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孫賁、孫策、動く(孫氏からみた三国志59)
2011.03.06.
<<劉虞の死(孫氏からみた三国志58)


   『三国志』の本紀に当たる巻一魏書武帝紀1)を見ていくと初平四年(紀元193年)の最後に次のような文がある。

   この年(初平四年)、孫策(字伯符)は袁術(字公路)の使役を受け江水を渡り、数年間、江東(江水が北から南へ流れる部分の東側)に行き留まった。

   以前、<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)で触れたように、初平三年(紀元192年)に薨去した後、孫堅の兄の子の孫賁(字伯陽)は袁術に就き、また孫堅の長子の孫策は江を北へ渡り(徐州広陵郡)江都へ居を定めていたため、後者については前述の記述と違う。つまり、孫策が北から江水を渡るまで何があったかが今回の内容となる。
   まず孫堅が薨去する以前の時期から触れる。ちょうど<<「破虜将軍・孫文台」(孫氏からみた三国志48)で触れた、初平元年(紀元190年)に董卓討伐の義兵を挙げるまでに孫策が寿春に居た時期だ。
揚州関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   『三国志』巻五十六呉書呂範伝2)によると、次のようにこの時期に孫策と関わりのある人物が出てくる。

   呂範は子衡と字し、(豫州)汝南(郡)細陽(県)人だ。若く県吏になり、容観姿貌(整った姿形)を有した。邑人の劉氏は、家が富み女(むすめ)が美しく、呂範はこれを求めた。女の母は嫌い、与えないのを欲し、劉氏は言う。
「呂子衡をどうして久しく貧者に当たると見るか」
   遂にこれを与え結婚した。後に乱を(揚州九江郡)寿春へ避け、孫策は見えこれを異とし、呂範は遂に自ら従い親しみ、私客百人を率い孫策に帰した。

   また『三国志』巻五十五呉書陳武伝3)によると、

   陳武は子烈と字し、(揚州)廬江(郡)松滋(県)人だ。孫策は寿春に在り、陳武は往き謁を修めた。

となる。さらに孫堅薨去後、江都に居を定めた時期では張紘と言う者に会う。まず張紘について下記のように『三国志』巻五十三呉書張紘伝4)より引いて説明に代える。

   張紘は子綱と字し、(徐州廣陵郡)廣陵(県)人だ。京都へ遊学し、本郡へ還り、茂才へ挙げられ、公府に辟かれ、皆就かず、江東へ避難した。

   『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝注引『呉歴』5)には次のように書かれている。

   以前、孫策は江都に在った時に、張紘は母の喪に有った。孫策は数回、張紘を詣で、世の務めを嘆いて、言う。
「当に今、漢祚は微に中り、天下は乱れ騒ぎ、英雄雋傑は各々衆を擁し私を営し、未だ危うきを救い乱を救える者は居ません。先君と袁氏とは共に董卓を破り、功業は未だ遂げず、黄祖に殺害され卒去しました。策(わたし)は暗愚で稚拙と雖も、密かに微志が有り、袁揚州(揚州刺史の袁術)に従い先君に求めた余兵を欲し、(揚州)丹陽で舅氏(呉景)に就き、流散したのを收合し、呉会(呉と会稽)に東拠し、讐に報い恥を雪ぎ、朝廷の外藩になります。君はどのように思いますか」
   張紘は答えていう。
「既に元より劣り、まさに衰絰(喪服)の中に居て、盛略を助けられません」
   孫策は言う。
「君の高名は本地を離れ、遠近は懐き帰しました。今日の事は計り、君において之を決し、どうして思慮を曲げず告げないのに、その高山の望に沿いますか。もし微志が展開すれば、血の讐(かたき)が報いを受けるでしょうし、これが乃ち君の勳力であり、策の心の望む所です。」
   泣き涙を横に流したが、顔色を変えなかった。張紘は孫策の忠壮が内発し、辞令(言葉遣い)が憤り嘆くのを見て、その志言を感じ、乃ち答えて言う。
「昔、周の道は次第に緩やかになり、斉、晋は並んで興りました。王室は既に安らかで、諸侯は貢職にありました。今、君は先侯の軌を継ぎ、驍武の名が有り、もし丹陽に向かい、呉会で兵を収めるならば、則ち荊、揚を一つにでき、仇に報いることができるでしょう。長江に拠し、威徳を奮い、群穢を誅し除き、漢室を匡輔し、功業は桓、文と等しいのに、どうして外藩のみに行くのでしょうか。まさに今、世が乱れ多難で、功が成り事が立てば、当に好を同じくし共に南を救うべきです」
   孫策は言う。
「一(わたし)と君は符を同じくし契りを合わせ、永固の分が有り、今直ぐに行き、老母と弱弟を以て君に委ね付け、策(わたし)に再び回顧の憂いが無いでしょう」

   一方、孫賁はというと、『三国志』巻五十一呉書宗室伝6)によると、<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)の続きで、

   後に袁術は寿春に移り、孫賁もまたこれに依った。袁術の従兄の袁紹は会稽の周昂を用いて九江太守にし、袁紹(字本初)と袁術は合わせず、袁術は孫賁を遣わし陰陵において周昂を攻め破った。袁術は表し孫賁を豫州刺史を領させ、丹楊都尉行征虜将軍に転じさせ、山越を討ち平定させた。

とあり、袁術が寿春を含む九江郡に移ったことは<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)にあり、おそらく九江太守の前任者はこのページにある服虔だろう。また、ここでの周昂は<<「袁紹と袁術の対立」(孫氏からみた三国志52)にあるように、袁術と袁紹との対立の切欠になった人物の周喁の兄だ。
<9月3日追記>
   あとこの時期に関係するだろう九江太守として、下記のように『三国志』巻六十一呉書潘濬伝注所引『呉書』20)に見える芮祉字宣嗣が居る。

   芮玄は文表と字(あざな)し、(揚州丹陽郡)丹楊人だ。父の芮祉は、宣嗣は字し、孫堅の征伐に従い、功が有り、孫堅は芮祉を(揚州)九江太守にするよう薦め、後に(揚州)呉郡に転じ、名声の在る所となった。
<追記終了>    おそらく同じ様な時期に、丹陽太守の周昕と、袁術関連で孫策の母方の叔父の呉景が戦っている。次に示す『三国志』巻五十呉書妃嬪伝7)の記述だ。ちょうど<<「長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)の続きだ。

   袁術は上表し呉景に丹楊太守を領させ、故(もと)の(丹楊)太守の周昕を討たせ、ついにその郡へ拠した。

   また寿春を含む九江郡に居る袁術に関連する記述が次のように『三国志』巻五十七呉書陸績伝8)に見られる。

   陸績は公紀と字し、呉郡呉人だ。父の陸康は、漢末に廬江太守となった。陸績は年六歳で、九江において袁術に見えた。袁術は橘(みかん)を出し、陸康は三枚を懐にし、去り、拝し辞すると地に墜ち、袁術は向かって言う。
「陸郎は賓客なのに橘を懐にするのか」
   陸績は跪いて答える。
「帰って母に送りたいと欲します」
   袁術はこれを大いに奇とした。

   陸績の父の陸康は後に孫策と深く関わってくることになるが、触れていくのはまだ先になりそうだ。
   ここで再び『三国志』巻五十六呉書呂範伝2)を見て、その続きを追う。

   当時太妃(孫堅の妻の呉夫人)は江都に在り、孫策は呂範にこれを迎えさせた。徐州牧の陶謙(字恭祖)は呂範を袁氏の覘候(さぐる)を為すと言い、県に呂範への拷問を仄めかし、呂範の親客の健児は簒取をもって帰した。当時、唯、呂範と孫河だけは常に孫策に従い、野を行き水(川)を渡り辛苦し、危難は避けられず、孫策や親戚はこれをもてなし、与するごとに堂へ昇り、太妃の前において飲宴した。

   ここにある「袁氏」は袁紹(字本初)もしくは袁術の可能性があるが、<<「青州黄巾」(孫氏からみた三国志56)の終わりにあるように、『三国志』巻一魏書武帝紀の記述によると、初平三年(紀元192年)の時点では、袁術、公孫瓚(字伯珪)、劉備(字玄徳)、陶謙の勢力に対して、袁紹と曹操(字孟徳)の勢力が敵対しており、<<「青州黄巾」(孫氏からみた三国志56)の終わりにあるように、さらに<<「徐州からの波紋」(孫氏からみた三国志57)にあるように初平四年にあっても曹操と陶謙との敵対が確認されるため、「袁氏」は袁紹と見るのが妥当だろう。
   また、ここでの「孫河」は<<「長沙太守・孫文台」(孫氏からみた三国志40)で触れた兪河(字伯海)のことだ。何故、姓が「孫」になったのか、および孫策との関係は『三国志』巻五十一呉書宗室傳(孫河伝)9)に次のように書かれている。

   孫策はこれ(兪河)を愛でて、姓を賜い孫にし、これを属籍に列した。

   ここで陶謙に関係した人物で、後に孫策に関係する人物を次の『三国志』巻五十二呉書張昭伝10)の記述で紹介する。

   張昭は子布と字し、(徐州)彭城人だ。若い頃、学を好み、隸書を善くし、白侯子安より左氏春秋を受け、衆書を博覧し、(徐州)琅邪の趙昱(字元達)、(青州)東海の王朗と共に名を発し善く友とした。弱冠で孝廉に察し、就かず、王朗と共に旧君諱事を論じ、州里の才士の陳琳(字孔璋)等は皆、称えこれを善しとした。刺史の陶謙は茂才に挙げ、応じず、陶謙は己を軽く扱ったと思い、遂に捕らえられた。趙昱は身を傾け手段を設け救い、まさに免じ得た。漢末に大乱し、徐方の士民が多く揚土へ避難し、張昭は皆南へ渡江した。

   先の呂範と陶謙の一件が関係してか、次にあげる『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝11)の記述の冒頭で陶謙について触れられている。

   徐州牧の陶謙は孫策を深く忌んだ。孫策の舅の呉景は当時、(揚州)丹楊太守に為り、孫策は乃ち母(呉夫人)を載せ(揚州呉郡)曲阿へ遷り、呂範、孫河と共に呉景へ就き、縁より召募し数百人を得た。

   こうして孫策が江水の北の江都から、江水の南の曲阿へと江水を渡った。つまり、これが冒頭で書いた『三国志』巻一魏書武帝紀の初平四年(紀元193年)の記述に対応するのだろう。
   <<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)にあるように初平三年(192年)に孫堅が薨去したのであれば、三年の喪(二十五ヶ月)の間に孫策は軍事行動に出たことになる。孫堅薨去が初平二年(191年)に起こったのか、『三国志』巻一魏書武帝紀の記述が誤っているのか、と様々考えられるが、もしかすると『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝注引『呉録』に載る孫策の上表の「年十七」はこの三年の喪の問題を回避するための表記なのかもしれない。

   この江水を渡るのに際し、より詳しい状況が『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝注引『江表伝』12)に次のように書かれている。

   孫策は寿春に赴き至り袁術に見え、泣いて言う。
「亡父は昔、(荊州)長沙より入り董卓を討ち、明使君(あなた、揚州刺史の袁術)と(荊州)南陽で会い、盟を同じくし好を結びました。不幸にも難に遇し、勳業は終えませんでした。策(わたし)はただ先人の旧恩を感じ、自ら頼り結び、明使君はその誠を垂察することを願います」
   袁術は甚だこれを貴異とし、然るに未だ其の父の兵を還すのを肯かなかった。袁術は孫策に言う。
「孤(わたし)は貴舅(呉景)を用い始め丹楊太守とし、賢従の孫賁を都尉にし、彼の精兵の地で、還り依って召募すべきだろう」
   孫策は(揚州)丹楊に詣で舅に依り、数百人を得て、(揚州丹陽郡)涇縣の大帥の祖郎に襲われる所となり、幾つか危うい目に至った。これに置いて再び往き袁術に見え、袁術は孫堅の余兵千人余りを以て孫策に返した。

   この祖郎について、『三国志』巻五十五呉書程普伝13)に過去の話として詳しく記されている。ここにある程普(字徳謀)は<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)に出てきた。

   孫策は嘗て祖郎を攻め、大いに囲まれる所となり、程普と一騎と供に孫策を防ぎ、馬を駆り激しく呼び、矛を以て賊に突き、賊は空け、孫策は随うことで出た。

   また前述した『三国志』巻五十呉書妃嬪伝7)の部分の続きにも祖郎が出ている。以下。

   孫策と孫河、呂範は呉景に依り、衆を合わせて共に涇縣の山賊の祖郎を討ち、祖郎は敗走する。

   この揚州丹陽郡に居た時期は祖郎との戦い以外にも、次の『三国志』巻五十六呉書朱然伝14)の記述にあるような出来事があった。朱治(字君理)は<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)で触れた人物だ。

   朱然は義封と字し、朱治の姉の子であり、本姓は施氏だ。以前、朱治は子を未だ有さず、朱然が年十三(初平四年、紀元193年)で、乃ち孫策を導き乞い嗣がせようと思った。孫策は丹楊郡に命じ羊酒を以て朱然を召し、朱然は呉に至り、孫策は礼賀を以て優遇した。

   先の『江表伝』にある二回目の孫策による袁術への対面は『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝11)では次のように書かれている。

   興平元年(紀元194年)、(孫策は)袁術に従った。袁術は甚だこれを奇とし、孫堅の部曲を以て孫策へ返した。太傅の馬日磾(字翁叔)は節を持ち関東を安んじ集め、寿春に在って礼を以て孫策を招き、上表し懷義校尉を拝し、袁術の大将の喬蕤、張勳は皆、心を傾け慕った。袁術は常に嘆いて言う。
「袁術に子が有れば孫郎の如くであれば、再び死んでも何の怨みがあろうか」
   孫策の騎士に罪が有り、袁術の営に逃れ入り、厩の内へ隠れた。孫策は指し人にこれを斬るよう就かせ、終え、袁術に至り謝った。袁術は言う。
「兵人は叛を好み、当に共にこれを悩むべきなのに、どうして謝るのだろうか」
   これにより軍中は益々これを畏れ憚った。袁術は以前、孫策が九江太守になるのを許したが、さらに丹楊の陳紀を用い終えた。

   「九江太守」について前述を参照のこと。ここにある馬日磾は前回の<<「劉虞の死」(孫氏からみた三国志58)に出てきており、なぜ寿春に居るかは、次のように『三国志』巻六魏書袁術伝15)に書かれている。

   李傕は(司隸京兆尹)長安に入り、援助のために袁術と結することを欲し、袁術を以て左将軍とし、(豫州潁川郡)陽翟侯に封じ、節を仮し、太傅の馬日磾を巡行させることで拝受させた。袁術は馬日磾の節を奪い、拘留し放たなかった。

<2012年6月15日追記>
   一方、孫堅を撃破した劉表は、袁術が陽翟侯に封じられた同時期に、次のように任命される。<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)にある『三国志』巻六魏書劉表伝21)の続きだ。

   李傕、郭汜は長安に入り、連なって劉表(字景升)に助けを為すのを欲し、そこで劉表を鎮南將軍、荊州牧と為し、(兗州濟陰郡)成武侯に封じ、節を仮した。
<追記終了>

   李傕の経緯は<<「董卓の死」(孫氏からみた三国志55)からの流れだ。この史書の箇所に注16)がついていて、馬日磾のこと、袁術との関係が次のように詳しく書かれている。

   『三輔決録注』に言う。
   馬日磾は翁叔と字し、馬融の族子だ。若くして馬融の業を伝え、才を以て学び進んだ。楊彪(字文先)、盧植(字子幹)、蔡邕(字伯喈)等典校中書と与し、九卿を歴位し、遂に台輔に登った。
   『獻帝春秋』に言う。
   袁術は馬日磾に従い節を借りこれを観て、それにより奪い還らず、軍中千人余りを備え、促させこれを招いた。馬日磾は袁術に言う。
「卿の家の先の世代は諸公であり、如何に士を招き、これを言い促し、公府の掾を推しとめ得るべきです」
   袁術より求め去ろうとしたが、袁術はこれを留め放たなかった。

   この馬日磾に関係した人物に朱治が居た。次のように<<「孫堅薨去」(孫氏からみた三国志53)で触れた『三国志』巻五十六呉書朱治伝17)の続きだ。

   後に袁術の政徳が立たないと知り、乃ち孫策に還り江東を平するのを勧めた。当時、太傅の馬日磾は寿春に在り、朱治を招き掾とし、呉郡都尉へと遷した。

   この時期に孫策と交流のあったと思わしき者が二人居る。まず『三国志』巻五十五呉書蒋欽伝18)より以下。

   蒋欽は公奕と字し、(揚州)九江(郡)寿春人だ。孫策は行き袁術に継ぎ、蒋欽は給事として従った。

   これと連動し、次のように『三国志』巻五十五呉書周泰伝19)にも孫策との関係が書かれている。

   周泰は幼平と字し、(揚州)九江(郡)下蔡人だ。蒋欽と与し孫策に随い左右となり、事に服し慎み慕い、数度戦い功を有した。

   こうして孫賁と孫策は袁術の庇護下で動き出した。
   その動きをさらに追う前に、次回、一旦、西の長安へ視点を移す。




1)   『三国志』巻一魏書武帝紀より。

是歳、孫策受袁術使渡江、數年閒遂有江東。

2)   『三国志』巻五十六呉書呂範伝より。本文のネタバレあり。

呂範字子衡、汝南細陽人也。少為縣吏、有容觀姿貌。邑人劉氏、家富女美、範求之。女母嫌、欲勿與、劉氏曰:「觀呂子衡寧當久貧者邪?」遂與之婚。後避亂壽春、孫策見而異之、範遂自委昵、將私客百人歸策。時太妃在江都、策遣範迎之。徐州牧陶謙謂範為袁氏覘候、諷縣掠考範、範親客健兒簒取以歸。時唯範與孫河常從策、跋渉辛苦、危難不避、策亦親戚待之、毎與升堂、飲宴於太妃前。

3)   『三国志』巻五十五呉書陳武伝より。

陳武字子烈、廬江松滋人。孫策在壽春、武往脩謁、時年十八、長七尺七寸

4)   『三国志』巻五十三呉書張紘伝より。

張紘字子綱、廣陵人。游學京都、還本郡、舉茂才、公府辟、皆不就、避難江東。

5)   『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝注引『呉歴』より。

初策在江都時、張紘有母喪。策數詣紘、咨以世務、曰:「方今漢祚中微、天下擾攘、英雄雋傑各擁衆營私、未有能扶危濟亂者也。先君與袁氏共破董卓、功業未遂、卒為黄祖所害。策雖暗稚、竊有微志、欲從袁揚州求先君餘兵、就舅氏於丹楊、收合流散、東據呉會、報讎雪恥、為朝廷外藩。君以為何如?」紘答曰:「既素空劣、方居衰絰之中、無以奉贊盛略。」策曰:「君高名播越、遠近懷歸。今日事計、決之於君、何得不紆慮啟告、副其高山之望?若微志得展、血讎得報、此乃君之勳力、策心所望也。」因涕泣橫流、顏色不變。紘見策忠壯內發、辭令慷慨、感其志言、乃答曰:「昔周道陵遲、齊・晉並興;王室已寧、諸侯貢職。今君紹先侯之軌、有驍武之名、若投丹楊、收兵呉會、則荊・揚可一、讎敵可報。據長江、奮威德、誅除群穢、匡輔漢室、功業侔於桓・文、豈徒外藩而已哉?方今世亂多難、若功成事立、當與同好俱南濟也。」策曰:「一與君同符合契、(同)有永固之分、今便行矣、以老母弱弟委付於君、策無復回顧之憂。」

6)   『三国志』巻五十一呉書宗室伝より。

後袁術徙壽春、賁又依之。術從兄紹用會稽周昂為九江太守、紹與術不協、術遣賁攻破昂於陰陵。術表賁領豫州刺史、轉丹楊都尉、行征虜將軍、討平山越。

7)   『三国志』巻五十呉書妃嬪伝より。本文のネタバレあり。

袁術上景領丹楊太守、討故太守周昕、遂據其郡。孫策與孫河・呂範依景、合衆共討涇縣山賊祖郎、郎敗走。

8)   『三国志』巻五十七呉書陸績伝より。

陸績字公紀、呉郡呉人也。父康、漢末為廬江太守。績年六歳、於九江見袁術。術出橘、績懷三枚、去、拜辞墮地、術謂曰:「陸郎作賓客而懷橘乎?」績跪答曰:「欲歸遺母。」術大奇之。

9)   『三国志』巻五十一呉書宗室傳(孫河伝)より。

孫策愛之、賜姓為孫、列之屬籍。

10)   『三国志』巻五十二呉書張昭伝より。

張昭字子布、彭城人也。少好學、善隸書、從白侯子安受受左氏春秋、博覽衆書、與琅邪趙昱・東海王朗俱發名友善。弱冠察孝廉、不就、與朗共論舊君諱事、州里才士陳琳等皆稱善之。刺史陶謙舉茂才、不應、謙以為輕己、遂見拘執。昱傾身營救、方以得免。漢末大亂、徐方士民多避難揚土、昭皆南渡江。

11)   『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝より。本文のネタバレあり。

徐州牧陶謙深忌策。策舅呉景、時為丹楊太守、策乃載母徙曲阿、與呂範・孫河倶就景、因縁召募得數百人。興平元年、從袁術。術甚奇之、以堅部曲還策。太傅馬日磾杖節安集關東、在壽春以禮辟策、表拜懷義校尉、術大將喬蕤・張勳皆傾心敬焉。術常歎曰:「使術有子如孫郎、死復何恨!」策騎士有罪、逃入術營、隱於内厩。策指使人就斬之、訖、詣術謝。術曰:「兵人好叛、當共疾之、何為謝也?」由是軍中益畏憚之。術初許策為九江太守、已而更用丹楊陳紀。

12)   『三国志』巻四十六呉書孫討虜伝注引『江表伝』より。

策徑到壽春見袁術、涕泣而言曰:「亡父昔從長沙入討董卓、與明使君會於南陽、同盟結好;不幸遇難、勳業不終。策感惟先人舊恩、欲自憑結、願明使君垂察其誠。」術甚貴異之、然未肯還其父兵。術謂策曰:「孤始用貴舅為丹楊太守、賢從伯陽為都尉、彼精兵之地、可還依召募。」策遂詣丹楊依舅、得數百人、而為涇縣大帥祖郎所襲、幾至危殆。於是復往見術、術以堅餘兵千餘人還策。

13)   『三国志』巻五十五呉書程普伝より。

策嘗攻祖郎、大為所圍、普與一騎共蔽扞策、驅馬疾呼、以矛突賊、賊披、策因隨出。

14)   『三国志』巻五十六呉書朱然伝より。

朱然字義封、治姊子也、本姓施氏。初治未有子、然年十三、乃啓策乞以為嗣。策命丹楊郡以羊酒召然、然到呉、策優以禮賀。

15)   『三国志』巻六魏書袁術伝より。

李傕入長安、欲結術為援、以術為左將軍、封陽翟侯、假節、遣太傅馬日磾因循行拜授。術奪日磾節、拘留不遣。

16)   『三国志』巻六魏書袁術伝注より。

三輔決録注曰:日磾字翁叔、馬融之族子。少傳融業、以才學進。與楊彪、盧植、蔡邕等典校中書、歴位九卿、遂登台輔。獻帝春秋曰:術從日磾借節觀之、因奪不還、備軍中千餘人、使促辟之。日磾謂術曰:「卿家先世諸公、辟士云何、而言促之、謂公府掾可劫得乎!」從術求去、而術留之不遣;既以失節屈辱、憂恚而死。

17)   『三国志』巻五十六呉書朱治伝より。

後知術政德不立、乃勸策還平江東。時太傅馬日磾在壽春、辟治為掾、遷呉郡都尉。

18)   『三国志』巻五十五呉書蒋欽伝より。

蔣欽字公奕、九江壽春人也。孫策之襲袁術、欽隨從給事。

19)   『三国志』巻五十五呉書周泰伝より。

周泰字幼平、九江下蔡人也。與蔣欽隨孫策為左右、服事恭敬、數戰有功。

20)   『三国志』巻六十一呉書潘濬伝注所引『呉書』より。

芮玄卒、濬并領玄兵、屯夏口。玄字文表、丹楊人。父祉、字宣嗣、從孫堅征伐有功、堅薦祉為九江太守、後轉呉郡、所在有聲。

21)   『三国志』巻六魏書劉表伝より。

李傕・郭汜入長安、欲連表為援、乃以表為鎮南將軍・荊州牧、封成武侯、假節。


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