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呂布の波及(孫氏からみた三国志61)
2011.05.31.
<<皇帝東帰(孫氏からみた三国志60)


   今から関東のことを追うため、どちらかというと<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)の続きとなる。まずその時の最後に論点として挙がった曹嵩の死から触れる。『三国志』巻一魏書武帝紀1)に次のようにある。

   興平元年(紀元194年)春、太祖(曹操字孟徳)は徐州より還り、以前、太祖の父の曹嵩は、官を去った後に(豫州沛國)譙へ還り、董卓の乱で、難を(徐州)瑯邪に避け、陶謙(字恭祖)の害する所と為り、故に太祖は復讐に在り東へ伐つと願った。夏、荀彧(字文若)、程昱(字仲德)に(兗州濟陰郡)鄄城を守らせ、再び陶謙を征し、五城を抜き、遂に地を攻略し(徐州)東海に至った。還り(徐州東海国)郯を過ぎ、陶謙の将の曹豹と劉備(字玄徳)とは郯の東に屯し、太祖に当たった。太祖はこれを撃ち破って、遂に(徐州東海国)襄賁を攻め抜き、過ぎる所は多く惨殺する所だった。

   この曹嵩が殺害された箇所に注2)が入り次のように『世語』と韋曜『呉書』が引かれる。両者で食い違う箇所がある。

   『世語』に言う。
   曹嵩は(兗州)泰山の華県に在った。太祖は泰山太守の應劭(字仲遠もしくは仲瑗)に家へ送らせ兗州へ詣でさせ、應劭の兵は未だ至らず、陶謙は密かに数千騎に包囲し捕まえさせた。曹嵩の家は應劭が迎えると思い、設け備えなかった。陶謙の兵は至り、太祖の弟の曹徳を門中で殺した。曹嵩は懼れ、後垣を穿ち、先ず其の妾を出し、妾は肥えていて、出得る時を逸した。曹嵩は厠へ逃げ、妾と共に害を被り、門を閉じ皆死んだ。應劭は懼れ、官を棄て袁紹(字元初)に赴いた。後に太祖は冀州を定め、應劭は当時、既に死んでいた。
   韋曜『呉書』に言う。
   太祖は曹嵩の、輜重百両余りで迎えた。陶謙は都尉の張闓に騎二百を率いさせ衛送させた。張闓は泰山の華、費の間で曹嵩を殺し、財物を取り、それにより淮南へ奔った。太祖は帰り陶謙を咎め、そのため、これを伐った。

   その経緯の詳細は複数あるが、ともかく曹嵩は陶謙の責任の下で殺された。さらに「過ぎる所は多く惨殺する所だった。」の所にも次のように注3)が付いている。

   孫盛は言う。
「それ罪を伐ち民を弔うのが、古の令軌だ。これに陶謙を罪するため、その属部を滅ぼしたのは、過ちだ。」

   再び『三国志』巻一魏書武帝紀1)を見ていく。

   たまたま張邈陳宮とは叛し呂布(字奉先)を迎え、郡県は皆応じた。荀彧、程昱は(兗州濟陰郡)鄄城を保ち、(兗州東郡)范、東阿の二県は固く守り、太祖は乃ち軍を引き還った。呂布は到り、鄄城を攻め良く下せず、(兗州東郡)濮陽に西へ屯した。太祖は言う。
「呂布は一旦、一州を得て、良く東平を拠せず、父の首を断ち、泰山の道は険しく要害で躓きが覆い、そこで濮陽に屯し、吾はそのよく為さないのを知る。」
   遂に進軍しこれを攻めた。呂布は兵を出し戦い、先ず騎で青州兵を犯した。青州兵は奔り、太祖は乱を並べ、馳せ突き火が出て、落馬し、左の手の掌を焼いた。司馬の樓異は太祖を馬に上がるのを助け、遂に引き去った。未だ営に至らず止まらず、諸将は未だ太祖と与せず相見えず、皆怖れた。太祖はそこで自ら努力し陣取り、軍中に攻めるため備えるのを促させ、進んで再びこれを攻め、呂布と百日余り相守った。蝗蟲が起き、百姓が大いに飢え、呂布の糧食はその上、尽き、各々引き去った。
   秋九月、太祖は鄄城へ還った。呂布は(兗州濟陰郡)乘氏に到り、其の県人の李進の破る所と為り、山陽へ東に屯した。これにおいて袁紹は人に太祖を説かせ、連和を欲した。太祖は新たに兗州を失い、軍の食は尽き、これからこれを許そうとした。程昱は太祖を止め、太祖はこれに従った。冬十月、太祖は東阿に至った。
   この歳に穀一斛が五十万銭余りで、人は相食べて、そこで吏兵の新たに募った者を辞めさせた。陶謙が死に、劉備はこれに代わった。

   ここで濮陽攻防戦について注で次のように袁暐『献帝春秋』4)が引かれている。

   太祖は濮陽を囲み、濮陽大姓の田氏は反間を為し、太祖は城に入り得た。その東門を焼き、反意の無いことを示した。戦に及び、軍が敗れた。呂布の騎は太祖を得たがこれを知らず、問うて言う。
「曹操はどこに在るか」
   太祖は言う。
「黄馬に乗って走った者がこれだ」
   呂布の騎はそこで太祖を釈放し黄馬を追った。門の火はやはり盛んで、太祖は火に突きて出た。

<2012年5月28日追記>
   この「陶謙が死に、劉備はこれに代わった」件について、『三国志』巻三十二蜀書先主伝19)を見ていく。<<「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)の続きとなる。

   袁紹は公孫瓚(字伯珪)を攻め、先主(劉備)と田楷は齊に東屯した。曹公(曹操字孟徳)は徐州を征し、徐州牧の陶謙は使に田楷へ告げ急がせ、田楷は先主と共にこれを救った。当時、先主は自ら兵千人余り及び幽州の烏丸雑胡騎を有し、また飢民数千人を略得した。至り終え、陶謙は丹楊兵四千を先主に増し、先主は遂に田楷を去り陶謙に帰した。陶謙は表し先主を豫州刺史に為し、小沛に屯させた。陶謙の病は篤く、別駕の麋竺に言う。
「劉備はこの州を安んじられないことはない」
   陶謙は死に、麋竺は州人を率い先主を迎え、先主は未だ敢えて当たらずにいた。下邳の陳登は先主に言う。
「今、漢室は次第に緩やかになり、海内は傾き覆り、功を立て事を立て、今日に在ります。彼の州は富み栄え、戸数は百万で、使君を屈し州事を安んじ治めようと欲しています」
   先主は言う。
「袁公路は壽春に近在し、この君は四世五公で、海内は帰する所で、君は州を以てこれを与えうる。」
   陳登は言う。
「公路は驕豪で、乱を治める主ではありません。今、使君のために歩騎十万を合わせのを欲し、上は主を正すことで民を救うことができ、五霸の業を成し、下は地を割くことで境を守ることができ、功を竹帛に書きたいと欲します。もし使君が見て受け入れ許さなければ、登(わたし)もまた未だ敢えて使君を受け入れないでしょう。」
   北海相の孔融は先主に言う。
「袁公路はどうして國を憂い家を忘れる者でありましょうか。冢中で骨が枯れ、どれほど意に介するに足るでしょうか。今日の事、百姓とはよくするが、天とは取らず、追えないのを悔います」
   先主は遂に徐州を領した。

   これに注が付き、次の『献帝春秋』20)の記述が引かれる。

   陳登等は使を袁紹に詣でさせ言う。
「天は災沴(陰陽のみだれによる災い)を降らせ、禍は鄙州(ちいさい州、徐州の謙遜)に及び、州は将に殂殞しよう(死のう)とし、生民に主は無く、姦雄を懼れ慎み一旦隙を承け、盟主に日が傾く憂いを贈ることで、たちまち共に故(もと)の平原相の劉備府君を宗主に奉じ、永らく依帰(頼ること)が有ると百姓に知らしめました。正に今、寇難が縦横し、甲(よろい)を解く暇もなく、謹んで下吏に奔らせ執事へ告げさせます。」
   袁紹は答えて言う。
「劉玄徳は弘雅で信義が有り、今、徐州は安らかにこれを戴き、誠に望むところに副います。」
<追記終了>

   三度、『三国志』巻一魏書武帝紀1)を見ていく。

   (興平)二年春、定陶を襲った。(兗州)濟陰太守の呉資は南の城を保ち、未だに抜けなかった。たまたま呂布が至り、またこれを撃ち破った。、呂布の将、薛蘭、李封は(兗州山陽郡)鉅野に屯し、太祖はこれを攻め、呂布は薛蘭を救い、薛蘭は破れ、呂布は走り、遂に薛蘭等を斬った。呂布は再び(兗州山陽郡)東緡より陳宮と一万人余りを率い来て戦い、当時、太祖の兵は少なく、伏兵し、奇兵を放ち撃ち、これを大いに破った。呂布は夜に走り、太祖は再び攻め、(兗州濟陰郡)定陶を抜き、兵を分け諸県を平らげた。呂布は劉備へ東に奔り、張邈は呂布を従え、其の弟の張超に家属を率いらせ(兗州陳留郡)雍丘を保たせた。秋八月、雍丘を囲んだ。

   ここで曹操が呂布を大破したことについて注で次のように『魏書』5)が引かれている。

   これに於いて兵は皆、麦を出し取り、在者は千人に満ちず、営に屯し守らなかった。太祖はかえって婦人に陴(ものびべい)を守らせ、兵を尽くしこれを拒んだ。大隄の有る西に屯し、其の南の樹木は隠微にして奥深かった。呂布は伏兵が有ると疑い、そこで相言う。
「曹操は多く欺き、伏す中へ入るな」
   軍を引き南十里余りに屯した。明日に再び来て、太祖は兵を隄の裏に隠し、半兵を隄の外へ出した。呂布は益し進み、そこで軽兵に挑み戦わせ、既に合い、伏兵はそこで尽く隄に乗り、歩騎は並んで進み、これを大破し、其の鼓車を獲て、追いその営に至り還った。
陶謙関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   この辺りの興平元年、二年を詳しく追うためにまず次のように『三国志』巻七魏書呂布伝6)を追う。<<「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)の続きとなる。

   呂布は自ら董卓を殺したことを袁術(字公路)の復讐と為し、これを恵みたいと欲した。袁術は其の反覆を憎み、拒み受けなかった。袁紹を北に詣で、袁紹と呂布とは常山に張燕を撃った。張燕の精兵は一万人余りで、騎数千だった。呂布は良馬を有し赤兔と言った。常にその親近に成廉、魏越等を与し鋒を陥らせ陣を突き、遂に張燕軍を破った。そして兵衆を増やすのを求め、将士はかすめ取り、袁紹はこれを患い忌まわしく感じた。呂布はその意を覚り、袁紹に従い去るのを求めた。袁紹は還り己の害に為るのを恐れ、壮士に夜に不意に呂布を殺させ、捕らえられなかった。事が露わになり、呂布は(司隸)河内へ走り、張楊と合った。袁紹は衆にこれを追わせ、皆呂布を畏れ、敢えて迫り近付く者は無かった。

   ここで袁紹と呂布の関係に注が入り、次の『英雄記』7)の記述が引かれる。

   呂布は自ら有功により袁氏において、袁紹の下の諸将を傲り、署置(任命)を恣にすると思ったが、貴(位?)を備えなかった。呂布は洛に還るのを求め、袁紹は呂布に領司隸校尉を仮した。外では遣わすべきと言い、内では呂布を殺すのを欲した。明日、当に発し、袁紹は甲士三十人を遣わし、辞で呂布を送った。呂布は帳側に止めさせ、偽の使人が帳中で箏を鳴らした。袁紹の兵は臥し、呂布は何も無く帳を出て去り、兵は覚らなかった。夜半に兵が起き、呂布の床を乱れ切り被り、すでに死んだと言った。明日、袁紹は訊き問い、呂布がやはり在ると知り、かえって城門を閉じた。呂布は遂に引き去った。

   次に張楊と呂布の関係に注が入り、次の『英雄記』8)の記述が引かれる。

   張楊及び部曲諸将は、皆、李傕、郭汜の購募を受け、共に呂布を図った。呂布はこれを聞き、張楊に言う。
「布(わたし)は、卿(あなた)の州里だ。卿の弱さに於いて、卿が布を殺す。布を売るようなことがなければ、すみやかに郭汜、李傕の爵寵を得るべきだ。」
   これに於いて張楊は外で郭汜、李傕に従い、内では実に呂布を保護した。郭汜、李傕はこれを患い、さらに大封の詔書を下し、呂布を(豫州)潁川太守にした。

   この箇所は『後漢書』列伝六十五呂布伝でも似たように記される。『三国志』巻七魏書呂布伝の続きはその伝の内包された張邈伝6)があり、ちょうど<<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)の続きとなる。以下。

   太祖は陶謙の征伐に行き、家に勅し言う。
「我がもし還らなければ、孟卓に往き依れ」
   後に還り、張邈に見え、涙を垂らし相対した。其の親しさは此の如くだった。

   この続きでもある、再び『三国志』巻七魏書呂布伝6)を再び追う。先の『三国志』巻一魏書武帝紀と重複する部分がある。以下。

   呂布はここに袁紹を捨てて張楊に従い、張邈を過ぎ別れに臨み、握手し共に誓った。袁紹はこれを聞き、大いに恨んだ。張邈は太祖が終いに袁紹のために己を撃つのを畏れ、心は自ら安んじなかった。興平元年に、太祖は再び陶謙を征し、張邈の弟の張超は、太祖の将の陳宮、從事中郎の許汜、王楷と与し共に太祖に叛すことを謀った。陳宮は張邈を説いて言う。
「今、雄傑は並び起き、天下は分かれ崩れ、君は千里の衆で、四戦の地に当たり、剣を撫で辺りを見回し、その上、人なりは豪であり、反って人を制し、卑しさを伴っていません。今、州軍は東征し、其の処は空虚であり、呂布は壮士であり、善く戦い前に無く、もしこれを迎えれば、共に兗州を牧し、天下の形勢を見て、時事の変通、これに加え縦横の一時を待てましょう」
   張邈はこれに従った。太祖は以前、陳宮に兵を率いらせ東郡に留まらせ、遂にその衆で呂布を東に迎え兗州牧にし、濮陽に拠した。郡県は皆、応じ、鄄城、東阿、范だけは太祖の守と為った。太祖は軍を引き還り、呂布と濮陽で戦い、太祖の軍は不利となり、百日余り相持った。この時の年は旱魃、蟲蝗で穀が少なく、百姓は相食い、呂布は山陽に東屯した。二年間、太祖はかえって尽くし再び諸城を収め、(兗州山陽郡)鉅野で呂布を撃ち破った。呂布は劉備へ東奔した。張邈は呂布に従い、張超の将と家屬を(兗州陳留郡)雍丘に留めた。太祖は数月攻め囲み、これを屠り、張超及び其の家を斬った。張邈は袁術を詣で救いを請うたが未だ至らず、自ら其の兵の殺す所となった。

   この文の呂布が劉備の所へ逃げた所の注で『英雄記』9)の次の部分が引かれる。

   呂布は劉備に見え、これを甚だ慕い、劉備に言う。
「我と卿は同じ辺地人です。布(わたし)は関東の起兵に見え、董卓を誅するのを欲しました。布は董卓を殺し東出し、關東の諸将は布を安んじず、皆、布を殺したいとするのみでした」
   劉備に帳中で床上で婦と座るのを請い、婦に進んで拝させ、酒を酌まさせ飲食し、劉備を弟と呼んだ。劉備は呂布と見え語る言は常で無く、外ではこれを然りとしたが内では述べなかった。

   これら一連の曹操と呂布のやり取りで関わる人物の一人である荀彧について見ていく。<<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)の続きで、『三国志』巻十魏書荀彧伝10)より次のようになる。『後漢書』列伝六十荀彧伝も同様となる。

   明年(初平三年)、太祖は兗州牧を領し、後に鎮東将軍に為り、荀彧は常に司馬で従っていた。興平元年、太祖は陶謙を征し、荀彧を留事に任じた。たまたま張邈、陳宮は兗州で反し、密かに呂布を迎えた。呂布は既に至り、張邈はそこで劉翊に荀彧へ告げさせて言う。
「呂将軍は来て曹使君が陶謙を撃つのを助け、すみやかにその軍食を備えるのが宜しいのでそうせよ。」
   衆は疑い惑った。荀彧は張邈が乱を為すと知り、即ち兵を整え設け備え、東郡太守の夏侯惇(字元讓)を馳せ召し、兗州の諸城は皆呂布に応じた。その時に太祖は軍を尽くし陶謙を攻め、留まり守る兵は少なく、督将大吏は多く張邈、陳宮に与し謀を通じた。夏侯惇は至り、其の夜に謀叛者数十人を誅し、衆はそこで定まった。豫州刺史の郭貢の帥衆数万は来て城下に至り、或る人は呂布と与し謀を同じとすると言い、衆は甚だ懼れた。郭貢は荀彧に見えるのを求め、荀彧はこれから往こうとした。夏侯惇等は言う。
「君は、一州の鎮であり、往くと必ず危ういため、そうするべきではない。」
   荀彧は言う。
「郭貢と張邈等は、分かち元より結ぶには非ず、今、来て招き、計は必ず未だ定まりません。その未だ定まらないのに及びこれを説き、よしや用を為さなくても、中立にさせるべきであり、もし先ずこれを疑うのなら、彼の将は怒り計が成すでしょう」
   郭貢は荀彧に見え懼れる意は無く、鄄城に未だ攻めやすくないと良い、遂に兵を引き去った。また程昱と計し、范、東阿を説かせ、遂に三城を揃い、それにより太祖を待った。太祖は徐州より還り呂布を濮陽に撃ち、呂布は東に走った。二年夏、太祖は乘氏に軍し、大いに飢え、人は相食した。
   陶謙は死に、太祖は遂に徐州を取ると欲し、還りそこで呂布を平定した。荀彧は言う。
「昔、高祖は關中を保ち、光武は河内に拠り、皆、深く本を根ざし固めることで天下を制し、進んでは敵に勝ち足り、退いては固く守り足り、故に困敗が有ったと雖も大業を救うに終えました。将軍は元より兗州を首とし仕え、山東の難を平らげ、百姓はこころを帰し悦んで服さない者はありません。その上、河、濟は、天下の要地であり、今、残壊と雖も、やはり容易く自らで保ち、これに加え将軍は關中と河内に至っており、先ず治めないことはできません。今、李封、薛蘭を破ることで、もし兵を分かち陳宮を東に撃てば、陳宮は必ず敢えて西に顧みることはなく、その間に兵を治めることで実る麦を収め、食を束ね穀を蓄え、一挙すると呂布は破るべきです。呂布を破り、然る後に揚州と南に結し、臨淮、泗で、共に袁術を討ちます。もし呂布を留め東に行き、多く兵を留めれば用いるに足りず、少し兵を留めれば民は皆城を保ち、薪を取り得ません。呂布は虚に乗じ寇暴し、民心は益々危うく、鄄城、范、衛だけは保つことができ、その余りはこの有を収めず、これでは兗州が無くなります。もし徐州が治まらなければ、将軍は帰す所を安んじるべきではないでしょうか。その上、陶謙は死んだと雖も、徐州は未だ簡単に亡びません。彼は往年の敗を留め、これから懼れ縁組みしようとし、互いに表裏と為します。今、東方は皆、麦を収めることで、必ず堅い壁は野を清めて将軍を待ちうけますが、将軍が之を攻めても抜けず、これを略奪し穫れず、十日出ずにいれば、則ち十万の衆は未だ戦わずとも自ら困るのみです。先に徐州を討ち、厳しく罰し実行し、其の子弟が父兄の恥を念じれば、必ず人は自らの守りと為り、心は降らず、もしよくこれを破れば、やはり有るべきではないでしょう。それ固く仕え此を棄て彼を取る者は、大易で小さな可であり、安易で危うい可であり、一時の勢いを謀り、元よりこれを患わず元より可ではありません。今、三者に利なく、将軍におかれましてはこれを熟慮していただきたいと願います。」
   太祖はそこで止めた。大いに麦を収め、再び呂布と戦い、兵を分け諸県を平らげた。呂布は敗走し、兗州は遂に平らげた。

   ここの「十万の衆は」の所の注11)は次のようになる。

   臣松之が思うに当時において徐州は未だ平らげておらず、兗州もまた叛があり、十万の衆を云い、これは抑抗の言と雖も、決して寡弱の称ではない。官渡の役をより知れば、兵は一万に満たないと言い得ないだろう。

   ここの「先に徐州を討ち」の所の注に引く『曹瞞伝』12)は次のようになる。

   京師が董卓の乱に遭って以来、人民は流れ移り東に出て、多く(徐州)彭城の間に依った。たまたま太祖が至り、男女数万口を泗水に坑殺し、水が流れなくなった。陶謙は其の衆を率い(徐州彭城國)武原に移り、太祖は進み得なかった。軍を引き泗南より(徐州下邳國)取慮、睢陵、夏丘の諸県を攻め、皆、これを殺した。鶏犬もまた尽くし、墟邑は再び行く人は無かった。

   次に夏侯惇について見ていく。<<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)の続きになり、『三国志』巻九魏書夏侯惇伝13)より次のようになる。

   太祖は陶謙を征し、夏侯惇を留め濮陽を守った。張邈は叛し呂布を迎え、太祖の家は鄄城に在り、夏侯惇の軽軍は往き赴き、呂布との遭遇に当たり、交戦した。呂布は退き還り、遂に濮陽に入り、夏侯惇の軍の輜重を襲い得た。将に偽りに降らせ、共に夏侯惇を執り持ち、宝貨を取り立て、夏侯惇の軍中は震え懼れた。夏侯惇の将の韓浩はかえって兵を治め夏侯惇の営の門に屯し、軍吏、諸将を招き、皆、初めに分けるべきだと考えたが動き得ず、諸営はかえって定まった。遂に夏侯惇の所へ詣で、(夏侯惇は)人質を持つ者を叱る。
「汝等は凶逆で、そこで敢えて大将軍を執り脅かし、再び生きると欲し望むのか。その上、吾は命を受け賊を討つのに、どうして一将軍の事柄により、汝を許せ得るのか」
   そのため泣いて夏侯惇に言う。
「國法では何をすればよいでしょうか」
   兵を招き人質を持つ者を撃つのを促した。人質を持つ者はにわかに叩頭し、言う。
「我はただ資用を乞い去るのみを欲する。」
   韓浩は数々を責め、皆これを斬った。夏侯惇はすでに免じ、太祖はこれを聞き、韓浩に言う。
「卿が萬世のためこれを良しとする」
   そこで令を著し、今より以後人質を持つ者があれば、人質を顧みず、皆並んで撃つべきだ。これより人質を脅す者は遂に絶えた。

   その次に程昱(字仲德)について見てくる。少し時間が戻って、<<「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)の続きになり、『三国志』巻十四魏書程昱伝14)から次のようになる。

   劉岱は黄巾の殺す所と為った。太祖は兗州に臨み、程昱を招き、程昱は行こうとし、その郷人は言う。
「どうして前後でこれを相背くのか」
   程昱は笑い応じなかった。太祖は与し語り、これを説き、程昱に壽張令を守らせた。太祖は徐州を征し、程昱と荀彧とを鄄城に留め守らせた。張邈等は叛し呂布を迎え、郡県は響き応じ、唯鄄城、范、東阿は動かなかった。呂布の軍の降者は、陳宮に自ら兵を率い東阿を取りたいと言い、また氾嶷に范を取りにいかせ、吏民は皆恐れた。荀彧は程昱に言う。
「今、兗州が反し、唯この三城が有ります。陳宮等は重兵でこれに臨み、その心を深く結んででは有らず、三城は必ず動きます。君は、民の望みであり、帰ってこれを説けば、殆ど可となるでしょう」
   程昱はそこで帰り、范を過ぎ、その令の靳允に説いて言う。
「呂布は君の母弟妻子を執ったと聞き、孝行な子は誠に心のためにできません。今、天下大乱で、英雄は並び起き、必ず命世(著名な人)が有り、良く天下の乱者を止め、この智者の受け入れる所です。主者の昌(盛ん)を得て、主者の亡を失います。陳宮は叛し呂布を迎え百城は皆応じ、良くなす志が有るように見え、然るに君でこれを見て、呂布はどのような人なのでしょうか。それ呂布は、粗く当たり親を誹り、剛で礼が無く、匹夫の雄のみです。陳宮等は勢いで仮に合いますが、良く君を見ていません。兵は集うと雖も、終いには必ず成りません。曹使君の知略は世に出ず、殆ど天の授かるところです。君は必ず范を固く守り、我は東阿を守れば、田單の功を立てられるでしょう。忠に違うか悪に従う母子共に亡ぶのとどちらが良いでしょうか。唯きみはこれを詳しく慮って下さい」
   靳允は流涕して言う。
「敢えて二心を有しません。」
   当時、氾嶷は既に県に在り、靳允はそこで氾嶷に見え、兵を伏しこれを刺し殺し、帰り兵を治め守った。程昱はまた別騎に倉亭津を絶たせ、陳宮は至り、渡り得なかった。程昱は東阿に至り、東阿令の棗祗は厲吏民ををすでに率い、拒み城は堅く守られていた。また兗州従事の薛悌と程昱は協謀し、卒は三城を全うし、太祖に待つことで、太祖は還り、程昱の手を執り言う。
「微子の力、吾の帰る所では無い。」
   そこで程昱を表し(兗州)東平相に為し、范に屯した。

   これの「帰り兵を治め守った」と「范に屯した」には次のようにそれぞれ注15)が付く。

   徐衆は評して言う。
   曹公に靳允は、未だ君臣を成していない。母は、親に至り、義に応じ去った。昔、王陵の母は項羽の捉える所と為り、母は高祖で必ず天下を得るとし、そのため王陵を守るため自殺した。明かな心は縛る所が無く、然る後に人に仕えるのを成し死の節を尽くし得るべきだ。衛公子は方々に開き齊に仕え、積年に帰らず、管仲はその親を思い起こさないと思い、どうして良く君主を愛でることができ、助けると思えないのだろうか。これにより必ず孝子の門で忠臣を求め、靳允は先ず親に至り救うのが良いと思いそうした。徐庶の母は曹公の得る所と為り、劉備はそこで徐庶を帰らせ、天下の者のために人子の情を許したいと欲した。曹公はその上、靳允を遣わすのが良いと思いそうした。

   『魏書』に言う。
   程昱は若い時に常に泰山に上り両手で日を捧げるのを夢見てた。程昱はひそかにこれを異とし、荀彧に語った。兗州の反に及び、程昱を頼り三城を全うし得た。これに於いて程昱の夢を太祖に告げた。太祖は言う。
「卿は終いには吾の腹心に為るべきである」
   程昱の本名は立であり、太祖はそこで其の上に「日」を加え、更に昱と名付けた。

   次のように『三国志』巻十四魏書程昱伝14)の記述に戻る。

   太祖は呂布と濮陽で戦い、数度、不利となった。蝗蟲が起き、そこで各々、引き去った。これにより袁紹は人に太祖へ連和するよう説かせ、太祖に家を移させ鄴に居させるのを欲した。太祖は新たに兗州を失い、軍食は尽き、これから許そうとした。当時、程昱は行き帰らせ、引見し、そのため言う。
「推し量ると将軍は殆ど事に臨み懼れ、そうでなければどうしてこれを慮って深くしないのでしょうか。それ袁紹が燕、趙の地に拠し、天下の心を併せれば、よく治められないと知るでしょう。将軍は自ら度しよくこれの下になれるでしょうか。将軍は龍虎の威で韓、彭の事を為すべきでしょうか。今、兗州と雖も残り、なお三城を有します。よく戦う士は、一万人を下りません。将軍の神武は、文若、昱等と与し、収めこれを用い、霸王の業は成せるでしょう。願わくは将軍の更にこれを慮って下さい」
   太祖はそこで止めた

   これについて次のように注16)が付く。

   魏略に載るに、程昱が太祖を説いて言う。
「昔、田橫、齊の世族は兄弟三人が王に改まり、千里の地に拠し、百万の衆を擁し、諸侯と与し並んで南面し孤と称しました。すでに高祖は天下を得て、田橫は降虜に為るのを願いました。この時に当たり、田橫はどうして心に為すことができたでしょうか。」
   太祖は言う。
「然り。これは誠に丈夫の至辱だ」
   程昱は言う。
「昱愚(わたし)は、大旨を知らず、将軍の志は、田橫の如くではないと存じます。田橫は、齊の一壮士だけであり、ちょうど高祖の臣に為るのを恥じました。今、将軍は家に鄴に往かせるのを欲し、これから北面し袁紹に仕えようとしていると聞きます。それ将軍の聡明は神武であるのに、反って袁紹の下に為るのを恥じず、ひそかに将軍のためこれを恥じます」
   その後の語りは本伝の略と同じだ。

<2012年5月9日追記>
   <<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)にある『三国志』巻十七魏書于禁伝17)の続きが次のようにこの時期にかかってくる。

   (于禁は)濮陽で呂布を討つのに従い、城南で別に呂布の二営を破り、また別将は(兗州東平國)須昌で高雅(他に記述なく詳細不明)を破った。

<2012年5月13日追記>
   <<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)にある『三国志』巻十八魏書典韋伝18)の続きが次のようにこの時期にかかってくる。前述の『三国志』巻十四魏書程昱伝の「太祖は呂布と濮陽で戦い、数度、不利となった」記述にある一つだろう。

   (典韋は)後に夏侯惇に属し、首を数々斬り功が有り、司馬を拜した。太祖は濮陽で呂布を討った。呂布に別屯が有り濮陽の西四、五十里に在り、太祖は夜襲し、明かりを合わせこれを破った。未だ帰還に及ばず、呂布に会い救う兵が至り、三面で古い戦った。その時、呂布は自ら身を固め戦い、日の出から日没に至まで数十合し、互いに激しさを保った。太祖は陣を落とすのを募り、典韋は先ず訪ね、応募者数十人率い、皆、二つの鎧を重ね着て、楯を棄て、しかし長矛を持ち戟と取った。その時、西面しまた急ぎ、典韋は進みこれに当たり、賊は弓弩を乱発し、矢は雨の如く至り、典韋は視ず、等人(同輩)に言う。
「虜が十歩来たら、乃ちこれを言え」
   等人は言う。
「十歩です」
   また言う。
「五歩で乃ち言え」
   等人は恐れ、早く言う。
「虜が至りました」
   典韋は十戟余りを自ら持ち、大声で呼び起こし、当たる所は手にして倒れ応じない者は無かった。呂布の衆は退き、日暮れに会い、太祖はそこで引き去り得た。

<2012年6月14日追記>
   <<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)にある『三国志』巻九魏書曹仁伝21)の続きが次のようになり、この時期にかかってくる。

   太祖は呂布を征し、曹仁は(兗州濟陰郡)句陽を別に攻め、これを抜き、呂布の將の劉何を生け捕った。

   <<「動き出した関東諸将」(孫氏からみた三国志49)にある『三国志』巻九魏書曹洪伝22)の続きが次のようになり、この時期より少し前の時期も含めまとめて記される。

   太祖は徐州を征し、張邈は兗州の叛を挙げ呂布を迎えた。当時、大いに饑荒し、曹洪(字子廉)は兵を率い前に在り、先ず(兗州)東平、(兗州東郡)范を拠し、糧穀を集めることで軍を継いだ。太祖は張邈、呂布を(兗州東郡)濮陽で討ち、呂布は破れ走り、遂に(兗州東郡)東阿に拠し、転じ(兗州)濟陰、(兗州)山陽、(司隸河南尹)中牟、(司隸河南尹)陽武、(司隸河南尹)京、(司隸河南尹)密十県余りを撃ち、皆これを抜いた。
<追記終了>

   このように興平元年に、曹操が徐州への遠征に始まり、途中、結果的に呂布により引き戻される形となった。この状況の興平二年の状況を説明する前に孫策の記述へと移る。




1)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。本文のネタバレあり。

興平元年春、太祖自徐州還、初、太祖父嵩、去官後還譙、董卓之亂、避難瑯邪、為陶謙所害、故太祖志在復讎東伐。夏、使荀彧・程昱守鄄城、復征陶謙、拔五城、遂略地至東海。還過郯、謙將曹豹與劉備屯郯東、要太祖。太祖撃破之、遂攻拔襄賁、所過多所殘戮。
會張邈與陳宮叛迎呂布、郡縣皆應。荀彧・程昱保鄄城、范・東阿二縣固守、太祖乃引軍還。布到、攻鄄城不能下、西屯濮陽。太祖曰:「布一旦得一州、不能據東平、斷亢父・泰山之道乘險要我、而乃屯濮陽、吾知其無能為也。」遂進軍攻之。布出兵戰、先以騎犯青州兵。青州兵奔、太祖陳亂、馳突火出、墜馬、燒左手掌。司馬樓異扶太祖上馬、遂引去。未至營止、諸將未與太祖相見、皆怖。太祖乃自力勞軍、令軍中促為攻具、進復攻之、與布相守百餘日。蝗蟲起、百姓大餓、布糧食亦盡、各引去。
秋九月、太祖還鄄城。布到乘氏、為其縣人李進所破、東屯山陽。於是紹使人説太祖、欲連和。太祖新失兗州、軍食盡、將許之。程昱止太祖、太祖從之。冬十月、太祖至東阿。
是歳穀一斛五十餘萬錢、人相食、乃罷吏兵新募者。陶謙死、劉備代之。
二年春、襲定陶。濟陰太守呉資保南城、未拔。會呂布至、又撃破之。夏、布將薛蘭・李封屯鉅野、太祖攻之、布救蘭、蘭敗、布走、遂斬蘭等。布復從東緡與陳宮將萬餘人來戰、時太祖兵少、設伏、縱奇兵撃、大破之。布夜走、太祖復攻、拔定陶、分兵平諸縣。布東奔劉備、張邈從布、使其弟超將家屬保雍丘。秋八月、圍雍丘。

2)   『三国志』巻一魏書武帝紀注引『世語』、韋曜『呉書』より。

世語曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兗州、劭兵未至、陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以為劭迎、不設備。謙兵至、殺太祖弟德于門中。嵩懼、穿後垣、先出其妾、妾肥、不時得出;嵩逃于廁、與妾俱被害、闔門皆死。劭懼、棄官赴袁紹。後太祖定冀州、劭時已死。韋曜呉書曰:太祖迎嵩、輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衛送、闓於泰山華・費間殺嵩、取財物、因奔淮南。太祖歸咎於陶謙、故伐之。

3)   『三国志』巻一魏書武帝紀注より。

孫盛曰:夫伐罪弔民、古之令軌;罪謙之由、而殘其屬部、過矣。

4)   『三国志』巻一魏書武帝紀注引袁暐『献帝春秋』より。

袁暐獻帝春秋曰:太祖圍濮陽、濮陽大姓田氏為反閒、太祖得入城。燒其東門、示無反意。及戰、軍敗。布騎得太祖而不知是、問曰:「曹操何在?」太祖曰:「乘黄馬走者是也。」布騎乃釋太祖而追黄馬者。門火猶盛、太祖突火而出。

5)   『三国志』巻一魏書武帝紀注引『魏書』より。

於是兵皆出取麥、在者不能千人、屯營不固。太祖乃令婦人守陴、悉兵拒之。屯西有大隄、其南樹木幽深。布疑有伏、乃相謂曰:「曹操多譎、勿入伏中。」引軍屯南十餘里。明日復來、太祖隱兵隄裏、出半兵隄外。布益進、乃令輕兵挑戰、既合、伏兵乃悉乘隄、歩騎並進、大破之、獲其鼓車、追至其營而還。

6)   『三国志』巻七魏書呂布伝および『三国志』巻七魏書張邈伝より。

布自以殺卓為術報讎、欲以德之。術惡其反覆、拒而不受。北詣袁紹、紹與布撃張燕于常山。燕精兵萬餘、騎數千。布有良馬曰赤兔。常與其親近成廉・魏越等陷鋒突陳、遂破燕軍。而求益兵衆、將士鈔掠、紹患忌之。布覺其意、從紹求去。紹恐還為己害、遣壯士夜掩殺布、不獲。事露、布走河内、與張楊合。紹令衆追之、皆畏布、莫敢逼近者。
張邈字孟卓、東平壽張人也。少以俠聞、振窮救急、傾家無愛、士多歸之。太祖・袁紹皆與邈友。辟公府、以高第拜騎都尉、遷陳留太守。董卓之亂、太祖與邈首舉義兵。汴水之戰、邈遣衛茲將兵隨太祖。袁紹既為盟主、有驕矜色、邈正議責紹。紹使太祖殺邈、太祖不聽、責紹曰:「孟卓、親友也、是非當容之。今天下未定、不宜自相危也。」邈知之、益德太祖。太祖之征陶謙、敕家曰;「我若不還、往依孟卓。」後還、見邈、垂泣相對。其親如此。
呂布之捨袁紹從張楊也、過邈臨別、把手共誓。紹聞之、大恨。邈畏太祖終為紹撃己也、心不自安。興平元年、太祖復征謙、邈弟超、與太祖將陳宮・從事中郎許汜・王楷共謀叛太祖。宮說邈曰:「今雄傑並起、天下分崩、君以千里之衆、當四戰之地、撫劍顧眄、亦足以為人豪、而反制于人、不以鄙乎!今州軍東征、其處空虛、呂布壯士、善戰無前、若權迎之、共牧兗州、觀天下形勢、俟時事之變通、此亦縱橫之一時也。」邈從之。太祖初使宮將兵留屯東郡、遂以其衆東迎布為兗州牧、據濮陽。郡縣皆應、唯鄄城・東阿・范為太祖守。太祖引軍還、與布戰於濮陽、太祖軍不利、相持百餘日。是時歲旱・蟲蝗・少穀、百姓相食、布東屯山陽。二年間、太祖乃盡復收諸城、撃破布于鉅野。布東奔劉備。邈從布、留超將家屬屯雍丘。太祖攻圍數月、屠之、斬超及其家。邈詣袁術請救未至、自為其兵所殺。

7)   『三国志』巻七魏書呂布伝注引『英雄記』より。

布自以有功于袁氏、輕傲紹下諸將、以為擅相署置、不足貴也。布求還洛、紹假布領司隸校尉。外言當遣、内欲殺布。明日當發、紹遣甲士三十人、辭以送布。布使止于帳側、偽使人于帳中鼓箏。紹兵臥、布無何出帳去、而兵不覺。夜半兵起、亂斫布床被、謂為已死。明日、紹訊問、知布尚在、乃閉城門。布遂引去。

8)   『三国志』巻七魏書呂布伝注引『英雄記』より。

楊及部曲諸將、皆受傕・汜購募、共圖布。布聞之、謂楊曰:「布、卿州里也。卿殺布、於卿弱。不如賣布、可極得汜・傕爵寵。」楊於是外許汜・傕、内實保護布。汜・傕患之、更下大封詔書、以布為潁川太守。

9)   『三国志』巻七魏書呂布伝注引『英雄記』より。

布見備、甚敬之、謂備曰:「我與卿同邊地人也。布見關東起兵、欲誅董卓。布殺卓東出、關東諸將無安布者、皆欲殺布耳。」請備于帳中坐婦床上、令婦向拜、酌酒飲食、名備為弟。備見布語言無常、外然之而内不説。

10)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。

明年、太祖領兗州牧、後為鎮東將軍、彧常以司馬從。興平元年、太祖征陶謙、任彧留事。會張邈・陳宮以兗州反、潛迎呂布。布既至、邈乃使劉翊告彧曰:「呂將軍來助曹使君撃陶謙、宜亟供其軍食。」衆疑惑。彧知邈為亂、即勒兵設備、馳召東郡太守夏侯惇、而兗州諸城皆應布矣。時太祖悉軍攻謙、留守兵少、而督將大吏多與邈・宮通謀。惇至、其夜誅謀叛者數十人、衆乃定。豫州刺史郭貢帥衆數萬來至城下、或言與呂布同謀、衆甚懼。貢求見彧、彧將往。惇等曰:「君、一州鎮也、往必危、不可。」彧曰:「貢與邈等、分非素結也、今來速、計必未定;及其未定説之、縱不為用、可使中立、若先疑之、彼將怒而成計。」貢見彧無懼意、謂鄄城未易攻、遂引兵去。又與程昱計、使説范・東阿、卒全三城、以待太祖。太祖自徐州還撃布濮陽、布東走。二年夏、太祖軍乘氏、大饑、人相食。
陶謙死、太祖欲遂取徐州、還乃定布。彧曰:「昔高祖保關中、光武據河内、皆深根固本以制天下、進足以勝敵、退足以堅守、故雖有困敗而終濟大業。將軍本以兗州首事、平山東之難、百姓無不歸心悅服。且河・濟、天下之要地也、今雖殘壞、猶易以自保、是亦將軍之關中・河内也、不可以不先定。今以破李封・薛蘭、若分兵東撃陳宮、宮必不敢西顧、以其閒勒兵收熟麥、約食畜穀、一舉而布可破也。破布、然後南結揚州、共討袁術、以臨淮・泗。若舍布而東、多留兵則不足用、少留兵則民皆保城、不得樵採。布乘虛寇暴、民心益危、唯鄄城・范・衛可全、其餘非己之有、是無兗州也。若徐州不定、將軍當安所歸乎?且陶謙雖死、徐州未易亡也。彼懲往年之敗、將懼而結親、相為表裏。今東方皆以收麥、必堅壁清野以待將軍、將軍攻之不拔、略之無獲、不出十日、則十萬之衆未戰而自困耳。前討徐州、威罰實行、其子弟念父兄之恥、必人自為守、無降心、就能破之、尚不可有也。夫事固有棄此取彼者、以大易小可也、以安易危可也、權一時之勢、不患本之不固可也。今三者莫利、願將軍熟慮之。」太祖乃止。大收麥、復與布戰、分兵平諸縣。布敗走、兗州遂平。

11)   『三国志』巻十魏書荀彧伝注引『曹瞞伝』より。

自京師遭董卓之亂、人民流移東出、多依彭城閒。遇太祖至、坑殺男女數萬口於泗水、水為不流。陶謙帥其衆軍武原、太祖不得進。引軍從泗南攻取慮・睢陵・夏丘諸縣、皆屠之;鶏犬亦盡、墟邑無復行人。

12)   『三国志』巻十魏書荀彧伝注引『曹瞞伝』より。

臣松之以為于時徐州未平、兗州又叛、而云十萬之衆、雖是抑抗之言、要非寡弱之稱。益知官渡之役、不得云兵不滿萬也。

13)   『三国志』巻九魏書夏侯惇伝より。

太祖征陶謙、留惇守濮陽。張邈叛迎呂布、太祖家在鄄城、惇輕軍往赴、適與布會、交戰。布退還、遂入濮陽、襲得惇軍輜重。遣將偽降、共執持惇、責以寶貨、惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門、召軍吏諸將、皆案甲當部不得動、諸營乃定。遂詣惇所、叱持質者曰:「汝等凶逆、乃敢執劫大將軍、復欲望生邪!且吾受命討賊、寧能以一將軍之故、而縱汝乎?」因涕泣謂惇曰:「當奈國法何!」促召兵撃持質者。持質者惶遽叩頭、言「我但欲乞資用去耳」!浩數責、皆斬之。惇既免、太祖聞之、謂浩曰:「卿此可為萬世法。」乃著令、自今已後有持質者、皆當并撃、勿顧質。由是劫質者遂絶

14)   『三国志』巻十四魏書程昱伝より。

劉岱為黄巾所殺。太祖臨兗州、辟昱。昱將行、其郷人謂曰:「何前後之相背也!」昱笑而不應。太祖與語、説之、以昱守壽張令。太祖征徐州、使昱與荀彧留守鄄城。張邈等叛迎呂布、郡縣響應、唯鄄城・范・東阿不動。布軍降者、言陳宮欲自將兵取東阿、又使氾嶷取范、吏民皆恐。彧謂昱曰:「今兗州反、唯有此三城。宮等以重兵臨之、非有以深結其心、三城必動。君、民之望也、歸而説之、殆可!」昱乃歸、過范、説其令靳允曰:「聞呂布執君母弟妻子、孝子誠不可為心!今天下大亂、英雄並起、必有命世、能息天下之亂者、此智者所詳擇也。得主者昌、失主者亡。陳宮叛迎呂布而百城皆應、似能有為、然以君觀之、布何如人哉!夫布、麤中少親、剛而無禮、匹夫之雄耳。宮等以勢假合、不能相君也。兵雖眾、終必無成。曹使君智略不世出、殆天所授!君必固范、我守東阿、則田單之功可立也。孰與違忠從惡而母子俱亡乎?唯君詳慮之!」允流涕曰:「不敢有二心。」時氾嶷已在縣、允乃見嶷、伏兵刺殺之、歸勒兵守。昱又遣別騎絶倉亭津、陳宮至、不得渡。昱至東阿、東阿令棗祗已率厲吏民、拒城堅守。又兗州從事薛悌與昱協謀、卒完三城、以待太祖。太祖還、執昱手曰:「微子之力、吾無所歸矣。」乃表昱為東平相、屯范。
太祖與呂布戰于濮陽、數不利。蝗蟲起、乃各引去。於是袁紹使人説太祖連和、欲使太祖遷家居鄴。太祖新失兗州、軍食盡、將許之。時昱使適還、引見、因言曰:「竊聞將軍欲遣家、與袁紹連和、誠有之乎?」太祖曰:「然。」昱曰:「意者將軍殆臨事而懼、不然何慮之不深也!夫袁紹據燕・趙之地、有并天下之心、而智不能濟也。將軍自度能為之下乎?將軍以龍虎之威、可為韓・彭之事邪?今兗州雖殘、尚有三城。能戰之士、不下萬人。以將軍之神武、與文若・昱等、收而用之、霸王之業可成也。願將軍更慮之!」太祖乃止。

15)   『三国志』巻十四魏書程昱伝注より。

徐衆評曰:允於曹公、未成君臣。母、至親也、於義應去。昔王陵母為項羽所拘、母以高祖必得天下、因自殺以固陵志。明心無所係、然後可得成事人盡死之節。衛公子開方仕齊、積年不歸、管仲以為不懷其親、安能愛君、不可以為相。是以求忠臣必於孝子之門、允宜先救至親。徐庶母為曹公所得、劉備乃遣庶歸、欲為天下者恕人子之情也。曹公亦宜遣允。
魏書曰:昱少時常夢上泰山、兩手捧日。昱私異之、以語荀彧。及兗州反、賴昱得完三城。於是彧以昱夢白太祖。太祖曰:「卿當終為吾腹心。」昱本名立、太祖乃加其上「日」、更名昱也。

16)   『三国志』巻十四魏書程昱伝注より。

魏略載昱説太祖曰:「昔田橫、齊之世族、兄弟三人更王、據千里之地、擁百萬之眾、與諸侯並南面稱孤。既而高祖得天下、而橫顧為降虜。當此之時、橫豈可為心哉!」太祖曰:「然。此誠丈夫之至辱也。」昱曰:「昱愚、不識大旨、以為將軍之志、不如田橫。田橫、齊一壯士耳、猶羞為高祖臣。今聞將軍欲遣家往鄴、將北面而事袁紹。夫以將軍之聰明神武、而反不羞為袁紹之下、竊為將軍恥之!」其後語與本傳略同。

17)   『三国志』巻十七魏書于禁伝より。

從討呂布於濮陽、別破布二營於城南、又別將破高雅於須昌。

18)   『三国志』巻十八魏書典韋伝より。

後屬夏侯惇、數斬首有功、拜司馬。太祖討呂布於濮陽。布有別屯在濮陽西四五十里、太祖夜襲、比明破之。未及還、會布救兵至、三面掉戰。時布身自搏戰、自旦至日昳數十合、相持急。太祖募陷陳、韋先占、將應募者數十人、皆重衣兩鎧、棄楯、但持長矛撩戟。時西面又急、韋進當之、賊弓弩亂發、矢至如雨、韋不視、謂等人曰:「虜來十歩、乃白之。」等人曰:「十歩矣。」又曰:「五歩乃白。」等人懼、疾言「虜至矣!」韋手持十餘戟、大呼起、所抵無不應手倒者。布衆退。會日暮、太祖乃得引去。

19)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝より。

袁紹攻公孫瓚、先主與田楷東屯齊。曹公征徐州、徐州牧陶謙遣使告急於田楷、楷與先主俱救之。時先主自有兵千餘人及幽州烏丸雜胡騎、又略得飢民數千人。既到、謙以丹楊兵四千益先主、先主遂去楷歸謙。謙表先主為豫州刺史、屯小沛。謙病篤、謂別駕麋竺曰:「非劉備不能安此州也。」謙死、竺率州人迎先主、先主未敢當。下邳陳登謂先主曰:「今漢室陵遲、海内傾覆、立功立事、在於今日。彼州殷富、戸口百萬、欲屈使君撫臨州事。」先主曰:「袁公路近在壽春、此君四世五公、海内所歸、君可以州與之。」登曰:「公路驕豪、非治亂之主。今欲為使君合歩騎十萬、上可以匡主濟民、成五霸之業、下可以割地守境、書功於竹帛。若使君不見聽許、登亦未敢聽使君也。」北海相孔融謂先主曰:「袁公路豈憂國忘家者邪?冢中枯骨、何足介意。今日之事、百姓與能、天與不取、悔不可追。」先主遂領徐州。

20)   『三国志』巻三十二蜀書先主伝注所引『献帝春秋』より。

獻帝春秋曰:陳登等遣使詣袁紹曰:「天降災沴、禍臻鄙州、州將殂殞、生民無主、恐懼姦雄一旦承隙、以貽盟主日昃之憂、輒共奉故平原相劉備府君以為宗主、永使百姓知有依歸。方今寇難縱橫、不遑釋甲、謹遣下吏奔告于執事。」紹答曰:「劉玄德弘雅有信義、今徐州樂戴之、誠副所望也。」

21)   『三国志』巻九魏書曹仁伝より。

太祖征呂布、仁別攻句陽、拔之、生獲布將劉何。

22)   『三国志』巻九魏書曹洪伝より。

太祖征徐州、張邈舉兗州叛迎呂布。時大饑荒、洪將兵在前、先據東平・范、聚糧穀以繼軍。太祖討邈・布於濮陽、布破走、遂據東阿、轉撃濟陰・山陽・中牟・陽武・京・密十餘縣、皆拔之。以前後功拜鷹揚校尉、遷揚武中郎將。


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