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董卓の死(孫氏からみた三国志55)
2010.09.25.
<<界橋の戦い(孫氏からみた三国志54)


   前回の予告通りに今回は中央関係。
   まず董卓(字仲穎)と呂布(字奉先)の関係だけど、<<「何進暗殺から董卓秉政へ」(孫氏からみた三国志45)にあるように父子を誓った仲だが、微妙な緊迫感があると知った訳だけど、『三国志』巻七魏書呂布伝1)の続きによると、

   董卓は常に呂布に中閤を守らせ、呂布と董卓の侍婢は私通し、事の発覚を恐れ、心は自ずと安まらなかった。
   是より先、司徒の王允は呂布の州里の壯健を以て、厚接しこれを納めた。後に呂布は王允に詣で、董卓から幾つもの殺される状況を並べた。当時、王允と僕射の士孫瑞は密かに董卓を誅するのを謀り、是により呂布に告げ内応させた。呂布は言う。
「親子のようなのにどうしてでしょうか」
「君自身の姓は呂で、元は骨肉(血族)ではない。今、憂死に暇が無く、何の父子か」

となり、同じく『後漢書』列伝六十五呂布伝2)では

   董卓はまた呂布に中閤を守らせたが、私と傅婢(侍女)が情通し、益々、自らを安んじなかった。因りて司徒の王允へ往き見え、自ら董卓の幾つもの殺される状況を並べた。その時、王允と尚書僕射の士孫瑞は密かに董卓を誅すよう謀り、因りて呂布に告げることで、内応させた。呂布は言う。
「父子の如くなのに何故でしょう」
   言う。
「君自らは呂という姓で、元は骨肉ではない。今、憂死の暇もなく、父子とはどう言うことだろうか。戟を擲った時に、どうして父子の情があるだろうか」

となり、違いは士孫瑞が居るか居ないかぐらいで、ほぼ同じ内容となっている。ここでの第三の中心人物である王允(字、子師)について、『後漢書』伝五十六王允伝3)を見ると、

   (初平)三年(紀元192年)春、連雨六十日余りで、王允と士孫瑞、楊瓚は台に登り晴れるよう請い、再び前の謀りを結した。士孫瑞は言う。
「年末より以来、太陽は照らず、長雨が続き、月が執法を犯し、彗孛はしばしば見え、陰夜陽を描き、霧気は交わり侵し、この期は応じ促し尽くし、内から発する者は勝ちます。幾つか後にできず、公はそうしてこれを謀り下さい」
   王允はその言をそうだとし、乃ち密かに董卓の将の呂布と結し、内応させた。

となり、呂布と内応する前のことが書かれている。そしてこの内応がどう動くかと言うと、『三国志』巻六魏書董卓伝4)では、

   三年四月、司徒王允、尚書僕射の士孫瑞、董卓の将の呂布は共に董卓を誅するのを謀った。この時、天子に疾が有り新たに癒え、未央殿で大会した。呂布は同郡の騎都尉の李肅等に親兵十人余りを率いらせ、衛士服を偽って著し、掖門を守らせた。呂布は詔書を懐いた。董卓は至り、李肅等は董卓と格闘した。董卓は驚き呂布を呼び在るところとなった。   呂布は言う。
「詔がある」
   遂に董卓を殺し、三族を夷した。主簿の田景は董卓の尸に前走り、呂布はまたこれを殺した。凡そ殺す所三人で、残りは敢えて動かなかった。長安の士庶は皆、互いに慶賀し、迎合して従う者は皆、下獄死した。

と董卓暗殺が実行された。もちろんこれには裴松之注5)があって、次のようにいろんな文献が引かれる。

   『英雄記』に言う。
   当時、謠言が有り言う。
「千里の艸は、どうして青青とし、十日占い、なお生きず」
   また董逃之歌を作る。またある道士が布に書き「呂」字としそれを以て董卓に示し、董卓はそれが呂布とするのを知らなかった。董卓はまさに会に入り、歩騎を陳列し、営より宮に至り、朝服で導引しその中へ行った。馬が躓き前へ行かず、董卓の心は怪しみ止まるのを欲し、呂布は勧め行かせ、乃ち甲を隠し着て入る。董卓は既に死に、当時、日月が清浄し、微風すら起こらなかった。董旻・董璜等及び宗族の老弱は尽く郿に在り、皆還り、その群下により斬られ射された。董卓の母は年九十で、逃走し塢門に至り言う。
「我の死からの脱出を乞う」
   即時、首を斬る。袁氏の門生故吏は、改めて郿者において諸袁の死を殯し、その側において董氏の尸を集めこれを焚いた。市において董卓の尸を暴いた。董卓は素より肥満で、膏が流れ地に浸り、草は赤くなった。守尸吏は日暮れに大きな灯心を思い、董卓の臍中にを以て燈にし、光明は旦(よあけ)に達し、このようなことが連日だった。のちに董卓の故(もと)の部曲は焼くところの灰を収め、一棺を以て併せこれを棺し、郿に葬った。董卓は塢中に金が二三万斤、銀八九万斤有り、珠玉錦綺奇玩雑物は皆、山崇阜のように積み、数を知ることができなかった。

   謝承『後漢書』に言う。
   蔡邕は王允の坐に在り、董卓の死を聞き、歎惜の音が有った。王允は蔡邕を責めて言う。
「董卓は国の大賊であり、主を殺し臣を残し、天地は助けられない所であり、人神は同じく患う所です。君は王臣になり、世々、漢恩を受け、國主は危難で、かつて倒されず、董卓は天誅を受けましたが、改めて嘆くのでしょうか」
たやすく収め廷尉に付かせた。蔡邕は王允を謝り言った。
「不忠を以てと雖も、なお大義を知り、古今安危は耳の抑え聞く所であり、口の常に弄ぶ所であり、どうしてまさに国に背き董卓に向かうのですか。狂った盲目の詞は謝り出て患い入り、黥首を刑にすることで漢史を継ぐことを願います」
   公卿は蔡邕の才を惜しみ、尽く共に王允を諫めた。王允は言う。
「昔、武帝は司馬遷を殺さず、謗書を作らせ、後世で流した。まさに今、国祚は中衰し、戎馬は郊に在り、佞臣に幼主の左右にあって執筆させられず、後に吾の徒に並んで謗議を受けさせましょう」
   遂に蔡邕を殺した。
   臣松之は思うに、蔡邕と雖も董卓の新任される所で、情は必ず偏らなかった。寧ろ董卓の姦凶を知らず、天下により毒され、その死亡を聞き、理は嘆き惜しまない。ほしいままに繰り返し然りとし、王允の坐において反言に応じなかった。これは殆ど謝承の妄記だ。史の司馬遷の紀伝に、世に奇功があって行き渡り、王允は孝武が早く司馬遷を殺すのに応じたというが、これは非識者の言だ。しかし、司馬遷は孝武の失であることを隠さず、直にその事のみを書き、どうしてこれを謗ることが有ったのか。王允の忠正は、内省で病まない者と言うべきで、既に謗り対し恐れず、且つ蔡邕を殺したいと欲し、まさに蔡邕が死に応じるか否かを論じ、どうしてその己を謗ることを慮(おもんぱか)ることができ、冤罪で善人を殺すのか。これは皆、でたらめで欺き不通の甚だしい者だ。
   張璠『漢紀』は言う。
   以前、蔡邕は言事を以て徙に見え、名声は天下に聞こえ、志士を義動させた。帰還に及び、内で慈しみこれを憎んだ。蔡邕は恐れ、海濱(海のほとり)へ亡命に及び、太山の羊氏に依り往来すること、十年に及んだ。董卓が太尉になり、辟し掾とし、高第を以て侍御史治書とし、三日中で遂に尚書に至った。後に巴東太守に遷り、董卓はその才を重んじ、これを厚遇した。朝廷事に有る毎に、常に蔡邕に具草するよう命じた。王允の将が蔡邕を殺すに及び、当時の名士はこのために多くの発言し、王允は悔いこれを止めたいと欲したが、蔡邕は既に死んでいた。

となり、これに対応する『後漢書』伝六十二董卓列伝6)は、以下のようにより詳細に書かれてある。

   当時、王允と呂布および僕射の士孫瑞は董卓を誅殺しようと謀った。ある人が布の上に「呂」の字を書き、背負って市に行って、歌って言う。
「布だ」
   董卓に告げる者があったが、董卓は悟らなかった。三年四月、帝は病気になったが新たに回復し、未央殿で大会した。董卓は朝服で車に昇り、すでに馬が驚き泥に墜ちたため、還って入り、衣を改めた。その若い妻はこれを止めたが、董卓は従わず、遂に行った。乃ち兵を並べ道を挟み、塁より宮へ及び、左に歩卒、右に騎卒、衛を屯し巡り周り、呂布等に前後を守らせた。王允及び士孫瑞は密かにその事を上表し、士孫瑞を使わし自らの書の詔をもって呂布に授け、騎都尉の李肅と呂布に勇士十人余りと心と同じくさせ、北掖門内で偽って衛士服を着させ董卓を待ち受けた。董卓が将に至り、馬が驚き行かず、怪しんで還るのを欲した。呂布は進むのを勧め、遂に門へ入った。李肅は戟を以てこれを刺し、董卓は甲(よろい)を隠し着て入らず、前足を傷付け車から墜ち、顧みて大声で呼んで言う。
「呂布はどこにあるか」
   呂布は言う。
「詔が有って賊臣を討ちます」
董卓は大きく罵って言う。
「庸狗め、敢えてこのようにするのか」
   呂布は声に応じ矛を持ち董卓を刺し、兵を赴きこれを斬った。主簿の田儀は董卓の倉頭に及びその尸を前に赴き、呂布はまたこれを殺した。馳せ赦書をもたらし、それを以て宮陛の内外に命令した。士卒は皆、万歳を称し、百姓は道で歌舞した。長安中の士女はその珠玉衣装を売り酒肉を市し互いに慶ぶ者は、街肆(みせ)に満ちあふれた。皇甫嵩に郿塢での董卓の弟の董旻を攻めさせ、その母妻男女を殺させ、その族を尽く滅した。乃ち市へ董卓を晒す。天の時は熱し始め、董卓は素より肥が満ち、脂が地へ流れた。守尸吏は火を燃やし董卓の臍の中に置き、光明は曙に達し、これが連日続くようだった。諸袁門生はまた董氏の尸に集い、灰を燃やしこれを路に揚げた。塢中の珍藏は金二三万斤、銀八九万斤、錦綺繢縠紈素奇玩、積み上げると丘山のように有った。

   『後漢書』の李賢注7)では下記のように引いている。

   『三輔決録』に言う。士孫瑞は字を君栄と良い、扶風人で、博達は通じないことがなかった。天子は許を都とし、追って士孫瑞の戦功を論じ、子の士孫萌を津亭侯に封じた。士孫萌は文始と字し、才学が有り、王粲と親しみ、王粲は詩を作り士孫萌に贈った。
   『献帝紀』に言う。李肅は呂布と同郡の人だ。
   『九州春秋』に言う。呂布は素より秦誼・陳衛・李黑等に偽の宮門衛士をさせ、長戟を持たせた。董卓は宮門に至り、李黑等は長戟を以て董卓の車を挟み、あるいはその馬を挟んだ。董卓は驚き呂布を呼び、呂布は素より衣の中へ鎧を施し、矛を持ち、乃ち声に応じ董卓を刺し、車から落とした。

   こうやって董卓は暗殺され、その日付は『後漢書』紀九孝獻帝紀8)によると、

   (初平三年、紀元192年)夏四月辛巳(23日)、董卓を誅し三族を夷した。司徒王允は尚書事を録し、朝政を統べ、使者の張种を遣わし山東を撫慰した

となっている。
   呂布はそのため、『三国志』巻七魏書呂布伝1)によると、次のように呂布は昇進する。

   王允は呂布を奮武將軍にし、節を仮し、儀に三司を比し(※「儀比三司」、『後漢書』呂布伝だと「儀同三司」)、温侯に進封し、共に朝政に乗じた。呂布が自ら董卓を殺した後、涼州人を恐れ憎み、涼州人は皆、怨んだ。

   『三国志』巻六魏書董卓伝や『後漢書』伝六十二董卓列伝には董卓の娘婿である牛輔について書かれている。前者の本文4)とその注5)から続けて以下に記す。

   以前、董卓の娘婿の中郎将の牛輔は兵を司り、陝に別屯し、分けて校尉李傕・郭汜・張濟を遣わし、陳留・潁川の諸縣へ掠奪させた。董卓が死に呂布は李肅を使わし陝へ至り、詔命を以て牛輔を誅殺したいと欲した。牛輔等は逆に李肅と戦い、李肅は弘農へ敗走し、呂布は李肅を誅殺した。その後、牛輔の営兵に夜に叛し出る者が居て、営中で驚き、牛輔は皆叛したと思い、乃ち金宝を取り、独り、素より厚遇された攴胡赤兒等五六人に相随させ、城を越え北へ渡河し、攴胡赤兒等はその金宝を貪り、斬首し長安へ送った。

   『魏書』に言う。牛輔は恐れ怯み守りを失い、自ら安んじることが出来なかった。常に兵符を握り招き、鈇鑕を以てその傍に至り、自らの強さを以て欲した。客に見えると、まず相者にこれを相させ、反気があるとしれば会わず、また筮に吉凶を見させ、しかる後に乃ちこれに会った。中郎将の董越は来て牛輔に就き、牛輔は吉凶をこれを筮させ、下に脱し上に離れ得て、筮者は言う。
「火は金に勝り、外は内を謀るという卦です」
   即時に董越を殺した。
   『獻帝紀』は言う。筮人は常に董越に鞭打たれる所で、そのため、これによりこれに報いた。
長安関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   前述の『後漢書』伝五十六王允伝3)の続きによると、その後の朝政、そして王允自身についても詳しく書かれている。以下。

   王允は初議にて董卓の部曲を赦し、呂布はまた数回これを進めた。既に疑って言う。
「この輩は無罪で、その主に従ったのみです。今、もし名を汚すなら逆にこれを特赦し、敵うに足りそれを自ら疑わせ、これを安んじる道という訳ではありません」
   呂布はまた董卓の財物を以て公卿・将校に分賜しようと欲したが、王允はまた従わなかった。素より呂布を軽んじ、剣客としてこれを遇した。呂布もまたその功労を負い、多く自らを誇り、既に意望を失い、漸く平に見なくなった。
   王允の性格は剛毅で威光に憎悪があり、昔、董卓を豺狼(やまいぬやおおかみ)のようにおそれ、ゆえに節を曲げこれを謀った。董卓は既に殲滅し、自ら再び患難はないと言い、及び際会に在り、常に温潤の色に乏しく、正に依り重く持ち、権宜(臨機)の計に従わず、これを以て群下は甚だこれに付かず。
   董卓の将校及び在位の者は多く涼州人であり、王允の議はその軍を罷免した。ある人は王允に説く。
「涼州人は素より袁氏を憚って関東を畏れました。今、もし一旦兵を解けば、則ち必ず人々は自ら危うくするでしょう。皇甫義真を以て将軍にし、その衆を領するようにすべきで、因りて陝に留めさせることでこれを安撫させ、おもむろに関東と謀りを通じさせることで、その変化を見ましょう」
   王允は言う。
「そうではない。関東で義兵を挙げた者は、皆、吾の徒のみだ。今、もし陝に駐屯し険により防ぐなら、涼州を安んじると雖も、関東の心を惑わせ、甚だ不可だ」
   当時、百姓は、当に尽く涼州人を誅し、遂に互いの恐動に転じるだろうと、訛言した。その関中に居る者は、皆、兵を擁し自守した。さらに互いに言う。
「丁彦思・蔡伯喈はただ董公親厚を以て、並びに尚、従い座した。今、既に我曹(われら)を赦さず、兵を解くのを欲し、今日兵を解き、明日、まさに再び魚肉にしようとするだろう」
   董卓の部曲の将の李傕・郭汜等は先ず兵を率い関東に在り、因りて自らを安んじず、遂に謀を合わせ乱をなし、長安を攻め囲んだ。

   この李傕・郭汜等が長安を攻める様子は『三国志』巻六魏書董卓伝と『後漢書』伝六十二董卓列伝共に董卓死後の箇所に詳しく書かれている。ここではより記述の多い『後漢書』伝六十二董卓列伝6)の方を取り上げる。以下。

   李傕、郭汜等は王允、呂布を以て董卓を殺したとし、故に并州人を怨み怒り、并州人の其の在軍者の男女数百人は皆誅殺された。牛輔は既に敗れ、衆は依る所がなく、各々散り去りたいと欲した。李傕等は恐れ、乃ち先ず使いを長安へ詣でさせ、赦免を求め請わせた。王允は一年間再び赦すことができないと思い、これを赦さなかった。李傕等はますます心に懐き憂い恐れ、行為を知らなかった。(涼州)武威人の賈詡はその時に李傕軍に在って、これを説いて言う。
「長安中での議は涼州人を尽く誅するのを欲していると聞き、諸君がもし軍を棄て単行すれば、則ち一亭長が君を束ねられます。互いに率い西へ行かず、長安を攻めることで、董公のために仇を報い、事を済ませ、国家に報じるのを以て天下を正しましょう。もしそれが合わなければ、逃走し後がないでしょう」
李傕はこれをしかりとし、各々見て言う。
「京師は我を赦さず、我はまさに死を以てこれを決する。もし長安を攻め勝てば、則ち天下を得る。勝たなければ、則ち三輔の婦女財物はかすめ取られ、郷里へ西帰し、なお延命ができるだろう」
   衆は然りと思い、これにおいて共に結盟し、軍数千を率い、昼夜西へ行った。王允はこれを聞き、乃ち董卓の故(もと)の将の胡軫、徐榮を遣わし新豐でこれを撃たせた。徐榮は戦死し、胡軫は衆を以て降った。李傕は道に沿って兵を収め、並びに長安へ至り、十万余りをもって、董卓の故(もと)の部曲の樊稠、李蒙等と合わせ、長安を包囲した。城は険しく、攻めることができず、これを八日守り、呂布軍に叟(蜀)の兵があって内反し、李傕の衆を引き入り得た。城は潰れ、兵を放ち略奪し、死者は一万人余りとなった。衛尉の种拂等を殺した。呂布は戦敗し出奔した。王允は天子を奉じ宣平城門の楼上を保った。これにより天下に大赦した。李傕、郭汜、樊稠等は皆、将軍となった。遂に門楼を包囲し、共に表し司徒王允が出るのを請い、問うた。
「太師(董卓)に何の罪がありましたか」
   王允は迫り乃ち下り、後数日で殺人に見えた。李傕は郿に董卓を葬り、並びに董氏の焼く所の尸の灰を収め、一棺に合わせ納めこれを葬った。葬った日は大風雨で、雷は董卓の墓を震わせ、流水は蔵に入り、その棺木を漂わせた。

   前述の『後漢書』伝五十六王允伝3)の続きによると、    城は陥落し、呂布は奔走した。呂布は馬を青瑣門外に駐し、王允を招いて言う。
「公は去るべきです」
   王允はいう。
「もし社稷の礼をかくせば、上は国家を安んじるのが、我の願いだ。それが獲得されなければ、則ち身を報じることによりここに死ぬ。朝廷は幼少で、我のみに頼り、難に臨み何とか逃れようとし、吾は忍ばない。関東諸公に謝すことに努め、国家を以て勤め思う。」

   同じ様なことが『三国志』巻六魏書董卓伝の注に引く張璠『漢紀』に書かれており、さらに王允と李傕とのやり取りが記録されている。以下。

呂布の兵は敗れ、青瑣門外に馬を駐し、王允に言う。
「公は去るべきだ」
   王允はいう。

「もし社稷の礼をかくせば、上は国家を安んじるのが、我の願いだ。それが獲得されなければ、則ち身を報じることによりここに死ぬ。朝廷は幼少で、我のみに頼り、難に臨み何とか逃れようとし、吾は行えない。関東諸公に謝すことに努め、国家を以て勤め思う」
   李傕、郭汜は長安城へ入り、南宮掖門に駐屯し、太僕魯馗、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王頎を殺した。吏民の死者は数で勝ることができ無かった。司徒の王允は天子を挟み、宣平城門に上がり兵を避け、李傕は城門下で拝し、地に伏し叩頭した。帝は李傕等に言う。
「卿は威福を作らず、乃ち兵を放ち恣にし、何を欲するか」
   李傕等は言う。
「董卓は陛下に忠し、何も理由がなく呂布に殺される所でした。臣等(わたしたち)は董卓のために仇を討とうとし、敢えて逆しません。ことを終えることを請い、廷尉を詣で罪を受けます」
   王允は迫り出て李傕に見え、李傕は王允及び妻子宗族十人余りを誅した。長安城中の男女大小は涙を流さないものはなかった。

   この時の呂布についてはやはり『三国志』巻七魏書呂布伝1)やその注9)に詳しく、下記に前述の続きとその注を続けて記す。

   これにより李傕等は遂に互いに結し、長安城に還り攻めた。呂布は拒み得ず、李傕等は遂に長安へ入った。董卓の死後六旬、呂布もまた敗れた。数百騎を率い武関を出て、袁術を詣でるのを欲した。

   『英雄記』に言う。郭汜は(長安)城の北に在った。呂布は城門を開き、兵を率い郭汜に就いて言う。
「もし兵を退かせるならば、身(わたし)とだけ勝負を決しよう」
   郭汜と呂布は乃ち二人だけで対戦し、呂布は矛を以て郭汜に刺し当て、郭汜は退き騎は走り前に出て郭汜を救い、郭汜と呂布は遂におのおの共に止めた。

   臣松之が『英雄記』を案じ言う。諸書は呂布が四月二十三日を以て董卓を殺し、六月一日に敗走し、時はまた閏月はないので、六旬に及ばない。

   王允の死の前に時を戻し、その周辺について詳しく書いているのが、以下の『後漢書』伝五十六王允伝3)の続き。

   以前、王允は同郡の宋翼を以て左馮翊にし、王宏を右扶風にした。この時、三輔の民庶は盛んで、兵穀は富実で、李傕等は王允を即殺することを欲し、二郡が患いになることを懼れ、乃ち、まず宋翼と王宏を徴発した。王宏は使いを使わし宋翼に言う。
「郭汜と李傕は我ら二人が外に在ることで、故に未だ王公を危うくしないでしょう。今日、徴発に就き、明日、共に集まります。計はまさに安出するでしょうか」
   王宏は言う。
「義兵は鼎沸し、董卓へ向き、いわんやその党と共にある。もし挙兵し共に君側の悪人を討てば、山東は必ずこれに応じ、この転福は福の計となる」
   宋翼は従わず、王宏は独立できず、遂に共に徴発に就き、廷尉に下った。李傕は乃ち王允及び宋翼と王宏を収め、併せてこれを殺した。
   王允は当時、年五十六だった。長子の侍中の王蓋、次子の王景、王定及び宗族十人余りは皆、誅害に見え、唯兄の子の王晨、王陵は脱出し得て郷里に帰った。天子は感じ嘆き、百姓は気抜けし、敢えて王允の尸を収める者は無く、唯、故吏の平陵令の趙戩は官を棄て喪を営んだ。

   その日付は前後関係を含め『後漢書』紀九孝獻帝紀8)によると、

   五月丁酉(10日)、天下を大赦した
   丁未(20日)、征西將軍の皇甫嵩は車騎將軍になった。
   董卓の部曲将の李傕・郭汜・樊稠・張濟等は反し、京師を攻めた。
六月戊午(1日)、長安城を落とし、太常种拂・太僕魯旭・大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎並びに戦没し、吏民の死者は一万人余りとなった。李傕等は並んで自らを将軍とした。
   己未(2日)、天下に大赦した。
   李傕は司隸校尉黄琬を殺し、甲子(7日)、司徒の王允を殺し、皆その族を滅した。丙子(19日)、前将軍の趙謙は司徒となった。

と記される。前の記述と合わせると董卓暗殺から43日で、董卓の配下の李傕により暗殺の首謀である王允は殺されることとなった。

<2012年6月14日追記>
   <<「遷都」(孫氏からみた三国志47)にある『三国志』巻十魏書荀攸伝10)の続きが次のようになり、董卓の死後の時期になる。

   たまたま董卓が死に(荀攸字公達は)免じるのを得た。官を棄て帰り、再び公府に辟ねかれ、高第に挙げられ、(兗州)任城相に遷り、行かなかった。荀攸は蜀漢を険固とし、人民は殷盛であり、そこで(益州)蜀郡太守に求め為り、道は絶え至り得ず、荊州に駐した。
<追記終了>

   まだまだ皇帝のいる長安の治安は安定しそうにないが、その続きを追う前に次回、再び関東について追っていこうと思う。




1)   『三国志』巻七魏書呂布伝より。本文のネタバレあり。

先是、司徒王允以布州里壯健、厚接納之。後布詣允、陳卓幾見殺狀。時允與僕射士孫瑞密謀誅卓、是以告布使為内應。布曰:「奈如父子何!」允曰:「君自姓呂、本非骨肉。今憂死不暇、何謂父子?」布遂許之、手刃刺卓。語在卓傳。允以布為(奮威)〔奮武〕將軍、假節、儀比三司、進封溫侯、共秉朝政。布自殺卓後、畏惡涼州人、涼州人皆怨。由是李傕等遂相結還攻長安城。布不能拒、傕等遂入長安。卓死後六旬、布亦敗。將數百騎出武關、欲詣袁術。

2)   『後漢書』列伝六十五呂布伝より。

卓又使布守中閤、而私與傅婢情通、益不自安。因往見司徒王允、自陳卓幾見殺之狀。〔一〕時允與尚書僕射士孫瑞密謀誅卓、因以告布、使為内應。布曰:「如父子何?」曰:「君自姓呂、本非骨肉。今憂死不暇、何謂父子?擲戟之時、豈有父子情也?」布遂許之、乃於門刺殺卓、事已見卓傳。允以布為奮威將軍、假節、儀同三司、封温侯。

3)   『後漢書』伝五十六王允伝より。本文のネタバレあり。

三年春、連雨六十餘日、允與士孫瑞・楊瓚登臺請霽、復結前謀。瑞曰:「自歳末以來、太陽不照、霖雨積時、月犯執法、彗孛仍見、晝陰夜陽、霧氣交侵、此期應促盡、内發者勝。幾不可後、公其圖之。」允然其言、乃潛結卓將呂布、使為内應。會卓入賀、呂布因刺殺之。語在卓傳。
允初議赦卓部曲、呂布亦數勸之。既而疑曰:「此輩無罪、從其主耳。今若名為惡逆而特赦之、適足使其自疑、非所以安之之道也。」呂布又欲以卓財物班賜公卿・將校、允又不從。而素輕布、以劍客遇之。布亦負其功勞、多自誇伐、既失意望、漸不相平。
允性剛棱疾惡、初懼董卓豺狼、故折節圖之。卓既殲滅、自謂無復患難、及在際會、每乏溫潤之色、杖正持重、不循權宜之計、是以群下不甚附之。
董卓將校及在位者多涼州人、允議罷其軍。或説允曰:「涼州人素憚袁氏而畏關東。今若一旦解兵(關東)、則必人人自危。可以皇甫義真為將軍、就領其衆、因使留陝以安撫之、而徐與關東通謀、以觀其變。」允曰:「不然。關東舉義兵者、皆吾徒耳。今若距險屯陝、雖安涼州、而疑關東之心、甚不可也。」時百姓訛言、當悉誅涼州人、遂轉相恐動。其在關中者、皆擁兵自守。更相謂曰:「丁彥思・蔡伯喈但以董公親厚、並尚從坐。今既不赦我曹、而欲解兵、今日解兵、明日當復為魚肉矣。」卓部曲將李傕・郭汜等先將兵在關東、因不自安、遂合謀為亂、攻圍長安。城陷、呂布奔走。布駐馬青瑣門外、招允曰:「公可以去乎?」允曰:「若蒙社稷之靈、上安國家、吾之願也。如其不獲、則奉身以死之。朝廷幼少、恃我而已、臨難苟免、吾不忍也。努力謝關東諸公、勤以國家為念。」
初、允以同郡宋翼為左馮翊、王宏為右扶風。是時三輔民庶熾盛、兵穀富實、李傕等欲即殺允、懼二郡為患、乃先徵翼・宏。宏遣使謂翼曰:「郭汜・李傕以我二人在外、故未危王公。今日就徵、明日俱族。計將安出?」翼曰:「雖禍福難量、然王命所不得避也。」宏曰:「義兵鼎沸、在於董卓、況其黨與乎!若舉兵共討君側惡人、山東必應之、此轉福為福之計也。」翼不從。宏不能獨立、遂俱就徵、下廷尉。傕乃收允及翼・宏、并殺之。
允時年五十六。長子侍中蓋・次子景・定及宗族十餘人皆見誅害、唯兄子晨・陵得脫歸郷里。天子感慟、百姓喪氣、莫敢收允尸者、唯故吏平陵令趙戩棄官營喪。

4)   『三国志』巻六魏書董卓伝より。

三年四月、司徒王允・尚書僕射士孫瑞・卓將呂布共謀誅卓。是時、天子有疾新愈、大會未央殿。布使同郡騎都尉李肅等、將親兵十餘人、偽著衛士服守掖門。布懷詔書。卓至、肅等格卓。卓驚呼布所在。布曰「有詔」、遂殺卓、夷三族。主簿田景前趨卓尸、布又殺之;凡所殺三人、餘莫敢動。長安士庶咸相慶賀、諸阿附卓者皆下獄死。
初、卓女婿中郎將牛輔典兵別屯陝、分遣校尉李傕・郭汜・張濟略陳留・潁川諸縣。卓死、呂布使李肅至陝、欲以詔命誅輔。輔等逆與肅戰、肅敗走弘農、布誅肅。其後輔營兵有夜叛出者、營中驚、輔以為皆叛、乃取金寶、獨與素所厚(友)〔攴〕胡赤兒等五六人相隨、踰城北渡河、赤兒等利其金寶、斬首送長安。
比傕等還、輔已敗、衆無所依、欲各散歸。既無赦書、而聞長安中欲盡誅涼州人、憂恐不知所為。用賈詡策、遂將其衆而西、所在收兵、比至長安、衆十餘萬、與卓故部曲樊稠・李蒙・王方等合圍長安城。十日城陷、與布戰城中、布敗走。傕等放兵略長安老少、殺之悉盡、死者狼籍。誅殺卓者、尸王允于市。葬卓于郿、大風暴雨震卓墓、水流入藏、漂其棺槨。傕為車騎將軍・池陽侯、領司隸校尉・假節。汜為後將軍・美陽侯。稠為右將軍・萬年侯。傕・汜・稠擅朝政。濟為驃騎將軍・平陽侯、屯弘農。

5)   『三国志』巻六魏書董卓伝の裴松之注より。

英雄記曰:時有謠言曰:「千里艸、何青青、十日卜、猶不生。」又作董逃之歌。又有道士書布為「呂」字以示卓、卓不知其為呂布也。卓當入會、陳列步騎、自營至宮、朝服導引行其中。馬躓不前、卓心怪欲止、布勸使行、乃衷甲而入。卓既死、當時日月清淨、微風不起。旻・璜等及宗族老弱悉在郿、皆還、為其群下所斫射。卓母年九十、走至塢門曰「乞脫我死」、即斬首。袁氏門生故吏、改殯諸袁死于郿者、斂聚董氏尸于其側而焚之。暴卓尸于市。卓素肥、膏流浸地、草為之丹。守尸吏暝以為大炷、置卓臍中以為燈、光明達旦、如是積日。後卓故部曲收所燒者灰、并以一棺棺之、葬于郿。卓塢中金有二三萬斤、銀八九萬斤、珠玉錦綺奇玩雜物皆山崇阜積、不可知數。
謝承後漢書曰:蔡邕在王允坐、聞卓死、有歎惜之音。允責邕曰:「卓、國之大賊、殺主殘臣、天地所不祐、人神所同疾。君為王臣、世受漢恩、國主危難、曾不倒戈、卓受天誅、而更嗟痛乎?」便使收付廷尉。邕謝允曰:「雖以不忠、猶識大義、古今安危、耳所厭聞、口所常玩、豈當背國而向卓也?狂瞽之詞、謬出患入、願黥首為刑以繼漢史。」公卿惜邕才、咸共諫允。允曰:「昔武帝不殺司馬遷、使作謗書、流於後世。方今國祚中衰、戎馬在郊、不可令佞臣執筆在幼主左右、後令吾徒並受謗議。」遂殺邕。臣松之以為蔡邕雖為卓所親任、情必不黨。寧不知卓之姦凶、為天下所毒、聞其死亡、理無歎惜。縱復令然、不應反言于王允之坐。斯殆謝承之妄記也。史遷紀傳、博有奇功于世、而云王允謂孝武應早殺遷、此非識者之言。但遷為不隱孝武之失、直書其事耳、何謗之有乎?王允之忠正、可謂内省不疚者矣、既無懼于謗、且欲殺邕、當論邕應死與不、豈可慮其謗己而枉戮善人哉!此皆誣罔不通之甚者。張璠漢紀曰:初、蔡邕以言事見徙、名聞天下、義動志士。及還、内寵惡之。邕恐、乃亡命海濱、往來依太山羊氏、積十年。卓為太尉、辟為掾、以高第為侍御史治書、三日中遂至尚書。後遷巴東太守、卓上留拜侍中、至長安為左中郎將。卓重其才、厚遇之。每有朝廷事、常令邕具草。及允將殺邕、時名士多為之言、允悔欲止、而邕已死。
魏書曰:輔恇怯失守、不能自安。常把辟兵符、以鈇鑕致其旁、欲以自彊。見客、先使相者相之、知有反氣與不、又筮知吉凶、然後乃見之。中郎將董越來就輔、輔使筮之、得兌下離上、筮者曰:「火勝金、外謀内之卦也。」即時殺越。獻帝紀云:筮人常為越所鞭、故因此以報之。
九州春秋曰:傕等在陝、皆恐怖、急擁兵自守。胡文才・楊整脩皆涼州大人、而司徒王允素所不善也。及李傕之叛、允乃呼文才・整脩使東解釋之、不假借以温顏、謂曰:「關東鼠子欲何為邪?卿往呼之。」於是二人往、實召兵而還。
張璠漢紀曰:布兵敗、駐馬青瑣門外、謂允曰:「公可以去。」允曰:「安國家、吾之上願也、若不獲、則奉身以死。朝廷幼主恃我而已、臨難苟免、吾不為也。努力謝關東諸公、以國家為念。」傕・汜入長安城、屯南宮掖門、殺太僕魯馗・大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎。吏民死者不可勝數。司徒王允挾天子上宣平城門避兵、傕等於城門下拜、伏地叩頭。帝謂傕等曰:「卿無作威福、而乃放兵縱橫、欲何為乎?」傕等曰:「董卓忠于陛下、而無故為呂布所殺。臣等為卓報讎、弗敢為逆也。請事竟、詣廷尉受罪。」允窮逼出見傕、傕誅允及妻子宗族十餘人。長安城中男女大小莫不流涕。允字子師、太原祁人也。少有大節、郭泰見而奇之、曰:「王生一日千里、王佐之才也。」泰雖先達、遂與定交。三公並辟、歷豫州刺史、辟荀爽・孔融為從事、遷河南尹・尚書令。及為司徒、其所以扶持王室、甚得大臣之節、自天子以下、皆倚賴焉。卓亦推信之、委以朝廷。華嶠曰:夫士以正立、以謀濟、以義成、若王允之推董卓而分其權、伺其間而弊其罪。當此之時、天下之難解矣、本之皆主於忠義也、故推卓不為失正、分權不為不義、伺閒不為狙詐、是以謀濟義成、而歸於正也。
英雄記曰:傕、北地人。汜、張掖人、一名多。

6)   『後漢書』伝六十二董卓列伝より。

時王允與呂布及僕射士孫瑞謀誅卓。有人書「呂」字於布上、負而行於市、歌曰:「布乎!」有告卓者、卓不悟。三年四月、帝疾新愈、大會未央殿。卓朝服升車、既而馬驚墯泥、還入更衣。其少妻止之、卓不從、遂行。乃陳兵夾道、自壘及宮、左步右騎、屯衛周匝、令呂布等扞衛前後。王允乃與士孫瑞密表其事、使瑞自書詔以授布、令騎都尉李肅與布同心勇士十餘人、偽著衛士服於北掖門内以待卓。卓將至、馬驚不行、怪懼欲還。呂布勸令進、遂入門。肅以戟刺之、卓衷甲不入、傷臂墯車、顧大呼曰:「呂布何在?」布曰:「有詔討賊臣。」卓大罵曰:「庸狗敢如是邪!」布應聲持矛刺卓、趣兵斬之。主簿田儀及卓倉頭前赴其尸、布又殺之。馳齎赦書、以令宮陛内外。士卒皆稱萬歳、百姓歌舞於道。長安中士女賣其珠玉衣裝市酒肉相慶者、填滿街肆。使皇甫嵩攻卓弟旻於郿塢、殺其母妻男女、盡滅其族。乃尸卓於市。天時始熱、卓素充肥、脂流於地。守尸吏然火置卓臍中、光明達曙、如是積日。諸袁門生又聚董氏之尸、焚灰揚之於路。塢中珍藏有金二三萬斤、銀八九萬斤、錦綺繢縠紈素奇玩、積如丘山。
初、卓以牛輔子婿、素所親信、使以兵屯陝。輔分遣其校尉李傕・郭汜・張濟將歩騎數萬、撃破河南尹朱雋於中牟。因掠陳留・潁川諸縣、殺略男女、所過無復遺類。呂布乃使李肅以詔命至陝討輔等、輔等逆與肅戰、肅敗走弘農、布誅殺之。其後牛輔營中無故大驚、輔懼、乃齎金寶踰城走。左右利其貨、斬輔、送首長安。
傕・汜等以王允・呂布殺董卓、故忿怒并州人、并州人其在軍者男女數百人、皆誅殺也。牛輔既敗、衆無所依、欲各散去。傕等恐、乃先遣使詣長安、求乞赦免。王允以為一歳不可再赦、不許之。傕等益懷憂懼、不知所為。武威人賈詡時在傕軍、説之曰:「聞長安中議欲盡誅涼州人、諸君若棄軍單行、則一亭長能束君矣。不如相率而西、以攻長安、為董公報仇。事濟、奉國家以正天下;若其不合、走未後也。」傕等然之、各相謂曰:「京師不赦我、我當以死決之。若攻長安剋、則得天下矣;不剋、則鈔三輔婦女財物、西歸郷里、尚可延命。」衆以為然、於是共結盟、率軍數千、晨夜西行。王允聞之、乃遣卓故將胡軫・徐榮擊之於新豐。榮戰死、軫以衆降。傕隨道收兵、比至長安、已十餘萬、與卓故部曲樊稠・李蒙等合、圍長安。城峻不可攻、守之八日、呂布軍有叟兵内反、引傕衆得入。城潰、放兵虜掠、死者萬餘人。殺衛尉种拂等。呂布戰敗出奔。王允奉天子保宣平城門樓上。於是大赦天下。李傕・郭汜・樊稠等皆為將軍。遂圍門樓、共表請司徒王允出、問「太師何罪?」允窮蹙乃下、後數日見殺。傕等葬董卓於郿、并收董氏所焚尸之灰、合斂一棺而葬之。葬日、大風雨、霆震卓墓、流水入藏、漂其棺木。

7)   『後漢書』伝六十二董卓列伝の李賢注より。

三輔決錄曰:「瑞字君榮、扶風人、博達無不通。天子都許、追論瑞功、封子萌津亭侯。萌字文始、有才學、與王粲善、粲作詩贈萌。」
英雄記曰:「有道士書布為『呂』字、將以示卓、卓不知其為呂布也。」
獻帝紀曰:「肅、呂布同郡人也。」
趣音促。九州春秋曰:「布素使秦誼・陳衛・李黑等偽作宮門衛士、持長戟。卓到宮門、黑等以長戟俠叉卓車、或叉其馬。卓驚呼布、布素施鎧於衣中、持矛、即應聲刺卓、墜於車。」
九州春秋「儀」字作「景」。
英雄記曰:「卓母年九十、走至塢門、曰:『乞脱我死。』即時斬首。」
英雄記:「傕、北地人。」劉艾獻帝紀曰:「傕字稚然。汜、張掖人。」
獻帝紀曰:「輔帳下支胡赤兒等、素待之過急、盡以家寶與之、自帶二十餘餅金・大白珠瓔。胡謂輔曰:『城北已有馬、可去也。』以繩繋輔腰、踰城懸下之、未及地丈許放之、輔傷腰不能行、諸胡共取其金并珠、斬首詣長安。」
魏志曰:「卓之入洛陽、詡以太尉掾為平津尉、遷討虜校尉。」牛輔屯陝、詡在輔軍。輔既死、故詡在傕軍。
九州春秋曰:「胡文才・楊整脩皆涼州人、王允素所不善也。及李傕之叛、乃召文才・整脩、使東曉喩之。不假借以温顏、謂曰:『關東鼠子欲何為乎?卿往曉之。』於是二人往、實召兵而還。」
袁宏紀曰:「蒙後為傕所殺。」
叟兵即蜀兵也。漢代謂蜀為叟。
三輔黄圖曰:「長安城東面北頭門號宣平門。」
袁山松書曰「允謂傕等曰:『臣無作威作福、將軍乃放縱、欲何為乎?』傕等不應。自拜署傕為揚武將軍、汜為揚烈將軍、樊稠等皆為中郎將」也
獻帝起居注曰:「冢戸開、大風暴雨、水土流入、抒出之。棺向入、輒復風雨、水溢郭戸、如此者三四。冢中水半所、稠等共下棺、天風雨益暴甚、遂閉戸。戸閉、大風復破其冢。」

8)   『後漢書』紀九孝獻帝紀より。

夏四月辛巳、誅董卓、夷三族。司徒王允錄尚書事、總朝政、遣使者張种撫慰山東。
青州黄巾撃殺兗州刺史劉岱於東平。東郡太守曹操大破黄巾於壽張、降之。
五月丁酉、大赦天下。
丁未、征西將軍皇甫嵩為車騎將軍。
董卓部曲將李傕・郭汜・樊稠・張濟等反、攻京師。六月戊午、陷長安城、太常种拂・太僕魯旭・大鴻臚周奐・城門校尉崔烈・越騎校尉王頎並戰歿、吏民死者萬餘人。李傕等並自為將軍。
己未、大赦天下。
李傕殺司隸校尉黄琬、甲子、殺司徒王允、皆滅其族。丙子、前將軍趙謙為司徒。

9)   『三国志』巻七魏書呂布伝の裴松之注より。

英雄記曰:郭汜在城北。布開城門、將兵就汜、言「且卻兵、但身決勝負」。汜・布乃獨共對戰、布以矛刺中汜、汜後騎遂前救汜、汜・布遂各兩罷。
臣松之案英雄記曰:諸書、布以四月二十三日殺卓、六月一日敗走、時又無閏、不及六旬。

10)   『三国志』巻十魏書荀攸伝より。

會卓死得免。棄官歸、復辟公府、舉高第、遷任城相、不行。攸以蜀漢險固、人民殷盛、乃求為蜀郡太守、道絶不得至、駐荊州。


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