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どうも、真壁です。
御意見、どうもありがとうございました。
どのような御意見でも、私は歓迎です。
仁さんのおっしゃる『歴史群像シリーズ』の本は、一体どれを指しているのか
わからないので、なんとも言えませんが、私が持っている、三冊ほどは、「演義」
と「史実」の混同が著しく、読んでいたら、何が本当の歴史(とされているもの)
なのかが、さっぱりわかりません。おっしゃっているのは、最近発売された分で
しょうか。もしよろしければ、御教授頂けましたら、また書店で確認してみます。
「>演義ではこう変えられたが、実際はこうだよ」というスタンスは、私としては、
多いにやってほしいところです。そうやって、『三国志』に対する誤解をだんだんと
解いていくことによって、最終的に「歴史系」の面白さに目覚めていただければ、
「歴史系」の人間として、これに勝る喜びはありません。
まして、『歴史群像シリーズ』が「歴史」を名乗る以上、真実の歴史(とされて
いるもの)をしっかり追って頂きたい。
>・・・三国志というと出来事をそのまま表さなきゃいけないようなところがありますが、>遊び心というのも変ですが、真っ直ぐ見るのとまた違った眼を養うのも必要かなとか。
>要は、こういうしっかりとした歴史研究の上で、確かな推測をしようとする姿勢を持っ>た歴史系三国志の本が出るととてもおもしろいと思うのですが。どうでしょうか。
まったくおっしゃられる通りです。
私も、そのような本の出現を待っています。
もうお読みになられているかもしれませんが、三国志小説では、何度も繰り返し
紹介しますが、陳舜臣『秘本三国志』が、かなり遊び心に満ちています。
史書の記述をそのまま小説にするのではなく、必ず疑ってかかって、
「すべては陰謀だった」という形にするのが、陳舜臣氏の歴史小説の得意技なの
ですが、この『秘本三国志』でも、あちこちでそういった解釈が見られます。
あと、『三国志』というと、ついつい英雄たちの活躍にばかり目がいってしまい
ますが、民衆にもスポットを当てたこの作品は、やはり素晴らしい。ただ、今
見ると、考察にまだまだぬるいところが感じられます。
こうやって、史書を前提として書いている三国志小説が、まだまだほとんど
ないのが残念です。
>・・・先日の記事で、昔の漫画家は文学や映画など色々なものを研究して漫画を描いて
>いるが、最近の漫画家は、その描かれた漫画を読んでから漫画を描くからだんだん
>小さな狭いものになるとありました。
これは驚きですねえ。私とまったく同じことを考えている方が、やはりいたとは。
それとも、いつのまにか、この筆者の影響を私が受けていたのでしょうか。
最近の『マガジン』や『ジャンプ』などの漫画には、もの凄く、それを感じます。
展開は読めるし、キャラクターは深みがないし。これは何も、私が大人になって
成長したから面白くないのだ、というのとは、ちょっと違うような気がします。
なんだか、『ドラゴンボール』の後半あたりから、漫画はダメになっていったような
気がしてなりません。人生経験も、想像力も、創造力も欠けた人が、漫画を書いて
いるように思われます。話はそれてしまいましたが。
>小説からいうと、三国志小説を読んで、また三国志小説を書くからつまらないのが
>多くなっているのかな、と。演義読み、それで書かれた小説を読み、また小説を
>書くから焼き直しのものが多いのでしょう。
これは、まったく同感です。想像力も創造力も欠いているのです。
繰り返しますが、史書には、「小説にしたらどうなるだろう?」と想像をかきたて
られる題材が非常に多い。だが、多くの小説家と小説家志望は、そういう想像と
それに対する検証をまったくしないで三国志小説を書いているように見えます。
たとえば、プロ・アマに限らず、趙雲は人気者で、小説にした人、小説に
したい人が数多くいる題材ですが、本気で趙雲を調べて、想像力を働かせて
書いている人は、私が感じた限りでは見当たりません。ほとんどが、ミーハー
的な内容です。それはそれで良いのだけれども、それは所詮、みんながやって
いることであり、少しも「私だからこそ、これが書けた」と誇れるようなモノでは
ありません。読む側としても、あえて読みたいと思うものではない。
私に言わせたら、趙雲なんて、よく調べたら面白い人ですよ。テイイクが
「コウソンサンよりエンショウにつきなされ」とリュウタイに語ったように、
世の流れはエンショウにあった時代に、なぜ趙雲はコウソンサンについたのか?
当然出てこなければならないこの疑問が、従来の趙雲小説にはまるで出てこない。
私の考えでは、趙雲の出身地・常山郡真定は、流民の英雄・黒山賊首領の張燕の
出身地でもあり、趙雲は、この張燕の影響を受けていたのではないか? 張燕は
コウソンサンとなぜか結んでおり、それがゆえ、不利と思っても、地元の英雄・
張燕と対立しているエンショウ陣営に行くわけにはいかなかったのではないか?
などと私なぞは想像するわけです。あくまで想像にすぎませんし、よく御存知の
方から見れば、「なんだそりゃ?」という解釈かもしれませんが、こういった
ところを想像し、情景豊かに描かくのが、小説家の小説家たる所以ではないかと、
私は思うのです。呂布をも苦戦させ、エンショウが死んだ後でさえまだ生き残って
いた英雄・張燕と、趙雲との絡みなんて、胸が震えるではありませんか(私だけ?)。
あと、趙雲と同郷のカコウラン。なぜ、趙雲は劉備について、カコウランは
曹操についたのか? そのあたりの心情を描くのも、小説家の腕のみせどころで
しょう。誰でも知っているような、リュウゼンを救うシーンや、「子龍は一身すべて
これ胆なり」のシーンを描いても、小説家としての評価としては、低くならざるを
えません。
『北方三国志』が、従来のよく知られたエピソードを、ことごとくカットして、
自分なりの三国志を書こうとしたことは、そういう意味では評価できます。
しかし、「赤壁では、孔明を活躍させない」とあらかじめ宣言していたので、
従来の三国志とは一線を画したものを期待しましたが、孔明は赤壁で活躍しない
のに、関羽は華雄を斬ったりして、結局、どっちつかずで、何がしたいのか
わからない中途半端な作品だったのが残念です。さらに、自分なりの三国志は
良いのですが、結局、「志を持つことが大事」というような自分の主張を、
三国志の登場人物に仮託することにのみやっきになっており、私としては、
「結局この作者は、三国志の登場人物に対して、本当の意味では畏敬の念を
持っていないし、好きではないのではないか?」という感想を持ちました。
歴史上の三国志の人物たちと、しっかりと向き合っていないのが丸わかり
だからです。
もちろん、小説を書く人が、自らの主張を小説の登場人物に込めるのは
当然のことですから、とやかく言うことではないのですが。しかし、三国志
の登場人物に対する愛は感じられません。まあ、結局は「演義」も、本当の
意味では三国志の人物を愛していないのがハッキリわかる作品なので、
そういうもんなのかもしれませんが。
そういう三国志小説が氾濫しているからこそ、私としては、「三国志愛」
を感じる作品に出会いたくなるのかもしれません。そういう三国志小説に
出会える日が来ることを、願ってやみません。趙雲小説も、本当の意味で
趙雲が好きな方が書いた小説を読んでみたいところです。
ということで、また長々と書いてしまいましたが、いかがだったでしょうか?
また御意見・御感想・御指摘等を賜れれば幸いです。
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