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こういうスレもたまには良いのではないでしょうか?
真壁さんのおっしゃりたい事は、私自身感じてきた部分ですし、共感しています。
ただ、前述しました通り、私自身の感じ方が変わってきた部分があって、実を言うと【人によって認識・評価が違う】という事自体が三国志の面白さの一つではないか?と感じる事があるんです。
これから私が書く事は、三国志を歴史学・史学として捉えるなら邪道も良い所なのですが。
なんでもそうですが、一つのジャンルが興隆する時というのは必ず対立構造というのがあります。プロレスで言うなら馬場と猪木(笑)。政治で言うなら自民党と民主党。自己主張と自己主張がぶつかり合うというのは、端から見ると醜かったり、馬鹿げていたりするもんですが、その対立構造の持つパワーというのは非常に大きい。
実際、光栄ゲームシリーズの人気から始まったと思われる、三国志ブームはもし演義基準だけの世界観しかなければ、いずれ一過性の物として衰退していった可能性すらあります。水滸伝は世界観が一つしかないが故に大きなムーブメントを起こすには到りませんでした。
しかし、そこに正史基準という世界観が割ってはいる事で、新たな対立構造が出てきた訳です。つまり、【えっ?赤壁では諸葛亮は何もやってない??】などという驚きが入ってきた。自分などが三国志を趣味の一つとしていった背景にはコレがあります。全然違う世界観が同じ題材に存在するという不思議です。三国志には他にも魏派・蜀派・呉派と言った対立構造もありますので、実を言うと三国志ファン層を支える根底にはこうした対立構造がどこかに存在していると言えます。
こうした対立構造があるからこそ、熱いw三国志サイトが多々存在するとも言える気がするのです。つまりサイト管理人になんらかの思い入れがあるからこそ、熱くなるのであって、それが無ければそのジャンルは衰退するでしょう。こうした思い入れを導入するには、実は対立構造の存在というのはうってつけなんです。
という視点で考えると、最近ちと三国志ブームが一時期より衰退しつつあるように思えるのは、ファンがスマートになり、所謂棲み分けが進んだ結果、対立構造が発生しずらくなった点にも一因があるのではないか?とすら思えます。それが証拠に棲み分けが進んでいない2ちゃんの熱い事熱い事w
まあそういう訳で、三国志を史学・歴史学として捉えるなら、とんでもない論法ではありますが、最近、私は【いろんな価値観をそのままに三国志の世界観に存在させた方が良いのではないか?】と思っているのです。棲み分けも良いですが、意外に棲み分けなんかしない方が面白いのではないかと。
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