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最初に、真壁さんのご意見を否定しているわけではありません。
基本的に賛成ですが、+アルファとして私の意見を加えたまでです。
それと前回のレスの訂正をいたします。
× 欲しいと思う本がないのは、それだけニーズがないのだと思います。
○ 欲しいと思う本がないのは、それだけニーズが少ないのだと思います。
× 本の出版もビジネスですし、売れる本を企画するのが
○ 本の出版もビジネスですし、売れて採算のとれる本を企画するのが
「少ない」「売れて採算のとれる」と言うべきでした。申し訳ございません。
> 私も商売に絡む仕事をやっていましたもので、「ニーズ」が重要だと
>いうことは、よく存じ上げているつもりです。ですが、どうなんでしょう?
>果たして、本当に、私が求めるような「歴史系三国志ファンを唸らせる書物」の
>ニーズって、ないんでしょうか? これだけ、あちこちのサイトで、
>「正史三国志」が語られるようになっているのに、書物にはニーズがない、
>というのは、私としてはどうも信じがたい気がするのです。
この部分、私がニーズが「ない」と言った上での返答として受け止めます。
私も正史演義等、内容の混同をしてほしくないと思う立場です。
ただ、Web上で正史について語られているからといって日本人全体から見れば
、さらに三国志ファン全体から見れば、ほんの一握りだと思うのです。
ROMのみの見えない実数があったとしてもそれを測定するのは不可能でしょうし、
売れる(売れて採算のとれる)という勝算がたたないからこそ、
私達の欲する本は出版されにくいのではないかと思ったのですね。
(後の黄虎洞先生の出版事情の話を聞くと、この推測もどうかと思いますが)
> 私が気になるのは、この話題で「清岡さん」が書いておられた「(演義と
>正史の違いが問題だということが)出版社に伝わっていないようだ」という
>お話と、「黄虎洞」さんが書いておられた「歴史か『三国志演義』かと言う
>問題は、文章を発表する側の意識が、そこまで考えていない」というお話が、
>実状に近いのではないか?という点です。
正史演義等の違いが分かる人は、それが区別されていないことが問題となりますが、
そもそも正史演義等を区別する必要のない人もいるわけです。
実際の比率は分かりませんが、おそらく多くの人が後者なのではないでしょうか。
出版社側自身も後者の場合があるかもしれません。ゆえに我々はWebサイト上で
正史と演義は違うんだよ、と唄っているのだと思います。ほとんどの人が区別
できているならいちいちそんなことを書くサイトは逆に少なくなってるんじゃ
ないかと思います。特に若い世代から多く三国志に興味を持ち、いずれ去っていき、
その中でほんの一握りの人たちが三国志にはまり、問題を受け止め、ファンとして
居続けるのだと思います。
>顧客満足というものが最重視される、商売の世界に
>いた私からしてみれば、読者(お客)を意識しない文章、というのは、「顧客を
>無視して仕入れられた商品」と同じで、あってはならないものと考えるから
>です。もちろん、ビジネス的観点からみるとそうなるが、学者さんやライター
>さんにとっては、そうではないのかもしれません。もし、そのくらいの考えで、
>出版社が「三国志本」を出しているのだとしたら、出版社側は、売れる題材を
>売れないようにして出版している、とも言えるのではないでしょうか?
出版社側が正史演義等の区別が分かっていて、正史演義等の各エピソードを
ごちゃまぜにしないでそれぞれ別個にきちんと理解してもらうことを望んで
いて、採算度外視で学術的に必要性のあるものであれば、出版すると思います。
それが皆無だとは思っていません。また、そのようなニーズが(多く)あれば
まさに「売れる題材を売れないようにして出版している」ことになると思います。
私は出版界の人間ではないので、詳しいことは分かりません。
でも、ただ「待ち望む」だけでは何も変わらないと思うのです。
それゆえ出版界に求める以外に「欲するものがなければ自分で作る」ことも
ひとつの選択肢だと思うのです。
「一ファンとして、正確な情報が、少しでも多くの人に伝わることを願ってやみません。」
というそのお気持ちを以って三国志等の原文の翻訳にチャレンジしてみては
いかがでしょうか?という漢籍翻訳のお誘いでした。私が反応したのはこの部分でした。
前回レスの冒頭でも述べましたが、三国志をめぐる二極化、三極化の話は
とても興味あります。こちらの話には、まとまった意見を言えませんので…
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