9月5日、1...
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/7/31(金) 7:21 -

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   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第十回 京都大会と東京講演会(2015年9月5日、12日土曜日)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。
 例年と違い、東京講演会の方は二松学舎大学ではなく早稲田大学ですのでご注意を。京劇が上演されるのが特長で、多くの一般の方々がいらっしゃるかもしれませんね。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

※上記の三国志学会のサイトの「大会ご案内」のページからプログラム等を下記へ引用。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十回 京都大会
日時:2015年9月5日(土)
場所:龍谷大学 大宮学舎 東黌103教室
http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

 プログラム
○ 狩野直禎会長挨拶(10:00〜10:10)

○ 報告(10:10〜12:00)

 並木淳哉(駒澤大学大学院修士課程修了)
 「党錮事件と三公九卿」

 柿沼陽平(帝京大学講師)
 「曹魏と西晋の土地と税制」

○ お昼休み(12:00〜13:00)

○ 報告(13:00〜16:00)

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「関帝の肖像について」

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「曹魏の異民族政策」

 牧角悦子(二松学舎大学教授)
 「曹操と楽府−「新詩」「新声」の語をめぐって」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「最も愛される武将――『三国志演義』の趙雲像」

○ 懇親会 (18:00〜20:00)

 三国志学会 東京講演会
日時:2015年9月12日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館第一会議室
(本キャンパスとは別です)
http://flas.waseda.jp/flas/access/

 プログラム
○ 講演(13:00〜14:00)

 岡崎由美(早稲田大学文学学術院教授)
 「三国志と演劇」

○ 京劇実演(14:30〜16:00)34号館452教室

 張春祥(新潮劇院)「蘆花蕩」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「明君か? 梟雄か?――『三国志演義』の劉備像」

○ 懇親会(18:00〜20:00)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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【3835】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 MK  - 2015/6/30(火) 19:41 -

引用なし
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   >2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。

そういう考えはあったと思います。実際江陵への急行は成功しました。
又、年齢による焦りもあったと思います。


「武帝紀」には、
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
と簡潔に記されているのみです。

演義の派手なストーリーはハ陽湖の戦い(朱元璋vs陳友諒)がモデルだと言われています。
赤壁の戦いは実際にはさほど規模が大きくなかったと思います。

荊州は7つの郡:南陽郡、南郡、江夏郡、未開発の南方4郡からなっておりましたが、
劉表亡き後の荊州争奪戦の一環として赤壁の戦いを捉えるのが宜しいかと思われます。
荊州には戦乱を避けて避難していたよそからの移住者と、地元出身者との間で意識の違いがありました。
魏は、劉砲鮃濾「気札献腑Ε茱シ襪抜楚綢亟澆瑠莨襪鮖拉曚靴泙后」
文聘の士官により、最大の人口を有する南陽郡の住民を安堵させました。
地元の豪族にとってはそもそも劉表自身(エン州山陽郡出身)がよそからの移住者で、良く統治してくれる為政者なら誰でも抵抗はありません。

但し、曹操は徐州での大虐殺で評判を落とし、魯粛、糜竺、諸葛亮をはじめとする徐州出身者に限っては無条件に敵視されています。
徐州出身者と、劉キを支持していた勢力は劉備を支援します。
劉キと関羽は漢水系の水軍を編成して要衝 夏口に向かうことに成功します。
劉備、趙雲、張飛、諸葛亮らは江陵へ向かい、守備兵と長江系の水軍を傘下に収めようと試みますが、
曹操軍の軽装騎兵が急行し、道中蹴散らされ失敗します。
(もし曹操が急がなければ、劉備軍は江陵を拠点にできたはずでした。)

曹操はさらに夏口の南東に位置する、銅貨幣などの生産地である湖北省銅緑山を支配下にする事を欲します。
そのためには長江を渡らなければなりません。

賈ク伝には、
今はまだ危ないが、数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、
そのときにはもう、軍を出すまでもなく、向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと進言したことが記されています。
(参考までに、曹操は屯田制度を確立し、兵糧を安定的に生産する体制が優れていました。)

賈&#35425;は客観的に正確な状況を把握する能力に優れているので、
たとえ疫病が蔓延しなくても、曹操にとってそもそも不利な情勢だったのでしょう。

江陵確保に失敗しこれから荊州南部を経営して勢力を充実させたい劉備勢力にとって、
長江南部まで進出され、貨幣生産地まで奪われるのは致命的です。

恐らく曹操自身が長江を渡る戦いを指揮したと思われますが、負けて撤退しました。ただ、さほどの大軍は投入していなかったと思いますし、
疫病が流行さえしなければ、複数の路から侵攻する作戦を立てられたでしょう。
また、余り長く都を空けておくと反乱等が生じるという事情もあったかもしれません。留守を任せられる器量に一番すぐれた息子が死んでいます。

疫病が大流行した船は、人を載せるには使えないのでひとまとめに隔離されたでしょう。その中には官吏士卒の重病人が放置されたかもしれません。
焼かれるがままになったことでしょう。
また、南郡、江夏郡北部の住民で飢え死にしたものも多かったでしょうから、
赤壁の戦い後には相当数の遺体が散乱した凄惨な状況になったことでしょう。


▼R・Fさん:
>▼酒井さん:
>
>浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。
>
>
>一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。
>
>本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。
>
>後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
>実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。
>
>では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。
>
>良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
>後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。
>
>まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
>疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
>これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
>孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。
>
>やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。
>
>>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>>
>>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>>
>>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>>
>>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>>
>>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>>
>>
>>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>>
>>
>>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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【3834】Re:『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人  - 2015/6/20(土) 17:18 -

引用なし
パスワード
   iOS端末對應になりました。
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【3833】『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人 WEB  - 2015/6/16(火) 18:32 -

引用なし
パスワード
   先日『三國志 周瑜傳』を出版致しました。

しかしながら、誠に申し譯ないのですが、現在iOS端末(iPhone・iPad)には對應してをりません。いま原因を調査していただいてゐるところです。

ただし、Kindle、PC、Mac、もしくはAndroid端末をお持ちの方はアプリを入手してもらへれば、購入して讀んでいただくことができると思ひます。詳しくは下記商品ページにてご確認ください。

それではどうぞよろしくお願ひ致します。

『三國志 周瑜傳』(投稿エラーを防ぐためにURLは切り離してゐます)

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%80%E5%91%A8%E7%9

1%9C%E4%BC%9D-%E8%92%BC%E4%BA%95%E6%82%A0%E4%BA%BA-

ebook/dp/B00ZO5LQW2/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1434446417&sr=1-1
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