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界橋の戦い(孫氏からみた三国志54)
2010.06.02.
<<孫堅薨去(孫氏からみた三国志53)


   『後漢書』本紀1)によると、前回の孫堅劉表の戦いの同時期に北の方でも戦いが起こりつつあった。前回が袁紹・劉表連合と袁術公孫瓚連合の対立により引き起こされた袁術・孫堅と劉表の戦いであるのに対し、今回は公孫瓚と袁紹の戦いだ。

   ちょうど「<<袁紹と袁術の対立(孫氏からみた三国志52)」で公孫瓚は初平二年冬、磐河に駐屯した際に、『後漢書』伝六十三公孫瓚伝2)によると、下記のように公孫瓚は上疏にて袁紹の罪を十、挙げている。長いが全文で。

   乃ち上疏に言う。
「臣(わたし)は皇羲(伏羲)以来、君臣の道は著しく、礼を張ることで人を導き、刑を設けることで暴を禁じました。今、車騎将軍の袁紹は先軌(旧規)を託承し(引き受け)、崇厚を爵任しましたが、本性は淫乱で、情行は浮薄です。昔、司隸(校尉)となり、国は多難に遭い、太后は摂政を承け、何氏は朝廷を輔けました。袁紹は挙げることができず直に曲げ、専らへつらい、不軌を招き、社稷を惑い誤り、丁原に孟津を焼かせるに至り、董卓は乱をなし始めました。袁紹の罪の一です。董卓はすでに礼を無くし、帝主は質に見えました。袁紹は動くことができず権謀を設け、君父を救うために、節伝を棄て、ほとばしり逃亡しました。爵命を恥じ、人主に逆らう、袁紹の罪の二です。袁紹は渤海(太守)になり、当に董卓を攻め、黙って兵馬を選び、父兄に告げず、太傅一門を重ねるように同じく倒れさせるに至りました。不仁不孝で、袁紹の罪の三です。袁紹は既に兵を興し、二載に広く巡り、国難を憂えず、広く自ら殖やしました。乃ち多くの資糧を引き、専ら急がず、損ない定めが無く、百姓を調べ、それは悲しみ恨みになり、嘆かない者はない。袁紹の罪の四です。韓馥に差し迫り、其州を盗み取り、偽って金玉を刻み、それにより印璽とし、ことあるごとに下すところで、すなわち皁嚢(上書を入れる黒い袋)はしるしされ封じられ、文が詔書とされます。昔、亡んだ新(王莽)は身分不相応におごり、やがて即位しました。袁紹を見るにまねるところがあり、まさに必ず秩序の乱れの元となるでしょう。袁紹の罪の五です。袁紹は星工(善星者)に祥妖を望み伺わせ、財貨を賄賂として送り、共に飲食を与え、会合の日を刻み、郡県を掠めました。これがどうして大臣の行為に当たるところでしょうか。袁紹の罪の六です。袁紹と故(もと)の虎牙都尉の劉勳は先立って共に兵を興し、劉勳は張楊に降伏し、加えて効力があり、小さな怒りと邪により(劉勳に)酷害を加えました。邪悪を信じ用い、その無道を救う、袁紹の罪の七です。故(もと)の上谷太守高焉、故(もと)の甘陵相姚貢に、袁紹は貪欲に、その銭を求め、銭が備えられずに居ると、二人は命がけとなりました。袁紹の罪の八です。春秋の義では子は母を貴びます。袁紹の母親は傅婢(侍女)であり、地は実に賎しく、職に頼り高く重ね、福を受け豊かに盛んです。苟進の志があっても、虚退の心は無く、袁紹の罪の九です。また長沙太守孫堅は、先に豫州刺史を領し、ついに董卓を追い立て、陵廟を清め、王室に忠勤し、その功は莫大となりました。袁紹は小将にその位を盗ませ、孫堅の糧を断絶し、深入りし得なくし、董卓を久しく誅に服せなくしました。袁紹の罪の十です。昔、姫周の政治が弱く、王道は次第に緩やかとなり、天子は遷徙し、諸侯は背き、そのため齊桓は柯亭の盟を立て、晉文は踐土の會をなし、荊楚を伐すことで菁茅を行うに致り、曹・衛を誅すことで無礼を明らかにしました。臣(わたし)は闒茸(小人)といえども、名は先賢でなく、朝恩を被り、負荷は重任で、職に鈇鉞があり、辞を受け罪を伐ち、乃ち諸将に州郡を与え共に袁紹等を討ちます。もし大事に打ち勝ち、罪人をここに得れば、齊桓・晉文の忠誠の效に多く続くでしょう」
   遂に兵を挙げ袁紹を攻め、これにより冀州の諸城は尽く背き公孫瓚に従った

   この上疏は『三国志』巻八魏書公孫瓚伝の注に引く『典略』に載る公孫瓚が袁紹の罪状を書いた上表3)とほぼ同じ内容となっている。そこには孫堅の薨去について触れられていないため、この上疏が書かれた時期は、それより以前か知られていない同時期だと思われる。最後の袁紹を攻める件は次の『三国志』巻八魏書公孫瓚伝4)の記述に詳しい。

   袁紹は懼れ、帯びているところの(冀州の)勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に授け、これを郡に遣わし、結援を求めた。公孫範はついに勃海兵で公孫瓚を助け、青州と徐州の黄巾を破り、兵はますます盛んとなり、界橋へ進軍する。嚴綱をもって冀州とし、田楷を青州へ、單經を兗州へ諸郡県を置いた。

   界橋とはその名の通り、境界にかかる橋だ。何の境界かというと、冀州鉅鹿郡と冀州甘陵国との境界(郡境)であり、ちょうど清河という河川に設定されている。界橋は槃河(冀州鉅鹿郡廣宗県)のすぐ東に位置している。下記の地図を見るとわかるが、公孫瓚の本拠は(遼東)属国長史を兼ねて領している2007-1012-7)ためそこになり、董卓を討つことにかこつけて南下し、槃河に落ち着き、また冀州勃海郡で黄巾賊を破り転戦した。ちょうど清河を挟んで西に公孫瓚、東に袁紹という位置づけだろう。
<2011年5月29日追記>
   ここで、「<<それぞれの道へ(孫氏からみた三国志22)」の続きで、程昱(字仲德)を追う。まだ公孫瓚と袁紹とが対立する前まで遡る。以下、『三国志』巻十四魏書程昱伝13)の記述より。

   初平中(紀元190-193年)、兗州刺史の劉岱は程昱を招き、程昱は応じなかった。この時、劉岱と袁紹、公孫瓚とは和親し、袁紹は妻子を劉岱の所へ居させ、公孫瓚はその上、従事の范方に騎を率いらせ劉岱を助けた。後に袁紹と公孫瓚に隙ができた。公孫瓚は袁紹軍を破り、そこで使者を使わし劉岱と語り、袁紹の妻子を遣わすように命じ、袁紹と絶たせた。別に范方に勅す。
「もし劉岱が袁紹の家を遣わさなければ、騎を率い還れ。吾は袁紹を定め、将に劉岱に兵を加えるだろう」
   劉岱の議は連日で決まらず、別駕の王彧は劉岱に白す。
「程昱に謀りが有って、良く大事を決められます」
   そこで劉岱は程昱を召し見え、計を問い、程昱は言う。
「袁紹の近援を捨て公孫瓚の遠助を求める如くは、賢人が越で溺れる子を救うのにあげつらうようなものです。それ公孫瓚は袁紹の敵ではありません。今、袁紹軍に懐くと雖も、終わりには袁紹の捉える所と為るでしょう。それ一朝の権に赴くも遠計も慮らず、将軍は終いに敗れるでしょう。」
   劉岱はこれに従った。范方はその騎を率い帰り、未だ至らず、公孫瓚は大いに袁紹の破る所と為った。劉岱は程昱を表し騎都尉と為し、程昱は疾により辞した。
<追記終了>

   ここで、公孫瓚が青州へ派遣した田楷についてもう少し詳しく書く。むしろ「<<両頭共身(孫氏からみた三国志39)」の劉備の記述の続きになる。そのため少し時間を遡らせる。『三国志』巻三十二蜀書先主伝5)の記述より。

   霊帝末、黄巾が起こり、州郡は各々、義兵を挙げ、先主は校尉鄒靖に属従するのを率い、黄巾賊を討ち功があり、(冀州中山国)安喜尉になった。督郵は公事により県に到り、先主は謁を求めたが、通じず、直に入り督郵を縛り、二百を杖し、綬を解きその頸を繋ぎ馬枊に付け、官を棄て亡命した。この頃、大将軍何進は都尉の毌丘毅を遣わし(揚州)丹楊に詣で兵を募り、先主は共に行き、(徐州)下邳に至り、賊に遭遇し、力戦し功が有り、(青州北海国)下密丞になった。再び官を去った。後に(青州平原郡)高唐尉になり、令に遷った。賊に破れるところとなり、中郎将公孫瓚のところへ往き奔り、公孫瓚は上表し別部司馬にし、青州刺史田楷と共に冀州牧袁紹を拒むよう使わされた。しばしば戦功があり、(青州平原郡)平原令を守るのを試み、後に(青州)平原相を領した。郡民の劉平は素より先主を軽んじ、辱めこれを下とし、客を使わしこれを刺そうとした。客は刺すのを忍ばず、これを語り去った。その人心を得るのはこのようなものだった。

   ここにある黄巾は「霊帝末」という時期から見て、「<<二人の劉使君(孫氏からみた三国志41)」か「<<西園八校尉と無上将軍(孫氏からみた三国志42)」に見える黄巾だろうから中平五年(紀元188年)あたりのことだろう。また鄒靖はこれ以前に「<<京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)」に北軍中候として記載がある。
   中山国の督郵(官職名)の件には裴松之の注がついており、『典略6)が引かれており、以下のように微妙に違うものの、詳しく書かれている。

   『典略』に言う。
   その後、州郡は詔書を被り、その軍功があり長吏になった者は、これを沙汰に当たり、劉備は遣わし中ると疑った。督郵が県に至り、まさに劉備に遣わし、劉備は素よりこれを知っていた。督郵が伝舎に在ると聞き、劉備は督郵と見えるのを欲求し、督郵は疾を称し劉備に見えるのを肯かず、劉備はこれを恨み、それにより還り治め、吏卒を率い更に伝舎を詣で、門へ突入し、言う。
「我は府君の密教を被り督郵を収める」
   遂に床に就きこれを縛り、まさに出て境界に到り、自らその綬を解くことで督郵の頸を繋ぎ、これを縛り樹に付け、百余りを鞭杖し、これを殺そうと欲した。督郵は哀願し、乃ち釈放しこれを去った。

   さらに高唐尉になったところにも裴松之の注がついており、以下のような『英雄記7)が引かれている。

   『英雄記』に云う。
   霊帝の末年、劉備はかつて京師に在って、後に曹公(曹操)と共に(豫州)沛国へ還り、募り召し衆を合わせた。たまたま霊帝が崩御し、天下が大乱し、劉備もまた軍を起こし董卓を討つのに従った。

   曹操が京師(雒陽)から脱出したいきさつは「<<何進暗殺から董卓秉政へ(孫氏からみた三国志45)」に書かれており、中平六年(紀元189年)のことだ。
   また劉平の件にも裴松之の注がついており、次のような『魏書』8)が引かれている。

   『魏書』に言う。
   劉平は客を結し劉備を刺し、劉備は知らずに甚だ厚く待客し、客は述べることでこれを語り去った。この時の人民は飢饉で、聚に駐屯し掠奪した。劉備は外では寇難を防ぎ、内では豊かな財で施し、士の下者は、必ず席を同じくし座り、簋を同じくし食し、選ぶところが無かった。衆は多く帰した。

   少々、枝葉の部分が過ぎたが、こうして公孫瓚は袁紹に対して攻勢に出る。対する袁紹にも動きが見られる。次に示すように『三国志』巻十四魏書董昭伝9)にその動きが見える。

   董昭、公仁と字し、濟陰の定陶人だ。孝廉に挙げられ、(冀州鉅鹿郡)廮陶長と(冀州趙国)柏人令になり、袁紹は參軍事にした。袁紹は界橋で公孫瓚に逆らい、(冀州)鉅鹿太守李邵および郡の冠蓋(使者)は公孫瓚の兵の強さをもって、皆、公孫瓚に属すことを欲した。袁紹はこれを聞き、董昭に鉅鹿を領させた。問う。
「何の術をもって守るのか」
   対して言う。
「一人の微は、多くの謀を消せませんが、その心を誘い出すことを欲し、同議を唱え与え、及び、その情を得て、乃ち当権(執政)をもってこれを制するのみです。計が在って時に臨むため、未だ言を得ることができません」
   当時、郡の右姓である孫伉ら数十人は専ら謀主になり、吏民を驚かせ動かしていた。董昭は郡に至り、袁紹の檄を偽作し、郡に告げて言う。
「賊羅候の安平の張吉の辞を得て、まさに鉅鹿を攻め、賊である故(もと)の孫伉らが応じ、檄が到れば行軍法を収め、はなはだその身を止め、妻子は座すことなかれ」
   董昭は檄を案じ令を告げ、皆、直ぐにこれを斬った。一郡は恐れ入り、乃ち次よりなだめ慰め、遂に皆、安らかに集まった。事が終わり袁紹に告げると、袁紹は善く称えた。

   ここの李邵は「<<相国の董卓と関東諸将(孫氏からみた三国志46)」にある冀州刺史李邵と同一人物であろう。つまり李邵は冀州刺史から鉅鹿太守へ昇進したことになる。
公孫瓚対袁紹
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   このように公孫瓚と袁紹の間で緊張感が高まる中、ついに界橋近くで戦端が切られた。それは下記の『三国志』巻六魏書袁紹伝の注に引く『英雄記』10)に詳しい。

   『英雄記』に言う。
   公孫瓚は青州黄巾賊を撃ち、これを大いに破り、還り(冀州鉅鹿郡)廣宗に駐屯し、改め命令を守り、冀州の長吏で形勢に従い響き応じない者はなく、門を開けこれを受けた。袁紹は自ら公孫瓚を征し往き、界橋の南二十里において合わせ戦った。公孫瓚の歩兵三万人余りは方陣をなし、騎兵を両翼にし、左右、各々五千匹余りで、白馬義従を中堅とし、また分けて二つの校を作り、左は右を発射し、右は左を発射し、旌、旗、鎧甲は天地を光で照らした。袁紹は麹義に八百兵をもって先に登らせ、強弩千張を挟みさせこれを承け、袁紹は自ら歩兵数万をもって後において陣を結んだ。麹義は久しく涼州に在り、羌の戦いを熟知しており、兵は皆、勇ましくて勢いが強かった。公孫瓚はその兵が少ないと見て、たやすく騎を放出し、これをしのぎ踏むことを欲した。麹義の兵は皆、楯の下に伏し動かず、未だ、数十歩に至らないときに、則ち同時に共に起ち、塵を揚げ大いに叫び、直前で衝突し、強弩を雷発し、当たるところ必ず倒し、陣に臨み、公孫瓚の表すところの冀州刺史である嚴綱の甲首千級あまりを斬った。公孫瓚の軍は敗戦し、歩騎は奔走し、再び営に還ることはなかった。麹義は追い界橋に至った。公孫瓚の殿兵は橋上で戦に還り、麹義は再びこれを破り、遂に公孫瓚の営に至り、その牙門を抜き、営中の余衆をみな再び散り走った。袁紹は後に在り、未だ、橋の数十里に至り、馬から降り鞍をひらき、公孫瓚の既に敗れたところを見て、備えて用意せず、ただ帳下に強弩数十張があり、大きな戟士百人余りが自ら随行していた。公孫瓚の部は騎二千匹余りをほとばしり率い至り、たやすく袁紹を数重に包囲し、弓矢で雨のように下した。別駕従事の田豐は袁紹を助け空垣に退き入ろうと欲し、袁紹は兜鍪(かぶと)をもって地に打って言う。
「大丈夫はまさに前で戦いに死んだのに、牆の間に入り、活路を得られるだろうか」
   強弩は乃ち乱発され、多く殺傷するところとなった。公孫瓚の騎はこれを袁紹と知らず、また次第に引き退却した。たまたま麹義が来て迎え、乃ち散り去った。公孫瓚は虜と戦う毎に、常に白馬に乗り、追い外さず、数度も戎捷(戦勝)を得て、虜は互いに告げて言う。
   「まさに白馬を避けるべし」
   虜が忌むところにより、その白馬数千匹を調べ、騎射の士を選び、号して白馬義従とした。一に言う、胡夷の健者は白馬に乗り、公孫瓚に強い騎数千に有り、多くが白馬に乗り、故にそう号した。

   こうして冀州の公孫瓚の勢力は袁紹によって駆逐された。公孫瓚の行方は次に示す『三国志』巻八魏書公孫瓚伝4)からの記述に書かれている。

   袁紹は(冀州甘陵国)廣川に陣取り将の麹義をまず進め公孫瓚と戦わせ、嚴綱を生け捕った。公孫瓚の軍は(冀州)勃海へ敗走し、公孫範と共に(幽州廣陽郡)薊へ還り、大城の東南に小城を築き、劉虞と互いに近付き、次第に互いに恨み望むようになった。

   さらに『後漢書』伝第六十四上袁紹伝11)には「<<袁紹と袁術の対立(孫氏からみた三国志52)」の続きの記述として界橋の戦いの詳細(『英雄記』と類似)が記述された後、年を改めた初平三年(紀元192年)での公孫瓚の動きが次のように書かれている。

   袁紹はすなわち自らこれを撃った。公孫瓚の兵三万は列を方陣とし、突騎万匹を分け、翼軍を左右にし、その鋒は甚だ鋭い。袁紹はまず麹義に精兵八百、強弩千張を持たせ、先に進めさせた。公孫瓚はその兵が少ないと軽んじ、騎をほしいままにしこれを馳せ登り、麹義の兵は楯の下に伏せ、同時に発し、公孫瓚は大敗し、その置くところの冀州刺史嚴綱を斬り、甲首千級余りを獲った。麹義は追い界橋に至り、公孫瓚は兵を集め戦いに還り、麹義は再びこれを破り、ついに公孫瓚の営に到り、その牙門を抜き、残りの衆は皆、敗走した。袁紹は後十数里に在り、公孫瓚が既に破れたと聞き、鞍を発し馬を休ませ、ただ帳下に強弩数十張と、大戟士百人ほどで守らせた。公孫瓚の敗残兵二千騎卒余りが至り、袁紹を数十に囲み、矢雨を射し下した。田豐は袁紹を守り、退かせ空垣に入れた。袁紹は兜鍪(かぶと)を脱ぎ地に打ち言う。
「大丈夫はまさに先んじて戦って死ぬというのに、反して垣牆の間に逃げるのか」
   諸弩に競って放つよう促し、多く公孫瓚の騎馬を傷付けた。衆はこれを袁紹と知らず、次第に退却した。たまたま麹義が来て迎え、騎は乃ち散り退いた。(初平)三年、公孫瓚はまた兵を遣わし龍湊に至り戦いに挑み、袁紹は再び撃ちこれを破った。公孫瓚は幽州に還り、敢えて再び出ようとしなかった。

   一方、『後漢書』伝第六十三劉虞伝12)には「<<袁紹と袁術の対立(孫氏からみた三国志52)」の続きの記述として、次のように劉虞と公孫瓚の関係が書かれている。

   公孫瓚はすでに袁紹に破れるところを重ね、なおこれを攻め得られず、劉虞はそのみだりに武を使うことを患い、その上、志を得て再び制することができないことをおもんぱかり、行くことを固く許さず、ようやくその前渡しの給付を留めた。公孫瓚は怒り、しばしば節度を違い、またふたたび百姓を侵した。劉虞は賞を与えられることとなり、胡夷と正しく当たり、公孫瓚は数度、これを奪った。禁じえないことが積もり、乃ち駅使を遣わし章を奉じその暴掠の罪をならべ、公孫瓚はまた劉虞の食糧を給付することが行き届かないことを上書し、二つの奏は交わり馳せ、違いにそしらず、朝廷は迷うのみだった。公孫瓚は乃ち薊城において京(高い丘)を築くことで劉虞に備えた。

   袁紹は攻勢に出て、続けて劉虞と公孫瓚との緊張が高まり、冀州・幽州の勢力が大幅に変わりつつあった。
   そんなとき京師でまた動きがあったのだが、それは次回以降となる。




1)   『後漢書』孝献帝紀第九より。本文のネタバレあり。

三年春正月丁丑、大赦天下。

袁術遣將孫堅攻劉表於襄陽、堅戰歿。

袁紹及公孫瓚戰于界橋、瓚軍大敗。

2)   『後漢書』伝六十三公孫瓚伝より。

乃上疏曰:「臣聞皇羲已來、君臣道著、張禮以導人、設刑以禁暴。今車騎將軍袁紹、託承先軌、爵任崇厚、而性本淫亂、情行浮薄。昔為司隸、値國多難、太后承攝、何氏輔朝。紹不能舉直措枉、而專為邪媚、招來不軌、疑誤社稷、至令丁原焚燒孟津、董卓造為亂始。紹罪一也。卓既無禮、帝主見質。紹不能開設權謀、以濟君父、而棄置節傳、迸竄逃亡。忝辱爵命、背違人主、紹罪二也。紹為勃海、當攻董卓、而默選戎馬、不告父兄、至使太傅一門、纍然同斃。不仁不孝、紹罪三也。紹既興兵、渉歴二載、不恤國難、廣自封植。乃多引資糧、專為不急、割刻無方、考責百姓、其為痛怨、莫不咨嗟。紹罪四也。逼迫韓馥、竊奪其州、矯刻金玉、以為印璽、每有所下、輒皁囊施檢、文稱詔書。昔亡新僭侈、漸以即真。觀紹所擬、將必階亂。紹罪五也。紹令星工伺望祥妖、賂遺財貨、與共飲食、剋會期日、攻鈔郡縣。此豈大臣所當施為?紹罪六也。紹與故虎牙都尉劉勳、首共造兵、勳降服張楊、累有功效、而以小忿枉加酷害。信用讒慝、濟其無道、紹罪七也。故上谷太守高焉、故甘陵相姚貢、紹以貪惏、橫責其錢、錢不備畢、二人并命。紹罪八也。春秋之義、子以母貴。紹母親為傅婢、地實微賤、據職高重、享福豐隆。有苟進之志、無虚退之心、紹罪九也。又長沙太守孫堅、前領豫州刺史、遂能驅走董卓、埽除陵廟、忠勤王室、其功莫大。紹遣小將盜居其位、斷絶堅糧、不得深入、使董卓久不服誅。紹罪十也。昔姬周政弱、王道陵遲、天子遷徙、諸侯背畔、故齊桓立柯(會)〔亭〕之盟、晉文為踐土之會、伐荊楚以致菁茅、誅曹・衛以章無禮。臣雖闒茸、名非先賢、蒙被朝恩、負荷重任、職在鈇鉞、奉辭伐罪、輒與諸將州郡共討紹等。若大事克捷、罪人斯得、庶續桓文忠誠之效。」遂舉兵攻紹、於是冀州諸城悉畔從瓚。

3)   『三国志』巻八魏書公孫瓚伝の注に引く『典略』より。

典略載瓚表紹罪状曰:「臣聞皇・羲以來、始有君臣上下之事、張化以導民、刑罰以禁暴。今行車騎將軍袁紹、託其先軌、寇竊人爵、既性暴亂、厥行淫穢。昔為司隸校尉、會値國家喪禍之際、太后承攝、何氏輔政、紹專為邪媚、不能舉直、至令丁原焚燒孟津、招來董卓、造為亂根、紹罪一也。卓既入雒而主見質、紹不能權譎以濟君父、而棄置節傳、迸竄逃亡、忝辱爵命、背上不忠、紹罪二也。紹為勃海太守、默選戎馬、當攻董卓、不告父兄、至使太傅門戶、太僕母子、一旦而斃、不仁不孝、紹罪三也。紹既興兵、涉歷二年、不卹國難、廣自封殖、乃多以資糧專為不急、割剥富室、收考責錢、百姓吁嗟、莫不痛怨、紹罪四也。韓馥之迫、竊其虚位、矯命詔恩、刻金印玉璽、毎下文書、皁囊施檢、文曰『詔書一封、邟郷侯印』。邟、口浪反。昔新室之亂、漸以即真、今紹所施、擬而方之、紹罪五也。紹令崔巨業候視星日、財貨賂遺、與共飲食、克期會合、攻鈔郡縣、此豈大臣所當宜為?紹罪六也。紹與故虎牙都尉劉勳首共造兵、勳仍有效、又降伏張楊、而以小忿枉害于勳、信用讒慝、殺害有功、紹罪七也。紹又上故上谷太守高焉・故甘陵相姚貢、橫責其錢、錢不備畢、二人并命、紹罪八也。春秋之義、子以母貴。紹母親為婢使、紹實微賤、不可以為人後、以義不宜、乃據豐隆之重任、忝污王爵、損辱袁宗、紹罪九也。又長沙太守孫堅、前領豫州刺史、驅走董卓、掃除陵廟、其功莫大;紹令周昂盜居其位、斷絶堅糧、令不得入、使卓不被誅、紹罪十也。臣又毎得後將軍袁術書、云紹非術類也。紹之罪戻、雖南山之竹不能載。昔姫周政弱、王道陵遲、天子遷都、諸侯背叛、於是齊桓立柯亭之盟、晉文為踐土之會、伐荊楚以致菁茅、誅曹・衛以彰無禮。臣雖闒茸、名非先賢、蒙被朝恩、當此重任、職在鈇鉞、奉辭伐罪、輒與諸將州郡兵討紹等。若事克捷、罪人斯得、庶續桓・文忠誠之效、攻戰形状、前後續上。」遂舉兵與紹對戰、紹不勝。

4)   『三国志』巻八魏書公孫瓚伝より。

紹懼、以所佩勃海太守印綬授瓚從弟範、遣之郡、欲以結援。範遂以勃海兵助瓚、破青・徐黃巾、兵益盛;進軍界橋。以嚴綱為冀州、田楷為青州、單經為兗州、置諸郡縣。紹軍廣川、令將麹義先登與瓚戰、生禽綱。瓚軍敗走勃海、與範俱還薊、於大城東南築小城、與虞相近、稍相恨望。

5)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝より。

靈帝末、黄巾起、州郡各舉義兵、先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功、除安喜尉。督郵以公事到縣、先主求謁、不通、直入縛督郵、杖二百、解綬繋其頸著馬枊、棄官亡命。頃之、大將軍何進遣都尉毌丘毅詣丹楊募兵、先主與倶行、至下邳遇賊、力戰有功、除為下密丞。復去官。後為高唐尉、遷為令。為賊所破、往奔中郎將公孫瓚、瓚表為別部司馬、使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。數有戰功、試守平原令、後領平原相。郡民劉平素輕先主、恥為之下、使客刺之。客不忍刺、語之而去。其得人心如此。

6)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝の注に引く『典略』より。

典略曰:其後州郡被詔書、其有軍功為長吏者、當沙汰之、備疑在遣中。督郵至縣、當遣備、備素知之。聞督郵在傳舍、備欲求見督郵、督郵稱疾不肯見備、備恨之、因還治、將吏卒更詣傳舍、突入門、言「我被府君密教收督郵」。遂就床縛之、將出到界、自解其綬以繋督郵頸、縛之著樹、鞭杖百餘下、欲殺之。督郵求哀、乃釋去之。

7)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝の注に引く『英雄記』より。

英雄記云:靈帝末年、備嘗在京師、後與曹公倶還沛國、募召合衆。會靈帝崩、天下大亂、備亦起軍從討董卓。

8)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝の注に引く『魏書』より。

魏書曰:劉平結客刺備、備不知而待客甚厚、客以状語之而去。是時人民饑饉、屯聚鈔暴。備外禦寇難、内豐財施、士之下者、必與同席而坐、同簋而食、無所簡擇。衆多歸焉。

9)   『三国志』巻十四魏書董昭伝より。

董昭字公仁、濟陰定陶人也。舉孝廉、除廮陶長・柏人令、袁紹以為參軍事。紹逆公孫瓚于界橋、鉅鹿太守李邵及郡冠蓋、以瓚兵彊、皆欲屬瓚。紹聞之、使昭領鉅鹿。問:「禦以何術?」對曰:「一人之微、不能消衆謀、欲誘致其心、唱與同議、及得其情、乃當權以制之耳。計在臨時、未可得言。」時郡右姓孫伉等數十人專為謀主、驚動吏民。昭至郡、偽作紹檄告郡云:「得賊羅候安平張吉辭、當攻鉅鹿、賊故孝廉孫伉等為應、檄到收行軍法、惡止其身、妻子勿坐。」昭案檄告令、皆即斬之。一郡惶恐、乃以次安慰、遂皆平集。事訖白紹、紹稱善。會魏郡太守栗攀為兵所害、紹以昭領魏郡太守。時郡界大亂、賊以萬數、遣使往來、交易市買。昭厚待之、因用為間、乘虛掩討、輒大克破。二日之中、羽檄三至。

10)   『三国志』巻六魏書袁紹伝の注に引く『英雄記』より。

英雄記曰:公孫瓚撃青州黄巾賊、大破之、還屯廣宗、改易守令、冀州長吏無不望風響應、開門受之。紹自往征瓚、合戰于界橋南二十里。瓚歩兵三萬餘人為方陳、騎為兩翼、左右各五千餘匹、白馬義從為中堅、亦分作兩校、左射右、右射左、旌旗鎧甲、光照天地。紹令麹義以八百兵為先登、彊弩千張夾承之、紹自以歩兵數萬結陳于後。義久在涼州、曉習羌鬥、兵皆驍鋭。瓚見其兵少、便放騎欲陵蹈之。義兵皆伏楯下不動、未至數十歩、乃同時倶起、揚塵大叫、直前衝突、彊弩雷發、所中必倒、臨陳斬瓚所署冀州刺史嚴綱甲首千餘級。瓚軍敗績、歩騎奔走、不復還營。義追至界橋;瓚殿兵還戰橋上、義復破之、遂到瓚營、拔其牙門、營中餘衆皆復散走。紹在後、未到橋十數里、下馬發鞍、見瓚已破、不為設備、惟帳下彊弩數十張、大戟士百餘人自隨。瓚部迸騎二千餘匹卒至、便圍紹數重、弓矢雨下。別駕從事田豐扶紹欲卻入空垣、紹以兜鍪撲地曰:「大丈夫當前鬥死、而入牆閒、豈可得活乎?」彊弩乃亂發、多所殺傷。瓚騎不知是紹、亦稍引卻;會麹義来迎、乃散去。瓚毎與虜戰、常乘白馬、追不虚發、數獲戎捷、虜相告云「當避白馬」。因虜所忌、簡其白馬數千匹、選騎射之士、號為白馬義從;一曰胡夷健者常乘白馬、瓚有健騎數千、多乘白馬、故以號焉、紹既破瓚、引軍南到薄落津、方與賓客諸將共會、聞魏郡兵反、與黑山賊于毒共覆鄴城、遂殺太守栗成。賊十餘部、衆數萬人、聚會鄴中。坐上諸客有家在鄴者、皆憂怖失色、或起啼泣、紹容貌不變、自若也。賊陶升者、故内黄小吏也、有善心、獨將部衆踰西城入、閉守州門、不内他賊、以車載紹家及諸衣冠在州内者、身自扞衛、送到斥丘乃還。紹到、遂屯斥丘、以陶升為建義中郎將。乃引軍入朝歌鹿場山蒼巖谷討于毒、圍攻五日、破之、斬毒及長安所署冀州牧壺壽。遂尋山北行、薄撃諸賊(左髮丈八)〔左髭丈八〕等、皆斬之。又撃劉石・青牛角・黄龍・左校・郭大賢・李大目・于氐根等、皆屠其屯壁、奔走得脱、斬首數萬級。紹復還屯鄴。

11)   『後漢書』伝第六十四上袁紹伝より。

紹乃自擊之。瓚兵三萬、列為方陳、分突騎萬匹、翼軍左右、其鋒甚鋭。紹先令麹義領精兵八百、強弩千張、以為前登。瓚輕其兵少、縱騎騰之、義兵伏楯下、一時同發、瓚軍大敗、斬其所置冀州刺史嚴綱、獲甲首千餘級。麹義追至界橋、瓚斂兵還戰、義復破之、遂到瓚營、拔其牙門、餘衆皆走。紹在後十數里、聞瓚已破、發鞍息馬、唯衛帳下強弩數十張、大戟士百許人。瓚散兵二千餘騎卒至、圍紹數重、射矢雨下。田豐扶紹、使卻入空垣。紹脱兜鍪抵地、曰:「大丈夫當前鬥死、而反逃垣牆閒邪?」促使諸弩競發、多傷瓚騎。衆不知是紹、頗稍引卻。會麹義來迎、騎乃散退。三年、瓚又遣兵至龍湊挑戰、紹復撃破之。瓚遂還幽州、不敢復出。

12)   『後漢書』伝第六十三劉虞伝より。

瓚既累為紹所敗、而猶攻之不已、虞患其黷武、且慮得志不可復制、固不許行、而稍節其稟假。瓚怒、屢違節度、又復侵犯百姓。虞所賚賞典當胡夷、瓚數抄奪之。積不能禁、乃遣驛使奉章陳其暴掠之罪、瓚亦上虞稟糧不周、二奏交馳、互相非毀、朝廷依違而已。瓚乃築京於薊城以備虞。

13)   『三国志』巻十四魏書程昱伝より。

初平中、兗州刺史劉岱辟昱、昱不應。是時岱與袁紹・公孫瓚和親、紹令妻子居岱所、瓚亦遣從事范方將騎助岱。後紹與瓚有隙。瓚撃破紹軍、乃遣使語岱、令遣紹妻子、使與紹絶。別敕范方:「若岱不遣紹家、將騎還。吾定紹、將加兵于岱。」岱議連日不決、別駕王彧白岱:「程昱有謀、能斷大事。」岱乃召見昱、問計、昱曰:「若棄紹近援而求瓚遠助、此假人於越以救溺子之説也。夫公孫瓚、非袁紹之敵也。今雖壞紹軍、然終為紹所禽。夫趣一朝之權而不慮遠計、將軍終敗。」岱從之。范方將其騎歸、未至、瓚大為紹所破。岱表昱為騎都尉、昱辞以疾。


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