|
どうも、真壁です。このたびも御返事、誠にありがとうございました。
皆様の卓見にお触れてして、目からウロコの落ちる思いです。
なるほど。二極化ではなく、厳密に言うと、「歴史系」「文学系」「娯楽系」の
三者があるということですね。私は、二極化にせよ三極化にせよ、棲み分けが
望ましいと思っていたのですが、「孫ぽこ」さんの御意見を伺い、深く考え込んで
しまいました。
「対立構造があるからこそ人々は熱くなり、三国志に対する興味を喚起する」という
御意見は、まさしく卓見かと思います。この御意見に触れてしまうと、白黒ハッキリ
させたいとする私の意見は、ひどく子供っぽく見えてきます。
思えば、確かに、「適度な派閥抗争は、会社を多いに発展させる」とも言いますし、
「芸術・文学を始めとする物事は、洗練されると、やがて衰退する」とも言われます。
「歴史系」「文学系」「娯楽系」をハッキリ棲み分けさせて、三国志を取り巻く状況が
スマートになってしまうと、それは、人々の三国志に対する熱を奪ってしまうことにも
なりかねません。「歴史系」「文学系」「娯楽系」の人々が、棲み分けせずに同じ
フィールドで三国志を語り、混沌とした状態が保たれてこそ、三国志ブームの永続に
つながるのかもしれません。混沌とした状態からは、人々は三国志に色々な可能性を
感じることができますが、棲み分けしてしまうと、やがて各方面の極点(洗練)に
辿り着き、人々は、三国志に飽きてしまう。思えば、昔はもっと自由な存在だった
「和服」も、洗練されすぎて、宇宙服のようになってしまい衰退しました。昔は、
粗削りで、色々な可能性を感じさせられた漫画が、絵がキレイになって洗練されて
下らなくなった例は、数知れません。毒と薬に満ちたあの『ドラえもん』でさえ、
今では洗練されて「癒し系」などと言われ、つまらないものになってきています。
「熱」が失われてしまったものの末路は、あまりに悲しい。
話がすこし逸れましたが、「孫ぽこ」さんの御意見は、誠にもっともなものであると
思います。「歴史系」「演義系」「娯楽系」が魏・呉・蜀のように鼎立し、諸葛亮の
北伐のごとく、各者に抗争(交流)があってこそ、『三国志』が成り立つ、というのは、
まるで寓話のようによくできた話です。
ですが、私としては、三国志の発展のため、初心者の方の三国志に対する情熱を
惹起するためのある程度のカオスは必要だとしても、それだけだと、やはり淋しい。
いつもまでも、三国志の書物といえば、「歴史」「演義」「娯楽」が一体となって、
何がなんだかわからないモノばかりというのは、三者のどのタイプの人であっても、
三国志ビギナーからマスターへと至る人にとっては、苦痛で仕方ないのではないかと
思うのです。どこの世界でも、極めたい人がいるように、「歴史系」を極めたい人、
「演義系」を極めたい人、「娯楽系」を極めたい人、というのが、いると思うのですが、
このカオスの状態では、「歴史」「演義」「娯楽」のそれぞれの中途半端な知識しか
得られないという心配があります。
例えば、私を例に取ってみると、「歴史系」を極めていきたいと思っているのですが、
純粋に「史書」の三国志の世界を考察している書物は、驚く程少ない。ちゃんとした
歴史を扱ってそうな、「歴史読本」シリーズや「歴史群像」シリーズですら、演義の話
で満載です。そして、少しある「史書」の三国志を解説している本は、ほとんど、もう
わかりきったことばかり書いていて、「なるほど!」と言わせてくれるような本は、
ほとんどありません。これはストレスが溜まります。最近では、「別冊宝島」の本の
中の一部の記事で感銘を受けましたが、この本でも、「正史を基礎」を宣言しながら、
演義の話が混じるといった具合です。これほど正史『三国志』が読まれる時代に
なっても、公孫度の配下の柳毅に対する考察などが読めるのは、ネットの中だけ、
というのは、いささか淋しい気がします。
というわけで、今は、カオスと洗練のバランスについて、迷っています。
三国志の今後の発展を思うと、カオスは欠かせないかもしれない。しかしながら、
ステップアップして、よりディープに三国志を語ろうとした時に、ほとんどの
書物や映像メディアがカオスなものしかないというのは、三国志を極めたい人に
とっては、逆に、三国志への興味を頭打ちにさせてしまわないかという危惧が
生じるのです。
なんだか、観念的な話になってしまい、本来の話題の主旨と離れてきていないか
心配になりますが、また御意見・御感想などを賜れれば幸いです。
三国志の小説については、後日また意見を述べさせていただこうと考えております。
ジョージ真壁
|
|