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西園八校尉と無上将軍(孫氏からみた三国志42)
2007.10.02.
<<二人の劉使君(孫氏からみた三国志41)


   まず例によって後漢書本紀1)に沿って進める。
   中平五年(西暦188年)六月、郡国七つが洪水にあった。
   秋七月、射聲校尉の馬日てい(後漢書袁紹伝の注に引く三輔決録注によると字は翁叔)が太尉となった。

   皇帝が寵愛している人物に小黄門(宦官の官職)の蹇碩という者がいる。今回はこの蹇碩中心に話が進む。
   三国志魏書張楊伝2)によると、天下は乱れ、皇帝は小黄門の蹇碩を寵愛していたため、蹇碩を西園の上軍校尉にし、京都(京師)に陣取り、四方を抑えさせることで天下豪傑を召し副将にしたいと望んだ。太祖(曹操字、孟徳)及び袁紹(字、本初)らは皆、校尉になりこれに属した。
   さらに後漢書本紀の注に引く樂資山陽公載記には、上軍校尉になった蹇碩に属した校尉たちが記されている。虎賁中郎将の袁紹は中軍校尉になり、屯騎校尉の鮑鴻は下軍校尉になり、議郎の曹操は典軍校尉になり、趙融は助軍左校尉になり、馮芳は助軍右校尉になり、諫議大夫の夏牟は左校尉になり、淳于瓊は右校尉になり、およそ八校尉であり、みな蹇碩に統轄された。
   後漢書本紀1)によると、八月西園八校尉を初めて置いたとあり、時期も明確になっている。

   つまり皇帝は分散した軍事力を集め、信頼たる人物(蹇碩)を頂点とした組織に組み入れ、さらにはそれを中央から四方への抑止力として働かせたかったんだろう。さらに地方へはこれに先んじる州牧がその役割を担っている。
   この八校尉は史書によって、微妙に名称が異なっている場合がある。例えば、袁紹だと後漢書袁紹伝では佐軍校尉、三国志魏書袁紹伝だと中軍校尉となる。曹操は三国志魏書武帝紀3)でも典軍校尉と同じ。但し、そうなった経緯が邊章・韓遂が刺史を殺した流れに組み込まれている(<<参照1<<参照2)。

   軍事力といえば元から中央に居る大将軍の何進だけどこちらにも動きがある。後漢書何進伝4)より。
   (中平)五年、天下はますます乱れ、望気者(雲気を見て占う者)は京師にまさに大兵により両宮で流血があるだろうと思った。大将軍の司馬の許涼と仮司馬の伍宕は何進に説いた。
「太公六韜には天子が兵を率いることがあり、四方をおそれさせおさえることができます」
   何進はもっともだと思い、皇帝の前でこれを言った。これにより詔で何進は四方に兵を大いに発し、平楽観の下において武を講じた。

   ここで急に話がとんだ上に時をさかのぼり、漢陽太守の蓋勳の話。「<<傅燮の最期」の続き。
   後漢書蓋勳伝5)より。その後、刺史の楊雍はすぐに蓋勳に漢陽太守を領するよう上表した。その時、人が飢えており、互いに収奪しあい、蓋勳は穀物を整え、それを与え、まず家の食糧を出すことで衆を率い、暮らす者が千人余りになった。
   後に蓋勳は官を去り、徴集され討虜校尉になった(八校尉の流れ?)。皇帝は蓋勳を召して問う。
「天下は何を苦しみ、かくのごとく反乱しているのか?」
   蓋勳は言う。
「寵臣と子弟がこれを乱しています」
   当時、宦者の上軍校尉の蹇碩(つまり寵臣の一人)が座っており、皇帝は振り向き蹇碩に問い、蹇碩は恐れ、これを知らず、そのため、蓋勳を恨んだ。皇帝はまた蓋勳に言う。
「私は既に平楽観において師(何進のこと?)を置いている。中藏の財物を出すことで士をおびき寄せるのはどうだろう」
   蓋勳は言う。
「臣(わたし)は『先王は徳を明らかにし兵を示さない』(『国語』より)と聞きます。今、寇が遠くに在り、近くに陣を築けば、強い決断力を明らかにするのに不充分であり、まさにみだりに武を用いるだけです」
   皇帝は言う。
「良し、遅れてあなた(後漢書蓋勳伝では「君」、後漢紀では「卿」)を恨み見ても、群臣は元よりこの言葉をないとせよ」

   その時、蓋勳、宗正の劉虞、佐軍校尉の袁紹と典禁兵(近衛兵?)だった。蓋勳は劉虞、と袁紹に言う。
「私はしきりに上(皇帝)を見ており、上(皇帝)は甚だ聡明だが、左右の耳を覆って隠しています。もし共に協力し寵臣を誅した後、英俊を選ぶことで漢室を興し、功績は私の身から退くだろうとも、どうして不快だろうか」
   劉虞と袁紹もまた元より謀があり、助け合い連なっていたが、まだ実行せず、そのため司隸校尉の張温は蓋勳を挙げ京兆尹にした。皇帝はまさに蓋勳を呼び入れて会いたがっていたが、蹇碩らが心の中でそれを恐れ、並んで張温の上奏に勤め従い、遂には京兆尹にした。
   その時、長安令の楊黨は父を中常侍にし、技を頼みとし思うようにむさぼり、蓋勳は取り押さえ、その納めた千萬余りを得た。君主の親戚の悉くこのために請い、蓋勳は聴かず、備えて事あるときに聞き、楊黨と父とを並べ連ね、詔が有り罪状を調べ、その威で京師を震わせた。その時、小黄門の京兆出身の高望は尚藥監になり、皇太子にへつらい、太子は蹇碩が頼んだため子の進を孝廉にしようと望んだが、蓋勳は用いることを承知しなかった。ある人は言う。
「皇太子の副主は愛されることを望んでおり、蹇碩は皇帝の寵臣であるが、子はそれと違い、いわゆる三怨であり府を成す者です」
   蓋勳は言う。
「国に報いるため、賢者を選ぶことだ。賢くない者を挙げずにいれば、死しても何を悔いようか!」

   このように後漢書蓋勳伝には蓋勳、劉虞、袁紹が蹇碩を初めとする寵臣を打倒しようとしていた。話を再び後漢書本紀に戻す。

   (八月)司徒の許相が罷免され、司空の丁宮が司徒となった。光祿勳の南陽郡出身の劉弘が司空になった。衛尉の董重(字、孝仁。皇后の兄の子)が票騎将軍(後漢紀だと驃騎将軍)になった。
   九月、南單于が背き、白波賊とともに河東郡へ侵攻した。

   ここで補足。中平五年二月に南匈奴單于の羌渠は殺された(<<参照)。後漢書南匈奴伝6)によるとその後、子の右賢王の於扶羅が立ち單于になった。
   (羌渠の)屍を持ち帰った單于の於扶羅が中平五年に立った。国人は於扶羅の父を殺したので、そのまま背く。須卜骨都侯を單于にし共に立ち、そのため於扶羅は闕(宮闕、つまり皇帝の元)に詣で自ら訴えた。
   以上のことで、九月に背いた南單于は恐らく須卜骨都侯のことだろうね。

   続けて後漢書本紀1)より。
   (九月)中郎將の孟益に騎都尉の公孫さんをひきいらせ漁陽賊の張純らを討たせた(<<参照)。
   冬十月、青州と徐州の黄巾が再び起こり、郡県を侵攻した。
   甲子の日(16日)、皇帝は「無上将軍」を自称し平楽観で兵を明らかにした。

(※今、後漢書と三国志を対象に「無上将軍」と検索かけると、見事に賊の自称が二、三出た。それほど異例ってこと)
   ここで前述の後漢書何進伝4)の続き。
   大壇を起こし、高さ十丈(約23m)の十二重で五采の華の蓋(かさ)を上げ、壇の東北に小壇を置き、高さ十丈(約21m)の九重の華の蓋を再び建てさせ、歩兵と騎士を数万人並べ、営を築き陣とした。天子(皇帝)は自ら出て軍に臨み、大きい華の蓋の下に留まり何進は小さい華の蓋の下へ留まった。礼がおわり、帝は自ら甲(よろい)をつけ馬に鎧をつけ、「無上将軍」と称し、陣に行き三回巡り帰った。詔により、何進に観下へ領兵を悉く駐屯させた。この時、西園八校尉を置いており、小黄門の蹇碩を上軍校尉にし、虎賁中郎將の袁紹を中軍校尉にし、屯騎都尉の鮑鴻を下軍校尉にし、議郎の曹操を典軍校尉にし、趙融を助軍校尉にし、淳于瓊を佐軍校尉にし、また左右校尉もあった(※ここらへん違いはあるが記述済)。皇帝は蹇碩が壯健であり武略があるとし(後漢紀だと黄巾が起こったとき)、ひとりこれを信任し、元帥にし司隸校尉以下を監督させ、大将軍(何進)といえどもまたここに領属させた。

   このように皇帝自ら鎧を付け「無上将軍」と名乗るほど、皇帝は中央でも軍事色を強く押し出したんだけど、その行方を伝える前に次回、涼州の兵乱の続きをお伝えする。





1)   後漢書本紀の記述。本文のネタバレあり。
「(中平五年六月)郡國七大水。
秋七月、射聲校尉馬日てい為太尉。
八月、初置西園八校尉。(※樂資山陽公載記曰:「小黄門蹇碩為上軍校尉、虎賁中郎將袁紹為中軍校尉、屯騎校尉鮑鴻為下軍校尉、議郎曹操為典軍校尉、趙融為助軍左校尉、馮芳為助軍右校尉、諫議大夫夏牟為左校尉、淳于瓊為右校尉:凡八校〔尉〕、皆統於蹇碩。」)
司徒許相罷、司空丁宮為司徒。光祿勳南陽劉弘為司空。(※字子高、安衆人。)衛尉董重為票騎將軍。
九月、南單于叛、與白波賊寇河東。遣中郎將孟益率騎都尉公孫さん討漁陽賊張純等。
冬十月、(壬午御殿後槐樹自拔倒豎)青・徐黄巾復起、寇郡縣。
甲子、帝自稱「無上將軍」、燿兵於平樂觀。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
2)   三国志魏書張楊伝より。本文のネタバレあり。「張楊字稚叔、雲中人也。以武勇給并州、為武猛從事。靈帝末、天下亂、帝以所寵小黄門蹇碩為西園上軍校尉、軍京都、欲以御四方、徴天下豪傑以為偏裨。太祖及袁紹等皆為校尉、屬之。并州刺史丁原遣楊將兵詣碩、為假司馬。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)
3)   三国志魏書武帝紀の記述。「金城邊章・韓遂殺刺史郡守以叛、衆十餘萬、天下騷動。徴太祖為典軍校尉。」(「三國志卷一   魏書一   武帝紀第一」より)
4)   後漢書何進伝より。
「五年、天下滋亂、望氣者以為京師當有大兵、兩宮流血。大將軍司馬許涼・假司馬伍宕説進曰:「太公六韜有天子將兵事、可以威厭四方。」進以為然、入言之於帝。於是乃詔進大發四方兵、講武於平樂觀下。起大壇、上建十二重五采華蓋、高十丈、壇東北為小壇、復建九重華蓋、高九丈、列歩兵、騎士數萬人、結營為陳。天子親出臨軍、駐大華蓋下、進駐小華蓋下。禮畢、帝躬[才環]甲介馬、稱「無上將軍」、行陳三匝而還。詔使進悉領兵屯於觀下。是時置西園八校尉、以小黄門蹇碩為上軍校尉、虎賁中郎將袁紹為中軍校尉、屯騎都尉鮑鴻為下軍校尉、議郎曹操為典軍校尉、趙融為助軍校尉、淳于瓊為佐軍校尉、又有左右校尉。帝以蹇碩壯健而有武略、特親任之、以為元帥、督司隸校尉以下、雖大將軍亦領屬焉。」(「後漢書卷六十九   竇何列傳第五十九」より)

5)   後漢書蓋勳伝より。
「後刺史楊雍即表勳領漢陽太守。時人飢、相漁食、勳調穀稟之、先出家糧以率衆、存活者千餘人。
後去官、徴拜討虜校尉。靈帝召見、問:「天下何苦而反亂如此?」勳曰:「倖臣子弟擾之。」時宦者上軍校尉蹇碩在坐、帝顧問碩、碩懼、不知所對、而以此恨勳。帝又謂勳曰:「吾已陳師於平樂觀、多出中藏財物以餌士、何如?」勳曰:「臣聞『先王燿コ不觀兵。』今寇在遠而設近陳、不足昭果毅、てい黷武耳。」帝曰:「善。恨見君晩、群臣初無是言也。」
勳時與宗正劉虞・佐軍校尉袁紹同典禁兵。勳謂虞・紹曰:「吾仍見上、上甚聰明、但擁蔽於左右耳。若共併力誅嬖倖、然後徴拔英俊、以興漢室、功遂身退、豈不快乎!」虞・紹亦素有謀、因相連結、未及發、而司隸校尉張温舉勳為京兆尹。帝方欲延接勳、而蹇碩等心憚之、並勸從温奏、遂拜京兆尹。
時長安令楊黨、父為中常侍、恃げい貪放、勳案得其臧千餘萬。貴戚咸為之請、勳不聽、具以事聞、并連黨父、有詔窮案、威震京師。時小黄門京兆高望為尚藥監、倖於皇太子、太子因蹇碩屬望子進為孝廉、勳不肯用。或曰:「皇太子副主、望其所愛、碩帝之寵臣、而子違之、所謂三怨成府者也。」勳曰:「選賢所以報國也。非賢不舉、死亦何悔!」勳雖在外、毎軍國密事、帝常手詔問之。數加賞賜、甚見親信、在朝臣右。」(「後漢書卷五十八   虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
6)   後漢書南匈奴伝より。
「單于羌渠立十年、子右賢王於扶羅立。
持至尸逐侯單于於扶羅、中平五年立。國人殺其父者遂畔。共立須卜骨都侯為單于、而於扶羅詣闕自訟。」(「後漢書卷八十九 南匈奴列傳第七十九」より)


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