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▼ジョージ真壁さん:
読者と書き手と出版社(商売)との問題は、現実の経済活動の中で難しい問題をはらんでおり、一概にこうだとは申せませんが、小生の愚見を申し述べておきます。
現在、三国志ものを執筆される大半の方はライター(三国志関係を良くお書きになる)が中心で、実際の研究者は少ないと思います。
今まで、研究者の間では、三国志のことをすると「あいつは三国中毒だ」とか、蜀のことをすると「蜀中毒だ」とか言われ、「もっと真面目なことを研究しろ」などと言われてきました。因って今まで前後のからみや、論の展開上から「三国」のことに論及が及ぶことは有っても、「三国」を冠した専門研究書は存在せず、今年の三月末になって、渡邉義浩氏の『三国政権の構造と名士』(汲古書院、10000円)が本邦最初の「三国志」を冠した書籍です。
また一般向け雑誌の場合、執筆者全員を研究者でそろえ、絶対正史に依拠とのコンセプトを徹底すれば可能でしょうが、一雑誌の執筆者全員を研究者で揃えるのは困難であり、当然研究者+ライターの方々と言う組み合わせとなります。
研究者の場合は、出版社サイドが何を言っても、「俺は正史の範囲でしか書かないよ、いやなら書くのを辞めるよ」と言えます。なぜなら他に本職を持っているからです。
しかし、書くことで生計を維持されているライターの方々の場合は、そのような勝手な言いぐさは難しいと思います。よっぽど大物ライターで何でも通るような作家樣なら別でしょうが、普通では難しいと思います。
逆に、無理して研究者をかき集めて書かせれば、内容的には歴史的事実に依拠した雑誌になるでしょうが、専門用語の羅列した面白くもない雑誌となり、まるで研究書のダイジェスト版の様になるでしょう。こんな雑誌が本当に大量に売れるでしょうか。
結果、雑誌を売ると言う立場の出版(経済活動)サイドから言えば、ライターの方々と研究者の数人の組み合わせに因る執筆メンバー構成が、一番無難と言うことになるのではないのかと愚考致します。
因って小生の結論でありますが、出版の諸事情に因り執筆者を一元的に統一出来ないと言う現状の中で、読者の方々には、誰が執筆者であるかに因って読み分けるスタンスを持って頂きたいと愚考致します。ここまで三国志ものが氾濫し、多くのフアンがおられる状況を拝見すると、一雑誌の中でも「この人は歴史に依拠しているな」とか「この人は『三国志演義』系だ」とか、読み分ける楽しみを読者の方々に持って頂けたら幸いだなあと勝手に望んでおります。
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