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袁紹と袁術の対立(孫氏からみた三国志52)
2009.03.23.
<<冀州の動乱(孫氏からみた三国志51)


   関東の諸将に生じた亀裂を追う前に少し中央のことに移る。
   以下、『後漢書』董卓伝の記述より1)

   張温は字を伯慎と言い、若いときから名誉が有り、公卿を累登し、また密かに司徒の王允と共に董卓を誅するように謀り、事が発するに及ばず害にまみえた。


   張温については例えば、「<<動き出した西方(孫氏からみた三国志36)」など、以前、何度か触れており、この時、衛尉だった。それで害とは何かというと、上記の『後漢書』董卓伝の記述を遡ると、

   当時、太史は気を望み、まさに大臣に殺戮する者が居ると言った。董卓はすなわち人に誣をやらせ衛尉の張温と袁術が交わり通じている罪を強い、ついに市で張温をむち打ち、天変を塞ぐため、これを殺した。


となっており、張温は董卓に殺されていた。下記の『後漢書』献帝紀2)にはその年月が書かれている。

   (初平二年、紀元191年)冬十月壬戌(一日)、董卓は衛尉の張温を殺した。


   こうしてまた一人、董卓により重臣が殺されたんだけど、それに反する勢力はというとまとまりを取り戻していない。

   まず一人の人物に着目し説明する。それは應劭、字は仲遠のこと。以下、『後漢書』應劭伝3)より。

   中平三年、應劭は高第に挙げられ、再び遷った。六年、(兗州)太山(泰山)太守を拝した。初平二年、黄巾三十万の衆は郡界に入った。應劭はよりあわせ文武を連ね率い賊と戦い、前後し首数千級を斬り、老弱一万人余りを生け捕り、輜重二千両をとり、賊皆、退却し、郡内は安んじた。


   その月は『後漢書』献帝紀には以下の様になっている。

   (初平二年十一月、青州黄巾は太山に進寇し、太山太守の應劭は撃ちこれを破った。黄巾は(冀州)勃海へ転じ進寇し、公孫瓚は(冀州勃海郡)東光で戦い、ふたたび大いに破った。


   この記述の後半部分にあるように青州の黄巾は太山から勃海へ進寇し、公孫瓚と戦う。その様子とその後は下記の『後漢書』袁紹伝4)と『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『英雄記』5)に書かれてある。以後、続けて記載。

   その冬、公孫瓚は黄巾を大いに破り、還り槃河に駐屯し、河北を威震し、冀州の諸城は形勢に従い饗応しないものは無かった。


   公孫瓚は青州黄巾賊を撃ち、これを大いに破り、還り廣宗に駐屯し、改め命令を守り、冀州の長吏で形勢に従い響き応じない者はなく、門を開けこれを受けた。


   「槃河」とは『後漢書』袁紹伝の注6)によると、爾雅に九河があり、「鉤槃」はその一つだという。つまり河の名。
   ともかく公孫瓚は冀州の長吏(県の長官?)に受け入れられた。
   この黄巾を破った後、公孫瓚が槃河(廣宗)に駐屯したには訳があった。それを説明するのに公孫瓚から離れ十一月以前に時間を戻し、場所も西へ移り、孫堅に着目する。
今回の関連図
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   二回前の「<<孫堅の上洛(孫氏からみた三国志50)」で孫堅は雒陽に軍を進めていたが、その続きとして『三国志』呉書孫破虜伝7)によると、

   ついに軍を引き還り、魯陽に留まった。


と雒陽から撤退している。その本文に対する注として『呉録』8)が以下のように引かれている。

   このとき関東州郡は、務め互いに兼ね併せ自らを強大にした。袁紹は会稽の周喁を遣って豫州刺史にし、来襲し州を取った。孫堅は深く思い嘆き言う。
「同じく義兵を挙げ、これから社稷を救おうとしていた。逆賊が破れつつあるのに各々このようで、吾はまさに誰と力を合わせるべきというのか!」
   言い放ち涙が落ちた。周喁は字が仁明で、周昕の弟だ。


   この周昕は「<<動き出した関東諸将(孫氏からみた三国志49)」に出てきている。初平元年(紀元190年)、曹操に派遣された夏侯惇に兵を与えた丹陽太守だ。
   また周喁についてはその注に引き続いて引かれる『会稽典録』9)に詳しい。関係あるところだけ、次に書く。

   以前、曹公(曹操)が義兵を起こし、人を遣って周喁を求め、周喁は即ち兵衆を収め集め、二千人を得て、曹公に従い征伐し、軍師にした。後に孫堅と豫州を争い、しばしば戦いで利を失った。


   ここにも少し書かれているが、袁紹により派遣された周喁により関東諸将の不穏な動きが浮き彫りになる。まず『後漢書』公孫瓚伝10)より。<<前回の公孫越の記述の続き。

   袁術は公孫越を遣りその将の孫堅に随行させ、袁紹の将の周昕を撃ち、公孫越は流矢に当たり死んだ。公孫瓚はこの袁紹への怒りによって、ついに出軍しまさに袁紹に報いさせようと槃河に駐屯した。


   『三国志』魏書公孫瓚伝11)では以下のように同じことを書いてあるが、少し違う。

   このとき、袁術は孫堅を遣り(豫州潁川郡)陽城に駐屯させ董卓を拒ませ、袁紹は周昂を使いその拠点(陽城)を奪った。袁術は公孫越と孫堅を遣って周昂を攻めたが、勝てず、公孫越は流矢により当たり死んだ。公孫瓚は怒って言う。
「余の弟は死に、禍は袁紹から起こった」
   ついに軍を出し、まさに袁紹に報いさせるため、磐河に駐屯した。


   この周昂というのは恐らく前述の周昕と同一人物であろう(※後漢書の校勘記によると)。つまり、袁紹により豫州へ派兵された周昕周喁兄弟を、袁術より派兵された孫堅と公孫越とが攻め勝てないどころか公孫越が戦死したということだろう。それにより公孫瓚と袁紹との対立関係が明確となった。
   次の『後漢書』袁術伝12)によると、

   袁術の従兄の袁紹は孫堅が董卓を討ち頼り未だ反せず、遠くからその将会稽の周昕を遣って孫堅の豫州を奪った。袁術は怒り、周昕を撃ちこれを敗走させた。袁紹の議は劉虞を立て帝にしようと欲し、袁術はほしいままにすることを好んだので、長君を立てることを憚り、公義をもってあえて同じにしないと託し、この不和を積みついに成した。乃ちおのおの外と交わり仲間を集め、それにより互いに謀略を図り、袁術は公孫瓚と結び、袁紹に袁氏の子ではないと言い、袁紹は聞き大いに怒った。


となっており、周昕周喁兄弟を派兵した裏には袁紹と袁術の不和があり、それは前回、触れた劉虞を即位させようとする動きに起因していた。さらに『三国志』魏書袁術伝13)では以下のようになっている。

   (荊州)南陽の戸口は数百万で、袁術は乱れ欲をほしいままにし、度外れに徴収し百姓はこれを苦しんだ。既に袁紹とは隙が有り、また劉表とは平穏でなく北の公孫瓚と連なった。袁紹は公孫瓚とは不和で南の劉表と連なった。その兄弟は背き、近くを捨て遠くと交わるとはこの如くだった。


   こうして袁紹・劉表連合と袁術・公孫瓚連合の対立が明確になった。
   その対立により自らの管轄地へ進寇を受けた孫堅は、次回以降、さらに争いに巻き込まれることとなる。



1)   『後漢書』董卓列傳より。関連する部分を抜粋。

時太史望氣、言當有大臣戮死者。卓乃使人誣衛尉張温與袁術交通、遂笞温於市、殺之、以塞天變。

温字伯慎、少有名譽、累登公卿、亦陰與司徒王允共謀誅卓、事未及發而見害。

2)   『後漢書』孝獻帝紀より。

冬十月壬戌、董卓殺衛尉張温。

十一月、青州黄巾寇太山、太山太守應劭撃破之。黄巾轉寇勃海、公孫瓚與戰於東光、復大破之。

3)   『後漢書』楊李翟應霍爰徐列傳より。

三年、舉高第、再遷、六年、拜太山太守。初平二年、黃巾三十萬衆入郡界。劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千兩、賊皆退卻、郡内以安。興平元年、前太尉曹嵩及子德從琅邪入太山、劭遣兵迎之、未到、而徐州牧陶謙素怨嵩子操數撃之、乃使輕騎追嵩・德、並殺之於郡界。劭畏操誅、棄郡奔冀州牧袁紹。

4)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。

其冬、公孫瓚大破黄巾、還屯槃河、威震河北、冀州諸城無不望風響應。

5)   『三國志』卷六  魏書六  董二袁劉傳第六の注に引く『英雄記』より。

公孫瓚擊青州黃巾賊、大破之、還屯廣宗、改易守令、冀州長吏無不望風響應、開門受之。

6)   『後漢書』袁紹劉表列傳の注より。

爾雅有九河、鉤槃是其一也。故河道在今德州昌平縣界、入滄州樂陵縣、今名枯槃河。

7)   『三國志』卷四十六  呉書一  孫破虜討逆傳弟一より。

訖、引軍還、住魯陽。

8)   『三國志』卷四十六  呉書一  孫破虜討逆傳弟一の注に引く『呉録』より。

是時關東州郡、務相兼并以自彊大。袁紹遣會稽周喁為豫州刺史、來襲取州。堅慨然歎曰:「同舉義兵、將救社稷。逆賊垂破而各若此、吾當誰與戮力乎!」言發涕下。喁字仁明、周昕之弟也。

9)   『三國志』卷四十六  呉書一  孫破虜討逆傳弟一の注に引く『会稽典録』より。

初曹公興義兵、遣人要喁、喁即收合兵衆、得二千人、從公征伐、以為軍師。後與堅爭豫州、屢戰失利。會次兄九江太守昂為袁術所攻、喁往助之。軍敗、還郷里、為許貢所害。

10)   『後漢書』劉虞公孫瓚陶謙列傳より。

術遣越隨其將孫堅、撃袁紹將周昕、越為流矢所中死。瓚因此怒紹、遂出軍屯槃河、將以報紹。

11)   『三國志』卷八  魏書八  二公孫陶四張傳第八より。

是時、術遣孫堅屯陽城拒卓、紹使周昂奪其處。術遣越與堅攻昂、不勝、越為流矢所中死。瓚怒曰:「余弟死、禍起于紹。」遂出軍屯磐河、將以報紹。

12)   『後漢書』劉焉袁術呂布列傳より。

術從兄紹因堅討卓未反、遠、遣其將會稽周昕奪堅豫州。術怒、撃昕走之。紹議欲立劉虞為帝、術好放縱、憚立長君、託以公義不肯同、積此釁隙遂成。乃各外交黨援、以相圖謀、術結公孫瓚、而紹連劉表。豪桀多附於紹、術怒曰:「群豎不吾從、而從吾家奴乎!」又與公孫瓚書、云紹非袁氏子、紹聞大怒。

13)   『三國志』卷六  魏書六  董二袁劉傳第六より。

南陽戸口數百萬、而術奢淫肆欲、徴斂無度、百姓苦之。既與紹有隙、又與劉表不平而北連公孫瓚;紹與瓚不和而南連劉表。其兄弟攜貳、舍近交遠如此。


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