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徐州からの波紋(孫氏からみた三国志57)
2011.01.29.
<<青州黄巾(孫氏からみた三国志56)


   皇帝が居る長安の動きを追うため、少し時間を戻す。前回の冒頭で徐州の陶謙(字恭祖)が長安に使いを遣わしたということに触れたんだが、その頃、皇帝のおわす長安はどうだったかというと、<<「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)の続きとなり、例によって『後漢書』紀九孝献帝紀1)で追っていく。

   (初平三年、紀元192年)秋七月庚子(13日)、太尉の馬日磾は太傅となり、尚書事を録した。八月、馬日磾及び太僕の趙岐を遣わし、節を持たせ、天下を慰撫した。車騎将軍の皇甫嵩は太尉となった。司徒の趙謙は罷免された。
   九月李傕は自ら車騎将軍になり、郭汜は後将軍、樊稠は右将軍、張濟は鎮東将軍となった。張濟は出て、弘農に屯した。
   甲申(17日)、司空の淳于嘉は司徒になり、光祿大夫の楊彪は司空となり、並んで尚書事を録した。
   冬十二月、太尉の皇甫嵩は免じられた。光祿大夫の周忠は太尉となり、録尚書事に参じた。

   このように、以前、董卓(字仲穎)を誅殺した首謀者である王允(字子師)が、逆に董卓縁の者である李傕に誅殺され、その後、董卓縁の李傕、郭汜、樊稠、張濟らが要職に着いている。この中でむしろ董卓と険悪な関係にあった皇甫嵩(字義真)を見ていく。『後漢書』列伝六十一皇甫嵩伝2)では、

   董卓が誅を被るに及び、皇甫嵩を以て征西将軍に為し、また車騎将軍に遷った。その年の、太尉を拝し、、流星を以て策免した。再び光祿大夫に拝し、太常に遷った。ついで李傕が乱を作り、皇甫嵩もまた病卒し、驃騎将軍の印綬が贈られ、家の一人が拝し郎と為した。
   皇甫嵩の人となりは慎みを慈しみ勤めを尽くし、前後で上表し補益者五百事余が有る諫を並べ、皆、書を持ち起草を破り、外で述べなかった。又、節を曲げ士に下し、門に客を留めなかった。当時、人は皆、称賛し、これに付いた。

となり、『後漢書』紀九孝献帝紀の記述を補足する形となる。ここにある李傕の乱は他の『後漢書』の伝に書かれており、前述の皇甫嵩伝に近い『後漢書』列伝六十一朱儁伝3)から。<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)の記述の続き。

   董卓が誅を被るに及び、李傕、郭汜は乱を作り、朱儁(字公偉)は当時、猶、中牟に在った。陶謙は朱儁を以て名臣とし、戦功が数有って、大事を以て委ね、乃ち諸豪傑は共に朱儁を太師に推し、それにより檄を牧伯に移し、李傕等を同じく討ち、天子を奉迎すべきだとした。乃ち朱儁へ奏記し言う。
「徐州刺史の陶謙、前の楊州刺史の周乾、琅邪相の陰徳、東海相の劉馗、彭城相の汲廉、北海相の孔融、沛相の袁忠、太山太守の應劭、汝南太守の徐璆、前の九江太守の服虔、博士の鄭玄等、敢えてこれを行車騎将軍河南尹莫府に言います。国家は既に董卓に遭い、李傕、郭汜の禍を以て重きをなし、幼主の脅しに執られ、忠良は痛み、長安は隔絶し、吉凶は知れなかった。是を以て官尹人に臨み、紳(おび)(に版)を搢み識が有り、憂え恐れない者は無く、自ら雄覇の士を明らかにせずと思い、どうして禍乱に勝ち救えましょうか。自ら兵を起こし既に来て、これに於いて三年、州郡は転じ見て見回し伺い、未だ奮撃の功がなく、互いに私変を争い、さらに互いに疑惑をみせました。陶謙等は並びに共に謀り相談し、国難を消すように議しました。皆、言います。『将軍君侯は、既に文と武を兼ね、運に応じ出て、凡百の君子は、靡き穏やかではいられませんでした』   故(もと)の相は率い励み、精悍を簡選し、良く深く入るのに堪え、直に咸陽を指し、半年支え足り、謹んで心腹を同じくし、これを元帥に委ねます」
   たまたま李傕は太尉の周忠と尚書の賈詡(字文和)の策を用い、朱儁を朝に入るよう徴発した。軍吏は皆、関に入るのを憚り、陶謙等に応じるのを欲した。朱儁は言う。
「君が臣を招くのを以て、義は駕を待たないことであり、いわんや天子が召している。その上、李傕、郭汜は小豎であり、樊稠は愚かな兒で、他の者に袁略が無く、また勢力は合い敵し、禍難は必ず起き、吾はその間に乗じ、大事として救うべきだ」
   遂に陶謙へ辞し李傕の徴発に就き、再び太僕と為り、陶謙等は遂に罷免された。

   前述の通り周忠が太尉になった時期は初平三年十二月であるため、それ以降、朱儁が長安に赴いたと思われる。同じ初平三年に涼州から大きな動きが起こる。それは『三国志』巻六魏書董卓伝4)に書かれてある。要職に着く頃からの記述で次のようになる。

   李傕は車騎将軍、池陽侯になり、司隸校尉を領し、節を仮された。郭汜は後将軍、美陽侯になり、樊稠は右将軍となり、萬年侯となった。李傕、郭汜は朝政を恣にした。張濟は驃騎将軍、平陽侯となり、弘農に駐屯した。
   この歳(初平三年)、韓遂馬騰等が降り、衆を率い長安を詣でた。韓遂を以て鎮西将軍と為し、涼州に還らし、馬騰を征西將軍にし郿に駐屯させた。

   ここで李傕と郭汜について、注で『英雄記』5)が引かれ、

   李傕は北地人だ。郭汜は張掖人で、一名は多だ。

とある。韓遂と馬騰は<<「狄道の攻防戦」(孫氏からみた三国志37)に中平四年(紀元187年)に起こった涼州の乱の記述で触れた。韓遂、馬騰等が投降は次の『三国志』巻三十六蜀書馬超伝6)にも書かれている。

   初平三年、韓遂と馬騰は衆を率い長安に詣でた。漢朝は韓遂を以て鎮西将軍にし、金城へ還らせ、馬騰を征西将軍にし、郿に駐屯させた。

   これで治まる訳もなくまた別の展開を見せるのだけど、それはまだ先のことなので、追うのを保留にし、初平四年に時を進める。まずは『三国志』巻一魏書武帝紀7)で次のように書かれている。これは前回の末尾の続きとなる。

   (初平)四年春、(曹操字孟徳は兗州濟陰郡)鄄城に陣取った。荊州牧の劉表(字景升)は袁術(字公路)の糧道を断ち、袁術は軍を引き(兗州)陳留に入り、(兗州陳留郡)封丘に駐屯し、黒山の余賊及び於夫羅等はこれを補佐した。袁術は将の劉詳を(兗州陳留郡平丘県)匡亭に駐屯させた。太祖は劉詳を撃ち、袁術がこれを救って、戦い、大いにこれを(太祖が)破った。袁術が退き封丘を保ち、ついにこれを包囲し、未だ合わず、袁術は(兗州陳留郡)襄邑へ敗走した。

<2011年3月20日追記>
   <<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)にある『三国志』巻八魏書張楊伝の記述では於扶羅(於夫羅)は袁紹に与していたが、先の記述では袁紹に敵対する袁術についている。先の記述まで何があったかというと、次に示す『三国志』巻八魏書張楊伝14)の続きに書かれている。

   單于(於夫羅)は叛するのを欲し、袁紹、張楊は従わなかった。單于は張楊を執り共に去り、袁紹は将の麹義に鄴南へ追撃させ、これを破った。單于は張楊を執り黎陽へ至り、度遼将軍の耿祉の軍を攻め破り、集まり再び振るった。董卓は張楊を建義将軍、河内太守とした。
<追記終了>

   前述の『三国志』巻一魏書武帝紀の記述でどう言った糧道を断ったのかよく判らないが(孫堅の任地だった豫州から?)、ともかくその影響で袁術は兗州入りした。これについて『三国志』巻六魏書袁術伝8)、『後漢書』列伝六十五袁術伝9)、『三国志』巻一魏書武帝紀注引『英雄記』16)に書かれており、次に三つ続けて書く。

   (袁術は)軍を引き陳留に入った。太祖(曹操)と袁紹(字本初)は合い撃ち、袁術の軍を大破した。袁術は余った衆を以て(揚州)九江に奔り、揚州刺史の陳温を殺し、其州を領した。張勳と橋蕤等を以て大将軍とした。

   (初平)四年(紀元193年)、袁術は軍を引き陳留に入り、封丘に屯した。黒山余賊及び於扶羅等における匈奴が袁術を助け、曹操と匡亭で戦い、大敗した。袁術は退き雍丘を保ち、またその余衆を率い九江へ奔り、揚州刺史の陳温を殺し自らこれを領し、また徐州伯と兼称した。

<9月3日追記>
   『英雄記』に言う。
   袁紹は後に袁遺(字伯業)を用い揚州刺史にし、袁術の敗る所と為った。太祖は称賛する。
「長大にて良く勤勉する者は、ただ我と袁伯業のみだ」
   語は文帝の典論に在る。
<追記終了>

   この三つによると袁術は揚州に入り、袁遺を敗り、遂に別の刺史殺しに及んだことになっているが、前者の『三国志』巻六魏書袁術伝10)や『三国志』巻五十六呉書呂範伝15)で裴松之が異なった記述の文献を引いている。以下続けて。

   臣の松之は『英雄記』を案ずる。
   陳温は元悌を字し、(豫州)汝南人だ。まず揚州刺史に為り、自ら病で死んだ。袁紹は袁遺に州を領させ、敗れ散り、沛国に奔り、兵に殺される所となった。袁術は更に陳瑀を用い揚州とした。陳瑀は公瑋と字し、下邳人だった。陳瑀は既に州を領し、袁術は封丘において敗れ、寿春へ南向し、陳瑀は袁術を拒み入れなかった。袁術は退き陰陵を保ち、さらに軍を合わせ陳瑀を攻め、陳瑀は懼れ走り下邳に帰った。
   この如くであり、則ち陳温は袁術に殺された所ではなく、本伝と同じではない。

<9月3日追記>
   『九州春秋』に言う。
   初平三年(紀元192年)、揚州刺史の陳禕が死に、袁術は陳瑀に揚州牧を領させた。後に袁術は(兗州陳留郡)封丘にて曹公(曹操)の敗る所と為り、南人は陳瑀に版し、陳瑀はこれを拒んだ。袁術は(揚州九江郡)陰陵に走り、好言により陳瑀を下し、陳瑀は権謀を知らず、また怯え、袁術を攻めるのに至らなかった。袁術は淮北(淮水の北)にて兵を集め(揚州九江郡)壽春に向かった。陳瑀は懼れ、その弟の陳公琰に袁術に和を請いさせた。袁術はこれを執り進み、陳瑀は走り下邳に帰った。
陶謙関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   朱儁を太師に推した陶謙の話に戻る。前回の『三国志』巻八魏書陶謙伝11)の記述の続きは次のようになる。

   (徐州)下邳の闕宣は自ら天子を称し、陶謙は初め共に合い従い寇しかすめ取り、後に遂に闕宣を殺し、その衆を併せた。

   先の朱儁の動き、袁術の動き、闕宣の動きを含め、『後漢書』紀九孝献帝紀1)では年月付きで次のように書かれている。

   (初平)四年(紀元193年)春正月甲寅朔(1月1日)、日を食すのが有った
   丁卯(14日)、天下に大赦した   
   三月、袁術は楊州刺史の陳温を殺し、淮南に拠した。
   長安の宣平城門の外屋が自壊した。
   夏五月癸酉(22日)、雲が無く雷があった。六月、扶風で大風があり雨雹があった。華山が崩裂した。
   太尉の周忠は免じ、太僕の朱儁は太尉になり尚書事に録した。
   下邳賊の闕宣は自ら天子を称した。

   闕宣については『後漢書』本紀以外にも『三国志』本紀に書かれてあって、前述の『三国志』巻一魏書武帝紀7)での続きとなる。以下。

   下邳の闕宣は数千人を集め、自ら天子を称した。徐州牧の陶謙と共に兵を挙げ、(兗州)泰山の華、費を取り、(兗州)任城を略奪した。秋、太祖(曹操)は陶謙を征し、十城余り下し、陶謙は城を守り敢えて出なかった。

   ここの初平四年秋以降のことは『三国志』巻八魏書陶謙伝11)や『後漢書』列伝六十三陶謙伝12)に詳しく、続けて記す。

   初平四年、太祖(曹操)は陶謙を征し、十城余りを攻め抜き、(徐州)彭城に至り大いに戦った。陶謙の兵は敗走し、死者は万数になり、泗水はこのため流れなかった。陶謙は退き郯を守った。太祖は糧が少ないことで軍を引き還った。

   昔、曹操の父の曹嵩が(徐州)琅邪に難を避け、当時、陶謙の別将は(徐州東海国)陰平を守り、士卒は曹嵩の財宝を利し、遂に襲いこれを殺した。初平四年、曹操は陶謙を撃ち、彭城(国)の傅陽を破った。陶謙は退き(徐州東海国)郯を保ち、曹操はこれを攻めたが克てず、乃ち還った。過ぎ抜き、(徐州下邳国)取慮、雎陵、夏丘、皆これを屠った。凡そ男女数十万人を殺し、鶏犬は余らず、泗水はこのため流れず、これにより五県城が保ち、行跡を復さなかった。以前、三輔は李傕の乱に遭い、百姓は流れ移り陶謙に依った者は皆、殺された。

   後者の『後漢書』列伝六十三陶謙伝にある曹嵩の記述は『三国志』巻八魏書陶謙伝では注に引く『呉書』にあり、また『三国志』巻一魏書武帝紀では初平四年の所にはなく、その次年の興平元年のところに見える。つまり曹操が陶謙を攻めたのは初平四年と興平元年の二回あって、『三国志』の立場だと初平四年の戦いと曹嵩の死は無関係であり、あくまでも闕宣の乱が起因となったといえるが、『後漢書』では初平四年の戦いから曹嵩の死があたかも関係しているような記述の順序となっている。まだ初平四年について書くことがあるため、曹嵩の死については回を改めて書く。初平四年の徐州の惨状は、陶謙が長期に渡り黄巾討伐に従事していたのを考えると、前年の初平三年に曹操の下に編入した黄巾由来の青州兵の暴走によるものと思われる。

<2012年5月9日追記>
   <<「青州黄巾」(孫氏からみた三国志56)にある『三国志』巻十七魏書于禁伝17)の続きが次のようにこの時期にかかってくる。
   (将軍)王朗はこれ(于禁)を異とし、大いに將軍を担い得ると于禁を薦めた。太祖(曹操)は召し見え語り、軍司馬を拝し、將兵を徐州に詣でさせ、廣威(彭城國廣戚?)を攻め、これを抜き、陷陳都尉を拝した。

<2012年6月14日追記>
   <<「冀州の動乱」(孫氏からみた三国志51)にある『三国志』巻九魏書曹仁伝18)の続きが次のようにこの時期にかかってくる。
   太祖(曹操)は行き袁術(字公路)を破り、曹仁(字子孝)が斬って得る所はすこぶる多かった。徐州を征するに従い、曹仁は常に騎を督し、軍の前鋒と為った。陶謙の將の呂由を別に攻め、これを破り、還り大軍と彭城で合流し陶謙軍を大いに破った。(兗州泰山郡)費、華、(青州北海國)即墨、(徐州琅邪國)開陽を攻めるのに従い、陶謙は別將に諸県を救わせ、曹仁は騎でこれを撃ち破った。
<追記終了>

   再び『後漢書』紀九孝献帝紀1)に目を転じ、主に長安のことを追っていく。以下。

   (初平四年夏五月)雨水(川のような雨?)。侍御史の裴茂を訊き遣わし、勅命で裁判し、赦免し軽くした。六月辛丑(20日)、天狗が西北へ行く。
   九月甲午(10月15日)に、儒生四十人余りを試し、上第(そのうち上位)を郎中へ、次を太子舍人へ賜位し、下第者、これを罷免した。詔に言う。
「孔子は『これを学び講ぜず』を嘆き、講ぜずは則ち日々忘れることを知る所だ。今、耆儒(年寄りの儒生)の年が六十を越えれば、本土(郷里)から去り離れ、糧資を営み求めても、専業を得られない。結童が学に入り、白首(白髪)が虚しく帰っても、長く農野を委ね、永く栄望を絶ち、朕はとても哀れむ。その科に依り辞める者は、太子舍人に為るのを定める」
   冬十月、太學で行礼し、車駕は永福城門に行幸し、その儀を臨み観て、博士以下各有差に賜った。
   辛丑(22日)、京師で地震があった。天市において星孛があった。
   司空の楊彪は免じられ、太常の趙温が司空となった。

   裴茂については『後漢書』列伝六十二董卓列伝13)に詳しく書かれている。以下。

   明年(初平四年に、大雨が昼夜二十日余りで、人庶が漂沒し、又、風は冬の時のようだった。帝は御史の裴茂に命じ獄へ元より繋がれる者二百人余りを調べた。それらの中に李傕により冤罪を受けた者が有って、裴茂がこれを許すことを李傕が恐れ、乃ち裴茂が囚徒を出すのを恣にしていると表奏し、姦故(邪悪で偽る)が有ると疑って、これを捕らえるよう請うた。詔に言う。
「災異はしばしば降り、降雨が害となり、使者は君命を報じ恩沢を宣布し、原は軽微に解かれ、諸々は天心に合った。冤罪で心が晴れないのを解きたいと欲し再びこれを罪とする。一切、問うなかれ」

   こうして初平三年から初平四年に渡って主に徐州と長安についてみてきたが、次回は幽州中心に見ていく。




1)   『後漢書』紀九孝献帝紀より。

秋七月庚子、太尉馬日磾為太傅、録尚書事。八月、遣日磾及太僕趙岐、持節慰撫天下。車騎將軍皇甫嵩為太尉。司徒趙謙罷。
九月、李傕自為車騎將軍、郭汜後將軍、樊稠右將軍、張濟鎮東將軍。濟出屯弘農。
甲申、司空淳于嘉為司徒、光祿大夫楊彪為司空、並録尚書事。
冬十二月、太尉皇甫嵩免。光祿大夫周忠為太尉、參録尚書事。
四年春正月甲寅朔、日有食之。
丁卯、大赦天下。
三月、袁術殺楊州刺史陳温、據淮南。
長安宣平城門外屋自壞。
夏五月癸酉、無雲而雷。六月、扶風大風、雨雹。華山崩裂。
太尉周忠免、太僕朱雋為太尉、録尚書事。
下邳賊闕宣自稱天下。
雨水。遣侍御史裴茂訊詔獄、原輕繫。六月辛丑、天狗西北行。
九月甲午、試儒生四十餘人、上第賜位郎中、次太子舍人、下第者罷之。詔曰:「孔子歎『學之不講』、不講則所識日忘。今耆儒年踰六十、去離本土、營求糧資、不得專業。結童入學、白首空歸、長委農野、永絶榮望、朕甚愍焉。其依科罷者、聽為太子舍人。」
冬十月、太學行禮、車駕幸永福城門、臨觀其儀、賜博士以下各有差。
辛丑、京師地震。有星孛于天市。
司空楊彪免、太常趙温為司空。

2)   『後漢書』列伝六十一皇甫嵩伝より。

及卓被誅、以嵩為征西將軍、又遷車騎將軍。其年秋、拜太尉、冬、以流星策免。復拜光祿大夫、遷太常。尋李傕作亂、嵩亦病卒、贈驃騎將軍印綬、拜家一人為郎。
嵩為人愛慎盡勤、前後上表陳諫有補益者五百餘事、皆手書毀草、不宣於外。又折節下士、門無留客。時人皆稱而附之。

3)   『後漢書』列伝六十一朱儁伝より。

及董卓被誅、傕・汜作亂、雋時猶在中牟。陶謙以雋名臣、數有戰功、可委以大事、乃與諸豪桀共推雋為太師、因移檄牧伯、同討李傕等、奉迎天子。乃奏記於雋曰:「徐州刺史陶謙・前楊州刺史周乾・琅邪相陰德・東海相劉馗・彭城相汲廉・北海相孔融・沛相袁忠・太山太守應劭・汝南太守徐璆・前九江太守服虔・博士鄭玄等、敢言之行車騎將軍河南尹莫府:國家既遭董卓、重以李傕・郭汜之禍、幼主劫執、忠良殘敝、長安隔絶、不知吉凶。是以臨官尹人、搢紳有識、莫不憂懼、以為自非明哲雄霸之士、曷能剋濟禍亂!自起兵已來、于茲三年、州郡轉相顧望、未有奮撃之功、而互爭私變、更相疑惑。謙等並共諮諏、議消國難。僉曰:『將軍君侯、既文且武、應運而出、凡百君子、靡不顒顒。』故相率厲、簡選精悍、堪能深入、直指咸陽、多持資糧、足支半歲、謹同心腹、委之元帥。」會李傕用太尉周忠・尚書賈詡策、徵雋入朝。軍吏皆憚入關、欲應陶謙等。雋曰:「以君召臣、義不俟駕、況天子詔乎!且傕・汜小豎、樊稠庸兒、無他遠略、又埶力相敵、變難必作。吾乘其閒、大事可濟。」遂辭謙議而就傕徵、復為太僕、謙等遂罷。

4)   『三国志』巻六魏書董卓伝より。

傕為車騎將軍・池陽侯、領司隸校尉・假節。汜為後將軍・美陽侯。稠為右將軍・萬年侯。傕・汜・稠擅朝政。濟為驃騎將軍・平陽侯、屯弘農。
是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。以遂為鎮西將軍、遣還涼州、騰征西將軍、屯郿。

5)   『三国志』巻六魏書董卓伝注引『英雄記』より。

傕、北地人。汜、張掖人、一名多。

6)   『三国志』巻三十六蜀書馬超伝より。

初平三年、遂・騰率衆詣長安。漢朝以遂為鎮西將軍、遣還金城、騰為征西將軍、遣屯郿。

7)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。

四年春、軍鄄城。荊州牧劉表斷術糧道、術引軍入陳留、屯封丘、黑山餘賊及於夫羅等佐之。術使將劉詳屯匡亭。太祖撃詳、術救之、與戰、大破之。術退保封丘、遂圍之、未合、術走襄邑、追到太壽、決渠水灌城。走寧陵、又追之、走九江。夏、太祖還軍定陶。
下邳闕宣聚衆數千人、自稱天子;徐州牧陶謙與共舉兵、取泰山華・費、略任城。秋、太祖征陶謙、下十餘城、謙守城不敢出。

8)   『三国志』巻六魏書袁術伝より。

引軍入陳留。太祖與紹合撃、大破術軍。術以餘衆奔九江、殺揚州刺史陳温、領其州。〔二〕以張勳・橋蕤等為大將軍。

9)   『後漢書』列伝六十五袁術伝より。

四年、術引軍入陳留、屯封丘。黑山餘賊及匈奴於扶羅等佐術、與曹操戰於匡亭、大敗。術退保雍丘、又將其餘衆奔九江、殺楊州刺史陳温而自領之、又兼稱徐州伯。

10)   『三国志』巻六魏書袁術伝の裴松之注より。

臣松之案英雄記:「陳温字元悌、汝南人。先為揚州刺史、自病死。袁紹遣袁遺領州、敗散、奔沛國、為兵所殺。袁術更用陳瑀為揚州。瑀字公瑋、下邳人。瑀既領州、而術敗于封丘、南向壽春、瑀拒術不納。術退保陰陵、更合軍攻瑀、瑀懼走歸下邳。」如此、則温不為術所殺、與本傳不同。

11)   『三国志』巻八魏書陶謙伝より。

下邳闕宣自稱天子、謙初與合從寇鈔、後遂殺宣、并其衆。
初平四年、太祖征謙、攻拔十餘城、至彭城大戰。謙兵敗走、死者萬數、泗水為之不流。謙退守郯。太祖以糧少引軍還。

12)   『後漢書』列伝六十三陶謙伝より。

時董卓雖誅、而李傕・郭汜作亂關中。是時四方斷絶、謙毎遣使閒行、奉貢西京。詔遷為徐州牧、加安東將軍、封溧陽侯。是時徐方百姓殷盛、穀實甚豐、流民多歸之。而謙信用非所、刑政不理。別駕從事趙昱、知名士也、而以忠直見疏、出為廣陵太守。曹宏等讒慝小人、謙甚親任之、良善多被其害。由斯漸亂。下邳闕宣自稱「天子」、謙始與合從、後遂殺之而并其衆。
初、曹操父嵩避難琅邪、時謙別將守陰平、士卒利嵩財寶、遂襲殺之。初平四年、曹操撃謙、破彭城傅陽。謙退保郯、操攻之不能克、乃還。過拔取慮・雎陵・夏丘、皆屠之。凡殺男女數十萬人、鶏犬無餘、泗水為之不流、自是五縣城保、無復行跡。初三輔遭李傕亂、百姓流移依謙者皆殲。

13)   『後漢書』列伝六十二董卓列伝より。

傕又遷車騎將軍、開府、領司隸校尉、假節。汜後將軍、稠右將軍、張濟為鎮東將軍、並封列侯。傕・汜・稠共秉朝政。濟出屯弘農。以賈詡為左馮翊、欲侯之。詡曰:「此救命之計、何功之有!」固辭乃止。更以為尚書典選。
明年夏、大雨晝夜二十餘日、漂沒人庶、又風如冬時。帝使御史裴茂訊詔獄、原繫者二百餘人。其中有為傕所枉繫者、傕恐茂赦之、乃表奏茂擅出囚徒、疑有姦故、請收之。詔曰:「災異屢降、陰雨為害、使者銜命宣布恩澤、原解輕微、庶合天心。欲釋冤結而復罪之乎!一切勿問。」
初、卓之入關、要韓遂・馬騰共謀山東。遂・騰見天下方亂、亦欲倚卓起兵。

14)   『三国志』巻八魏書張楊伝より。

單于欲叛、紹・楊不從。單于執楊與俱去、紹使將麴義追擊於鄴南、破之。單于執楊至黎陽、攻破度遼將軍耿祉軍、衆復振。卓以楊為建義將軍・河内太守。

15)   『三国志』巻五十六呉書呂範伝の裴松之注より。

九州春秋曰:初平三年、揚州刺史陳禕死、袁術使瑀領揚州牧。後術為曹公所敗於封丘、南人叛瑀、瑀拒之。術走陰陵、好辭以下瑀、瑀不知權、而又怯、不即攻術。術於淮北集兵向壽春。瑀懼、使其弟公琰請和於術。術執之而進、瑀走歸下邳。

16)   『三国志』巻五十六呉書呂範伝裴松之注所引『英雄記』より。

紹後用遺為揚州刺史、為袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者、惟吾與袁伯業耳。」語在文帝典論。

17)   『三国志』巻十七魏書于禁伝より。

朗異之、薦禁才任大將軍。太祖召見與語、拜軍司馬、使將兵詣徐州、攻廣威、拔之、拜陷陳都尉。

18)   『三国志』巻九魏書曹仁伝より。

太祖之破袁術、仁所斬獲頗多。從征徐州、仁常督騎、為軍前鋒。別攻陶謙將呂由、破之、還與大軍合彭城、大破謙軍。從攻費・華・即墨・開陽、謙遣別將救諸縣、仁以騎撃破之。


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