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動き出した関東諸将(孫氏からみた三国志49)
2008.04.24.
<<破虜将軍・孫文台(孫氏からみた三国志48)


   <<前回は荊州の話をしたが、今回は董卓側、関東(山東)側について。まず両者に関係ある人物を見て、両者の側を見ることに。それは次の『三国志』魏書司馬朗伝1)からの記述。

   この時、董卓(字、仲潁)は天子の都を長安に遷し、董卓は洛陽に留まり頼った。司馬朗(字、伯達)の父の司馬防は治書御史になり、まさに西にうつろうとしており、四方で雲のように乱れているため、乃ち司馬朗をやって家属を率い本県に還ろうとした。ある人は司馬朗が逃亡を欲していると告げ、董卓に詣でることで捕らえようとし、董卓は司馬朗に言う。
「卿(あなた)と吾の亡くなった子は同歳であり、いくばくの大きなことを互いに負うのであろうか」
   そのため司馬朗は言う。
「明公(あなた)は高世の徳により、陽九(災厄)の会に遭遇し、多くの汚れを清く取り除き、広く賢士を挙げ、この誠は心を虚しくし熟考し、将に至治を興しました。威徳が盛んになり、功業が表れ、そのため兵難は日々、起き、州郡は鼎のように沸き上がり、郊境の内では、民は生業を安んぜず、居と産を損ない棄て、流亡し隠れ、四つの関で禁を連ねたといえども、刑で殺戮を加え重ねても、なお死ねず、邑においてこの朗(わたし)の所以であります。明公(あなた)が昔のできごとを調べ見て、少しでも三思を加えれば、即ち日月と並び名声を栄え、伊、周が値しません」
   董卓は言う。
「吾もまたこれを悟り、卿(あなた)の言葉は有意だ」
   司馬朗は董卓が必ず亡ぶことを知り、留まることを恐れ、即ち財物を散らし賄賂をもって董卓の執行する者をやり、郷里へ帰ることを求めた。至り父老に言う。
「董卓は道理に背き、天下から償われるところであり、その勢いは必ずここで止まりましょう。郡と京都の境域は互いに接しており、洛東に成皋が有り、北は大河に接し、天下で義兵を興す者は未だ進め得ずのようで、その勢いは必ずここで止まります。ここは乃ち四分五裂し戦争の地となり、自ら安んずことが難しく、道路はなお通じるということに及ばず、宗を挙げ東の(冀州魏郡)黎陽に到りました。黎陽に営兵があり、趙威孫(趙咨?)は郷里でかつて婚姻し、営を監督する謁者となり、兵馬を統べ、足ることで主となりました。もし後に変があれば、おもむろに再び様子を見ても未だ遅くはありません」
   父老は旧を恋し、従者なく、同県の趙咨を思い、家属を率い司馬朗と共に往った。のち数ヶ月で関東諸州郡は兵を起こし、数十万を集め、みな滎陽および河内に集まった。諸将は互いに一つにできず、兵をほしいままにしかすめとり、民人の死者はその上、半分となった。


   このように董卓による遷都の二月あたりから数ヶ月後に関東に滎陽や河内に集まったことが書かれているがその詳細に移る前に、董卓側の様子に触れる。『後漢書』袁紹伝2)より。

   董卓は袁紹(字、本初)が山東で起兵したことを聞き、乃ち袁紹の叔父の袁隗を誅殺し、京師に在る宗族に及び、尽くこれを滅ぼした。


   これは次のように日付付きで『後漢書』本紀3)にも載っている(ここで言う京師は長安か洛陽のどちらだろうか。まだ行政機関が長安に遷っていないとすれば洛陽なんだけど)。

   戊午(初平元年三月十八日)、董卓は太傅の袁隗(字、次陽)と太僕の袁基を殺し、その族を除いた。


   さらに『後漢書』本紀の注に引く『獻帝春秋』4)にその詳細が書かれている。

   尺口(幼児)以上、男女五十人余り、皆、獄に下し死んだ。


   『後漢書』袁隗伝5)では次のように書かれている(人数が違う)。

   董卓は袁紹、袁術(字、公路)が己に背を向けたことを怨み、遂に袁隗および袁術の兄、袁基男女二十人余りを誅殺した。


   袁隗の代わりに太傅になったのは次の『後漢書』劉虞伝6)のように劉虞(字、伯安)だ。

   初平元年、再び徴集し袁隗の代わりに太傅にした。道路は隔たり塞ぎ、王命は終え、(長安に)達し得なかった。旧(旧領)の幽部(幽州)は荒外に応じ接し、費用ははなはだ広く、年間、常に青州、冀州の賦調二億余りを割くことで、補給しこれに足した。当時、各所で断絶し、貨物を運ぶが至らず、劉虞は務め寛政を存し、農植の監督に勤め、(幽州)上谷で胡市の利を開き、(幽州)漁陽で塩鉄の饒(ゆたかさ)を通じ、民は豊作に喜び、石三十をやしなった。青州、徐州の士庶は黄巾の難を避け、劉虞に帰す者百万口余りになり、皆、めぐみを収め見て、生業を安んじ立て、流民は皆、その遷徙を止めた。劉虞は上公になったといえども、天性は倹約で、破れ衣に縄でつくった履(くつ)で、食は肉を兼ねず、遠近で豪俊(気象才知のすぐれたもの)がつとめて奢るものであり、操を改めないものはなく、心を帰した。
   以前、詔で公孫瓚(字、伯珪)は烏桓を討つよう命令され、劉虞の節度を受けた。しかし公孫瓚は務め徒衆を会わせることで自らを強大にし、部曲をほしいままに任じ、すこぶる百姓をおかし乱したが、劉虞の為政は仁愛にあり、民の物がまさることを思い、これにより公孫瓚とやがて互いにやすらかではなくなった。


   話を戻し、袁隗らが殺されたことに対し、袁紹ら関東諸将がどう動いたか『三国志』魏書武帝紀7)に出ている。

   (初平元年)二月、董卓は(山東で)兵が起こったと聞き、すなわち天子の都を長安に遷した。董卓は洛陽に留まり駐屯し、ついに宮室を焼いた。この時、袁紹は河内に駐屯し、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺は酸棗に駐屯し、袁術は南陽に駐屯し、孔伷は潁川に駐屯し、韓馥は鄴に在った。
   董卓の兵は強く、袁紹らは敢えて先に進もうとはしなかった。太祖(曹操字孟徳)は言う。
「義兵を挙げ暴乱を誅しようと、大衆は既に集合し、諸君は何を疑いましょうか?   仮に董卓が山東の兵起を聞いているのであれば、王室の重に依り、二周の険(要害)に拠り、東へ向かい天下を望むでしょう。道が無くこれを行うといえども、なお満ちて患いとなります。今、宮室を焼き、天子を脅し遷し、海内(天下)は震え動き、帰す所を知らず、この天の亡ぶ時です。一戦で天下が定まり、失敗することはできません」
   遂に(曹操は)兵を西へ引き、まさに成皋をよりどころとしようとした。張邈は将の衛茲を遣り、兵を分け太祖(曹操)に随行させた。滎陽の汴水に至り、董卓の将、徐栄に遭遇し、戦い利を失い、士卒の死傷がはなはだ多かった。太祖(曹操)は流れる矢により当たるところとなり、馬に乗るところで傷を被り、従弟の曹洪は馬をもって太祖と共に、夜に逃れ去ることができた。徐栄は太祖が率いる兵が少ないところを見て、一日中、力戦し、酸棗は未だ攻めやすくないと思い、また兵を引き帰った。

<2010年9月30日追記>
   このことは『三国志』巻七魏書張邈伝13)によると、次のように書かれている。ついでに、張邈伝の冒頭も入れ込む。

   張邈は孟卓と字し、東平壽張人だ。若くして俠聞を以て、窮乏を救い危急を救い、慈しみ無く家を傾け、士は多くこれに帰した。太祖や袁紹は皆張邈と友とした。公府に招かれ、高第を以て騎都尉に拝され、陳留太守に遷った。董卓の乱で、太祖と張邈は主だって義兵を挙げた。汴水の戦いで、張邈は衛茲に兵を率い太祖に随行させた。袁紹は既に盟主になり、驕りが有り、張邈は正に袁紹を議で責めた。袁紹は太祖に張邈を殺させようとしたが、太祖は聴かず、袁紹を責め言う。
「孟卓は親友であり、是非に当にこれを容れます。今、天下は未だ定まらず、自ら危機を直視しません」
   張邈はこれを知り、益々太祖を有り難く思った。

<2012年5月13日追記>
   この時期の張邈配下に次のような人物が居た。『三国志』巻十八魏書典韋伝15)より。

   典韋は(兗州)己吾人だ。形貌は魁梧(からだが大きくて立派で)、旅力(膂力?)は人を過ぎ、志節に任俠が有った。(陳留郡)襄邑の劉氏と(豫州梁國)睢陽の李永は仇と為し、典韋はこれを報いとした。李永は故(もと)の(揚州呉郡)富春長であり、衛を備えはなはだ謹(つつし)んだ。典韋は車に乗り鶏と酒を戴き、偽って候者と為り、門が開き、匕首を懐き入って李永を殺し、併せてその妻を殺し、徐に出て、車上の刀戟を取り、歩き去った。李永は市の近くに居て、一つの市は尽く驚いた。追う者は数百となり、敢えて近付かなかった。四、五里を行き、その伴が遭遇し、転戦し、脱し得た。これにより豪傑の知るところと為った。初平中、張邈は義兵を挙げ、典韋は士と為り、司馬の趙寵に属した。牙門旗の長大で、人は勝ることができず、典韋は一手でこれを建て、趙寵はその才力を異とした。
<追記終了>


   この曹操の敗戦は次の『三国志』魏書曹洪伝8)により詳しく記されている。

   曹洪の字は子廉で、太祖の従弟だ。太祖が義兵を起こし董卓を討ち、滎陽に至ると董卓の将、徐榮に敗れるところとなった。太祖は馬を失い、賊が追いはなはだ急ぎ、曹洪は(馬から)下り、馬を太祖に授け、太祖は辞退し譲るが、曹洪は言う。
「天下に曹洪が無くてもよいが、君が無いことはできません」
   ついに歩き従い汴水に至り、水が深く渡れず、曹洪は汴水に従い船を得て、太祖とともに渡り、譙に帰り奔走した。


   再び『三国志』魏書武帝紀7)の記述に戻る。

   太祖(曹操)は酸棗に至り、諸軍の兵十万余りで、日々、酒を置き盛宴を張り、積極的な行動を図らないでいた。太祖(曹操)はこれを責め、謀ることに頼って言う。
「諸君は吾の計を承け、勃海(袁紹)には河内の衆を率い孟津に臨んでいただきき、酸棗の諸将には成皋を守んでいただき、敖倉に拠り、轘轅(関)、太谷(関)を塞ぎ、それら険(要害)すべてを制していただきます。袁将軍(袁術)には南陽の軍を率い丹(水)、析に陣取り、武関に入ることで、三輔を驚かせていただきます。皆、土塁で深い壁で、戦うことなく、疑兵を増やし、天下に形勢を示し、順をもって反逆者を誅殺し、定めを起こしてください。今、義の動きによる兵は、疑いを持ち進まず、天下の望みを失い、密かに諸君のためにこれを恥じています!」
   張邈らは用いることができなかった。
   太祖の兵は少なく、乃ち夏侯惇らと揚州に詣で募兵し、刺史の陳温と丹楊太守の周昕は兵四千人余りを与えた。還り龍亢に至り、士卒の多くが叛した。銍、建平に至り、再び兵を集め千人余りを得て、進み河内に駐屯した。


   この募兵に関しては再び次の『三国志』魏書曹洪伝8)に詳しい。

   揚州刺史の陳温は元より曹洪を善くし、曹洪は家兵千人余りを率い、陳温の募兵に就き、廬江上で甲二千人を得て、東の丹楊に至り再び数千人を得て、太祖と龍亢で会った。


   士卒の叛乱に関しては『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏書』9)に詳しい。

   魏書に言う。兵は叛を謀り、夜に太祖の帳を焼き、太祖は劍を持ち数十人を殺し、残りは皆、うちなびき、乃ち出営を得た。その叛せず者は五百人余りだった。

洛陽周辺
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)




   こうして関東諸将は積極的に攻めない者が多く、また積極的に攻める者がいても敗れてしまっていた。
   再び中央のことを書くと、『後漢書』本紀3)より。

   夏五月、司空の荀爽(字、慈明)は薨去した。
   六月辛丑(七月三日)、光祿大夫の种拂が司空になった


   荀爽については次のように『後漢書』荀爽伝10)に書かれている。

   荀爽は董卓の残忍がはなはだしく、必ず社稷を危うくすると見て、その招聘するところ皆、挙げ才略の士を取り、まさに共にこれを図り、また司徒の王允と董卓の長史の何顒らと内で謀った。たまたま病気で薨去し、年六十三だった。

<2011年4月3日追記>
   ここの荀爽の死については<<「相国の董卓と関東諸将」(孫氏からみた三国志46)にも書かれており、また荀爽の甥となる荀彧(字文若)がこの時期、どうしたかは、次のように『三国志』巻十魏書荀彧伝14)に書かれている。文中の「永漢元年」は<<「何進暗殺から董卓秉政へ」(孫氏からみた三国志45)参照。

   永漢元年(紀元189年9月2日-年末)、孝廉に挙げられ、守宮令を拝した。董卓の乱で、補吏を求め出された。(兗州任城國)亢父令に除され、遂に官を棄て帰り、父老に言う。
「潁川は、四戦(四面から攻伐)の地であり、天下が変を有すれば、常に兵衝(交戦の地)となり、すみやかにここを去り、久しく留まること無いのが宜しいためそうせよ」 郷人は多く土地、やはり豫に懐き、たまたま冀州牧の同郡の韓馥が騎に迎え立たせたが、随者が無く、荀彧は独り宗族を率い冀州に至った。

<2012年5月18日追記>
   どの時期か詳しく判別しにくいので、ここに追記しておく。次の『三国志』巻十一魏書張範伝16)の記述にあるように、董卓により行動しようとした人物が居た。

   張範は公儀と字し、(司隸)河内脩武人だ。祖父の張歆は、漢の司徒と為った。父の張延は太尉となった。太傅の袁隗は女(むすめ)を範に妻しようと欲したが、張範は辞して受けなかった。性格は恬静(物静かで無欲)で道を楽しみ、栄利に無く、徴命は就く所が無かった。弟の張承は公先と字し、また名を知られ、方正により徴され議郎を拝し、伊闕都尉に遷った。董卓が乱を作り、張承は徒衆を合わせ天下と共に董卓を誅しようと欲した。張承の弟の張昭は時に議郎と為り、行き長安より来て、張承に言う。 「今、董卓を誅しようと欲し、衆は募り敵わず、その上、一朝の謀を起こし、阡陌(あぜ道)の民に戦い、士は元より安んじず、兵は練習せず、成功を伴い難いでしょう。董卓は兵を阻み義が無く、元より久しくできません。帰附する所を選ぶようでなければ、時を待ち動き、しかる後に志に及ぶべきでしょう」    張承はこれを然りとし、そこで印綬を解いて間行し家に帰り、張範と地を揚州に避けた。

<追記終了>


   話を戻し『後漢書』袁紹伝2)より。董卓はさらに行動を起こす。

   董卓は乃ち大鴻臚の韓融、少府の陰循、執金吾の胡母班、將作大匠の呉循、越騎校尉の王瑰を遣り、袁紹らの諸軍の解散を諭させた。袁紹は王匡を使い、胡母班、王瑰、呉循らを殺させ、袁術もまた陰循を殺したが、ただ韓融は名声と徳をもって免じた。


   これは『後漢書』本紀では初平元年の6月から11月以前のところに書かれているが、『三国志』魏書袁紹伝(あるいは『後漢書』袁紹伝)の注に引く謝承『後漢書』と『後漢書』本紀を合わせて見ると胡母班が殺されたのは初平三年八月以降ということになるだろう。その間、拘束されていたのだろうか。
   またその期間に以下のように『後漢書』本紀3)によると、董卓は貨幣に手を出す。

   董卓は五銖銭を壊し、さらに小錢を鋳した。


   このことについて以下のように『後漢書』董卓伝11)に記されている。

   また五銖銭を壊し、さらに小銭と鋳し、ことごとく洛陽および長安の銅人、鍾虡、飛廉、銅馬の類を取り、鋳に充てた。ゆえに貨幣は賤しくなり(安くなり)、物は貴び(価格が上がり)、穀石数万(の価値)となった。また銭は縁取りやあや取りが無く、人が用いるには不便だった。当時の人は秦始皇が臨洮において長人を見たと思い、乃ち銅人を鋳した。董卓は臨洮人で、今、これを壊した。成敗したといえども同じではなく、凶暴は互いに同じ類だった。


   このような横暴な董卓に対し、董卓側に居た者たちも密かに事を謀ろうとしていた。『後漢書』王允伝より12)

   王允(字、子師)は董卓の禍毒がまさに深まり、簒逆がすでに兆しがあることを見て、密かに司隸校尉の黄琬、尚書の鄭公業と共にこれを誅殺しようと謀った。乃ち護羌校尉の楊瓚に左将軍の事に行わせ、執金吾の士孫瑞を南陽太守にするよう上表し、並びに兵を率い武関の道を出て、それにより袁術を討ち名を為そうとし、実際は路で分かれて董卓を征伐し、後に天子を抜き洛陽に帰ろうと欲した。董卓は疑いこれを留め、王允は乃ち内に引き士孫瑞を僕射にし、楊瓚を尚書にした。


   対して関東諸将に動きがある。『後漢書』袁紹伝2)より。

   この時、豪傑は既に多くが袁紹に付き、その上、その家の禍(袁隗らが殺されたこと)に感じ入り、人は報いをなすことを思い、州郡は蜂起し、袁氏をもって名を為さないものはなかった。韓馥は人情を表し袁紹に帰し、その得た衆を忌み、脅しまさに己を図り、常に従事を遣り袁紹の門を守り、兵を発することを受け入れなかった。橋瑁は乃ち三公の移書を偽って作り、州郡に駅を重ね伝え、董卓の罪悪を説き、天子は切迫し、義兵を願い望むことで国難を解きほぐした。韓馥はここにおいてまさに袁紹の挙兵を承けた。乃ち(韓馥は)衆において図って言う。
「袁氏を助けるのか?   董氏を助けるのか?」
   治中の劉惠は急に改まって言う。
「国のために兵を興し、袁か董かどちらを安んじ頼るのでしょうか?」
   韓馥の意はなお袁紹において深く疑い、節と軍糧を減らすたびに、離散させようと欲した。


   このように関東諸将は次第にまとまりがなくなってきたが、次回は孫堅の北上からお伝えする。



1)   『三國志』卷十五 魏書十五 劉司馬梁張温賈傳第十五より。

是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽。朗父防為治書御史、當徙西、以四方雲擾、乃遣朗將家屬還本縣。或有告朗欲逃亡者、執以詣卓、卓謂朗曰:「卿與吾亡兒同歳、幾大相負!」朗因曰:「明公以高世之德、遭陽九之會、清除群穢、廣舉賢士、此誠虚心垂慮、將興至治也。威德以隆、功業以著、而兵難日起、州郡鼎沸、郊境之内、民不安業、捐棄居產、流亡藏竄、雖四關設禁、重加刑戮、猶不絕息、此朗之所以於邑也。願明公監觀往事、少加三思、即榮名並於日月、伊・周不足侔也。」卓曰:「吾亦悟之、卿言有意!」
朗知卓必亡、恐見留、即散財物以賂遺卓用事者、求歸鄉里。到謂父老曰;「董卓悖逆、為天下所讎、此忠臣義士奮發之時也。郡與京都境壤相接、洛東有成皋、北界大河、天下興義兵者若未得進、其勢必停於此。此乃四分五裂戰爭之地、難以自安、不如及道路尚通、舉宗東到黎陽。黎陽有營兵、趙威孫鄉里舊婚、為監營謁者、統兵馬、足以為主。若後有變、徐復觀望未晩也。」父老戀舊、莫有從者、惟同縣趙咨、將家屬倶與朗往焉。後數月、關東諸州郡起兵、眾數十萬、皆集滎陽及河内。諸將不能相一、縱兵鈔掠、民人死者且半。久之、關東兵散、太祖與呂布相持於濮陽、朗乃將家還溫。時歳大饑、人相食、朗收恤宗族、教訓諸弟、不為衰世解業。

2)   『後漢書』袁紹劉表列傳より。

董卓聞紹起山東、乃誅紹叔父隗、及宗族在京師者、盡滅之。卓乃遣大鴻臚韓融・少府陰循・執金吾胡母班・將作大匠吳循・越騎校尉王瑰譬解紹等諸軍。紹使王匡殺班・瑰・吳循等、袁術亦執殺陰循、惟韓融以名德免。
是時豪傑既多附紹、且感其家禍、人思為報、州郡蜂起、莫不以袁氏為名。韓馥見人情歸紹、忌(方)〔其〕得眾、恐將圖己、常遣從事守紹門、不聽發兵。橋瑁乃詐作三公移書、傳驛州郡、說董卓罪惡、天子危逼、企望義兵、以釋國難。馥於是方聽紹舉兵。乃謀於眾曰:「助袁氏乎?助董氏乎?」治中劉惠勃然曰:「興兵為國、安問袁・董?」馥意猶深疑於紹、每貶節軍糧、欲使離散。

3)   『後漢書』孝獻帝紀より。

戊午、董卓殺太傅袁隗・太僕袁基、夷其族。

夏五月、司空荀爽薨。六月辛丑、光祿大夫种拂為司空。

大鴻臚韓融・少府陰脩・執金吾胡母班・將作大匠吳脩・越騎校尉王瑰安集關東、後將軍袁術・河内太守王匡各執而殺之、唯韓融獲免。

董卓壞五銖錢、更鑄小錢。

冬十一月庚戌、鎮星・熒惑・太白合於尾。

4)   『後漢書』孝獻帝紀の注に引く『獻帝春秋』より。

尺口以上男女五十餘人、皆下獄死。

5)   『後漢書』袁張韓周列傳より。

成子紹、逢子術、自有傳。董卓忿紹・術背己、遂誅隗及術兄基男女二十餘人。

6)   『後漢書』劉虞公孫瓚陶謙列傳より。

及董卓秉政、遣使者授虞大司馬、進封襄賁侯。初平元年、復徴代袁隗為太傅。道路隔塞、王命竟不得達。舊幽部應接荒外、資費甚廣、歳常割青・冀賦調二億有餘、以給足之。時處處斷絕、委輸不至、而虞務存寬政、勸督農植、開上谷胡巿之利、通漁陽鹽鐵之饒、民悅年登、穀石三十。青・徐士庶避黃巾之難歸虞者百餘萬口、皆收視溫恤、為安立生業、流民皆忘其遷徙。虞雖為上公、天性節約、敝衣繩履、食無兼肉、遠近豪俊夙僭奢者、莫不改操而歸心焉。
初、詔令公孫瓚討烏桓、受虞節度。瓚但務會徒眾以自強大、而縱任部曲、頗侵擾百姓、而虞為政仁愛、念利民物、由是與瓚漸不相平。

7)   『三國志』卷一 魏書一 武帝紀第一より。

二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室。是時紹屯河内、邈・岱・瑁・遺屯酸棗、術屯南陽、伷屯潁川、馥在鄴。卓兵彊、紹等莫敢先進。太祖曰:「舉義兵以誅暴亂、大眾已合、諸君何疑?向使董卓聞山東兵起、倚王室之重、據二周之險、東向以臨天下;雖以無道行之、猶足為患。今焚燒宮室、劫遷天子、海内震動、不知所歸、此天亡之時也。一戰而天下定矣、不可失也。」遂引兵西、將據成皋。邈遣將衛茲分兵隨太祖。到滎陽汴水、遇卓將徐榮、與戰不利、士卒死傷甚多。太祖為流矢所中、所乘馬被創、從弟洪以馬與太祖、得夜遁去。榮見太祖所將兵少、力戰盡日、謂酸棗未易攻也、亦引兵還。

太祖到酸棗、諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。太祖責讓之、因為謀曰:「諸君聽吾計、使勃海引河内之眾臨孟津、酸棗諸將守成皋、據敖倉、塞轘轅・太谷、全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹・析、入武關、以震三輔:皆高壘深壁、勿與戰、益為疑兵、示天下形勢、以順誅逆、可立定也。今兵以義動、持疑而不進、失天下之望、竊為諸君恥之!」邈等不能用。

太祖兵少、乃與夏侯惇等詣揚州募兵、刺史陳溫・丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢、士卒多叛。至銍・建平、復收兵得千餘人、進屯河内。

8)   『三國志』卷九 魏書九 諸夏侯曹傳第九より。

曹洪字子廉、太祖從弟也。太祖起義兵討董卓、至滎陽、為卓將徐榮所敗。太祖失馬、賊追甚急、洪下、以馬授太祖、太祖辭讓、洪曰:「天下可無洪、不可無君。」遂步從到汴水、水深不得渡、洪循水得船、與太祖倶濟、還奔譙。揚州刺史陳溫素與洪善、洪將家兵千餘人、就溫募兵、得廬江上甲二千人、東到丹楊復得數千人、與太祖會龍亢。

9)   『三國志』卷一 魏書一 武帝紀第一の注に引く『魏書』より。

兵謀叛、夜燒太祖帳、太祖手劍殺數十人、餘皆披靡、乃得出營;其不叛者五百餘人。

10)   『後漢書』荀韓鍾陳列傳より。

爽見董卓忍暴滋甚、必危社稷、其所辟舉皆取才略之士、將共圖之、亦與司徒王允及卓長史何顒等為内謀。會病薨、年六十三。

11)   『後漢書』董卓列傳より。

又壞五銖錢、更鑄小錢、悉取洛陽及長安銅人・鍾虡・飛廉・銅馬之屬、以充鑄焉。故貨賤物貴、穀石數萬。又錢無輪郭文章、不便人用。時人以為秦始皇見長人於臨洮、乃鑄銅人。卓、臨洮人也、而今毀之。雖成毀不同、凶暴相類焉。

12)   『後漢書』陳王列傳より。

允見卓禍毒方深、簒逆已兆、密與司隸校尉黄琬・尚書鄭公業等謀共誅之。乃上護羌校尉楊瓚行左將軍事、執金吾士孫瑞為南陽太守、並將兵出武關道、以討袁術為名、實欲分路征卓、而後拔天子還洛陽。卓疑而留之、允乃引内瑞為僕射、瓚為尚書。

13)   『三国志』巻七魏書張邈伝より。

張邈字孟卓、東平壽張人也。少以俠聞、振窮救急、傾家無愛、士多歸之。太祖・袁紹皆與邈友。辟公府、以高第拜騎都尉、遷陳留太守。董卓之亂、太祖與邈首舉義兵。汴水之戰、邈遣衛茲將兵隨太祖。袁紹既為盟主、有驕矜色、邈正議責紹。紹使太祖殺邈、太祖不聽、責紹曰:「孟卓、親友也、是非當容之。今天下未定、不宜自相危也。」邈知之、益德太祖。

14)   『三国志』巻十魏書荀彧伝より。

永漢元年、舉孝廉、拜守宮令。董卓之亂、求出補吏。除亢父令、遂棄官歸、謂父老曰:「潁川、四戰之地也、天下有變、常為兵衝、宜亟去之、無久留。」郷人多懷土猶豫、會冀州牧同郡韓馥遣騎迎立、莫有隨者、彧獨將宗族至冀州。

15)   『三国志』巻十八魏書典韋伝より。

典韋、陳留己吾人也。形貌魁梧、旅力過人、有志節任俠。襄邑劉氏與睢陽李永為讎、韋為報之。永故富春長、備衛甚謹。韋乘車載雞酒、偽為候者、門開、懷匕首入殺永、并殺其妻、徐出、取車上刀戟、歩去。永居近市、一市盡駭。追者數百、莫敢近。行四五里、遇其伴、轉戰得脱。由是為豪傑所識。初平中、張邈舉義兵、韋為士、屬司馬趙寵。牙門旗長大、人莫能勝、韋一手建之、寵異其才力。

16)   『三国志』巻十一魏書張範伝より。

張範、字公儀、河内脩武人也。祖父歆、為漢司徒。父延、為太尉。太傅袁隗欲以女妻範、範辭不受。性恬靜樂道、忽於榮利、徴命無所就。弟承、字公先、亦知名、以方正徴、拜議郎、遷伊闕都尉。董卓作亂、承欲合徒衆與天下共誅卓。承弟昭時為議郎、適從長安來、謂承曰:「今欲誅卓、衆寡不敵、且起一朝之謀、戰阡陌之民、士不素撫、兵不練習、難以成功。卓阻兵而無義、固不能久;不若擇所歸附、待時而動、然後可以如志。」承然之、乃解印綬閒行歸家、與範避地揚州。


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