<<
>>
劉虞の死(孫氏からみた三国志58)
2011.02.14.
<<徐州からの波紋(孫氏からみた三国志57)


   ほぼ<<「界橋の戦い」(孫氏からみた三国志54)の終わりから始まる。
   『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝1)では初平三年(紀元192年)の界橋の戦い直後から次のように書かれている。

   公孫瓚(字伯珪)の軍は敗れ(幽州廣陽郡)薊に還った。袁紹(字本初)は将の崔巨業に兵一万を率いらせ、故地を攻め囲ませ安んじ下せず、軍を退き南へ還った。公孫瓚は歩騎三万人を率い巨馬水に追撃し、その衆を大破し、死者は七、八千になった。勝ちに乗り南に行き、郡県を攻め下し、遂に(青州)平原へ至り、乃ちその青州刺史の田揩に斉地に拠有させた。袁紹はふたたび兵数万と田揩とを二年(初平三年、四年)、連戦させ、糧食が並びに尽くし、士卒は疲れ困り、互いに百姓を掠め、野は青草を無くした。袁紹は乃ち子の袁譚を青州刺史にし、田揩は戦い、敗退し還った。

   このまま公孫瓚対袁紹の戦いを追う前に、前回に触れた長安からの話になる。『後漢書』列伝五十四趙岐伝2)からの以下の文だ。

   献帝は都を西にし、(趙岐字邠卿を)再び議郎を拝し、ようやく太僕に遷った。李傕の專政に及び、太傅の馬日磾(字翁叔)に天下を安んじいたらわせ、趙岐を副にした。馬日磾は洛陽へ行き至り、表し別に遣わし趙岐に国命を宣揚させ、郡県に至る所となり、百姓は皆喜んで言う。
「今日、乃ち使者の車騎に再び見えた」
   この時、袁紹、曹操(字孟徳)と公孫瓚は冀州を争い、袁紹及び曹操は趙岐が至ると聞き、皆、自ら兵を数百里を率い奉迎し、趙岐は深く天子の恩徳を並べ、宜しく兵を棄て人の道を安んじ、又、公孫瓚に移書し、利害を言った。袁紹等は各々兵を引き去り、皆、趙岐と洛陽で時期を約して会い、車駕を奉迎した。趙岐は陳留へ南に至り、重病を得て、二年に経て渉り、期者は遂に至らなかった。

   この時の様子は、別の視点からも書かれている。以下、『後漢書』列伝六十四上袁紹伝3)の記述から。

   (初平四年初頭、天子は太僕の趙岐に関東を和解させようと遣わし、各々、兵を止めさせた。公孫瓚はこれにより書を以て袁紹を諭して言う。
「趙太僕は周、邵の徳を以て、君命を奉じ来征し、朝恩を宣揚し、和睦を以て示し、雲が開き日が見える如く明かで、このように何を喜びましょうか。昔、賈復、寇恂が争い危害を合い加え、世祖に会いもつれを解き、遂に輿を同じくして並び出ました。釁難(かたき)は既に解きほぐされ、当時の人はこれを美しいとしました。自ら辺鄙をはかり、将軍と共同を得て親しみを分かち、これは誠に将軍の恵みであり、瓚(わたし)の願いです」
   袁紹はこれにおいて軍を引き南へ還った。

   似たような記述が次のように『三国志』巻六魏書袁紹伝注引『英雄記4)に見られる。

   初平四年、天子は太傅の馬日磾、太僕の趙岐を使い関東と和解した。趙岐は別に河北に至り、袁紹は百里上に出迎え、帝命を拝奉した。趙岐は袁紹の営に住み、書を移し公孫瓚に告げた。公孫瓚は使いを遣り袁紹にそなえ書で言う。
「趙太僕は周、召の徳をもって、銜命し来征し、朝恩を世に表し、和睦をもって示し、雲を開き日を表すごとくひろくし、このように何を喜ぶのだろうか?   昔、賈復と寇恂もまた士卒で争い、互いに危害をくわえようと欲し、光武の寬にまみえ、自らともに陛下に謁見し、同じ輿に共に出て、時の人は栄えと思った。自ら辺境の田舎を見て、将軍と共に同じこの福、この誠の将軍の恵を得て、瓚(わたし)は幸福です」

   この袁紹と公孫瓚の動きと並行し、次の『後漢書』列伝四十八臧洪伝5)にある臧洪(字子源)の動きが目に付く。

   当時、討虜校尉の公孫瓚と大司馬の劉虞(字伯安)とに隙があり、張超及び遣わされた臧洪は劉虞を詣で、共にその難を謀った。河間に行くと幽、冀が会い兵を交え、行塗(途)が阻まれ、そのため、袁紹に身を寄せた。袁紹は臧洪に見え、甚だこれを奇とし、互いに友好を結び、臧洪を以て青州刺史を領させた。前の刺史の焦和は好んで虚名を立て、清談を良くした。当時、黄巾群盜は各所で激しく起こり、青州の部は充実し、軍は改まって尚募った。焦和は諸同盟と共に京師へ西赴と欲したが、未だ行くに及ばず、賊は既に城邑を屠った。焦和は軍事と警備を治めなかったが、巫史を居並べ、群神に禜禱(おはらい)し、百姓は再び安んじた。

   さらに時間を追い、再び『後漢書』列伝六十四上袁紹伝3)を見ていく。以下。

   (初平四年三月の上巳、(冀州安平国経県)薄落津において賓徒を大會し、(冀州)魏郡の兵反を聞き、黑山賊の干毒等数万人と共に(冀州安魏郡)鄴城を覆い、郡守を殺した。鄴者に在る客家の中に座り、皆憂い怖れ色を失い、或いは起き叫び泣き、袁紹の容貌は落ち着き、常度(不変の法度)を改めなかった。賊に陶升という者が有り、「平漢将軍」を自号し、独り諸賊に反し、部衆を率い西城を越え入り、府門を閉じ、車重を備え、袁紹の家及び諸衣冠で州内に在る者を載せ、身で自ら扞衛(守備)し、斥丘に送り至った。袁紹が還り、斥丘に駐屯することで、陶升を以て建義中郎将にした。六月、袁紹は乃ち出軍し、朝歌の鹿腸山の蒼巖谷口に入り、干毒を討った。五日、囲み攻め、これを破り、干毒及びその衆一万級余りを斬った。袁紹は遂に山を尋ね北行し、諸賊の左髭丈八等を進み撃ち、皆これを斬り、また劉石、青牛角、黃龍、左校、郭大賢、李大目、于氐根等を撃ち、再び数万級を斬り、皆それを屠り壁に屯した。遂に黑山賊張燕及び四営屠各、鴈門烏桓と常山で戦った。張燕の精兵数万、騎数千匹と、十日余り連戦し、張燕の兵は多く死傷したと雖も、袁紹の軍もまた疲れ、遂に各々退いた。麴義は自ら有功に頼り、驕り恣にし常軌を逸し、袁紹は召しこれを殺し、その衆を併せた。

   于毒は<<「青州黄巾」(孫氏からみた三国志56)で初平三年(紀元192年)春に兗州東郡東武陽の賊として出てきており、同一人物だとすれば、「武陽を棄て還った」後に、冀州魏郡鄴城に向かい、初平四年三月以降、袁紹と敵対するのだろう。
   また、同じ于毒の反乱が『三国志』巻六魏書袁紹伝注引『英雄記』0602-10)に記載があるが、前述した初平四年初頭に太僕の趙岐が関東に訪れる話以前の出来事になっており、他の史書の記述と時系列の順序が異なる。
幽州関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   一方、公孫瓚はというと、『三国志』巻八魏書公孫瓚伝6)の記述から。

   劉虞は公孫瓚が変わるのを懼れ、遂に兵を挙げ公孫瓚を襲った。劉虞は公孫瓚に敗れるところとなり出て(幽州上谷郡)居庸に走った。公孫瓚は居庸を抜き、劉虞を生け捕り、劉虞を薊(幽州刺史治)に還らせた。たまたま董卓(仲穎)が死に、天子は使者の段訓を使わし劉虞の邑を増やし、六州を督させ、公孫瓚を前将軍に遷し、(冀州河間国)易侯に封じた。

   ここでは董卓が亡くなった頃、つまり初平三年(紀元192年)夏四月二十三日頃の出来事となっているが、以下のように『後漢書』列伝六十三劉虞伝7)に一年以上違う時期で詳しく書かれている。ともかく、公孫瓚は劉虞を捕らえたようだ。

   劉虞は数度、公孫瓚に請い、たちまち病気を称して応じなかった。劉虞はすなわち密かにこれを討つよう謀るため、東曹掾の右北平出身の魏攸に告げた。魏攸は言う。
「今、天下は首を長くして待ち、公(あなた)を帰らせようとすることで、謀臣は爪と牙を無くすことができなくなります。公孫瓚の文武の才力は頼むに足るものであり、小さな悪があるといえども、まことに宜しく容忍して下さい」
   劉虞は乃ち止めた。
   この頃に魏攸は卒去し、積もる怒りは止まなかった。(初平四年冬、遂に自ら諸屯兵を率い十万人を集い合わせ公孫瓚を攻めた。将に行き、従事の(幽州)代郡の程緒は冑を脱いで前に行き言う。
「公孫瓚は過悪が有ると雖も、罪名は未だ正せていません。明公(あなた)はあかつきにまず告げず行いを改めさせず、蕭牆(門内)に兵起しても、国の利ではありません。勝敗に加え守り難く、兵を留める如くではなく、武を以てこれに臨み、公孫瓚は必ず禍を悔い罪を謝り、所謂、戦わず人を服します」
   劉虞は程緒が事に臨み議を防ぐとして、遂にこれを斬ることで従えた。戒軍士は言う。
「余人に傷付けず、一人の伯珪を殺すのみです」
   当時、州従事の公孫紀が居て、公孫瓚は同姓を以てこれを厚く待遇した。公孫紀は劉虞の謀りを知り、夜、公孫瓚に告げた。公孫瓚の当時の部曲は放ち散り外に在り、倉卒は自ら懼れ免じず、乃ち東城を掘り逃走を欲した。劉虞の兵は戦うのを習わず、また廬舍で人を慈しみ、焚燒を受け入れないように敕し、急ぎ攻め囲み下らないようにした。公孫瓚は乃ち鋭士数百人を選び募り、風に頼り火を放ち、直ぐにこれに衝突した。劉虞は遂に大敗し、官属と共に(幽州上谷郡)居庸県へ北に走った。公孫瓚はこれを追い攻め、三日で城が陥落した。遂に劉虞と妻子を併せ捕らえ薊へ還り、なお州文書を領させた。たまたま天子が使者の段訓を遣わせ劉虞に邑を封じ六州事を督させたのを加え、公孫瓚に前将軍を配させ易侯を封じ、節を仮し幽、并、青、冀を督させた。

   一方、冒頭の続きで、『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝1)では次のように書かれている。

   この歳(初平四年)、公孫瓚は劉虞を敗り擒にし、幽州の地を尽くし、猛志は益々盛り上がった。この前に童謡が有って言う。
「燕が南垂し、趙は北際し、中央は合わず大いなる砥石のようで、唯、この中に有って世を避けるべし」
   公孫瓚は自らを以て易地と為しこれに当たり、遂に遷り鎮めた。乃ち営塁、楼観数十を盛り修め、易河に臨み、遼海に通じた。

   その後、劉虞はどうなるかというと、まず『後漢書』列伝六十三劉虞伝7)を見る。前述の続きだ。

   公孫瓚は乃ち劉虞の前と袁紹等を誣し尊号を称するのを欲し、薊市で劉虞を斬るよう導き脅した。先ず座し呪って言う。
「もし劉虞が応じ天子になるならば、天はまさに風雨を以て合い救うだろう」
当時は日照りで炎盛の勢いがあり、遂に斬った。首は京師に伝わり、故吏の尾敦は路で劉虞の首を引き取り帰しこれを葬った。公孫瓚は乃ち上へ幽州刺史に為るよう導いた。劉虞は恩厚を以て衆を得て、北州を広く恵み、百姓は旧地へ流れ、痛く惜しまない者は無かった。
   以前、劉虞は質素を以て操り、冠が綻びるが改めず、乃ちその穴を就補した。殺害に及び、公孫瓚の兵はその内を捜し、妻妾は羅紈(白いうしぎぬ)を服し、綺飾を盛り、当時の人はこのためこれを疑った。劉和は後に袁紹に従い公孫瓚に報いたと云う。

   こうして劉虞は公孫瓚に殺され、その様子は『三国志』巻八魏書公孫瓚伝及びその注に引く史書8)にも書かれている。前述と重複する部分もあるが、以下に続けて書く。

   公孫瓚は劉虞を誣して尊号を称したいと欲し、脅し劉虞を斬るよう導いた。公孫瓚は幽州刺史になるよう上に導いた。公孫瓚は遂に得意になっていばり、過ぎるを記し善を忘れ、多く賊に害される所だった。

   『魏氏春秋』に言う。
   以前、劉虞が戎狄に和み集まり、公孫瓚は胡夷を以て護るのを難しいとし、まさにもてなさないで、これを討ち、今、財賞を加え、必ず益々、漢を軽んじ、一時の名を表し、久しく長い深慮ではないとした。そのため、劉虞が賞賜する所で、公孫瓚は則ち鈔奪した。劉虞が数々、会うのを請いたが、病気を称し往かなかった。ここに至り戦に敗れ、劉虞がこれを討つと欲し、東曹掾の右北平人の魏攸に告げた。魏攸は言う。
「今、天下は引領(首を長くして待ち)し、公を以て帰しても、謀臣の爪牙を、無くせません。公孫瓚は、文武の才力は恃みに足り、小悪が有ると雖も、頑なに許して我慢すべきです」
   乃ち止めた。その後一年で、魏攸は病死した。劉虞はまた官属に議を与え、密かに衆に公孫瓚を襲うよう命令した。公孫瓚の部曲は放たれ散り外に在り、敗れるのを自ら懼れ、東の城門を掘り逃走しようと欲した。劉虞の兵は部伍(隊伍)が無く、戦いに習わず、また民屋を慈しみ、焼くなと敕令した。そのため公孫瓚は放火し得て、精鋭に頼り衝突した。劉虞の衆は大きく潰れ、居庸城へ走った。公孫瓚は攻め及び家属を還らせ、州府で殺害し、衣冠の善士は殆ど尽きた。

   『典略』に言う。
   公孫瓚は劉虞を市に晒し祝って言う。
「もし応じ(劉虞が)天子になるならば、天はまさに雨を降らしこれを救うだろう」
   当時は盛暑で日が終わっても雨が降らず、遂に劉虞を殺した。

   『英雄記』に言う。
   劉虞はここに殺害に見え、故に常山相の孫瑾、掾の張逸、張瓚等の忠義は憤り発し、合い与し劉虞に就き、言葉の限り公孫瓚を罵り、しかる後、死を同じくした。

   『英雄記』に言う。
   公孫瓚は内外を統べ、衣冠の子弟に材秀者が有り、必ず抑え窮苦の地に居させ困らせた。或る人はその理由を問うて、答えて言う。
「今、衣冠を取る家の子弟及び善士はこれを富貴とし、皆自らが職に対しまさにこれを得たりと思い、人善に謝意を示さない」
   格別に恩遇し所で我が侭し放題の者は、多くの凡庸な児の類で、故(もと)の卜数師の劉緯臺、販繒の李移子、賈人の樂何當等三人であり、これに与し兄弟の誓いを定め、自ら号し伯とし、三人の者に言って仲叔季とし、まさに皆、巨億に富み、あるいはその女(むすめ)をとって己の子に配し、常に古者曲周、灌嬰の属を称し譬えていた。

   劉虞の死は次の『後漢書』紀九孝獻帝紀9)にも書かれている。

   (初平四年冬十月)公孫瓚は大司馬の劉虞を殺した。

   劉虞が殺されて終わりではなく、ここで鮮于輔と言う者が絡んでくる。まずは同じく『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝1)から。前述の続き。

   劉虞の従事の(幽州)漁陽出身の鮮于輔等は州兵を合わせ率い、共に公孫瓚に報いると欲した。鮮于輔は燕国出身の閻柔を以て元より恩信が有り、推し烏桓司馬にした。閻柔は胡漢数万人を招き誘い、公孫瓚の置く所の漁陽太守の鄒丹と(漁陽郡)潞北で戦い、鄒丹等四千級余りを斬った。

   同じような内容の記述が『三国志』巻八魏書公孫瓚伝6)にある。以下、前述の続き。

   劉虞の従事の漁陽出身の鮮于輔、斉周、騎都尉の鮮于銀等は、州兵を率い公孫瓚を報いるのを欲し、燕国の閻柔が元より恩信が有るのを以て、共に閻柔を烏丸司馬に推した。閻柔は烏丸、鮮卑を招き誘い、胡漢数万人を得て、公孫瓚の置く所の漁陽太守の鄒丹と潞北において戦い、これを大破し、鄒丹を斬った。

   こうして初平四年までの公孫瓚の動きを追ってきたが、次回はうってかわって孫堅(字文臺)の長男である孫策(字伯符)の話となる。




1)   『後漢書』列伝六十三公孫瓚伝より。

瓚軍敗還薊。紹遣將崔巨業將兵數萬攻圍故安不下、退軍南還。瓚將歩騎三萬人追撃於巨馬水、大破其衆、死者七八千人。乘勝而南、攻下郡縣、遂至平原、乃遣其青州刺史田揩據有齊地。紹復遣兵數萬與揩連戰二年、糧食並盡、士卒疲困、互掠百姓、野無青草。紹乃遣子譚為青州刺史、揩與戰、敗退還。
是歳、瓚破禽劉虞、盡有幽州之地、猛志益盛。前此有童謠曰:「燕南垂、趙北際、中央不合大如礪、唯有此中可避世。」瓚自以為易地當之、遂徙鎮焉。乃盛修營壘、樓觀數十、臨易河、通遼海。
劉虞從事漁陽鮮于輔等、合率州兵、欲共報瓚。輔以燕國閻柔素有恩信、推為烏桓司馬。柔招誘胡漢數萬人、與瓚所置漁陽太守鄒丹戰于潞北、斬丹等四千餘級。

2)   『後漢書』列伝五十四趙岐伝より。

及獻帝西都、復拜議郎、稍遷太僕。及李傕專政、使太傅馬日磾撫慰天下、以岐為副。日磾行至洛陽、表別遣岐宣揚國命、所到郡縣、百姓皆喜曰:「今日乃復見使者車騎。」
是時袁紹・曹操與公孫瓚爭冀州、紹及操聞岐至、皆自將兵數百里奉迎、岐深陳天子恩德、宜罷兵安人之道、又移書公孫瓚、為言利害。紹等各引兵去、皆與岐期會洛陽、奉迎車駕。岐南到陳留、得篤疾、經涉二年、期者遂不至。

3)   『後漢書』列伝六十四上袁紹伝より。

四年初、天子遣太僕趙岐和解關東、使各罷兵。瓚因此以書譬紹曰:「趙太僕以周・邵之德、銜命來征、宣揚朝恩、示以和睦、曠若開雲見日、何喜如之!昔賈復・寇恂爭相危害、遇世祖解紛、遂同輿並出。釁難既釋、時人美之。自惟邊鄙、得與將軍共同斯好、此誠將軍之眷、而瓚之願也。」紹於是引軍南還。
三月上巳、大會賓徒於薄落津。聞魏郡兵反、與黑山賊干毒等數萬人共覆鄴城、殺郡守。坐中客家在鄴者、皆憂怖失色、或起而啼泣、紹容貌自若、不改常度。賊有陶升者、自號「平漢將軍」、獨反諸賊、將部衆踰西城入、閉府門、具車重、載紹家及諸衣冠在州內者、身自扞衛、送到斥丘。紹還、因屯斥丘、以陶升為建義中郎將。六月、紹乃出軍、入朝歌鹿腸山蒼巖谷口、討干毒。圍攻五日、破之、斬毒及其衆萬餘級。紹遂尋山北行、進撃諸賊左髭丈八等、皆斬之、又撃劉石・青牛角・黃龍・左校・郭大賢・李大目・于氐根等・復斬數萬級、皆屠其屯壁。遂與黑山賊張燕及四營屠各・鴈門烏桓戰於常山。燕精兵數萬、騎數千匹、連戰十餘日、燕兵死傷雖多、紹軍亦疲、遂各退。麴義自恃有功、驕縱不軌、紹召殺之、而并其衆。

4)   『三国志』巻六魏書袁紹伝注引『英雄記』より。

初平四年、天子使太傅馬日磾・太僕趙岐和解關東。岐別詣河北、紹出迎於百里上、拜奉帝命。岐住紹營、移書告瓚。瓚遣使具與紹書曰:「趙太僕以周召之德、銜命來征、宣揚朝恩、示以和睦、曠若開雲見日、何喜如之?昔賈復・寇恂亦爭士卒、欲相危害、遇光武之寬、親俱陛見、同輿共出、時人以為榮。自省邊鄙、得與將軍共同此福、此誠將軍之眷、而瓚之幸也。」

5)   『後漢書』列伝四十八臧洪伝より。

時討虜校尉公孫瓚與大司馬劉虞有隙、超乃遣洪詣虞、共謀其難。行至河閒而値幽冀交兵、行塗阻絶、因寓於袁紹。紹見洪、甚奇之、與結友好、以洪領青州刺史。前刺史焦和好立虚譽、能清談。時黄巾群盜處處飆起、而青部殷實、軍革尚衆。和欲與諸同盟西赴京師、未及得行、而賊已屠城邑。和不理戎警、但坐列巫史、禜禱群神。又恐賊乘凍而過、命多作陷冰丸、以投于河。衆遂潰散、和亦病卒。洪收撫離叛、百姓復安。

6)   『三国志』巻八魏書公孫瓚伝より。

虞懼瓚為變、遂舉兵襲瓚。虞為瓚所敗、出奔居庸。瓚攻拔居庸、生獲虞、執虞還薊。會卓死、天子遣使者段訓增虞邑、督六州;瓚遷前將軍、封易侯。瓚誣虞欲稱尊號、脅訓斬虞。瓚上訓為幽州刺史。瓚遂驕矜、記過忘善、多所賊害。虞從事漁陽鮮于輔・齊周・騎都尉鮮于銀等、率州兵欲報瓚、以燕國閻柔素有恩信、共推柔為烏丸司馬。柔招誘烏丸・鮮卑、得胡・漢數萬人、與瓚所置漁陽太守鄒丹戰于潞北、大破之、斬丹。

7)   『後漢書』列伝六十三劉虞伝より。

虞數請瓚、輒稱病不應。虞乃密謀討之、以告東曹掾右北平魏攸。攸曰:「今天下引領、以公為歸、謀臣爪牙、不可無也。瓚文武才力足恃、雖有小惡、固宜容忍。」虞乃止。
頃之攸卒、而積忿不已。四年冬、遂自率諸屯兵衆合十萬人以攻瓚。將行、從事代郡程緒免冑而前曰:「公孫瓚雖有過惡、而罪名未正。明公不先告曉使得改行、而兵起蕭牆、非國之利。加勝敗難保、不如駐兵、以武臨之、瓚必悔禍謝罪、所謂不戰而服人者也。」虞以緒臨事沮議、遂斬之以徇。戒軍士曰:「無傷餘人、殺一伯珪而已。」時州從事公孫紀者、瓚以同姓厚待遇之。紀知虞謀而夜告瓚。瓚時部曲放散在外、倉卒自懼不免、乃掘東城欲走。虞兵不習戰、又愛人廬舍、敕不聽焚燒、急攻圍不下。瓚乃簡募鋭士數百人、因風縱火、直衝突之。虞遂大敗、與官屬北奔居庸縣。瓚追攻之、三日城陷、遂執虞并妻子還薊、猶使領州文書。會天子遣使者段訓增虞封邑、督六州事;拜瓚前將軍、封易侯、假節督幽・并・青・冀。瓚乃誣虞前與袁紹等欲稱尊號、脅訓斬虞於薊市。先坐而曰:「若虞應為天子者、天當風雨以相救。」時旱埶炎盛、遂斬焉。傳首京師、故吏尾敦於路劫虞首歸葬之。瓚乃上訓為幽州刺史。虞以恩厚得衆、懷被北州、百姓流舊、莫不痛惜焉。
初、虞以儉素為操、冠敝不改、乃就補其穿。及遇害、瓚兵搜其內、而妻妾服羅紈、盛綺飾、時人以此疑之。和後從袁紹報瓚云。

8)   『三国志』巻八魏書公孫瓚伝及びその注に引く史書より。

魏氏春秋曰:初、劉虞和輯戎狄、瓚以胡夷難禦、當因不賓而討之、今加財賞、必益輕漢、效一時之名、非久長深慮。故虞所賞賜、瓚輒鈔奪。虞數請會、稱疾不往。至是戰敗、虞欲討之、告東曹掾右北平人魏攸。攸曰:「今天下引領、以公為歸、謀臣爪牙、不可無也。瓚、文武才力足恃、雖有小惡、固宜容忍。」乃止。後一年、攸病死。虞又與官屬議、密令衆襲瓚。瓚部曲放散在外、自懼敗、掘東城門欲走。虞兵無部伍、不習戰、又愛民屋、敕令勿燒。故瓚得放火、因以精鋭衝突。虞衆大潰、奔居庸城。瓚攻及家屬以還、殺害州府、衣冠善士殆盡。典略曰:瓚曝虞于市而祝曰:「若應為天子者、天當降雨救之。」時盛暑、竟日不雨、遂殺虞。英雄記曰:虞之見殺、故常山相孫瑾・掾張逸・張瓚等忠義憤發、相與就虞、罵瓚極口、然後同死。
英雄記曰:瓚統内外、衣冠子弟有材秀者、必抑使困在窮苦之地。或問其故、答曰:「今取衣冠家子弟及善士富貴之、皆自以為職當得之、不謝人善也。」所寵遇驕恣者、類多庸兒、若故卜數師劉緯臺・販繒李移子・賈人樂何當等三人、與之定兄弟之誓、自號為伯、謂三人者為仲叔季、富皆巨億、或取其女以配己子、常稱古者曲周・灌嬰之屬以譬也。

9)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

公孫瓚殺大司馬劉虞


<<
>>