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皇帝東帰(孫氏からみた三国志60)
2011.03.20.
<<孫賁、孫策、動く(孫氏からみた三国志59)


   中央とのことなので、<<「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)の続きになるが、今まで出ていなかった『後漢書』本紀をまず見ていく。<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)の続き。『後漢書』紀九孝献帝紀1)より。

   (初平四年、紀元193年)十二月辛丑(3日)、地震があった。
   司空の趙温が免じられ、乙巳(27日)、衛尉の張喜が司空になった。
   この年、(徐州)琅邪王の容が薨去した。
   興平元年(紀元194年)春正月辛酉(13日)に天下に大赦し、興平へ改元した。甲子(16日)、帝は元服に加えた。二月壬午(5日)、皇妣王氏を追尊謚し靈懷皇后とし、甲申(7日)、改めて文昭陵に葬った。丁亥(10日)、帝は藉田で耕した。
   三月、韓遂(字伯約)、馬騰(字壽成)と、郭汜、樊稠が長平観で戦い、韓遂、馬騰が敗れ、左中郎将の劉範、前の益州刺史の种劭は戦没した。

   ここにある皇妣王氏は<<「遷都」(孫氏からみた三国志47)にある唐姬のことだ。
   また、最後にある三月の戦いは<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)に少しある初平三年の韓遂と馬騰の動きからの流れとなる。『三国志』巻六魏書董卓伝2)によると、

   侍中の馬宇と諫議大夫の种邵、左中郎将の劉範等は謀り、馬騰に(司隸京兆尹)長安を襲わせ、己と内応させ、それにより李傕等を誅することを欲した。馬騰は兵を引き長平觀に至り、馬宇の謀が漏れ、槐里へ出奔した。樊稠は馬騰を攻撃し、馬騰は敗走し、涼州へ還った。また槐里を攻撃し、馬宇等は皆死んだ。当時、(司隸)三輔の民はなお数十万戸あり、李傕等は兵を放ち劫略(攻めて制し)し、城邑を脅し奪い、人民は飢困し、二年間、互いに貪り食い尽く奪った。

となり、最後の文に注が付けられ、次のように『献帝紀』3)が引かれている。

   この時、新たに遷都し、宮人は衣服を多く亡くし、皇帝は御府の繒を徴発することでこれ与えることを欲し、李傕は欲せず言う。
「宮中に衣が有れば、胡は再び動くでしょうか」
   詔で厩の馬百匹余りを売り、御府の大司農は雑繒二万匹を出し、加えて厩の馬を直に売る所で、公卿以下及び貧民の自らを存ぜ得ない者に賜った。李傕は言う。
「我の邸閣は蓄えが少量です」
   かえって尽く載せその営に置いた。賈詡は言う。
「この上意は拒むべきです」
   李傕はこれに従わなかった。

   この韓遂と馬騰の戦いについて、『後漢書』伝六十二董卓列伝4)により詳しく書かれている。以下。

   興平元年、馬騰は隴右(涼州漢陽郡隴以西)より来朝し、進み霸橋に屯した。当時、馬騰は私有し李傕に求め、得られず怒り、韓遂と侍中の馬宇、右中郎将の劉範、前の涼州刺史の种劭、中郎将の杜稟は兵を合わせ李傕を攻め、日を連ね決着しなかった。韓遂はこれを聞き、かえって衆を率い来て馬騰と李傕との和を欲し、既に再び馬騰と合った。李傕は兄の子の李利、郭汜、樊稠共に馬騰等と長平觀下で戦わせた。遂に馬騰は破れ、首一万級余りが斬られ、种劭、劉範らは皆死んだ。韓遂、馬騰は走り涼州へ還り、樊稠等もまたこれを追った。韓遂は人を使わし樊稠に語って言う。
「天下は反覆し未だ治められず、州里を合い与え、今、小さな違いがあると雖も、まさに大同するのを求め、共に一を欲し言う」
   かえって馬を並べ肘を交え合い加え、良く久しく笑いながら語った。軍が還り、李利は李傕に告げ言う。
「樊稠、韓遂は馬を並べ笑って語り合い、それを辞めるのを知らず、甚だ密に慈しみを推し量っていました」
   これにおいて李傕は樊稠は互いに猜疑を持ち始めた。まだやはり樊稠及び郭汜に開府が加わり、三公と合わせて六府となり、皆、選挙に参した。

   杜稟については注に『献帝紀』5)が引かれ次のようにある。

   杜稟と賈詡に隙が有り、(司隸)扶風の吏人を脅し馬騰に(司隸右扶風)槐里を守らせ、共に李傕を攻めることを欲した。李傕は樊稠及び兄の子の李利数万人に槐里を攻め囲ませ、夜に城へ梯子を掛け、城が陥落し、杜稟を斬り首を晒した。

   また選挙に参したことについて注に『献帝起居注』6)が引かれ次のようにある。

   李傕等は各々、その挙げる所を用いると欲し、もしひとたびこれを違えば、容易に憤り怒るだろう。主者はこれを患い、かえって次第を以てその挙げる所を用い、先ず李傕より起き、郭汜のを次とし、樊稠のを次とする。三公が挙げる所は、終いまで見え用いない。

   前述の『後漢書』紀九孝献帝紀の興平元年三月の条には注があり『袁宏紀』(つまり『後漢紀』)が引かれており、その部分も含め次のように『後漢紀』孝献皇帝紀巻二十七7)では書かれている。

   この時、李傕等は専ら乱し、馬騰等は私求し獲らず、馬騰は怒り、益州牧の劉焉(字君郎)を宗室大臣にし、招き引かせ、供に李傕等を誅したいと欲した。劉焉は子の劉範に兵を率いらせ馬騰に就かせた。岐州刺史(?)の种邵は、太常の种拂の子だ。种拂は李傕に殺害される所となり、中郎将の杜廩と賈詡とに隙があり、並んで馬騰と与し合わせ、その不和を報いた。これにおいて李傕、馬騰は背き、上は使者にこれを和させたが、従わなかった。韓遂は衆を率い来て、李傕、馬騰を和するのを欲した結果、再び馬騰と与し合わせた。
   任申(壬申→25日)、馬騰と韓遂は兵を治め平樂觀に屯し、長安を囲もうとした。李傕は樊稠、郭汜及び兄の子の李利に馬騰、韓遂を撃たせ、これを破り、种邵、劉範等は皆死んだ。韓遂は西へ逃走し、樊稠はこれを追い、韓遂は樊稠に言う。
「天地は反復し未だ知り得ない。初めから争う所の者は私怨ではなく、王家の事のみだ。足下の州里人と与し、小さい違いがあると雖も、要は大きく同じにすべきであり、相い与し良く語るのを欲し、後に不意は繰り返すべきではないだろう。」
   かえって馬を交え供に語り、良く支え別れ去った。

   前述の『後漢書』紀九孝献帝紀1)に戻り、その続きは次のようになる。

   (興平元年夏六月丙子(1日)、涼州を分け河西四郡(金城、酒泉、燉煌、張掖。)を廱州とした
   丁丑(2日)、地震、戊寅(3日)、又震える。乙巳晦(30日)、日にこれを食う有り、帝は正殿を避け、戦いを止め、五日、事を受けなかった。大いに蝗が起こった
   秋七月壬子(7日)、太尉の朱儁(字公偉)は免じられた。戊午(13日)、太常の楊彪が太尉に為り、尚書事を録した。
   四月よりこの月に至るまで三輔が大旱した。帝は正殿を避け雨を請い、使者を使わし囚徒を清め(蕩滌、洗い除き)、元は刑を軽くした。この時、穀一斛五十万で、豆麦一斛二十万で、人は合い食い、白骨が積まれた。帝は侍御史侯汶は太倉の米豆を出させ、飢人のために粥を作り配り、日が経っても死者は降らなかった。帝は賦卹(割り当てて恵む)に虚ろが有ると疑い、乃ち自ら御坐において前で試しに糜(かゆ)を作らせ量り、乃ち実に非ずと知り、侍中の劉艾を使わし有司を譲り出させた。是において尚書令以下は皆、省閣で謝し、侯汶を捕らえ事実を考えるよう奉じた。詔に言う。
「未だ理において侯汶に至って忍ばず、杖五十にすべし」
   これより後、全回復が多く成し得た。
   八月、(司隸)馮翊羌が叛し、属県を進寇し、郭汜、樊稠はこれを撃破した。
   九月、桑は再び椹(桑の実)を生み、人は得て食す。
   司徒の淳于嘉が罷免する。
   冬十月、長安の市門が自壊する。
   衛尉の趙温を以て司徒とし尚書事を録させる。
   十二月、(涼州)安定、扶風を分け新平郡とした。
   この歳、楊州刺史の劉繇と袁術の将の孫策が曲阿で戦い、劉繇軍は敗績し、孫策は遂に江東に拠した。

   最後の孫策の動きについては回を改め後に触れていく。秋七月の朱儁の件は後に触れ、さらに続きがある。
   八月の馮翊羌の叛について、次の『後漢書』伝六十二董卓列伝4)に詳しくさらにその行方が書かれている。前述の『後漢書』伝六十二董卓列伝の続きに相当し、前述した『三国志』巻六魏書董卓伝にある「李傕等は兵を放ち劫略(攻めて制し)し」の部分に相当するだろう。

   当時、長安中の盗賊は禁じず、白日に虜掠があり、李傕、郭汜、樊稠は乃ち城内を三分し、各々はその境界で備え、なお制することができず、その子弟は縦横し、百姓に侵暴した。この時、穀一斛が五十万、豆麦二十万、人は合い食し、白骨が積まれ、腐って汚いものが路に満たされた。帝は御史の侯汶に太倉の米豆を飢人のために出させ粥を作らせ、日が経っても死者は降らなかった。帝は賦卹(割り当てて恵む)に虚ろが有ると疑い、乃ち御前において自ら加え検に臨んだ。既に不実を知り、侍中の劉艾に出させ、有司を責めた。これにおいて尚書令以下の皆は省閣に詣で謝り、奏して侯汶を捕まえ実否を調べた。詔に言う。
「理において侯汶に達するのは未だ忍ばず、杖五十を加えるように」
   これにより後に多く得て救いきった。

   さらに前述の『後漢書』紀九孝献帝紀1)に戻り、その続きは次のようになる。

   (興平)二年(紀元195年)正月癸丑(11日)、天下に大赦した。
   二月乙亥(3日)、李傕は樊稠を殺し、郭汜と相い攻めた。
   三月丙寅(25日)、李傕は帝を脅し其の営に行幸させ、宮室を焼いた。
   夏四月甲午(23日)、貴人の伏氏を立て皇后とした。
   丁酉(28日)、郭汜は李傕を攻め、矢が御前に及んだ。この日、李傕は帝を移し北塢に行幸させた。
   大旱(日照)があった。
   五月壬午(閏5月12日)、李傕は自ら大司馬になった。六月庚午(7月1日)、張濟は(司隸弘農郡)陝より来て、李傕、郭汜と和した。
   秋七月甲子(8月26日、丙子の誤りで7月6日?)、車駕は東へ帰った。郭汜は自ら車騎将軍と為り、楊定は後将軍と為り、楊奉は興義将軍と為り、董承は安集将軍と為り、並んで乗輿を仕え送った。張濟は票騎将軍と為り,還り陝に屯した。八月甲辰(6日)、(司隸京兆尹)新豐へ行幸した。冬十月戊戌(1日)、郭汜はその将の伍習に行幸する所の学舎を夜に焼かせ、乗輿をおびやかした。楊定、楊奉と郭汜は戦い、これを破った。壬寅(5日)、(司隸弘農郡)華陰に幸き、道の南に露次(野宿)した。この夜、赤氣が紫宮を貫くのが有った。張濟は再び反し、李傕、郭汜と与し合った。十一月庚午(3日)、李傕、郭汜等は乗輿を追い、東澗に戦い、王師は敗績し、光祿勳の鄧泉、衛尉の士孫瑞、廷尉の宣播、大長秋の苗祀、歩兵校尉の魏桀、侍中の朱展、射聲校尉の沮雋を殺した。壬申(5日)、(司隸弘農郡弘農県)曹陽に幸き、田中に露次(野宿)した。楊奉、董承は白波帥の胡才、李樂、韓暹及び匈奴左賢王の去卑を引き、師を率い、奉迎し、李傕等と戦い、これを破った。十二月庚辰(紀元196年1月14日)、車駕は乃ち進んだ。李傕等は再び来て追って戦い、王師は大敗し、宮人が殺略され、少府の田芬、大司農の張義等は皆、戦没した。進み陝に幸き、夜に河を渡った。乙亥(紀元196年1月9日)に、(司隸河東郡)安邑へ行幸した。

   以上のように、興平二年に入り皇帝の周辺で大きな動きが起こる。これを順を追って詳しく見ていく。
長安から東へ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   まず『後漢書』伝六十二董卓列伝4)より。前述の続きで『後漢書』紀九孝献帝紀で言うところの夏四月丁酉までの流れだ。

   明年興平二年に、李傕はそのまま会い坐に於いて樊稠を刺殺し、これにより諸将は各々、相い疑異し、李傕と郭汜はこういうことで再び兵を治め相い攻めた。安西将軍の楊定は、故(もと)の董卓の部曲将だ。李傕を懼れ害するのを忍び、かえって郭汜と与し合わせ天子をその営に行幸させるよう謀った。李傕はその計を知り、即ち兄の子の李暹に数千人を率いらせ宮を囲ませた。車三乗で天子と皇后を迎えた。太尉の楊彪は李暹に言う。
「古今の帝王は、人臣家者は無い。諸君は事を挙げ、上は天心に順じるべきであり、どうしてこのようになるのか」
   李暹は言う。
「将軍の計は決まりました」
   帝はこれに於いて遂に李傕の営に幸き、楊彪等は皆徒し従った。乱兵が殿に入り、宮人の什物をかすめ取り、李傕はその上、御府に金帛乗輿器服を移し、放火し宮殿官府に居る人を全て焼いた。帝は楊彪と司空の張喜等と十人余りに李傕、郭汜を和させ、郭汜は従わず、遂に公卿を人質に留まった。楊彪は郭汜に言う。
「将軍が人の間事(間諜)に及び、どうして君臣が分かれ争い、一人は天子をかすめ取り、独りは公卿を人質にし、これが行われて良いのでしょうか」
   郭汜は怒り、楊彪を手ずから殺そうと欲し、楊彪は言う。
「卿がやはり国家に奉ぜないのに、吾はどうして生きるのを求めようか」
   左右は多く諫め、郭汜はかえって止めた。遂に兵を引き李傕を攻め、先ず帝の前に及び、その上、李傕にのみ連なった。李傕の将の楊奉は元より白波賊の帥で、そこで兵を率い李傕を救い、これにおいて郭汜の衆はかえって退いた。

   ここで樊稠が殺害された箇所に注が付き『献帝紀』8)が次のように引かれる。

   李傕は楊彪に見え思い切りよくそして衆心を得て、早くこれを殺害し、酒によい、密かに外で生かせた騎都尉の胡封に坐中にて楊彪を拉ぎ殺させた。

   さらに郭汜が李傕を攻めた件に注が付き、『献帝紀』9)が次のように引かれる。

   郭汜と李傕の将の張苞、張龍は李傕を誅しようと謀り、郭汜は兵を率い夜に李傕の門を攻めた。開門を伺い郭汜の兵を内に入れ、張苞等は屋を焼き、火は燃えなかった。郭汜の兵の弓弩は並んで発し、矢は天子の樓帷簾中に及んだ。

   ここで興平元年秋からについて詳しい『後漢書』列伝六十一朱儁伝10)を見ていく。<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)で記した部分の続きに当たる。以下。

   明年興平元年、日食を以て免じられ、再び驃騎将軍事を行い、節を持ち関東を鎮静した。未だ徴発せず、たまたま李傕は樊稠を殺し、郭汜もまた自ら疑い、李傕と合い攻め、長安中は乱れ、そのため朱儁は止め出ず、留まり大司農を拝した。献帝は朱儁と太尉の楊彪等十人余りに郭汜を諭すよう詔し、(郭汜と)李傕と和すように令した。郭汜は肯かず、遂に質として朱儁等を留めた。朱儁は素より剛で、即日に病を発し卒去した。
   子の皓もまた、才行が有り、官は(揚州)豫章太守に至った。

   朱儁がいつ卒去したか、次のように『後漢紀』孝獻皇帝紀巻二十八11)に書かれている。

   (興平二年)夏四月、郭汜は公卿を持てなし、李傕を攻めることを議した。楊彪は言う。
「群臣は共に戦い、一人は天子を脅かし、一人は公卿を人質に取り、これは行うべきでしょうか」
   郭汜は怒り、これを切ろうと欲した。中郎将の楊密は郭汜を解き、かえって止めた。朱儁は元より剛直で、遂に病を発し死んだ。

   さらに『後漢書』列伝六十二董卓列伝4)を追う。皇甫酈は<<「涼州と幽州の顛末」(孫氏からみた三国志43)で触れた人物だ。以下。

   この日、李傕は再び帝を、ただ皇后、宋貴人だけとを供に、その北塢に行幸させた。李傕は校尉監門に、内外を隔て絶たせた。加えて再び帝を(司隸左馮翊)池陽黄白城に移すのを欲し、君臣は懼れた。司徒の趙温は深くわかちこれを諭し、かえって止めた。詔で謁者の僕射の皇甫酈に李傕と郭汜と和させた。皇甫酈は先ず郭汜を諭させ、郭汜はそこで命に従った。さらに李傕に詣で、李傕は受け入れなかった。言う。
「郭多は、馬虜のみを盗み、どうして敢えて我と与し仲間になろうとするだろうか。必ずこれを誅しよう。我が今、士衆を営むのを君が見て、郭多を扱い足りないだろうか。郭多はその上、公卿を脅し人質に取った。このためこの如くなのに、君はかりそめにもこれを助けようと欲するか」
   郭汜の一名は多だ。皇甫酈は言う。
「今、郭汜は公卿を人質に取り、将軍は主を脅かし、誰が軽重を計るでしょうか」
   李傕は怒り、皇甫酈を責め放ち、そのまま虎賁の王昌にこれを追いころさせた。王昌は偽り及ばず、皇甫酈は免じ得た。そこで李傕は自ら大司馬になった。郭汜と連月、相い攻め、死者で万数になった。

   最後の「李傕は自ら大司馬になった」ところは『後漢書』紀九孝献帝紀で言うところの五月壬午に相当する。ここにも注が付き、「内外を隔て絶たせた」について『献帝紀』12)が次のように引かれる。

   李傕は門に反関を設けさせ、校尉に守らせ見させた。盛夏炎暑で、よく冷水を得ず、飢え乾き流れ離れた。上は以前に宮人及び侍臣を移し、穀米を自ら従い得ず、門に入り禁防を有し、市から出られず、窮乏し、李傕に就かせ粳(うるち)米五斛、牛骨五具を捜させ、食と為し宮人の左右に賜うと欲した。李傕は米を与えず、牛肉牛骨の給を取り留め、皆、くさり虫がわくに終わり、貪り食えなかった。

   以上のことが『三国志』巻六魏書董卓伝4)ではどうなっているかというと次のようになる。前述の続き。

   諸将は権力を争い、遂に樊稠を殺し、その衆を併せた。郭汜と李傕とは転じて互いに疑い、長安中で戦闘した。李傕は天子を軍営で人質にとり、宮殿城門を焼き、官寺を略奪し、尽く捕獲し輿に乗り御物を服しその家に置いた。李傕は公卿に郭汜に対し和を請うようにさせ、郭汜は皆これを捕らえた。互いに連月、攻撃し、死者は万数になった。

   『後漢書』列伝六十二董卓列伝に比べ記述が簡素だが、ここに沢山の注が付いてくる。
   まず樊稠が殺されたところには『九州春秋』13)が引かれる。但し今まで触れた箇所と被る事柄が多い。

   馬騰、韓遂はこれで敗れ、樊稠は追い(司隸右扶風)陳倉に至った。遂に樊稠に語り言う。
「天地は反復し、未だ知り得ない。本来、争う所の者は私怨ではなく、王家の事のみだ。足下とは州里人であり、今、小さな違いがあると雖も、要は当に大きくは同じであり、互いに善く語ることで別れることを欲する。邂逅は万に一も意の如くにならず、後に再び相見えよう」
   共に騎を退き前に馬を接し、肘を交え加え合い、共に良く久しく語り別れた。李傕の兄の子の李利は樊稠に随行し、李利は還り李傕に韓と樊とが馬を交え語った告げ、通るところを知らず、意は甚だ密かに慈しんだ。李傕はこれを以て樊稠と韓遂が私的に和し異意が有ると疑った。樊稠は兵を引き関を東へ出て、李傕に従い兵を増やすのを探ることを欲した。そのため、樊稠との会議を請い、さらに座する樊稠を殺した。

   郭汜と李傕との戦闘については『典略』14)から次のように引かれる。

   李傕は数々の酒を設け郭汜を請い、あるいは郭汜を留め宿に止めた。郭汜の妻は李傕と郭汜の婢妾が己の愛を奪うのを恐れ、思惑にこれを離間するのがあった。たまたま李傕は食事を送り、妻は乃ち豉(みそ?)を以て薬だとし、郭汜はまさに食べようとし、妻は言う。
「もしある人に故意があるならば、食が外より来るでしょう」
   遂に薬を摘みこれを示し、言う。
「一つの宿には雄は二にはならず、我は固く将軍の信じる李公を疑います」
   他の日に李傕は再び郭汜を請い、大いに迷う。郭汜は李傕がこれを毒薬にしたと疑い、糞汁を絞りこれを飲み乃ち解けた。これに於いて遂に生き仲違いし、兵を治め互いに攻めた。

   次に李傕が天子を人質に取った経緯については『献帝起居注』15)から次のように引かれる。

   昔、郭汜は天子をその営に行幸し迎えようと謀り、夜に李傕に逃げ告げる者が有り、李傕は兄の子の李暹に数千兵を率いらせ宮を囲ませ、車三乗を以て天子を迎えさせた。楊彪は言う。
「古の帝王より人臣の家は在りません。事を挙げ当に天下の心を合わせるのを、諸君がなすのは、宜しくありません」
   李暹は言う。
「将軍の計は定まった」
   これに於いて天子は一乗、貴人の伏氏は一乗、左霊は一乘、その残りは皆歩いて従った。この日、李傕は再び輿に移り乗り北塢へ行幸し、校尉に塢門を監させ、内外を隔絶した。諸侍臣は皆、飢色が有り、当時、暑熱が盛んで、人は寒心を尽くした。皇帝は米五斛、牛骨五具を求めることで左右に賜り、李傕は言う。
「朝餔(夕方)に飯を上げ、何に米を用いるのですか」
   乃ち腐った牛骨を与え、皆、臭い食べられなかった。皇帝は大いに怒り、これを詰責するのを欲した。侍中の楊琦は封事を上げ言う。
「李傕は辺鄙の人であり、夷風で習い、今、又、犯し道理に背き、常に怏怏の色が有ることを自ら知り、車駕が黄白城へ行幸することを助け、その憤りが緩むことを欲しています。臣(わたし)は陛下がこれを忍び、未だその罪を顕わにしないことを願います」
   皇帝はこれを納めた。昔、李傕が黄白城に駐屯したため、謀りこれを徙むのを欲した。李傕は司徒の趙温を己と同じではないとし、乃ち趙温を塢中へ入れた。趙温は李傕が乗輿を移したいと欲すと聞き、李傕へ書で言う。
「公は董公の復讐のために前託し、然るに実際に屠し王城を落とし、大臣を殺戮し、天下は家に見え得ず戸を放ち得ません。今、この隙を争い恨み睨み、千鈞の讐を成すことで、民は塗炭に在り、各々、いささかも生きず、すなわち改め覚らず、遂に禍乱を成します。朝廷はしばしば詔を明らかにせず、和解を命令し欲しますが、詔命は行われず、恩沢は日々、損なわれ、再び黄白城において乗輿を助けるのを欲し、この誠は老夫が解せぬ所です。易において、一過は過になり、再び渉になり、三度去り改め、その頂を滅し、凶となります。早々と共に和解し、兵を引き還り屯し、上は万乗を安んじ、下は生民を全うする如くになく、どうしてとりわけ行幸しないのでしょうか」
   李傕は大いに怒り、人を遣わし趙温を害しようと欲した。その従弟は応じ、趙温の故(もと)の掾であり、これを諫め数日、乃ち止めた。皇帝は趙温と李傕の書を聞き、侍中の常洽に問うて言う。
「李傕は善悪を知らず、趙温の言は大いに適切で、寒心(憂慮)に為り得るのか」
   対して言う。
「李は既にこれを解き応じています」
   皇帝はそこで喜んだ。

   郭汜が公卿を捕らえた経緯については『華嶠漢書』16)から次のように引かれる。

   郭汜は公卿と饗し、議で李傕を攻めるのを欲した。楊彪は言う。
「群臣は共に戦い、一人は天子を脅し、一人は公卿を質にとり、これは行うべきでしょうか」
   郭汜は怒り、これを切ろうと欲し、中郎将の楊密及び左右は多く諫め、郭汜は乃ち帰り行った。

   互いに連月、攻撃する所については『献帝起居注』17)から次のように引かれる。ちょうど『後漢書』列伝六十二董卓列伝の皇甫酈について書かれたところがより詳しくなっている。

   李傕の性格は鬼怪左道の術を喜び、常に道人及び神を下す歌謳し鼓を打つ女巫、祠祭六丁、符劾厭勝の具があり、何しない所が無かった。また朝廷省の門外において、董卓のために神坐を作り、数々の牛羊を以てこれを祭り、止まり、省閤を過ぎ起居を問い、入見を求めた。李傕は三刀を帯び、再び、鞭と一刃とを併せ持ち手で与えた。侍中、侍郎は李傕に見え仗を帯び、皆恐れ、また剣を帯び刀を持ち、先ず帝の在る側へ入った。李傕は帝に対し、ある人は言う。
「明陛下」
   ある人は言う。
「明帝」
   帝のために郭汜の無状を説き、帝はまたその意に随しこれに応え応じた。李傕は喜び、出て言う。
「明陛下は真の賢聖主です」
   意は遂に自ら信じ、自ら良く天子の歓心を得ると言った。しかし、なお近臣に剣を帯び帝の近辺に在るよう命令するのを欲せず、人に言う。
「この曹の子はまさに我を図ろうと欲しているのか   皆、刀を持っている」
   侍中の李禎は、李傕の州里で、元より李傕と通じており、李傕に語る。
「刀を持つ者のため、軍中ではできずだけでなく、これは国家の故事です」
   李傕の意は乃ち解けた。天子は謁者の僕射の皇甫酈の涼州旧姓で専対の才があるとし、李傕と郭汜が和すよう令を残した。皇甫酈は先ず郭汜を詣で、郭汜は詔命を受けた。李傕を詣で、李傕は肯かず、言う。
「我は呂布の(討った)功があり、輔政は四年に渡り、三輔は清静になったのは、天下の知るところだ。郭多は馬と虜を盗むのみで、何を敢えて乃ち吾等と行うと欲するのか。君は涼州人のため、吾の方略と士衆を観て、郭多に務めないと足るか。郭多はまた公卿を質にとり脅し、この如くの所為で、君がかりそめにも郭多に利するのを欲するとすれば、李傕に肝があると自らこれを知るだろう」
   皇甫酈は応えて言う。
「昔、有窮后の羿はをその善射に恃み、患難を思わず、そのため斃死に至りました。董公の強さに近付き、明将軍の目は見るところであり、内に王公を以て内主と為し、外に董旻、董承、董璜を以て鯁毒と為し、呂布は恩を受けたが反しこれを図り、しばらくの間、頭を竿の端に懸け、ここに勇が有るが謀がありません。今、将軍の身は上将となり、鉞仗節を握り、子孫は権を握り、宗族は寵愛を受け、国家は爵を好み皆、これに依りました。今、郭多は公卿を脅し質に取り、将軍は至尊(皇帝)を脅かし、誰が軽重をなしますか。張濟と郭多、楊定に謀が有り、また冠帯に付される所でありました。楊奉は白波帥であり、なお将軍の行為は是でないと知り、将軍と雖もこれを慈しみ、なお尽力に肯きません」
   李傕は皇甫酈の言を受け入れず、これを叱り出させた。皇甫酈は出て、省門を詣で、李傕が詔より肯かなかず、語を辞し従わなかったことを告げた。侍中の胡邈は李傕により行幸される所で、伝詔者を呼びその辞を飾らせた。また皇甫酈に言う。
「李将軍は卿を軽んじておらず、また皇甫公を太尉にしたのは、李将軍の力です」
   皇甫酈は答えて言う。
「胡敬才、卿は国家のかつて伯になり、輔弼の臣であって、語言(ことば)がこの如くであり、どうして行うことができるでしょうか」
   胡邈は言う。
「卿が李将軍の意を失うのを思えば、憚って改められません。我と卿は何に仕えるのでしょうか」
   皇甫酈は言う。
「我は代々、恩を受け、身も又常に幃幄(とばり、軍中)に在り、君は臣の死を辱め、当に国家に座し、李傕に殺される所であり、則ち天命でしょう」
   天子は皇甫酈が答えた鋭い語を聞き、李傕がこれを聞くのを恐れ、すなわち敕を皇甫酈に遣わした。皇甫酈は見計らい営門へ出て、李傕は虎賁の王昌がこれを呼ばせた。王昌は皇甫酈の忠直を知り令を放ち去り、還って李傕に答え、これに言及するが及ばなかった。天子は左中郎将の李固に節を持たせ李傕を大司馬にさせ、三公の右に在位させた。李傕は自らを以て鬼神の力を得たとし、乃ち諸巫を厚く賜った。

   続いて『三国志』巻六魏書董卓伝4)を追っていくと次のようになる。

   李傕の将の楊奉と李傕の軍吏の宋果等は李傕を殺そうと謀り、事は漏れ、遂に将兵は李傕に叛した。李傕の衆は叛し、次第に衰弱した。張濟は陝よりこれを和解し、天子はかえって出で得て、(司隸京兆尹)新豐と(司隸京兆尹)霸陵の間に至った。郭汜は再び天子を脅し(司隸右扶風)郿に遷都することを欲した。天子は楊奉の営に奔り、楊奉は郭汜を撃ちこれを破った。郭汜は南山に走り、楊奉及び将軍の董承は天子を(司隸河南尹)洛陽に還らせた。李傕と郭汜は悔い天子に遣わし、再び和を相い与し、天子を弘農の曹陽に追及した。楊奉は急ぎ河東の故(もと)の白波帥の韓暹、胡才、李樂等を招き合わさり、李傕、郭汜は大いに戦った。楊奉の兵は敗れ、李傕等は兵を恣にし公卿百官を殺し、宮人をかすめ取り弘農に入った。天子は陝に走り、北へ渡河し、輜重を失い、歩行し、ただ皇后貴人が従い、(司隸河東郡)大陽に至り、人家の屋中に止まった。楊奉、韓暹等は遂に天子によって安邑を都し、牛車に御乗した。太尉の楊彪、太僕の韓融の近臣従者は十人余りだ。韓融を征東、胡才を征西、李樂を征北将軍にし、並んで楊奉、董承と与し政を持った。韓融に弘農へ至らせ、李傕、郭汜等と連和させ、かすみ取る所の宮人公卿百官、及び乗輿車馬数乗を還らせた。この時に蝗蟲が起こり、一年間日照り穀物が無く、官に従い棗菜を食した。諸将はよく互いに率いることができず、上下は乱れ、糧食は尽きた。

   同じくこの注を追っていく。まず天子が新豐と霸陵の間に至ったことについては次のように『献帝起居注』18)が引かれる。同じ箇所が『後漢書』列伝六十二董卓列伝の注にも引かれる。

   昔、天子は出て、宣平門に到り、橋を渡るべきであり、郭汜の兵数百人は橋を遮り言う。
「これは天子でしょうか、そうではないのでしょうか」
   車は進め得なかった。李傕の兵の数百人は皆、大戟を持ち乗輿の車前にあり、侍中の劉艾は大きく呼んで言う。
「これは天子だ」
   侍中の楊琦に車帷を高く挙げさせた。帝は諸兵に言う。
「汝は退き、何を敢えて至尊に迫り近付こうとするのか」
   郭汜等の兵はそこで退いた。既に橋を渡り、士衆は皆、万歳を称した。

   李傕等は兵を恣にし公卿百官を殺した箇所の注19)は次のようになる。

   『献帝紀』に言う。
   当時、尚書令の士孫瑞は乱兵の害する所となった。

   『三輔決録注』に言う。
   士孫瑞は君榮と字し、扶風人で、世に学門となった。士孫瑞は若くして家業を伝え、博達で通じない所が無く、仕え次第に位を顕かにした。董卓が既に誅され、大司農に遷り、国三老に為った。三公が欠ける毎に、士孫瑞は常に選中に在った。太尉の周忠、皇甫嵩、司徒の淳于嘉、趙温、司空の楊彪、張喜等は公に為り、皆拝するのを辞し士孫瑞に譲った。

   天子が大陽に至った所に注があり、『献帝紀』が引かれ、内容は次の『後漢紀』巻二十八孝献皇帝紀20)とほぼ同じとなる。

   この時、虎賁羽林行者は百人に見たず、李傕等は営を巡り喚き、吏士は色を失い、各々分散する意が有った。李樂は懼れ車駕御船に砥柱を過ぎさせ、孟津を出させるよう欲した。詔に言う。
「千金の子は、堂に着かず座した。孔子は馮河(徒渡)の危を慎み、どうして安居の道を言う所でしょうか」
   太尉の楊彪は言う。
「臣(わたし)は弘農人であり、これより東に三十六灘が有り、万乗が登るべき所ではありません」
   宗正の劉艾は言う。
「臣は前に陝令に為り、その険しさを知ります。旧故に河師が有り、やはり傾危が有り、いわんや今、師はありません。太尉はこれを考える所でしょう」
   董承等は宜と思い、劉太陽に李樂に夜渡り船を備え、火を挙げ応じさせるよう命じた。

   「蝗蟲が起こり」のところで注が入り下記の『魏書』21)が引かれる。ここは『後漢書』列伝六十二董卓列伝の注にも引かれる。

   乗輿は当時、棘(いばら)の籬(生け垣)の中に居て、門戸が閉じず、天下と群臣とが会い、兵士は籬に伏し観に上がり、互いに鎮圧で割いた。諸将は或る者は婢に省問を詣でさせ、或る者は酒を天子に送り、侍中は通じず、やかましく叫び罵った。

   以上の『三国志』巻六魏書董卓伝が『後漢書』列伝六十二董卓列伝4)ではどうかというと、次のようになる。

   張濟は陝より来て二人を和解させ、しばしば帝を遷し弘農へ行幸させようと謀った。帝も同じく旧京を思い、使者を遣わし李傕に強く請うことで東へ帰るのを求め、十に反したがかえって許した。車駕は即日に進み行った。李傕は出て曹陽に屯した。張濟を驃騎將軍にし、再び還り陝に屯した。郭汜を車騎将軍に遷し、楊定を後将軍にし、楊奉を興義将軍にした。その上、故(もと)の牛輔の部曲の董承を安集将軍になった。郭汜等は並んで乗輿を侍り送った。郭汜は遂にふたたび帝を脅し郿に行幸させることを欲し、楊定、楊奉、董承は聞き入れなかった。郭汜は変生を恐れたので、かえって軍を棄て還って李傕に就いた。車駕は進み華陰に至った。そこで寧輯将軍の段煨は服御(天子の車馬衣服)及び公卿以下資儲(蓄え)を備え、帝にその営への行幸を乞うた。以前、楊定と段煨とに隙があり、とうとう段煨が反を欲していると偽り、そうしてその営を攻め、十日余りで下せなかった。段煨はやはり御膳を奉給し、百官に授け助け、二意(二心)無く終えた。
   李傕、郭汜は既に天子を東へ行かせたのを悔い、そこで来て段煨を救い、そのことで帝を脅かし西へ行かせることを欲し、楊定は郭汜により遮られることとなり、荊州は亡命した。張濟と楊奉、董承とは相い平らかにせず、かえって李傕、郭汜に反し併せ、共に乗輿を追い、弘農の東の澗で大いに戦った。董承、楊奉の軍は敗れ、百官士卒の死者はしばしば勝ることができず、皆その婦女、輜重、御物、符策、典籍を棄て、略し遺す所が無かった。射聲校尉の沮雋は傷を被り馬から墜ちた。李傕は左右に言う。
「やはり活き得ないのではないか」
   沮雋はこれを罵って言う。
「汝等が凶逆で、天子に差し迫り、乱臣賊子に、未だ汝のような者は居ない」
   李傕はこれを殺させた。天子は遂に曹陽で露次(野宿)した。董承、楊奉はかえって李傕等と連和すると欺き、密かに間使に河東へ至らせ、故(もと)の白波帥李樂、韓暹、胡才及び南匈奴右賢王の去卑、並びにその衆数千騎を率い来て、董承、楊奉と共に李傕等を撃ち、これを大破し、首数千級を斬り、乗輿はそこで進み得た。董承、李樂は衛左右を擁し、胡才、楊奉、韓暹、去卑を後の距(けづめ)とした。李傕等は再び来て戦い、楊奉等は大敗し、死者は東澗で甚大だった。自ら東澗の兵は四十里中で相い連なり綴り、その時に陝に至り得て、そこで営を結び自ら守った。当時この余りを残破し、虎賁羽林は百人にも満たさず、皆離心があった。董承、楊奉等は夜、そこで密かに河を過ぎることを議し、李樂を先ず渡らせ舟舡を備えさせ、火を挙げ応と為した。帝は歩き営を出て、河に臨み渡るのを臨み、岸の高さは十丈余りで、そこで絹の縋(なわ)で下りた。残りの人はあるいは岸側へ這い、あるいは上より自らを投げ、死亡傷残(傷つく)し、再び相い知れなかった。争い赴いた舡者は、禁制できず、董承は戈でこれを撃披し、舟中者に手の指を断ち掬い得た。同じく皇后、宋貴人、楊彪、董承及び后の父の執金吾の伏完等数十人だけは渡らせた。その宮女は皆李傕の兵の掠奪する所と為り、凍り溺れる死者は甚だ集まった。既に大陽に到り、人家に止まり、然る後に李樂の営に行幸した。百官は飢餓し、河内太守の張楊は数千人に米を背負わせ食を送らせた。帝はそこで牛車を御し、それにより安邑を都した。河東太守の王邑は綿帛を奉献し、公卿以下に修め尽くした。封邑し列侯と為し、胡才を征東将軍に拝し、張楊を安國将軍と為し、皆、節を仮し、府を開いた。その塁壁は群立し、争い求め職を拝し、印を刻み与えず、そこで錐でこれを描くに至った。或る人は酒肉をもたらし天子に就き宴飲した。その上で太僕の韓融を弘農に至らせ李傕、郭汜等と連和させた。李傕はかえって公卿百官を放ち遣わせ、宮人婦女、及び乗輿を器服を頗る帰らせた。

   車駕が進み華陰に至った箇所に注があり、次のように『帝王紀』22)の文が引かれる。

   帝は尚書郎の郭溥を通じ郭汜を諭し、郭汜は部に屯して定めず、須くこれを留めるのを乞うた。郭溥は郭汜を罵ることで言う。
「卿は真庸人の賤の夫であり、国のために将に上がり、今、天子の命が有り、どうして須くこれを留めないのでしょうか。吾は行く所で卿に見えるのを忍ばず、卿の悪を明らかにすることで、先ず吾を殺すと言います」
   郭汜は郭溥の言を切り得て、かえって諭しが少ないと推し量った

   楊定と段煨とに隙が有った箇所に注があり、次の『後漢紀』巻二十八孝献皇帝紀23)からの文に含まれる所が引かれる。

   (興平二年冬十月)壬寅(五日)、(司隸弘農郡)華陰へ行幸した。寧輯将軍の段猥は服御及び公卿已下の資儲(蓄え)を備え、其の営への上幸を欲した。段猥と楊定とに隙があり、乗輿を迎え、敢えて下馬せず、馬上で揖(お辞儀)した。侍中の种輯は元より楊定と与し親しく、かえって反したいと段煨に言った。上は言う。
「段煨の属は来て迎え、どうして反すると言うのか」
   対して言う。
「迎えるが境界へ至らず、拝するが下馬せず、その色が変わり、必ず異心があるでしょう」
   これにおいて太尉の楊彪、司徒の趙温、侍中の劉艾、尚書の梁紹等は言う。
「段煨は反せず、臣等は敢えて死により保ち、車駕は其の営に行幸すべきです」
   董承、楊定は言う。
「郭汜が来て段煨の営に在ります」
   詔に言う。
「何で知ったのか」
   文禎、左靈は言う。
「弘農の督郵がこれを知りました」
   督郵を脅すことで言う。
「今、郭汜は七百騎を率い、段煨の営に来て入りました」
   天子はこれを信じ、遂に道南において路次(野宿)した。

   董承、楊奉の軍が敗れた件に注があり、次のように『献帝伝』24)が引かれる。

   婦女衣被をかすめ取り、徐に巡り時為らず解き、即ちこれを斬り刺した。美髪のある者を断ち取った。凍死及び嬰児は流れに随って浮き川を塞いだ。

   河内太守の張楊に注が付き『三国志』巻八魏書張楊伝から字と本貫地が引かれている。

<2012年5月13日追記>
   <<「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)にある『三国志』巻十四魏書董昭伝26)の続きが次のように河内太守の頃の張楊と絡めて書かれてある。張邈と袁紹については<<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)
を参照のこと。

   董昭(字公仁)の弟の董訪は、張邈(字孟卓)の軍中に在った。張邈と袁紹に隙が有り、袁紹は誹りを受け将に董昭に罪を致そうとした。董昭は漢の献帝を詣でるのを欲し、河内に至り、張楊の留める所と為った。張楊が印綬を上げ還すことにより、(董訪は)騎都尉を拝した。
<追記終了>

   それとは別に『三国志』巻八魏書張楊伝25)にはこの頃に至るまでの記載があり、ちょうど<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)の同伝の記載の続きになる。

   天子は(司隸)河東に行き在り、張楊は兵を率い(司隸河東郡)安邑へ至り、安國将軍を拝し、晉陽侯に封じられた。張楊は天子を迎え洛に還るのを欲し、諸将は聞き入れなかった。張楊は(司隸河内郡)野王へ還った。

   董承、楊奉の軍が敗れた件に注があり、次のように『献帝伝』24)が引かれる。

   婦女衣被をかすめ取り、徐に巡り時為らず解き、即ちこれを斬り刺した。美髪のある者を断ち取った。凍死及び嬰児は流れに随って浮き川を塞いだ。

   こうして皇帝は長安を脱し東へ向かったがその東ではどういう状況にあるかは次回以降となる。




1)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

(初平四年)十二月辛丑、地震。
司空趙温免、乙巳、衛尉張喜為司空。〔一〕
是歳、琅邪王容薨。
興平元年春正月辛酉、大赦天下、改元興平。甲子、帝加元服。二月壬午、追尊謚皇妣王氏為靈懷皇后、甲申、改葬于文昭陵。丁亥、帝耕于藉田。
三月、韓遂・馬騰與郭汜・樊稠戰於長平觀、遂・騰敗績、左中郎將劉範・前益州刺史种劭戰歿。
夏六月丙子、分涼州河西四郡為廱州。
丁丑、地震;戊寅、又震。乙巳晦、日有食之、帝避正殿、寢兵、不聽事五日。大蝗。
秋七月壬子、太尉朱雋免。戊午、太常楊彪為太尉、録尚書事。
三輔大旱、自四月至于是月。帝避正殿請雨、遣使者洗囚徒、原輕繋。是時穀一斛五十萬、豆麥一斛二十萬、人相食啖、白骨委積。帝使侍御史侯汶出太倉米豆、為飢人作縻粥、經日而死者無降。帝疑賦卹有虚、乃親於御坐前量試作糜、乃知非實、使侍中劉艾出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝、奏收侯汶考實。詔曰:「未忍致汶于理、可杖五十。」自是之後、多得全濟。
八月、馮翊羌叛、寇屬縣、郭汜・樊稠撃破之。
九月、桑復生椹、人得以食。
司徒淳于嘉罷。
冬十月、長安市門自壞。
以衛尉趙温為司徒、録尚書事。
十二月、分安定・扶風為新平郡。
是歳、楊州刺史劉繇與袁術將孫策戰于曲阿、繇軍敗績、孫策遂據江東。太傅馬日磾薨于壽春。
二年春正月癸丑、大赦天下。
二月乙亥、李傕殺樊稠而與郭汜相攻。三月丙寅、李傕脅帝幸其營、焚宮室。
夏四月甲午、立貴人伏氏為皇后。
丁酉、郭汜攻李傕、矢及御前。是日、李傕移帝幸北塢。
大旱。
五月壬午、李傕自為大司馬。六月庚午、張濟自陝來和傕・汜。
秋七月甲子、車駕東歸。郭汜自為車騎將軍、楊定為後將軍、楊奉為興義將軍、董承為安集將軍、並侍送乘輿。張濟為票騎將軍、還屯陝。八月甲辰、幸新豐。冬十月戊戌、郭汜使其將伍習夜燒所幸學舍、逼脅乘輿。楊定・楊奉與郭汜戰、破之。壬寅、幸華陰、露次道南。是夜、有赤氣貫紫宮。張濟復反、與李傕・郭汜合。十一月庚午、李傕・郭汜等追乘輿、戰於東澗、王師敗績、殺光祿勳鄧泉・衛尉士孫瑞・廷尉宣播・大長秋苗祀・歩兵校尉魏桀・侍中朱展・射聲校尉沮雋。壬申、幸曹陽、露次田中。楊奉・董承引白波帥胡才・李樂・韓暹及匈奴左賢王去卑、率師奉迎、與李傕等戰、破之。十二月庚辰、車駕乃進。李傕等復來追戰、王師大敗、殺略宮人、少府田芬・大司農張義等皆戰歿。進幸陝、夜度河。乙亥、幸安邑。

2)   『三国志』巻六魏書董卓伝より。本文のネタバレあり。

(初平三年)是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。以遂為鎮西將軍、遣還涼州、騰征西將軍、屯郿。侍中馬宇與諫議大夫种邵・左中郎將劉範等謀、欲使騰襲長安、己為内應、以誅傕等。騰引兵至長平觀、宇等謀泄、出奔槐里。稠撃騰、騰敗走、還涼州;又攻槐里、宇等皆死。時三輔民尚數十萬戸、傕等放兵劫略、攻剽城邑、人民飢困、二年閒相啖食略盡。
諸將爭權、遂殺稠、并其衆。汜與傕轉相疑、戰鬥長安中。傕質天子於營、燒宮殿城門、略官寺、盡收乘輿服御物置其家。傕使公卿詣汜請和、汜皆執之。相攻撃連月、死者萬數。
傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕、事泄、遂將兵叛傕。傕衆叛、稍衰弱。張濟自陝和解之、天子乃得出、至新豐・霸陵閒。郭汜復欲脅天子還都郿。天子奔奉營、奉撃汜破之。汜走南山、奉及將軍董承以天子還洛陽。傕・汜悔遣天子、復相與和、追及天子於弘農之曹陽。奉急招河東故白波帥韓暹・胡才・李樂等合、與傕・汜大戰。奉兵敗、傕等縱兵殺公卿百官、略宮人入弘農。天子走陝、北渡河、失輜重、歩行、唯皇后貴人從、至大陽、止人家屋中。奉・暹等遂以天子都安邑、御乘牛車。太尉楊彪・太僕韓融近臣從者十餘人。以暹為征東・才為征西・樂征北將軍、並與奉・承持政。遣融至弘農、與傕・汜等連和、還所略宮人公卿百官、及乘輿車馬數乘。是時蝗蟲起、歳旱無穀、從官食棗菜。諸將不能相率、上下亂、糧食盡。奉・暹・承乃以天子還洛陽。出箕關、下軹道、張楊以食迎道路、拜大司馬。語在楊傳。天子入洛陽、宮室燒盡、街陌荒蕪、百官披荊棘、依丘牆閒。州郡各擁兵自衛、莫有至者。飢窮稍甚、尚書郎以下、自出樵采、或飢死牆壁閒。
傕將楊奉與傕軍吏宋果等謀殺傕、事泄、遂將兵叛傕。傕衆叛、稍衰弱。張濟自陝和解之、天子乃得出、至新豐・霸陵閒。郭汜復欲脅天子還都郿。天子奔奉營、奉撃汜破之。汜走南山、奉及將軍董承以天子還洛陽。傕・汜悔遣天子、復相與和、追及天子於弘農之曹陽。奉急招河東故白波帥韓暹・胡才・李樂等合、與傕・汜大戰。奉兵敗、傕等縱兵殺公卿百官、略宮人入弘農。天子走陝、北渡河、失輜重、歩行、唯皇后貴人從、至大陽、止人家屋中。奉・暹等遂以天子都安邑、御乘牛車。太尉楊彪・太僕韓融近臣從者十餘人。以暹為征東・才為征西・樂征北將軍、並與奉・承持政。遣融至弘農、與傕・汜等連和、還所略宮人公卿百官、及乘輿車馬數乘。是時蝗蟲起、歳旱無穀、從官食棗菜。諸將不能相率、上下亂、糧食盡。

3)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『献帝紀』より。

是時新遷都、宮人多亡衣服、帝欲發御府繒以與之、李傕弗欲、曰:「宮中有衣、胡為復作邪?」詔賣廄馬百餘匹、御府大司農出雜繒二萬匹、與所賣廄馬直、賜公卿以下及貧民不能自存者。李傕曰「我邸閣儲偫少」、乃悉載置其營。賈詡曰「此上意、不可拒」、傕不從之。

4)   『後漢書』伝六十二董卓列伝より。本文のネタバレあり。

初、卓之入關、要韓遂・馬騰共謀山東。遂・騰見天下方亂、亦欲倚卓起兵。興平元年、馬騰從隴右來朝、進屯霸橋。時騰私有求於傕、不獲而怒、遂與侍中馬宇・右中郎將劉範・前涼州刺史种劭・中郎將杜稟合兵攻傕、連日不決。韓遂聞之、乃率衆來欲和騰・傕、既而復與騰合。傕使兄子利共郭汜・樊稠與騰等戰於長平觀下。遂・騰敗、斬首萬餘級、种劭・劉範等皆死。遂・騰走還涼州、稠等又追之。韓遂使人語稠曰:「天下反覆未可知、相與州里、今雖小違、要當大同、欲共一言。」乃駢馬交臂相加、笑語良久。軍還、利告傕曰:「樊・韓駢馬笑語、不知其辭、而意愛甚密。」於是傕・稠始相猜疑。猶加稠及郭汜開府、與三公合為六府、皆參選舉。
時長安中盜賊不禁、白日虜掠、傕・汜・稠乃參分城内、各備其界、猶不能制、而其子弟縱橫、侵暴百姓。是時穀一斛五十萬、豆麥二十萬、人相食啖、白骨委樍、臭穢滿路。帝使侍御史侯汶出太倉米豆為飢人作糜、經日而死者無降。帝疑賦卹有虚、乃親於御前自加臨檢。既知不實、使侍中劉艾出讓有司。於是尚書令以下皆詣省閣謝、奏收侯汶考實。詔曰:「未忍致汶于理、可杖五十。」自是後多得全濟。
明年春、傕因會刺殺樊稠於坐、由是諸將各相疑異、傕・汜遂復理兵相攻。安西將軍楊定者、故卓部曲將也。懼傕忍害、乃與汜合謀迎天子幸其營。傕知其計、即使兄子暹將數千人圍宮。以車三乘迎天子・皇后。太尉楊彪謂暹曰:「古今帝王、無在人臣家者。諸君舉事、當上順天心、柰何如是!」暹曰:「將軍計決矣。」帝於是遂幸傕營、彪等皆徒從。亂兵入殿、掠宮人什物、傕又徙御府金帛乘輿器服、而放火燒宮殿官府居人悉盡。帝使楊彪與司空張喜等十餘人和傕・汜、汜不從、遂質留公卿。彪謂汜曰:「將軍達人閒事、柰何君臣分爭、一人劫天子、一人質公卿、此可行邪?」汜怒、欲手刃彪。彪曰:「卿尚不奉國家、吾豈求生邪!」左右多諫、汜乃止。遂引兵攻傕、矢及帝前、又貫傕耳。傕將楊奉本白波賊帥、乃將兵救傕、於是汜衆乃退。
是日、傕復移帝幸其北塢、唯皇后・宋貴人俱。傕使校尉監門、隔絕内外。尋復欲徙帝於池陽黃白城、君臣惶懼。司徒趙温深解譬之、乃止。詔遣謁者僕射皇甫酈和傕・汜。酈先譬汜、汜即從命。又詣傕、傕不聽。曰:「郭多、盜馬虜耳、何敢欲與我同邪!必誅之。君觀我方略士衆、足辦郭多不?多又劫質公卿。所為如是、而君苟欲左右之邪!」汜一名多。酈曰:「今汜質公卿、而將軍脅主、誰輕重乎?」傕怒、呵遣酈、因令虎賁王昌追殺之。昌偽不及、酈得以免。傕乃自為大司馬。與郭汜相攻連月、死者以萬數。
張濟自陝來和解二人、仍欲遷帝權幸弘農。帝亦思舊京、因遣使敦請傕求東歸、十反乃許。車駕即日發邁。李傕出屯曹陽。以張濟為驃騎將軍、復還屯陝。遷郭汜車騎將軍、楊定後將軍、楊奉興義將軍。又以故牛輔部曲董承為安集將軍。汜等並侍送乘輿。汜遂復欲脅帝幸郿、定・奉・承不聽。汜恐變生、乃棄軍還就李傕。車駕進至華陰。寧輯將軍段煨乃具服御及公卿以下資儲、請帝幸其營。初、楊定與煨有隙、遂誣煨欲反、乃攻其營、十餘日不下。而煨猶奉給御膳、稟贍百官、終無二意。
李傕・郭汜既悔令天子東、乃來救段煨、因欲劫帝而西、楊定為汜所遮、亡奔荊州。而張濟與楊奉・董承不相平、乃反合傕・汜、共追乘輿、大戰於弘農東澗。承・奉軍敗、百官士卒死者不可勝數、皆棄其婦女輜重、御物符策典籍、略無所遺。射聲校尉沮雋被創墜馬。李傕謂左右曰:「尚可活不?」雋罵之曰:「汝等凶逆、逼迫天子、亂臣賊子、未有如汝者!」傕使殺之。天子遂露次曹陽。承・奉乃譎傕等與連和、而密遣閒使至河東、招故白波帥李樂・韓暹・胡才及南匈奴右賢王去卑、並率其衆數千騎來、與承・奉共撃傕等、大破之、斬首數千級、乘輿乃得進。董承・李樂擁衛左右、胡才・楊奉・韓暹・去卑為後距。傕等復來戰、奉等大敗、死者甚於東澗。自東澗兵相連綴四十里中、方得至陝、乃結營自守。時殘破之餘、虎賁羽林不滿百人、皆有離心。承・奉等夜乃潛議過河、使李樂先度具舟舡、舉火為應。帝歩出營、臨河欲濟、岸高十餘丈、乃以絹縋而下。餘人或匍匐岸側、或從上自投、死亡傷殘、不復相知。爭赴舡者、不可禁制、董承以戈撃披之、斷手指於舟中者可掬。同濟唯皇后・宋貴人・楊彪・董承及后父執金吾伏完等數十人。其宮女皆為傕兵所掠奪、凍溺死者甚衆。既到大陽、止於人家、然後幸李樂營。百官飢餓、河内太守張楊使數千人負米貢餉。帝乃御牛車、因都安邑。河東太守王邑奉獻綿帛、悉賦公卿以下。封邑為列侯、拜胡才征東將軍、張楊為安國將軍、皆假節・開府。其壘壁群豎、競求拜職、刻印不給、至乃以錐畫之。或齎酒肉就天子燕飲。又遣太僕韓融至弘農、與傕・汜等連和。傕乃放遣公卿百官、頗歸宮人婦女、及乘輿器服。

5)   『後漢書』伝六十二董卓列伝注引『献帝紀』より。

稟與賈詡有隙、脅扶風吏人為騰守槐里、欲共攻傕。傕令樊稠及兄子利數萬人攻圍槐里、夜梯城、城陷、斬稟梟首。

6)   『後漢書』伝六十二董卓列伝注引『献帝起居注』より。

傕等各欲用其所舉、若壹違之、便忿憤恚怒。主者患之、乃以次第用其所舉、先從傕起、汜次之、稠次之。三公所舉、終不見用。

7)   『後漢紀』孝献皇帝紀巻二十七より。本文のネタバレあり。

是時李傕等專亂、馬騰等私求不獲、騰怒、以益州牧劉焉宗室大臣、遣使招引、欲共誅傕等。焉遣子範將兵就騰。岐州刺史种邵、太常种拂之子。拂為傕所害、中郎將杜廩與賈詡有隙、並與騰合、報其讎隙。於是傕・騰攜貳、上遣使者和之、不從。〔韓〕(稟)遂率衆來、欲和傕・騰、既而復與騰合。
任申、騰・遂勒兵屯平樂觀、將圖長安。傕使樊稠・郭汜及兄子李利撃騰・遂、破之、邵・範等皆死。遂西走、稠追之、遂謂稠曰:「天地反覆未可知。本所爭者非私怨、王家事耳。與足下州里〔人〕、雖小有違、要當大同、欲相與善語、而不意後不可復。」乃交馬共語、良久別去。

8)   『後漢書』伝六十二董卓列伝注引『献帝紀』より。

傕見稠果勇而得衆心、疾害之、醉酒、潛使外生騎都尉胡封於坐中拉殺稠。

9)   『後漢書』伝六十二董卓列伝注引『献帝紀』より。

汜與傕將張苞・張龍謀誅傕、汜將兵夜攻傕門。候開門内汜兵、苞等燒屋、火不然。汜兵弓弩並發、矢及天子樓帷簾中。

10)   『後漢書』列伝六十一朱儁伝より。

初平四年、代周忠為太尉、録尚書事。明年秋、以日食免、復行驃騎將軍事、持節鎮關東。未發、會李傕殺樊稠、而郭汜又自疑、與傕相攻、長安中亂、故儁止不出、留拜大司農。獻帝詔儁與太尉楊彪等十餘人譬郭汜、令與李傕和。汜不肯、遂留質儁等。儁素剛、即日發病卒。
子皓、亦有才行、官至豫章太守。

11)   『後漢紀』孝獻皇帝紀巻二十八より。

(興平二年)夏四月、郭汜饗公卿、議攻李傕。楊彪曰:「群臣共鬥、一人劫天子、一人質公卿、此可行乎!」汜怒、欲刃之。中郎〔將〕楊密説汜、乃止。朱雋素剛直、遂發病死。

12)   『後漢書』伝六十二董卓列伝注引『献帝紀』より。

傕令門設反關、校尉守察。盛夏炎暑、不能得冷水、飢渇流離。上以前移宮人及侍臣、不得以穀米自隨、入門有禁防、不得出市、困乏、使就傕索粳米五斛、牛骨五具、欲為食賜宮人左右。傕不與米、取久牛肉牛骨給、皆已臭蟲、不可啖食。

13)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『九州春秋』より。

馬騰・韓遂之敗、樊稠追至陳倉。遂語稠曰:「天地反覆、未可知也。本所爭者非私怨、王家事耳。與足下州里人、今雖小違、要當大同、欲相與善語以別。邂逅萬一不如意、後可復相見乎!」倶卻騎前接馬、交臂相加、共語良久而別。傕兄子利隨稠、利還告傕、韓・樊交馬語、不知所道、意愛甚密。傕以是疑稠與韓遂私和而有異意。稠欲將兵東出關、從傕索益兵。因請稠會議、便於坐殺稠。

14)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『典略』より。

朱然字義封、治姊子也、本姓施氏。初治未有子、然年十三、乃啓策乞以為嗣。策命丹楊郡以羊酒召然、然到呉、策優以禮賀。

15)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『献帝起居注』より。

初、汜謀迎天子幸其營、夜有亡告傕者、傕使兄子暹將數千兵圍宮、以車三乘迎天子。楊彪曰:「自古帝王無在人臣家者。舉事當合天下心、諸君作此、非是也。」暹曰:「將軍計定矣。」於是天子一乘、貴人伏氏一乘、賈詡・左靈一乘、其餘皆歩從。是日、傕復移乘輿幸北塢、使校尉監塢門、内外隔絶。諸侍臣皆有飢色、時盛暑熱、人盡寒心。帝求米五斛・牛骨五具以賜左右、傕曰:「朝餔上飯、何用米為?」乃與腐牛骨、皆臭不可食。帝大怒、欲詰責之。侍中楊琦上封事曰:「傕、邊鄙之人、習于夷風、今又自知所犯悖逆、常有怏怏之色、欲輔車駕幸黄白城以紓其憤。臣願陛下忍之、未可顯其罪也。」帝納之。初、傕屯黄白城、故謀欲徙之。傕以司徒趙温不與己同、乃内温塢中。温聞傕欲移乘輿、與傕書曰:「公前託為董公報讎、然實屠陷王城、殺戮大臣、天下不可家見而戸釋也。今爭睚眥之隙、以成千鈞之讎、民在塗炭、各不聊生、曾不改寤、遂成禍亂。朝廷仍下明詔、欲令和解、詔命不行、恩澤日損、而復欲輔乘輿于黄白城、此誠老夫所不解也。於易、一過為過、再為渉、三而弗改、滅其頂、凶。不如早共和解、引兵還屯、上安萬乘、下全生民、豈不幸甚!」傕大怒、欲遣人害温。其從弟應、温故掾也、諫之數日乃止。帝聞温與傕書、問侍中常洽曰:「傕弗知臧否、温言太切、可為寒心。」對曰:「李應已解之矣。」帝乃悦。

16)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『華嶠漢書』より。

汜饗公卿、議欲攻傕。楊彪曰:「群臣共鬥、一人劫天子、一人質公卿、此可行乎?」汜怒、欲手刃之、中郎將楊密及左右多諫、汜乃歸之。

17)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『献帝起居注』より。

傕性喜鬼怪左道之術、常有道人及女巫歌謳撃鼓下神、祠祭六丁、符劾厭勝之具、無所不為。又於朝廷省門外、為董卓作神坐、數以牛羊祠之、訖、過省閤問起居、求入見。傕帶三刀、手復與鞭合持一刃。侍中・侍郎見傕帶仗、皆惶恐、亦帶劍持刀、先入在帝側。傕對帝、或言「明陛下」、或言「明帝」、為帝説郭汜無状、帝亦隨其意答應之。傕喜、出言「明陛下真賢聖主」、意遂自信、自謂良得天子歡心也。雖然、猶不欲令近臣帶劍在帝邊、謂人言「此曹子將欲圖我邪?而皆持刀也」。侍中李禎、傕州里、素與傕通、語傕「所以持刀者、軍中不可不爾、此國家故事」。傕意乃解。天子以謁者僕射皇甫酈涼州舊姓、有專對之才、遣令和傕・汜。酈先詣汜、汜受詔命。詣傕、傕不肯、曰:「我有〔討〕呂布之功、輔政四年、三輔清靜、天下所知也。郭多、盜馬虜耳、何敢乃欲與吾等邪?必欲誅之。君為涼州人、觀吾方略士眾、足辦多不?多又劫質公卿、所為如是、而君苟欲利郭多、李傕有膽自知之。」酈答曰:「昔有窮后羿恃其善射、不思患難、以至于斃。近董公之強、明將軍目所見、内有王公以為内主、外有董旻・承・璜以為鯁毒、呂布受恩而反圖之、斯須之間、頭縣竿端、此有勇而無謀也。今將軍身為上將、把鉞仗節、子孫握權、宗族荷寵、國家好爵而皆據之。今郭多劫質公卿、將軍脅至尊、誰為輕重邪?張濟與郭多・楊定有謀、又為冠帶所附。楊奉、白波帥耳、猶知將軍所為非是、將軍雖拜寵之、猶不肯盡力也。」傕不納酈言、而呵之令出。酈出、詣省門、白傕不肯從詔、辭語不順。侍中胡邈為傕所幸、呼傳詔者令飾其辭。又謂酈曰:「李將軍於卿不薄、又皇甫公為太尉、李將軍力也。」酈答曰:「胡敬才、卿為國家常伯、輔弼之臣也、語言如此、寧可用邪?」邈曰:「念卿失李將軍意、恐不易耳!我與卿何事者?」酈言:「我累世受恩、身又常在幃幄、君辱臣死、當坐國家、為李傕所殺、則天命也。」天子聞酈答語切、恐傕聞之、便敕遣酈。酈裁出營門、傕遣虎賁王昌呼之。昌知酈忠直、縱令去、還答傕、言追之不及。天子使左中郎將李固持節拜傕為大司馬、在三公之右。傕自以為得鬼神之力、乃厚賜諸巫。

18)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『献帝起居注』より。

初、天子出、到宣平門、當度橋、汜兵數百人遮橋曰:「是天子非?」車不得前。傕兵數百人皆持大戟在乘輿車前、侍中劉艾大呼云:「是天子也!」使侍中楊琦高舉車帷。帝言諸兵:「汝卻、何敢迫近至尊邪!」汜等兵乃卻。既度橋、士衆咸稱萬歳。

19)   『三国志』巻六魏書董卓伝注より。

獻帝紀曰:時尚書令士孫瑞為亂兵所害。三輔決録注曰:瑞字君榮、扶風人、世為學門。瑞少傳家業、博達無所不通、仕歴顯位。卓既誅、遷大司農、為國三老。毎三公缺、瑞常在選中。太尉周忠・皇甫嵩、司徒淳于嘉・趙温、司空楊彪・張喜等為公、皆辭拜讓瑞。天子都許、追論瑞功、封子萌澹津亭侯。萌字文始、亦有才學、與王粲善。臨當就國、粲作詩以贈萌、萌有答、在粲集中。

20)   『後漢紀』巻二十八孝献皇帝紀より。

是時虎賁羽林行者不滿百人、傕等〔繞〕(統)營叫喚、吏士失色、各有分散之意。李樂懼、欲令車駕御船過砥柱、出孟津。詔曰:「千金之子、坐不垂堂。孔子慎馮河之危、豈所謂安居之道乎?」太尉楊彪曰:「臣弘農人也、自此東有三十六灘、非萬乘所〔當〕登也。」宗正劉艾曰:「臣前為陝令、知其險。舊故有河師、猶有傾危、況今無師。太尉所慮是也。」董承等以為宜、令劉太陽使李樂夜渡具船、舉火為應。

21)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『魏書』より。

乘輿時居棘籬中、門戸無關閉、天下與群臣會、兵士伏籬上觀、互相鎮壓以為笑。諸將或遣婢詣省問、或齎酒送天子、侍中不通、喧呼罵詈

22)   『後漢書』列伝六十二董卓列伝注引『帝王紀』より。

帝以尚書郎郭溥喩汜、汜以屯部未定、乞須留之。溥因罵汜曰:『卿真庸人賤夫、為國上將、今天子有命、何須留之?吾不忍見卿所行、請先殺我、以章卿惡。』汜得溥言切、意乃少喩。

23)   『後漢紀』巻二十八孝献皇帝紀より。

寧輯將軍段猥具服御及公卿已下資儲、欲上幸其營。猥與楊定有隙、迎乘輿、不敢下馬、〔揖馬上〕。侍中种輯素與定親、乃言段煨欲反。上曰:「煨屬來迎、何謂反?」對曰:「迎不至界、拜不下馬、其色變也、必有異心。」於是太尉楊彪・司徒趙溫・侍中劉艾・尚書梁紹等曰:「段煨不反、臣等敢以死保、車駕可幸其營。」董承・楊定言曰:「郭汜來在煨營。」詔曰:「何以知?」文禎・左靈曰:「弘農督郵知之。」因脅督郵曰:「今郭汜將七百騎來入煨營。」天子信之、遂路次於道南。

24)   『後漢書』列伝六十二董卓列伝注引『献帝伝』より。

掠婦女衣被、遲違不時解、即斫刺之。有美髮者斷取。凍死及嬰兒隨流而浮者塞水。

25)   『三国志』巻八魏書張楊伝より。

天子之在河東、楊將兵至安邑、拜安國將軍、封晉陽侯。楊欲迎天子還洛、諸將不聽;楊還野王。

26)   『三国志』巻十四魏書董昭伝より。

昭弟訪、在張邈軍中。邈與紹有隙、紹受讒將致罪於昭。昭欲詣漢獻帝、至河内、為張楊所留。因楊上還印綬、拜騎都尉。


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