<<
>>
二人の劉使君(孫氏からみた三国志41)
2007.09.28.
<<長沙太守・孫文台(孫氏からみた三国志40)


   後漢書本紀1)中心に、中平五年(西暦188年)を見ていこう(後漢紀だとずれている箇所もある)
   二月、紫宮(星座の名)において星孛(ほうき星)があった。
   西河(并州西河郡)白波谷において黄巾餘賊の郭太らが蜂起し、太原郡(并州)・河東郡(司隸)へ侵攻した。
   前年から張純と烏桓の反乱を鎮圧すべく、靈帝に徴集された南匈奴兵だけど(<<参照)、後漢書本紀後漢書南匈奴列伝2)を合わせ考えると、三月にその軍の一部の南匈奴右部し落と休著各胡白馬銅ら十万人あまりが反乱し、并州刺史の張懿(三国志では張壹)を攻め殺し、ついには南匈奴單于の羌渠を殺した。

   まさにミイラ取りがミイラになった状況だが、この直後が数ヶ月後か不明ながら、この出来事がある流れを生み出す。
   三国志蜀書劉二牧伝3)によると、皇帝の遠い親戚で劉焉(字、君郎)という者が居た。江夏郡の竟陵県の人で、先祖は魯恭王の末裔で、章帝の元和中(西暦84年-87年)に竟陵へ移ったそうな。劉焉は若いときに州郡に仕え、宗室(皇帝の親戚)であるため、中郎(後漢書劉焉伝4)では「郎中」)になり、後に師の祝公(注によると、司徒の祝恬)が亡くなったので官を去った。その後、陽城山に住み、学を積み教授し、賢良方正に挙げられ司徒府に招かれ、らく陽令・冀州刺史・南陽太守・宗正・太常を歴任したそうだ。
   ここで劉焉は皇帝の政治は衰え、王室が多難多事であると見たため(後漢書劉焉伝4)だと「四方兵寇」と兵乱についての記述がある)、議を建て皇帝へ上言する。
「刺史・太守は財物で官になり、百姓を虐げ、離反されるに到っています。清名の重臣を選び牧伯にすることで、鎮め安定させ夏代(上古の国家)に等しくすることができます」

   元々、刺史は各郡を視察するって役割030201-7)で軍事的意味合いはないんだけど、「孫氏からみた三国志」で紹介した数々の刺史たちは軍事力を有している者ばかり。悪いことに、ここで劉焉が言っているとおりだとすると、刺史の中には不正を働く者も居るようだ。
   そこで清名の重臣を選んで、改めて「牧伯」を置いてそういった不正を防ぎ、改めて軍事力を持たせること(「鎮め安定させ」ってあたり)は納得できるところ。
   ところが劉焉にはそういった公に向けた要求以外にも私的欲求があった。

   続けて三国志蜀書劉二牧伝より。
   劉焉はひそかに交阯牧を求めており、世難を避けたいと思っていた。議はすぐに行われず、侍中の廣漢郡出身の董扶は個人的に劉焉へ言う。
「京師はまさに乱れ、益州の分野(中国全土を二十八宿に配した分域5))に天子の気があります」
   劉焉は董扶の言葉を聞き、意を益州に改めた。たまたま益州刺史の郤儉(後漢書ではち儉)は不当に搾取し、訴えを遠くから聞き、その上、并州で刺史の張壹が殺され、涼州で刺史の耿鄙が殺されていたため(<<参照)、劉焉の謀は成功し得た。
   中央から出て、監軍使者、領益州牧になり、陽城侯に封じられ、郤儉を召集し罪をおさめた(前後関係を見るとまだ益州刺史のまま)。董扶もまた蜀郡西部屬國都尉および太倉令になることを求め、たまたま巴西の趙いが官を去ったため劉焉についていった。
   この議により出来た牧は劉焉の益州牧だけではない。後漢書劉焉伝4)によると太僕の黄えん豫州牧となり、宗正の劉虞は幽州牧となるとのこと。
各州
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)



   二人の牧の説明の前に後漢書本紀1)の流れを少し進める。
   夏四月、汝南郡の葛陂黄巾は郡県を攻め落とした。
   太尉の曹嵩は罷免された。
   五月、永樂少府の樊陵(字、徳雲)は太尉になった。

   後漢書黄えん6)によると黄えん(字、子えん)は黨錮の禁(<<参照)を受けており、二十年間、官位に着けなかった。光和末(光和は西暦184年まで)になり、太尉の楊賜は黄えんに乱を治める才があるとし上書で推薦し、そのため黄えんは議郎になり、青州刺史に抜擢され、侍中に移った。中平の初め(184年以降)、中央から出て右扶風(太守?)になり、將作大匠・少府・太僕となった。また豫州牧となった。その時、寇賊の陸梁(後漢紀7)によると「黄巾」)が州境でうらぶれており、黄えんは討伐し、これを平定し威光と名声が天下を揺るがせた。

   黄えんはこうして牧としての任務を果たしたこととなる。

   一方、言い出しの益州牧の劉焉。その前にやっぱり後漢書本紀1)の流れを少し進める。
   六月丙寅の日、大風があった。
   太尉の樊陵が罷免される。
   益州の黄巾の馬相は刺史のち儉を攻め殺し、天子を自称した、巴郡に侵攻し、郡守の趙部を殺した。

   再び三国志蜀書劉二牧伝3)の記述を持ってきて益州刺史が殺された頃の経緯を見ていく。
   その時、益州逆賊の馬相と趙祗らは綿竹県において黄巾を自号し、役務に疲れた民衆と合流し、一日、二日中に数千人を得て、まず綿竹令(綿竹県の県令)の李升を殺し、吏民(役人と民衆)が集まり、合わせて一万人あまりとなり、容易くらく県(続漢書郡国志によると州府がある県)を破り進み、益州を攻め郤儉を殺し、また蜀郡とけん為郡に居たり、一ヶ月の間、三郡を破壊した。馬相は天子を自称し、万数を集った。從事の賈龍は元よりけん為郡の東の境にあって兵数百人を領し、吏民を集め収め、千人余りを得て、馬相らを攻め、数日で破り敗走させ、州界(州領)は清く静かになった。すなわち賈龍は吏卒(役人と兵卒)を選び、劉焉を迎えた。劉焉は移り綿竹県を収め、離反を安んじ納め、心が広く情深く、そのうえひそかに異計を図った。


   最後は劉虞について。まず後漢書劉虞伝8)より。劉虞は字、伯安で東海郡のたん県の人。祖父は嘉で光祿勳だった。後漢書劉虞伝の注に引く謝承書より、父の舒は丹陽太守だった。
   三国志魏書公孫さん伝の注に引く呉書9)だと、劉虞は東海恭王の子孫で、たまたま乱世で、またその時、主と疎遠になり、県に仕え、戸曹吏になった。よく身を修め職に奉じることで、召し抱えられ郡吏となり、孝廉により郎となった。昇進を重ね、幽州刺史に至り、甘陵相(甘陵国の相)に転じ、甚だ東土の戎狄の心を得た(後漢書劉虞伝8)によると鮮卑・烏桓・夫餘・穢貊)。後に病気により家へ帰り、常に奥深く身を退け、邑党・州閭(村里)は楽しみを同じく憂いを共にし、有無を等しくし、名声をもって自らを貴ぶことは無く、郷曲(片田舎)ではみなともにこれを尊んだ。その時、郷曲では訴訟が有り、吏(役人)に向かうことなく、自ら劉虞に投降しこれが平定された。劉虞は情理をもってこのために論判し、大小みな従い、恨みを抱くことはなかった。かつて牛を失う者があり、骨体毛色が劉虞の牛と似ていて、これと思ったため、劉虞はたやすくこの牛をゆずった。後に主は自ら本当の牛を得たので、返還し、謝罪した。たまたま甘陵で二回乱れ(後漢書劉虞伝8)によると中平初の黄巾の乱、つまり西暦185年以降の乱)、吏民(役人と民衆)は劉虞の治行を思い、再び甘陵相となり、甘陵国は大いに治まった。尚書令、光祿勳になり、公族で礼があるため、改めて宗正となった
   さらに三国志魏書公孫さん10)によると、朝議で宗正の東海の劉伯安(劉虞)にすでに徳義があるとのことで、以前、幽州刺史になったとき、その恩信は著しく流布し、戎狄はこれに従い、鎮撫されているかのようで、衆を労わずも平定された。そのため、劉虞は幽州牧に選ばれた。

   劉虞が任地の幽州に牧として向かう前に中央にも動きがあり、まずは次回以降、そちらを中心に触れていく。





1)   後漢書本紀の記述。本文のネタバレあり。
「(中平五年)二月、有星孛于紫宮。
黄巾餘賊郭太等起於西河白波谷、寇太原・河東。
三月、休屠各胡攻殺并州刺史張懿、遂與南匈奴左部胡合、殺其單于。
夏四月、汝南葛陂黄巾攻沒郡縣。
太尉曹嵩罷。五月、永樂少府樊陵為太尉。(※陵字徳雲、胡陽人也。)
六月丙寅、大風。
太尉樊陵罷。
益州黄巾馬相攻殺刺史ち儉、自稱天子、又寇巴郡、殺郡守趙部、益州從事賈龍撃相、斬之。冬十月、零陵盜賊寇長沙、太守孫堅討破之。封堅烏程侯。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
2)   後漢書南匈奴伝の記述。こちらも本文のネタバレあり。ここでの「鮮卑」は「烏桓」の間違いだろね。「單于羌渠、光和二年立。中平四年、前中山太守張純反畔、遂率鮮卑寇邊郡。靈帝詔發南匈奴兵、配幽州牧劉虞討之。單于遣左賢王將騎詣幽州。國人恐單于發兵無已、五年、右部し落與休著各胡白馬銅等十餘萬人反、攻殺單于。」(「後漢書卷八十九   南匈奴列傳第七十九」より)
3)   三国志蜀書劉二牧伝の記述。本文のネタバレあり。
「劉焉字君郎、江夏竟陵人也、漢魯恭王之後裔、章帝元和中徙封竟陵、支庶家焉。焉少仕州郡、以宗室拜中郎、後以師祝公喪去官。(※臣松之案:祝公、司徒祝恬也。)居陽城山、積學教授、舉賢良方正、辟司徒府、歴らく陽令・冀州刺史・南陽太守・宗正・太常。焉睹靈帝政治衰缺、王室多故、乃建議言:「刺史・太守、貨賂為官、割剥百姓、以致離叛。可選清名重臣以為牧伯、鎮安方夏。」焉内求交阯牧、欲避世難。議未即行、侍中廣漢董扶私謂焉曰:「京師將亂、益州分野有天子氣。」焉聞扶言、意更在益州。會益州刺史郤儉賦斂煩擾、謠言遠聞、而并州殺刺史張壹、涼州殺刺史耿鄙、焉謀得施。出為監軍使者、領益州牧、封陽城侯、當收儉治罪;扶亦求為蜀郡西部屬國都尉、及太倉令(會)巴西趙い去官、倶隨焉。
是時(涼)〔益〕州逆賊馬相・趙祗等於綿竹縣自號黄巾、合聚疲役之民、一二日中得數千人、先殺綿竹令李升、吏民翕集、合萬餘人、便前破らく縣、攻益州殺儉、又到蜀郡・けん為、旬月之間、破壞三郡。相自稱天子、衆以萬數。州從事賈龍(素)領〔家〕兵數百人在けん為東界、攝斂吏民、得千餘人、攻相等、數日破走、州界清靜。龍乃選吏卒迎焉。焉徙治綿竹、撫納離叛、務行ェ惠、陰圖異計。張魯母始以鬼道、又有少容、常往來焉家、故焉遣魯為督義司馬、住漢中、斷絶谷閣、殺害漢使。焉上書言米賊斷道、不得復通、又託他事殺州中豪強王咸・李權等十餘人、以立威刑。けん為太守任岐及賈龍由此反攻焉、焉撃殺岐・龍。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」より)
4)   後漢書劉焉伝より。三国志蜀書劉二牧伝より簡潔な記述。
「劉焉字君郎、江夏竟陵人也、魯恭王後也。肅宗時、徙竟陵。焉少任州郡、以宗室拜郎中。去官居陽城山、精學教授。舉賢良方正、稍遷南陽太守・宗正・太常。
時靈帝政化衰缺、四方兵寇、焉以為刺史威輕、既不能禁、且用非其人、輒摶\亂、乃建議改置牧伯、鎮安方夏、清選重臣、以居其任。焉乃陰求為交阯、以避時難。議未即行、會益州刺史ち儉在政煩擾、謠言遠聞、而并州刺史張懿・涼州刺史耿鄙並為寇賊所害、故焉議得用。出焉為監軍使者、領益州牧、太僕黄えん為豫州牧、宗正劉虞為幽州牧、皆以本秩居職。州任之重、自此而始。
是時益州賊馬相亦自號「黄巾」、合聚疲役之民數千人、先殺綿竹令、進攻らく縣、殺ち儉、又撃蜀郡・けん為、旬月之間、破壞三郡。馬相自稱「天子」、衆至十餘萬人、遣兵破巴郡、殺郡守趙部。州從事賈龍、先領兵數百人在けん為、遂糾合吏人攻相、破之、龍乃遣吏卒迎焉。焉到、以龍為校尉、徙居綿竹。(龍)撫納離叛、務行ェ惠、而陰圖異計。」(「後漢書卷七十五   劉焉袁術呂布列傳第六十五」より)

5)   ここの記述は字通CD-ROM版より。

6)   後漢書黄えん伝より。「えん字子えん<略>。
えん被廢棄幾二十年。至光和末、太尉楊賜上書薦えん有撥亂之才、由是徴拜議郎、擢為青州刺史、遷侍中。中平初、出為右扶風、徴拜將作大匠・少府・太僕。又為豫州牧。時寇賊陸梁、州境彫殘、えん討撃平之、威聲大震。政績為天下表、封關内侯。」(「後漢書卷六十一   左周黄列傳第五十一」より)

7)   後漢紀より。他にも面白い記述があるんだけど、記述がかなり遡るのでここは略で。「値黄巾陸梁、民物凋敝、延納豪俊、整勒戎馬、征伐群賊、威聲甚震。」(「後漢孝獻皇帝紀卷第二十七」より)

8)   後漢書劉虞伝より。これから先のネタバレもあり。
「劉虞字伯安、東海たん人也。(※謝承書曰:「虞父舒、丹陽太守。虞通五經、東海(王)恭〔王〕之後。」)祖父嘉、光祿勳。虞初舉孝廉、稍遷幽州刺史、民夷感其コ化、自鮮卑・烏桓・夫餘・穢貊之輩、皆隨時朝貢、無敢擾邊者、百姓歌ス之。公事去官。中平初、黄巾作亂、攻破冀州諸郡、拜虞甘陵相、綏撫荒餘、以蔬儉率下。遷宗正。<略>
朝廷以虞威信素著、恩積北方、明年(中平五年)、復拜幽州牧。虞到薊、罷省屯兵、務廣恩信。遣使告峭王等以朝恩ェ弘、開許善路。又設賞購舉・純。舉・純走出塞、餘皆降散。純為其客王政所殺、送首詣虞。靈帝遣使者就拜太尉、封容丘侯。 」(「後漢書卷七十三 劉虞公孫さん陶謙列傳第六十三」より)
9)   三国志魏書公孫さん伝の注に引く呉書より。ネタバレあり。
「虞、東海恭王之後也。遭世衰亂、又與時主疏遠、仕縣為戸曹吏。以能治身奉職、召為郡吏、以孝廉為郎、累遷至幽州刺史、轉甘陵相、甚得東土戎狄之心。後以疾歸家、常降身隱約、與邑黨州閭同樂共じゅつ、等齊有無、不以名位自殊、郷曲咸共宗之。時郷曲有所訴訟、不以詣吏、自投虞平之;虞以情理為之論判、皆大小敬從、不以為恨。嘗有失牛者、骨體毛色、與虞牛相似、因以為是、虞便推與之;後主自得本牛、乃還謝罪。會甘陵復亂、吏民思虞治行、復以為甘陵相、甘陵大治。徴拜尚書令・光祿勳、以公族有禮、更為宗正。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」の注に引く「呉書」より)
10)   三国志魏書公孫さん伝より。
「朝議以宗正東海劉伯安既有徳義、昔為幽州刺史、恩信流著、戎狄附之、若使鎮撫、可不勞衆而定、乃以劉虞為幽州牧。虞到、遣使至胡中、告以利害、責使送純首。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)

<<
>>