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それぞれの道へ(孫氏からみた三国志22)
031202
<<西華の忠馬物語(孫氏からみた三国志21)


   荊州の南陽郡では黄巾の指導者、張曼成が殺され、代わりに趙弘という人が黄巾の指導者になったっていうのは前々回、書いたんだけど(>>参照)、その趙弘の黄巾軍は勢いを盛り返してきて、その数、ついに十万人あまりにもなった1)
   そして、ついに南陽郡の郡都である宛(宛県)に帰ってくる。どうやら宛の城は黄巾に乗っ取られたようだ。

   そこで登場となるのは朱儁(字、公偉)の軍。もちろん、孫堅(字、文台)も軍中に居る。
   タイミングがいいことにすでに彼の担当だった豫州方面はあらかた平定されていた。
   朱儁(字、公偉)の軍は皇帝からの命令(詔)をうけ4)、南陽郡の黄巾軍を討つよう、その方面へ向かっていた。なんせ、荊州の南陽郡といえば、京師に近いところにあるから重要地域だ。
 
   朱儁は元々いた味方の軍と力を合わせることになる。荊州刺史の徐きゅう(字、孟玉10)。豫州刺史の王允みたいに派遣されたんだろうか>>参照)と南陽太守の秦頡の軍で、あわせて、一万八千人になった。皇甫嵩と朱儁の軍が四万人ぐらい居たことから、ちょっと少ない気がする。豫州での朱儁の軍(単純に四万人を2で割って二万人)は戦で減ってしまったのか、それとも豫州の治安維持のため、ある程度、駐屯させてきたのか、どちらが主なのか不明。
   とにかく、その一万八千人で趙弘のいる宛の城を取り囲むことになる2)
   十万人あまりを一万八千人で囲むのは変な感じだけど(普通の兵法だとあり得ない?)、おそらく黄巾は全員、戦闘員というより、ただの信者もふくまれていたことだろうし、対する朱儁・徐きゅう・秦頡合同軍はほぼ全員、兵卒なので、こういうことが可能なんだろうかね。
   ちなみに暦は光和七年の六月になっている。

   前回、孫堅の名がようやく戦いに出てきたと書いたが、今回は孫堅の部下の名が出てくる。
   とは言っても、宛(およびケ)で戦ったとあるだけで具体的なエピソードは特にない3)
   その人物は以前、紹介した程普(字、コ謀)(>>参照)。例によっていつどこでどのように知り合ったか不明。ただ、孫堅の征伐に従ったとだけある。
   朱儁の軍は豫州からみて西の荊州南陽郡に行ったんだけど、相方だった皇甫嵩(字、義真)の軍はどうなったかというと…
(孫堅はしばらく出ません。それだけ見たい人は>>こちら
南陽へおよび東郡へ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦マーク(東郡部分)の位置に根拠はありません

   豫州からみで北のえん州の東郡の黄巾軍を討つよう皇甫嵩は詔を受け4)、軍を進めていた。東郡の倉亭というところで東郡の黄巾軍と戦う。
   詳しくはよくわからないけど、ここでの黄巾軍の指導者は卜已(卜己?   卜巳?)だったとのこと5)

(2004年2月8日追記エピソード)9)
   その戦いの行方を書く前に、えん州の一つの事件について。

   えん州の東郡の東阿県というところに、程いく(字、仲コ)という人がいた。身長は八尺三寸。美しい鬚髯(ほおひげとあごひげ)を持っていた。
   お隣の冀州、豫州で黄巾の反乱が活発になっていたせいか(正確な時期はわからない)、東阿県の丞(副長)・王度が呼応し、倉庫を焼く。県丞ご乱心の巻き。

   いやはや、同じ県丞でも中央に呼ばれ討伐する側である文台とは正反対。

   もちろん、上官である県令は城壁を越え逃げ出し、吏(役人)たちと民(住人)たちは老人と幼子を背負い、東の渠丘山へ走った。
   この中に程いくも居たんだけど、彼は人をやって王度を偵察させ、王度たちが空の城にいるので守備ができず、城を出て西、五、六里(おおよそ2〜2.4km)に駐屯していた。
   程いくは県内の大姓(名門?)・薛房たちに向かって次のように言う。
「今、王度たちは城を得たが居られず、その勢いは知れています。財物を略奪しようと望みすぎず、堅い甲(鎧)と鋭利な兵(武器)で攻守の志があるわけではありません。今、どうして皆をひきい城に帰らずそこを守らないのでしょうか?   それに城壁は厚く高く、米食も多く、今、帰り県令を呼び戻し、共に堅守するならば、王度は攻め破ることができないでいるでしょう」
   薛房たちはそのとおりと思った。
   吏たちと民たちはよしとせず従わず、こう言う。
「賊(反乱軍)は西にいるが、(我々は)東にいる」
   西から順に敵軍、城、程いくたちと並んで居るんだけど、今は安全だし、わざわざ敵軍に近づかなくても良いという意味だろうか。
   程いくは薛房たちに言う。「愚民に事を計ることはできません」
   それから密かに数騎をつかわし、東の山の上でのぼりをあげさせ、県令と薛房たちの注目をあつめ、大声で次のように叫ぶ。
「賊はすでに来ている」
   そう叫ぶとすぐに山をおり、城へおもむく。吏たちと民たちは走りそれに続く。城の向こう側(西)にいた敵がもう来ているとなると、大慌てだったんだろう。
   その中には県令もいたようで、結局、共に城を守ることができた。

   王度たちが城を攻めに来て、下すことができず、そこから去ろうとする。
   程いくは吏たちと民たちを率い、城門をあけ、それを急撃し、王度たちを敗走させた。
   というわけで東阿県はすべてを取り戻した。


   えん州の一部ではこんなふうに官軍有利だったんだけど、全体としては黄巾の卜已軍が支配的で、そこにようやく皇甫嵩軍が倒しにきたってわけ。

   と、いきなり結果を書いてしまうんだけど、後漢書皇甫嵩伝によると、卜已は生け捕られ、その軍の兵卒七千人あまり首を斬られたそうな。皇甫嵩の大勝である。
   また、司馬彪撰の「續漢書」によると傅燮(字、南容)が斬った三帥(三人の指導者)の中に卜已の名があった6)。この史書と後漢書皇甫嵩伝をあわせて信じるなら、皇甫嵩の配下にいた傅燮が卜已をとらえ、最終的に斬ったのだろう。あと、二人は張伯と梁仲寧。その他では見られない二人で、どの時点で、斬ったかどうか不明。
   後漢書本紀、後漢紀とも、八月の出来事だったとのこと。
   ちなみに後漢書本紀では一万人あまりの首を斬ったとのこと、後漢書本紀と後漢書皇甫嵩伝との数字の違いは、局所的な戦と大局的な戦の数の違いなのか、どちらかが水増ししているのか、わからない。
 
   ここで皇甫嵩の元にある報せが届く。
   それは黄巾の本隊、張角の軍のこと。冀州方面の戦場のことだ。
   五月ぐらいにこの方面の担当が北中郎将の盧植(字、子幹)から東中郎将の董卓(字、仲穎)に代わったってことは以前、書いた(>>参照)。理由は以前のとおりなんだけど、とにかく、北中郎将の盧植はやめさせられている。
   それで、今度は何だ?   ってことだけど、実は代わりに冀州方面担当になった東中郎将の董卓もやめさせられたとのこと7)
   下曲陽というところで、張角の軍と戦ったけれど、破れたためだ(結果的に勝てなかったことも)。やっぱり急に盧植の代わりに軍の司令官になれと言われれば、準備もままならず、まともに戦えなかったのかもしれない。
   そして、この董卓の代わりに冀州方面の戦場に行けと白羽の矢がたったのは、誰あろう皇甫嵩なのだ。皇甫嵩の軍のいるえん州は冀州の南に隣接していて、距離的にまだ近い位置にあり、しかも、董卓の軍と違い、戦に不慣れということはない。タイミング的に董卓の軍が勝てないでいたから交代となったのか、皇甫嵩の軍がえん州の東郡を平定し終えたから交代となったのかわからない。どちらにせよ加勢じゃないところが謎だけど。軍を統合したんだろうか。
   まぁとにかく、八月の乙巳の日(八月三日)8)、皇甫嵩に張角を討つよう詔が下る。

   皇甫嵩の軍は北の冀州へ向かった。




1)   黄巾あつまり十万人。「後太守秦頡撃殺曼成、賊更以趙弘為帥、衆浸盛、遂十餘萬、據宛城」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。脚注031124-05)でも同じ文が使われている。黄巾と官軍のいたちごっこの様相なんだけど、朱儁の軍が来てどうかわるか。
2)   包囲戦(次回、以降のネタバレ含む)。脚注01)の続き。「儁與荊州刺史徐きゅう及秦頡合兵萬八千人圍弘、自六月至八月不拔。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)
3)   程普登場。「從孫堅征伐、討黄巾於宛・ケ、」(「三國志卷五十五   呉書十   程黄韓しょう周陳董甘りょう徐潘丁傳第十」より)。すいません。具体的な記述はないです。
4)   それぞれの詔。「皇甫嵩・朱儁大破汝南黄巾於西華。詔嵩討東郡、朱儁討南陽。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。というわけで、皇甫嵩と朱儁が汝南黄巾を西華で大破した後、別々のところへ行くよう、詔がくだった。
5)   皇甫嵩vs.卜已(今回のネタバレあり)。引用三連発。「又進撃東郡黄巾卜己於倉亭、生禽卜己、斬首七千餘級。」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。「八月、皇甫嵩與黄巾戰於倉亭、獲其帥。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。「秋八月、皇甫嵩撃黄巾卜已於東郡、大破之、斬首萬餘級。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。後漢書本紀、後漢紀ともに八月としている珍しい。数の違いもここでわかる。
6)   傅燮の活躍。「燮軍斬賊三帥卜已・張伯・梁仲寧等、功高為封首。」(「司馬彪續漢書」より)。あと二人の賊の将はここでしかみられない。
7)   董卓のこと。四連発。「(八月)乙巳、詔皇甫嵩北討張角。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)。「時北中郎將盧植及東中郎將董卓討張角、並無功而還、乃詔嵩進兵討之」(「後漢書卷七十一   皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)。「中平元年、拜東中郎將、持節、代盧植撃張角於下曲陽、軍敗抵罪。」(「後漢書卷七十二   董卓列傳第六十二」より)。「中郎將董卓征張角、不克、徴詣廷尉、減死罪一等。以皇甫嵩代之。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。ちなみに最後の後漢紀はそれ以前の盧植の記述は「左中郎將盧植征張角、不剋、徴詣廷尉、減死罪一等。中郎將董卓代。」というように、コピー&ペーストみたいな関係になっている。
8)   日付のこと。脚注031004-4)と同じく、サイト「台湾中央研究院」の「學術資源」→「中央研究院兩千年中西歴轉換」をつかって調べている。これによると閏七月があるんだけど、それだと期間など話が変わってくる。
9)   忘れていたエピソードの追加(2004年2月8日)。珍しく三国志より。まさか、後の魏の人間をだすことになるとは思わなかった。よし、出せる機会があればどんどん出して行こう(という気持ち・汗)
「程いく字仲コ、東郡東阿人也。長八尺三寸、美鬚髯。黄巾起、縣丞王度反應之、燒倉庫。縣令踰城走、吏民負老幼東奔渠丘山。いく使人偵視度、度等得空城不能守、出城西五六里止屯。いく謂縣中大姓薛房等曰:『今度等得城郭不能居、其勢可知。此不過欲虜掠財物、非有堅甲利兵攻守之志也。今何不相率還城而守之?且城高厚、多穀米、今若還求令、共堅守、度必不能久、攻可破也。』房等以為然。吏民不肯從、曰:『賊在西、但有東耳。』いく謂房等:『愚民不可計事。』乃密遣數騎舉幡于東山上、令房等望見、大呼言『賊已至』、便下山趣城、吏民奔走隨之、求得縣令、遂共城守。度等來攻城、不能下、欲去。いく率吏民開城門急撃之、度等破走。東阿由此得全。」(「三國志卷十四 魏書十四 程郭董劉しょう劉傳第十四」より)
10)   (2004年7月25日追加)まさか、徐きゅうに伝があるとは知らずに、字、調べずに居たんだけど(汗)。「徐きゅう字孟玉、廣陵海西人也。」(「後漢書卷四十八   楊李てき應霍爰徐列傳第三十八」より)って感じでちゃんと載っている。それだけじゃなく黄巾のこともある。「中平元年、與中郎將朱儁撃黄巾賊於宛、破之。」(同じく「後漢書卷四十八   楊李てき應霍爰徐列傳第三十八」より)。ちょうど本文で扱っているところ。
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