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遷都(孫氏からみた三国志47)
2008.04.14.
<<相国の董卓と関東諸将(孫氏からみた三国志46)


   <<前回初平元年春正月に関東諸将が義兵を興したことを書いたんだけど、それに対し董卓(字、仲穎)の反応はと言うと。
<4月24日追記>
   まず『後漢書』鄭太伝16)より。

   義兵が起こるにおよび、すなわち董卓は公卿議を集め、大いに兵卒を発し、これを討つとし、群僚は敢えてこの旨に逆らおうとはしなかった。公業(鄭太)はその衆を恐れ大いにますますほしいままになり、凶事が強く制するに難しくなり、独り言う。
「それは政治に徳が在ったとしても、衆が在りません」
   董卓は喜ばず言う。
「卿のその言のごとくだと、兵は無用なのか?」
   公業は恐れ、すなわち偽りの言葉で対して言う。
「無用というわけではなく、山東が大兵を加えるには不足していると思われます。不信がある如くで、明公のために陳のその要を奪いましょう。今、山東は合わせ謀り、州郡は連結し、人の諸々は互いに動き、強く盛り上がらないことはありません。しかるに光武以来、中国は戒めず、百姓はゆったりと安らぎ、戦を忘れ久しく経っています。仲尼に言があり『教えず人は戦う場合はこれを棄てるという』と。その衆、多いといえども、害をなす能力はありません。これが一つ目です。明公は西州から出て、若くして国将になり、軍事に習熟し、しばしば戦場に踏み、名は奮い世に当たり、人は懐き恐れ服しています。これが二つ目です。袁本初の公卿子弟は生きながら京師に拠ります。張孟卓は東平の長者であり、坐して堂を伺いません。孔公緒は清く談じ高く論し、息をかけて枯らし吹いて生かします。並びに軍旅の才は無く、勢いの先の幹はほさきに臨み必ず敵にし、公の仲間ではありません。これが三つ目です。山東の士はもとより精悍に乏しくなっています。未だ孟賁の勇、慶忌の捷、聊城の守、良、平の謀(張良、陳平の謀)はなく、偏師(一部隊)をもって任じ、成功を求めることができます。これが四つ目です。初めにその人が有るため、尊卑の順序はなく、王爵を加えず、もし衆を頼り力をたのめば、まさにおのおの割拠し、成功と失敗を見ることで、心を同じくし肝を共にし、進退を救うことをゆるさないでしょう。これが五つ目です。関西の諸郡はすこぶる兵時を重ね、自ら傾けて以来、数々、羌と戦い、婦女はなお戟を頂き矛を操り、弓を挟み矢を負い、その壮勇の士をくらべることで、まさに妄戦の人となるでしょう。その勝利は必ずでしょう。これが六つ目です。その上、天下の強勇は、百姓に恐れられるところで、并、涼の人に有り、匈奴、屠各、湟中義從、西羌八種に及び、明公はこれを従え、爪牙となすことで、喩えるなら虎と野牛を従えることで犬と羊を赴けるということでしょう。これが七つ目です。また明公の将帥は皆、中表(従兄弟同士の呼び方)や腹心で、行き届き巡り久しく、恩信は著しく手厚く、忠誠は任じることができ、知謀は頼みにすることができます。堅固の衆をもって、解合(ゆるす)の勢に当たり、なお烈風をもってかの枯れ葉を掃くようでしょう。これが八つ目です。それ戦に三亡があり、乱をもって理を攻める者は亡び、邪をもって正を攻める者は亡び、逆をもって順を攻める者は亡びます。今、明公は国を乗じ正を平らげ、宦豎を討ち滅ぼし、忠義はうちかち立ちます。この三徳をもって、かの三亡を持ちこたえ、告げ奉り罪を伐ち、誰が敢えてこれを守るでしょうか。これが九つ目です。東州の鄭玄は古今尽く学び、北海の邴原は清く高く公正で誠意があり、皆、儒生がしたうところであり、群士は典範としています。かの諸将がもしその計画をはかるなら、強弱の違いを知るには充分でしょう。その上、燕、趙、斉、梁は盛り上がらないことはありませんでしたが、秦において滅することで終わりました。呉楚七国は集まらないことはありませんでしたが、滎陽で敗れつきました。いわんや今、徳政は輝かしく、股肱は良しと思い、かれらはその謀を賛成し、何が乱を作り長寇になりましょうか。それはそうなりません。これが十です。もしその並べるところを少しでも採られるのであれば、事も無く兵を徴集することで天下をいましめ、患役の民を互いに集まらせず、徳を棄て衆に頼めば、みずから威重を損なうこととなります」
   すなわち董卓は喜び、公業を将軍とし、諸軍をまとめさせ、関東を討撃させた。ある人は卓に説いて言う。
「鄭公業の知略は人より優れ、結謀し外で略奪し、今、これを士馬として蓄え、その党と就き、ひそかに明公がこれを恐れることとなるでしょう」
   すなわち董卓はその兵を収め帰し、留め議郎にした。
<追記終了>

その次が『後漢書』董卓伝1)

   関東はまさに兵起し、(董卓は)恐れ、

と書かれてあって、この文はさらに続くんだけど、それはすぐ書くと面白みがないので、それがよく書かれている『後漢紀2)から以下に記す(『後漢書』皇后紀3)にも同じ話がある)。

   董卓の使いで郎中令の李儒は王へ毒を進めて言う。
「薬を服せば病悪を避けることが出来ます」
   王は言う。
「我は病んでいない、これは我を殺そうと欲している」
   受けず、これを強いた。これにおいて王と唐姬及び宮人は薬を飲み、王は自ら歌って言う。
「天道は容易で何の苦しみを巡らせ、万乗を棄て、守藩を退けた。逆臣は表れ迫り、命が延びず、逝きまさに汝を捨て幽玄に往く」
   唐姬は舞い始め、歌って言う。
「皇天は崩れ、后土は廃れ、身は帝王になり、命は夭死した。死生は路を違い、この邪に従い、我を悼み一人憂え心中は哀しい」
   よりて泣き下り、座る者は皆悲しんだ。王は唐姬に言う。
「卿(あなた)は故(もと)の王者の妃であり、形勢は吏民の妻に成らなかった。自らを愛し、これに従い卿(あなた)と辞そう」
   ついに薬を飲み死んだ。皇帝はこれを聞き、降りて座り悲しみを尽くした。


   ということで先ほどの『後漢書』董卓伝1)の下りをまとめて書くと、

   関東はまさに兵起し、(董卓は)恐れ、乃ち弘農王を殺し、都を長安に遷すことを欲した。

となる。関東諸将の兵起により、弘農王が再び皇帝に担がれることを恐れたのだろう。この日付は『後漢書』本紀4)の初平元年の項によると、

辛亥(一月十日)、天下に大赦した。
癸酉(二月三日)、董卓は弘農王を殺した。

となっており、一月には「癸酉」という日がなく、参考に『後漢紀』2)を見ると、

春正月辛亥(一月十日)、天下に大赦した。
癸丑(一月十二日)、董卓は弘農王を殺した。

となっており、『後漢紀』の「癸丑(一月十二日)」が正しいのだろう。
   関東兵起に対する董卓の反応に長安遷都を欲することがあるが、それに触れる前に弘農王殺害の影響について。
   『後漢書』臧洪伝5)に見える、臧洪(字、子源)についての記述(『三国志』魏書臧洪伝6)にも同じ記述がある)。

   中平末、(臧洪は)官を棄て家に帰り、(広陵)太守張超が(臧洪を)功曹にするよう請うた。当時、董卓は帝(弘農王のこと)を殺し、社稷を危うくするよう図っていた。
   臧洪は超に言う。
「明府(あなた)は歴代、恩を受け、兄弟は並んで大郡に依拠しています。今、王室はまさに危うく、賊臣が虎視し、この誠の義士は命を致す秋(とき)です。今、郡境は充分、すべて整い、吏人は富み栄え、もし動き、鼓を打てば、二万人を得ることができます。ここに國賊を誅殺し除くことにより、天下のため義を唱えれるのに、不都合がありましょうか」
   張超はその言をもっともだとし、臧洪とともに西の陳留に行き、兄の張邈に謀を見させた。張邈は先ず張超に言う。
「弟は郡のため、臧洪に攻めるのを委ねたと聞いたが、臧洪はどのような人なのだ?」
   張超は言う
「臧洪は海内(天下)の奇士で才略智數は超(わたし)の比較にならない」
   張邈はそのため臧洪を引き語り、これを大いに異才があるとした。その上、兗州刺史の劉岱と豫州刺史の孔伷を詣でさせ、ついに皆、互いに親交を持った。張邈は既に先ず謀約があり、張超に会い至り、議を定め、諸牧守と酸棗で大会することになった。壇場を設置し、まさに盟を結び、互いに遠慮し、敢えて先に登ろうとせず、尽く共に臧洪を推した。臧洪は乃ち衣裳を整え壇に登り、血を操(と)り誓って言う。
「漢室は不幸にして、皇綱は統を失い、賊臣の董卓は、つけ込み害をほしいままにし、禍は至尊に加わり、毒は百姓に流れています。大いに恐れ社稷は滅亡し、四海を滅ぼします。兗州刺史の岱、豫州刺史の伷、陳留太守の邈、東郡太守の瑁、廣陵太守の超らは義兵を集めまとめ並んで国難に赴いてます。およそ我の同盟は、心を同じくし力を一つにし、臣の節度に到ることで、悔いを失い戦死しても、ついに二志はありません。この盟に変化が有れば、その命を落とさせ、育ちうちかつことがありません。皇天、后土、祖宗、明霊は誠に皆、これを鑑みます」
   臧洪は気を辞し憤り嘆き、その言を聞く者は感動し発奮しないものはなかった。


   『後漢書』臧洪伝ではこのような人たちが盟を結んだことになっているが、『後漢書』袁紹伝や『三国志』魏書武帝紀ではこれらに袁紹や曹操が加わり、袁紹が盟主となっている(これが二段階の盟なのか一つの一連の出来事に二つの側面が伝えられたのか不明)。
   『後漢書』袁紹伝0411-12)では、<<前回の箇所に

   早くも袁紹を盟主に推した。袁紹は車騎将軍を自号し、司隸校尉を領した。

と続き、『三国志』魏書武帝紀0411-11)では、<<前回の箇所に

   袁紹を盟主に推した。太祖(曹操)は奮武将軍を兼行した。

と続く。実際に盟を結んだ関東諸将がどう動いたかは以下のように『三国志』魏書董卓伝7)に書かれてある。

   河内太守の王匡は泰山兵をやり河陽津に駐屯させ、まさにそれにより董卓を図った。董卓は疑兵をやってまさに平陰において渡るもののようにみせ、密かに精鋭の衆をやって小平から北へ渡り、包囲し撃ち、その後、津の北でこれを大破し、死者は尽く略奪された。董卓は山東の豪傑が並んで起きたことにより、恐れ落ち着かずにいた。


   同じ出来事が『後漢書』董卓伝に書かれてあるが、時期がこれよりかなり後となる。また関東諸将の兵起により董卓は西の長安へ遷都しようとしていたが、それに対する反応が諸臣にあった。まず次は陳紀(字、元方)から。『後漢書』陳紀伝8)より。

   董卓は洛陽に入り、乃ち家に就きさせ、(陳紀は)五官中郎将に拝し、既に得られず京師に到ると、侍中に遷った。(陳紀は)出て平原相になり、行って董卓に謁見し、当時、長安へ遷都しようと欲した。乃ち陳紀に言う。
「三輔は高く平らで四面は険固で、土地は肥沃で美しく、号して陸海となした。今、関東では兵が起き、洛陽で恐れ久しく居ることができない。長安はなお宮室が有り、今、西遷を欲するがどうだろう?」
   陳紀は言う。
「天下に道が有り、四夷の存在から守ります。宜しく徳政を修め、懐くことで従いません。遷移は至尊であり、誠に計の末にあります。愚(わたし)は公(あなた)の宜しい事により公卿に委ね、集中し外任させます。それが命と違えば、則ち武をもってこれをおどします。今、関東は兵を起こし、民は命令を堪えません。もし朝政を譲り遠のかせ、師(軍)を率い討伐すれば、則ち塗炭(苦難の中にある喩え)の民は全うできることをこいねがっています。もし万乗を遷すことで自ら安んじたいと欲するならば、まさに累卵(危険な状態の喩え)の危が有り、崢嶸(高く険しい)の険です」
   董卓の意ははなはだ乱れたが、陳紀の名行を敬い、ふたたび言うことはなかった。


   次に司徒の楊彪(字、文先)。『後漢書』楊彪伝9)より。

   明年(初平元年)、関東は兵起し、董卓は恐れ、遷都することでその難を違えようと欲した。乃ち公卿を大会し、議で言う。
「高祖は関中を都にし十一世で、光武は洛陽に宮し、今また十世となった。石包讖を案じ、宜しく都を長安に遷すのは、天人の意に応じてのことだ」
   百官は敢えて言う者はなかった。楊彪は言う。
「都を移し制を改めるは、天下の大事であるため、盤庚は五回遷し、殷の民は相怨みました。昔、関中は王莽の変乱に遭遇し、宮室は焼き付け、民庶は炭を塗り、百あって一も在りませんでした。光武は命を受け、さらに洛邑を都しました。今、天下はおそれられず、百姓は楽安し、明公(あなた)は聖主を建立し、光が降り漢は祚し、宗廟を損じる理由はなく、園陵を棄て、百姓を恐れさせて、驚く動じさせ、必ず糜沸の乱がありましょう。石の包み、室の讖、妖邪の書、信用できることができるでしょうか?」
   董卓は言う。
「関中は肥饒で、故に秦は六国を併呑した。その上、隴右の材木は自ら出て、これを致すのにはなはだ容易だ。また杜陵の南山の下には武帝の故(もと)の瓦陶灶数千所が有り、功を併せこれを営み、一朝を使い治めることができる。百姓はこの議に何が足りないと言うのだろうか。もし進退があって、我が大兵をもってこれを駆ければ、滄海に詣でさせることもできる」
   楊彪は言う。
「天下、これが動けばたやすく至り、これをこれを安んずるにはなはだ難しく、これを明公(あなた)は考えてください」
   董卓は顔色を作り言う。
「公(あなた)は国の計を阻みたいのか?」
   太尉の黄琬は言う。
「これは国の大事であり、楊公の言葉について思わないのですか?」
   董卓は答えなかった。司空の荀爽は董卓の意に勇ましさを見て、楊彪らを害することを恐れ、落ち着いて言う。
「相国はこれを楽しんでいるのでしょうか?   山東が兵起し、一日とて禁じられず、故にまさに遷ることでこれを図り、この秦・漢の勢です」
   董卓の意は少し解けた。荀爽は個人的に楊彪へ言う。
「諸君は堅く争い止められず、禍は必ず帰し、故に吾は為さない」
   罷免を論議し、董卓により使われた司隸校尉の宣播は災異を以て上奏し黄琬、楊彪らを免じ、闕に詣で謝り、則ち(楊彪は)光祿大夫に拝した。十日余りで、大鴻臚に遷った。


   この太尉の黄琬(字、子琰)のことは以下のように『後漢書』黄琬伝10)にさらに詳しく出ている。

   董卓は長安へ遷都しようと図り、黄琬と司徒の楊彪は同じく諫め従わなかった。黄琬は退きこれを駮議して言う。
「昔、周公は洛邑で営むことで姬姓を安んじ、光武は東都に卜して選ぶことで漢を隆盛させ、天のひらくところで、神の安んずるところとなりました。大業は既に定まっているのに、宜しくみだりに遷り動きがあり、四海(てんか)の望を損なうのでしょうか?」
   当時の人は董卓の暴怒を恐れ、黄琬は必ず害が及ぶとし、固くこれを諫めた。黄琬は対して言う。
「昔、白公は楚において乱を為し、屈廬は刃を冒し前に出ました。崔杼は斉において君を殺し、晏嬰はその盟を恐れませんでした。吾は不徳といえども、古人の節を誠に慕います」
   黄琬は終え坐して免じられた。董卓はなおもその名徳旧族を敬い、あえて害しなかった。後に楊彪と同じく光祿大夫に拝した。


   この司徒の楊彪、太尉の黄琬が免じられた日付は『後漢書』本紀4)では

   二月乙亥(二月五日)、太尉の黄琬と司徒の楊彪は免ぜられた。

と出ている。『後漢紀』2)では

   二月丁亥(二月十七日)、太尉の黄琬、司徒の楊彪は罷免される


と出ている。楊彪の後任に司徒になったのは王允(字、子師)。『後漢書』王允伝11)によると

   初平元年、楊彪に代わり司徒となり、前のとおり尚書令を守った。


と出ている。実は司徒の楊彪、太尉の黄琬の二人が次の光祿大夫になる前に一つ事件が起きる。それは以下の『後漢書』董卓伝1)の記述。

   公卿は会議し、太尉の黄琬と司徒の楊彪は争いを延ばし、得ることができず、伍瓊と周珌もこれをまた強く諫めた。董卓は大いに怒り言う。
「卓(わたし)は初めて入朝したおり、二子(伍瓊と周珌のこと)が善士を勧め用い、故に見定め従い、諸君(諸将)は官に至り、兵を挙げ互いに図った。この二君(伍瓊と周珌のこと)は卓(わたし)を裏切り、互いに背いているのに卓(わたし)は何を用いる」
   ついに伍瓊と周珌を斬った。黄琬と楊彪は恐れ、董卓に詣で謝って言う。
「小人は旧来のものを慕い、国事を阻むことを望まず、罪に及ばないことを願います」
   董卓はすでに伍瓊と周珌を殺し、また、たちまちこれを悔い、そのため、黄琬と楊彪を上表し、光祿大夫にした。


   伍瓊(伍孚)が殺される箇所は以下の『三国志』魏書董卓伝の注に引く謝承『後漢書』12)に書かれてある。

   董卓は乱を起こし、百僚はふるえ恐れた。伍孚は小鎧を着け、朝服の裏において刀を挟み佩び、董卓を見て、便宜を待ち、これを刺し殺すことを欲した。語り終え別れを告げ、董卓は送り閤中(宮中の小門)に至り、伍孚は頼り刀を出しこれを刺した。董卓は大いなる力で退却し当たらず、即ち伍孚を捕らえた。董卓は言う。
「卿(あなた)は反抗することを欲するのか?」
   伍孚は大いに言う。
「汝は我の君ではなく、我は汝の臣ではなく、何の反抗があるのだ?   汝は国を乱し主を簒奪し、罪は溢れ悪は大きく、今、これが吾の死ぬ日であり、ゆえに来て姦賊を誅殺しようとしたが、市朝において汝を車裂することで天下に謝意を表せなかったことを悔いている」
   ついに伍孚を殺した。


   さらに周毖が殺される箇所は以下の『三国志』蜀書許靖伝13)に書かれてある(『後漢書』董卓伝の記述と似ているが)。

   韓馥らは官に至り、おのおの挙兵し京都に還り向かって、董卓を誅殺することを欲した。董卓は周毖を怒り言う。
「諸君はまさに善士を抜擢し用いると言い、卓(わたし)は君の計に従い、天下の人心を離れさせようと欲してはいない。諸君は人を用いるところであり、官に至る日、還り来て互いに図った。卓(わたし)は何を用い負わせるというのか」
   周毖を叱り出るように命令し、外でこれを斬った。
   許靖の従兄の陳相の許瑒はまた孔伷と合い戒め、許靖は誅殺を恐れ、孔伷の元へ奔走した。


   これらの出来事は次のように『後漢書』本紀4)に日付が書かれてある。

   庚辰(二月十日)、董卓は城門校尉の伍瓊、督軍校尉の周珌を殺した。光祿勳の趙謙をもって太尉とし太僕の王允を司徒とした。

<2012年6月15日追記>
   この時期にさらに亡くなった人物が居る。<<「皇帝崩御」(孫氏からみた三国志44)にある『三国志』巻十魏書荀攸伝17)の記述の続きに当たる。以下。

   董卓の乱で、関東が兵起し、董卓は長安に都を遷した。荀攸と議郎の鄭泰、何顒、侍中の种輯、越騎校尉の伍瓊等は謀り言う。
「董卓は、はなはだ桀、紂より無道で、天下は皆、これを恨み、強兵を蓄えると雖も、実のところ、一人の匹夫のみです。今、直にこれを刺殺することで百姓に謝れば、しかる後に殽、函に拠し、王命を助けることで、天下に号令するのは、これ桓文の挙です。」
   事が地に付き発覚し、何顒を捕らえ、荀攸を獄い繋ぎ、何顒は憂い怖れ自殺し、荀攸の言語飲食は落ち着いていた。
<追記終了>


   ここで空位となった太僕について。また遷都の考えに反応した河南尹の朱儁(字、公偉)について。『後漢書』朱儁伝14)より。

   関東の兵が盛んになり、董卓は恐れ、数々、公卿に長安へ都を遷す会議を請い、朱儁はたちまちこれを止めた。董卓といえども朱儁を憎み己と分かち、しかし、その名声の重さを惜しみ、乃ち上表し太僕に遷し、それにより己の副とした。使者は拝したが、朱儁は辞し受けなかった。よりて言う。
「国家、西へ遷ることで、必ず天下の望むことが孤立し、山東の過ちを成すため、臣(わたし)はその可能性を見出せない」
   使者は詰めて言う。
「君(朱儁のこと)を召し拝を受けましたが君はこれを拒み、遷すことを問うていないのに君はこれを並べ、その理由は何でしょうか?」
   朱儁は言う。
「相国に付き添いは、臣(わたし)の堪えるところではない。遷都の計は、急ぐ事ではない。堪えられないところは辞し、急がないところを言うことが、臣の正しいと思うところだ」
使者は言う。
「遷都の事、その計を聞かず、もし未だ露呈していないのであれば、どうして承知したのですか?」
   朱儁は言う。
「相国の董卓は臣のために備え説いており、これが知る理由だ」
   人を使って屈することができず、このため、止め副にならなかった。


   それで太僕は誰がなったかというと『後漢書』本紀の前後関係(このページには書いてないが)から、袁術(字、公路)の兄である袁基が太僕になったんだろう。『後漢書』袁逢伝15)に次のような記述がある。

   (袁逢の)子の基は嗣ぎ、位で太僕に至った。


   結局、遷都はどうなったかというと以下のように『後漢書』本紀4)に書いてある。

   丁亥(二月十七日)、長安に遷都した。董卓は京師の百姓を尽く西へうつり入関すること(函谷関より西へ行くこと)を迫り、自ら、畢圭苑に駐屯し留まった。
   壬辰(二月二十二日)、白虹が日を貫いた
   三月乙巳(五日)、車駕(天子の乗輿)は長安に入り、未央宮にいでました。
   己酉(三月九日)、董卓は洛陽宮廟および人家を焼いた。

   さらに詳しくは以下の『後漢書』董卓伝1)より。

   昔、長安は赤眉の乱に遭遇し、宮室営寺は焼き滅び、余りがなく、このとき、ただ高廟と京兆府舍があるだけで、ついに便宜の時(吉日に)に、いでました。後に未央宮に移った。これにより洛陽人数百万口が長安へ尽く移り、歩兵、騎兵が追いつめ、さらに互いに踏みにじり、飢餓により侵入し略奪し、屍が積まれ路に満ちた。董卓は自ら畢圭苑中に駐屯し留まり、尽く宮廟、官府、居家を焼き、二百里の内に再びぼうふらすら遺らなかった。また呂布に諸帝陵および公卿以下の冢墓を徴発させ、その珍宝を収めた。


   このように董卓は雒陽(洛陽)に対し破壊と略奪の限りを尽くしたんだけど、それに対しひそかに重要なものを守る動きを起こした者がいた。それは王允。以下、『後漢書』王允伝11)より。

   董卓の関中への遷都に及び、王允はことごとく蘭臺、石室の文書、秘緯(緯書)、要者を取り集めることで従った。既に長安に至り、皆、分別し上へ届けた。また、漢朝旧事とまさに実施するところのものを集め、皆一つにしこれを上奏した。経籍はすべてそなわっており、王允には力が有った。その時、董卓はなお洛陽に留まり、朝政の大小をことごとく王允に委ねた。王允は情に背く態度をとり、心を屈し、つねに受け従い、董卓はまた心を託し、背いて疑うことが生じず、故に危乱の中において王室を助け得て、臣主内外で、頼らないものはなかった。


   このように、ついに遷都が実行されたものの、董卓は関東諸将に睨みをきかせるため、畢圭苑に駐屯していた。この続きは次回以降。次回は場所をがらりと変えた話。




1)   『後漢書』董卓列傳より。今回のネタバレあり。

及聞東方兵起、懼、乃鴆殺弘農王、欲徙都長安。會公卿議、太尉黄琬・司徒楊彪廷爭不能得、而伍瓊・周珌又固諫之。卓因大怒曰:「卓初入朝、二子勸用善士、故相從、而諸君到官、舉兵相圖。此二君賣卓、卓何用相負!」遂斬瓊・珌。而彪・琬恐懼、詣卓謝曰:「小人戀舊、非欲沮國事也、請以不及為罪。」卓既殺瓊・珌、旋亦悔之、故表彪・琬為光祿大夫。於是遷天子西都。

初、長安遭赤眉之亂、宮室營寺焚滅無餘、是時唯有高廟・京兆府舍、遂便時幸焉。後移未央宮。於是盡徙洛陽人數百萬口於長安、步騎驅蹙、更相蹈藉、飢餓寇掠、積尸盈路。卓自屯留畢圭苑中、悉燒宮廟官府居家、二百里内無復孑遺。又使呂布發諸帝陵、及公卿已下冢墓、收其珍寶。

2)   『後漢紀』(後漢孝獻皇帝紀卷第二十六)より。『後漢書』と順序が違うため次回以降のネタバレあり。

春正月辛亥、大赦天下。

侍中周毖・城門校尉伍瓊説董卓曰:「夫廢立事大、非常人所及。袁紹不達大體、恐懼出奔、非有他志也。今購之急、勢必為變。袁氏樹恩四世、門生故吏遍於天下、若收豪傑以聚徒眾、英雄因之而起、山東非公之有也。不如赦之、拜一郡守、則紹喜於免罪、必無患矣。」卓以為然、乃以紹為勃海太守。

癸丑、卓殺弘農王。

卓使郎中令〔李〕(王)儒進酖於王、曰:「服藥可以辟惡。」王曰:「我無疾、是欲殺我爾。」不肯、強之。於是王與唐姬及宮人飲藥、王自歌曰:「天道易兮運何艱、棄萬乘兮退守藩。逆臣見迫兮命不延、逝將去汝兮往幽玄。」唐姬起舞、歌曰:「皇天崩兮后土頹、身為帝王兮命夭摧。死生異路兮從此乖、悼我煢獨兮心中哀。」因泣下、坐者皆悲。王謂唐姬曰:「卿故王者妃、勢不為吏民妻矣。自愛、從此與卿辭。」遂飲藥而死。帝聞之、降坐盡哀。

是時冀州刺史韓馥・豫州刺史孔伷・兗州刺史劉岱・陳留太守張邈・勃海太守袁紹・東海太守喬瑁・山陽太守袁遺・河南太守王匡・濟北相鮑信・後將軍袁術・議郎曹操等並興義兵、將以誅卓、眾各數萬人、推紹為盟主。紹自號車騎將軍、操行奮武將軍。

長沙太守孫堅亦起兵誅卓、比至南陽、眾數萬人。卓以堅為破虜將軍、冀其和弭。堅討卓逾壯、進屯陽人。卓大怒、遣胡軫・呂布撃堅、戰於建平、堅大破之。

卓以山東兵盛、欲徙都關中、召公卿議曰:「高祖都關中、十一世、後漢中興、東都洛陽。從光武至今復十二世、案石苞室讖、宜復還都長安。」百官無敢應者。司徒楊彪曰:「遷都改制、天下大事、皆當因民之心、隨時之宜。昔盤庚五遷、殷民胥怨、故作三篇以曉諭之。往者王莽簒逆、變亂五常、更始・赤眉之變、焚燒長安、殘害百姓、民人流亡、百無一存。光武受命、更都洛陽、此其宜也。方今建立聖主、光隆漢祚、而無故捐宗廟宮殿、棄先帝園陵、百姓驚愕、不解此意、必糜沸螘聚、以致擾亂。石苞室讖、妖邪之書、豈可信用!」卓作色曰:「楊公欲沮國家計邪?關東黄巾作亂、所在賊起、長安崤函險固、國之重防。又隴右取材木、功夫不難、杜陵南山下有孝武帝故陶作磚處、一朝一夕可辦、宮室官府、蓋何足言!百姓小人、何足與議。若有前卻、以我大兵驅之、豈得自在!」百寮皆失色。太尉黄琬曰:「此大事、楊公語得無可思乎?」司空荀爽曰:「相國豈樂遷都邪?今山東兵起、非可一日禁也、而關西尚靜、故當遷之、以圖秦漢之勢也。堅爭不止、禍必有所歸、吾不為也。」卓使有司奏免二公。

二月丁亥、太尉黄琬・司徒楊彪策罷。

初、卓用伍瓊・周毖之議、選天下名士馥等、既出、皆舉兵圖卓。卓以瓊・毖賣己、心怨之。及議西遷、瓊・毖固諫、卓大怒曰:「君言當拔用善士、卓從二君計、不敢違天下心。諸君到官、舉兵相圖、卓何相負?」遂斬瓊・毖。彪・琬恐懼、詣卓謝曰:「因小人戀舊、非欲沮國事也、請以不及為受罪。」卓不勝當時之忿、既殺瓊・毖、旋亦悔之、故表彪・琬為光祿大夫。

卓以河南尹朱儁為太僕、以為己副。儁不肯受、因進曰:「國不宜遷、必孤天下望、成山東之釁、臣不見其可也。」有司曰:「召見君受拜、而君拒之;不問徙事、而君陳之、何也?」儁曰:「副相國至重、非臣所堪。遷都非計、臣之所急也。辭所不堪、進其所急、臣之宜也。」有司曰:「遷都之事、初無此計也、就有未露、何所受聞?」儁曰:「相國董卓具為臣説。」有司不能屈。於是朝之大臣及尚書郎華歆等皆稱焉、由是止不副卓。卓愈恨之、懼必為卓所陷、乃奔荊州。

光祿勳趙謙為太僕。王允為司徒、守尚書令。

丁亥、天子遷都長安。卓留屯洛陽、盡焚宮室、徙民長安。

壬辰、白虹貫日。

三月己巳、車駕至長安。長安遭赤眉之亂、宮室焚盡、唯有高廟・京兆府舍、遂就都焉。

3)   『後漢書』皇后紀より。

明年、山東義兵大起、討董卓之亂。卓乃置弘農王於閣上、使郎中令李儒進酖、曰:「服此藥、可以辟惡。」王曰:「我無疾、是欲殺我耳!」不肯飲。強飲之、不得已、乃與妻唐姬及宮人飲讌別。酒行、王悲歌曰:「天道易兮我何艱!棄萬乘兮退守蕃。逆臣見迫兮命不延、逝將去汝兮適幽玄!」因令唐姬起舞、姬抗袖而歌(一)曰:「皇天崩兮后土穨、身為帝兮命夭摧。死生路異兮從此乖、柰我煢獨兮心中哀!」因泣下嗚咽、坐者皆歔欷。王謂姬曰:「卿王者妃、埶不復為吏民妻。自愛、從此長辭!」遂飲藥而死。時年十八。


4)   『後漢書』孝獻帝紀より。

辛亥、大赦天下。

癸酉、董卓殺弘農王。

白波賊寇東郡。

二月乙亥、太尉黄琬・司徒楊彪免。

庚辰、董卓殺城門校尉伍瓊・督軍校尉周珌。以光祿勳趙謙為太尉、太僕王允為司徒。

丁亥、遷都長安。董卓驅徙京師百姓悉西入關、自留屯畢圭苑。

壬辰、白虹貫日。

三月乙巳、車駕入長安、幸未央宮。

己酉、董卓焚洛陽宮廟及人家。

5)   『後漢書』虞傅蓋臧列傳より。

中平末、棄官還家、太守張超請為功曹。時董卓(殺)〔弑〕帝、圖危社稷。洪説超曰:「明府歴世受恩、兄弟並據大郡。今王室將危、賊臣虎視、此誠義士效命之秋也。今郡境尚全、吏人殷富、若動桴鼓、可得二萬人。以此誅除國賊、為天下唱義、不亦宜乎!」超然其言、與洪西至陳留、見兄邈計事。邈先謂超曰:「聞弟為郡、委攻臧洪、洪者何如人?」超曰:「臧洪海内奇士、才略智數不比於超矣。」邈即引洪與語、大異之。乃使詣兗州刺史劉岱・豫州刺史孔伷、遂皆相善。邈既先有謀約、會超至、定議、乃與諸牧守大會酸棗。設壇場、將盟、既而更相辭讓、莫敢先登、咸共推洪。

洪乃攝衣升壇、操血而盟曰:「漢室不幸、皇綱失統、賊臣董卓、乘釁縱害、禍加至尊、毒流百姓。大懼淪喪社稷、翦覆四海。兗州刺史岱・豫州刺史伷・陳留太守邈・東郡太守瑁・廣陵太守超等、糾合義兵、並赴國難。凡我同盟、齊心一力、以致臣節、隕首喪元、必無二志。有渝此盟、俾墜其命、無克遺育。皇天后土、祖宗明靈、實皆鑒之。」洪辭氣慷慨、聞其言者、無不激揚。自是之後、諸軍各懷遲疑、莫適先進、遂使糧儲單竭、兵衆乖散。

6)   『三國志』卷七 魏書七 呂布臧洪傳より。

靈帝末、棄官還家、太守張超請洪為功曹。

董卓殺帝、圖危社稷、洪説超曰:「明府歷世受恩、兄弟並據大郡、今王室將危、賊臣未梟、此誠天下義烈報恩效命之秋也。今郡境尚全、吏民殷富、若動枹鼓、可得二萬人、以此誅除國賊、為天下倡先、義之大者也。」超然其言、與洪西至陳留、見兄邈計事。邈亦素有心、會于酸棗、邈謂超曰:「聞弟為郡守、政教威恩、不由己出、動任臧洪、洪者何人?」超曰:「洪才略智數優超、超甚愛之、海内奇士也。」邈即引見洪、與語大異之。致之于劉兗州公山・孔豫州公緒、皆與洪親善。乃設壇場、方共盟誓、諸州郡更相讓、莫敢當、咸共推洪。洪乃升壇操槃歃血而盟曰:「漢室不幸、皇綱失統、賊臣董卓乘釁縱害、禍加至尊、虐流百姓、大懼淪喪社稷、翦覆四海。兗州刺史岱・豫州刺史伷・陳留太守邈・東郡太守瑁・廣陵太守超等、糾合義兵、並赴國難。凡我同盟、齊心戮力、以致臣節、殞首喪元、必無二志。有渝此盟、俾墜其命、無克遺育。皇天后土、祖宗明靈、實皆鑒之!」洪辭氣慷慨、涕泣橫下、聞其言者、雖卒伍廝養、莫不激揚、人思致節。

7)   『三国志』魏書董二袁劉傳(董卓のところ)より。

河内太守王匡、遣泰山兵屯河陽津、將以圖卓。卓遣疑兵若將於平陰渡者、潛遣鋭眾從小平北渡、繞撃其後、大破之津北、死者略盡。卓以山東豪傑並起、恐懼不寧。

8)   『後漢書』荀韓鍾陳列傳(陳紀のところ)より。

董卓入洛陽、乃使就家拜五官中郎將、不得已、到京師、遷侍中。出為平原相、往謁卓、時欲徙都長安。乃謂紀曰:「三輔平敞、四面險固、土地肥美、號為陸海。今關東兵起、恐洛陽不可久居。長安猶有宮室、今欲西遷何如?」紀曰:「天下有道、守在四夷。宜脩德政、以懷不附。遷移至尊、誠計之末者。愚以公宜事委公卿、專精外任。其有違命、則威之以武。今關東兵起、民不堪命。若謙遠朝政、率師討伐、則塗炭之民、庶幾可全。若欲徙萬乘以自安、將有累卵之危、崢嶸之險也。」卓意甚忤、而敬紀名行、無所復言。

9)   『後漢書』楊震列傳(楊彪のところ)より。

中平六年、代董卓為司空、其冬、代黄琬為司徒。明年、關東兵起、董卓懼、欲遷都以違其難。乃大會公卿議曰:「高祖都關中十有一世、光武宮洛陽、於今亦十世矣。案石包讖、宜徙都長安、以應天人之意。」百官無敢言者。彪曰:「移都改制、天下大事、故盤庚五遷、殷民胥怨。〔昔〕關中遭王莽變亂、宮室焚蕩、民庶塗炭、百不一在。光武受命、更都洛邑。今天下無虞、百姓樂安、明公建立聖主、光隆漢祚、無故捐宗廟、棄園陵、恐百姓驚動、必有糜沸之亂。石包室讖、妖邪之書、豈可信用?」卓曰:「關中肥饒、故秦得并吞六國。且隴右材木自出、致之甚易。又杜陵南山下有武帝故瓦陶灶數千所、并功營之、可使一朝而辨。百姓何足與議!若有前卻、我以大兵驅之、可令詣滄海。」彪曰:「天下動之至易、安之甚難、惟明公慮焉。」卓作色曰:「公欲沮國計邪?」太尉黄琬曰:「此國之大事、楊公之言得無可思?」卓不荅。司空荀爽見卓意壯、恐害彪等、因從容言曰:「相國豈樂此邪?山東兵起、非一日可禁、故當遷以圖之、此秦・漢之埶也。」卓意小解。爽私謂彪曰:「諸君堅爭不止、禍必有歸、故吾不為也。」議罷、卓使司隸校尉宣播以災異奏免琬・彪等、詣闕謝、即拜光祿大夫。十餘日、遷大鴻臚。

10)   『後漢書』左周黄列傳(黄琬のところ)より。

及董卓秉政、以琬名臣、徴為司徒、遷太尉、更封陽泉鄉侯。卓議遷都長安、琬與司徒楊彪同諫不從。琬退而駮議之曰:「昔周公營洛邑以寧姬、光武卜東都以隆漢、天之所啟、神之所安。大業既定、豈宜妄有遷動、以虧四海之望?」時人懼卓暴怒、琬必及害、固諫之。琬對曰:「昔白公作亂於楚、屈廬冒刃而前;崔杼弑君於齊、晏嬰不懼其盟。吾雖不德、誠慕古人之節。」琬竟坐免。卓猶敬其名德舊族、不敢害。

11)   『後漢書』陳王列傳(王允のところ)より。

初平元年、代楊彪為司徒、守尚書令如故。及董卓遷都關中、允悉收斂蘭臺・石室圖書秘緯要者以從。既至長安、皆分別條上。又集漢朝舊事所當施用者、一皆奏之。經籍具存、允有力焉。時董卓尚留洛陽、朝政大小、悉委之於允。允矯情屈意、每相承附、卓亦推心、不生乖疑、故得扶持王室於危亂之中、臣主内外、莫不倚恃焉。

12)   『三国志』魏書董二袁劉傳(董卓のところ)の注に引く謝承『後漢書』より。

伍孚字德瑜、少有大節、為郡門下書佐。其本邑長有罪、太守使孚出教、敕曹下督郵收之。孚不肯受教、伏地仰諫曰:「君雖不君、臣不可不臣、明府奈何令孚受教、敕外收本邑長乎?更乞授他吏。」太守奇而聽之。後大將軍何進辟為東曹屬、稍遷侍中・河南尹・越騎校尉。董卓作亂、百僚震慄。孚著小鎧、於朝服裏挾佩刀見卓、欲伺便刺殺之。語闋辭去、卓送至閤中、孚因出刀刺之。卓多力、退卻不中、即收孚。卓曰:「卿欲反邪?」孚大言曰:「汝非吾君、吾非汝臣、何反之有?汝亂國簒主、罪盈惡大、今是吾死日、故來誅姦賊耳、恨不車裂汝於市朝以謝天下。」遂殺孚。

13)   『三國志』卷三十八 蜀書八 許麋孫簡伊秦傳第八より。

馥等到官、各舉兵還向京都、欲以誅卓。卓怒毖曰:「諸君言當拔用善士、卓從君計、不欲違天下人心。而諸君所用人、至官之日、還來相圖。卓何用相負!」叱毖令出、於外斬之。靖從兄陳相瑒、又與伷合規、靖懼誅、奔伷。

14)   『後漢書』皇甫嵩朱儁列傳(朱儁のところ)より。

時董卓擅政、以儁宿將、外甚親納而心實忌之。及關東兵盛、卓懼、數請公卿會議、徙都長安、儁輒止之。卓雖惡儁異己、然貪其名重、乃表遷太僕、以為己副。使者拜、儁辭不肯受。因曰:「國家西遷、必孤天下之望、以成山東之釁、臣不見其可也。」使者詰曰:「召君受拜而君拒之、不問徙事而君陳之、其故何也?」儁曰:「副相國、非臣所堪也;遷都計、非事所急也。辭所不堪、言所非急、臣之宜也。」使者曰:「遷都之事、不聞其計、就有未露、何所承受?」儁曰:「相國董卓具為臣説、所以知耳。」使人不能屈、由是止不為副。

15)   『後漢書』袁張韓周列傳より。

子基嗣、位至太僕

16)   『後漢書』鄭孔荀列傳より。

及義兵起、卓乃會公卿議、大發卒討之、群僚莫敢忤旨。公業恐其眾多益橫、凶彊難制、獨曰:「夫政在德、不在眾也。」卓不悅、曰、「如卿此言、兵為無用邪?」公業懼、乃詭詞更對曰:「非謂無用、以為山東不足加大兵耳。如有不信、試為明公略陳其要。今山東合謀、州郡連結、人庶相動、非不強盛。然光武以來、中國無警、百姓優逸、忘戰日久。仲尼有言:『不教人戰、是謂棄之。』其眾雖多、不能為害。一也。明公出自西州、少為國將、閑習軍事、數踐戰埸、名振當世、人懷懾服。二也。袁本初公卿子弟、生處京師。張孟卓東平長者、坐不闚堂。孔公緒清談高論、嘘枯吹生。並無軍旅之才、埶銳之幹、臨鋒決敵、非公之儔。三也。山東之士、素乏精悍。未有孟賁之勇、慶忌之捷、聊城之守、良・平之謀、可任以偏師、責以成功。四也。就有其人、而尊卑無序、王爵不加、若恃眾怙力、將各(基)〔棋〕峙、以觀成敗、不肯同心共膽、與齊進退。五也。關西諸郡、頗習兵事、自頃以來、數與羌戰、婦女猶戴戟操矛、挾弓負矢、況其壯勇之士、以當妄戰之人乎!其勝可必。六也。且天下彊勇、百姓所畏者、有并・涼之人、及匈奴・屠各・湟中義從・西羌八種、而明公擁之、以為爪牙、譬驅虎兕以赴犬羊。七也。又明公將帥、皆中表腹心、周旋日久、恩信淳著、忠誠可任、智謀可恃。以膠固之眾、當解合之埶、猶以烈風掃彼枯葉。八也。夫戰有三亡、以亂攻理者亡、以邪攻正者亡、以逆攻順者亡。今明公秉國平正、討滅宦豎、忠義克立。以此三德、持彼三亡、奉辭伐罪、誰敢禦之!九也。東州鄭玄學該古今、北海邴原清高直亮、皆儒生所仰、群士楷式。彼諸將若詢其計畫、足知彊弱。且燕・趙・齊・梁非不盛也、終滅於秦;吳・楚七國非不眾也、卒敗滎陽。況今德政赫赫、股肱惟良、彼豈讚成其謀、造亂長寇哉?其不然。十也。若其所陳少有可採、無事徵兵以驚天下、使患役之民相聚為非、棄德恃眾、自虧威重。」卓乃悅、以公業為將軍、使統諸軍討撃關東。或說卓曰:「鄭公業智略過人、而結謀外寇、今資之士馬、就其黨與、竊為明公懼之。」卓乃收還其兵、留拜議郎。

17)   『三国志』巻十魏書荀攸伝より。

董卓之亂、關東兵起、卓徙都長安。攸與議郎鄭泰・何顒・侍中种輯・越騎校尉伍瓊等謀曰:「董卓無道、甚於桀紂、天下皆怨之、雖資彊兵、實一匹夫耳。今直刺殺之以謝百姓、然後據殽・函、輔王命、以號令天下、此桓文之舉也。」事垂就而覺、收顒・攸繫獄、顒憂懼自殺、攸言語飲食自若


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