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長沙太守・孫文台(孫氏からみた三国志40)
2006.12.01.
<<両頭共身(孫氏からみた三国志39)


   後漢紀1)によると、中平四年(西暦187年)の冬十月に零陵郡の盜賊が長沙郡へ侵攻したとのこと。また同じ年月の項目でも後漢書本紀2)では零陵郡の觀鵠が「平天将軍」を自称し桂陽郡を攻めたとのこと。
   あいかわらず書き方が違うことがあるこの二つの史書だけど、包括的にまとめると、中平四年(西暦187年)の冬十月に零陵郡の觀鵠という人が「平天将軍」を自称し盗賊を引き連れ、長沙郡や桂陽郡を攻めたということだろうか。

   さらに別の史書にもこの時期、このあたりのことが書かれている。それは何かというと三国志呉書孫破虜討逆伝3)。三国志の孫堅の伝だ。
   こちらは年月が載っていないが同時期。当時、長沙郡の賊の区星という人が将軍を自称し一万人あまりを集め、城邑を攻撃・包囲したとのこと。
   この零陵郡の觀鵠と長沙郡の区星がどういう関係(同盟?   主従?   無関係別物?)なのかはたまた同一人物なのかは特に記載はないが、ともかく三国志の孫堅の伝によると、長沙郡が区星の攻撃にさらされていたので、ある人物が派遣される。

   それは孫堅(字、文台)。反乱が起こった地方に対応するやり方としてはありがちで、孫堅は長沙太守に任命され、派遣された(<<太守派遣の例1<<太守派遣の例2

   さて孫堅が長沙郡入りする前にまず彼のことについて。プライベートも含め
   まず、家族のことだけど、以前、書いたように寿春にいる。
   <<光和七年(西暦184年)の話
   孫堅の妻、呉夫人にその子ども、策、名前不明の娘、権、翊の四人。

   あと生まれた年や没年が不明な子どもが一人居る。ここで紹介。
   三国志呉書宗室伝4)によると、「匡」という子ども。翊の弟とのことらしい。

   それから孫堅の仕事面。孫堅の部下になってそうな人をあげていく。
   まず親類から。<<「孫氏からみた三国志6」にでてきた呉景三国志呉書妃嬪伝5)によると、呉景は常に孫堅に随行し、征伐(といつのか知らないが)で戦功があったとのこと。それから<<「孫氏からみた三国志14」にでてきた兪河(字、伯海)。時期は不明だけど若いときから孫堅の征討に従って、常に前を駆けていたとのこと。
   次は、<<「孫氏からみた三国志7」に出てきた揚州関連の人物。それはぜい祉(字、宣嗣)、朱治(字、君理)。前者のぜい祉は全然、時期が違う可能性もあるが、三国志呉書潘濬伝の注に引く呉書によると孫堅に従い征伐で戦功があったとのこと。後者の朱治はキーマンなので後に詳しく書く。
   次は、<<「孫氏からみた三国志12」に出てきた幽州関連の人物。それは韓當(字、義公)と程普(字、徳謀)。こちらも配下になった時期は不確定。しかし少なくとも後者の程普は<<「孫氏からみた三国志22」で触れたように対黄巾戦に参加している。

   話戻し、同じく三国志呉書の孫堅伝によると、長沙太守に任命された孫堅だけど、まず将士をみずから率いて郡に到達した。
   そこで具体的には書かれていないが何らかの手段を講じ、十日から一ヶ月の間に、区星たちにうち勝った
   ところが、周朝や郭石という人、また徒衆をひきいた者が零陵郡と桂陽郡で決起し、区星に呼応していた。ここらへんの記述が冒頭に出した後漢書や後漢紀に対応すると思うので、時期は中平四年(西暦187年)の冬十月ぐらいなのだろう。
   孫堅はついに郡の境界を越え、討伐に赴いた

   区星は早期にやぶったものの、これらの三郡にまたがった戦いはどうやらそれほど早く決着がつかなかったようだ。
   まず三国志呉書朱治伝6)。それによると中平五年(西暦188年)に朱治は司馬に任命され(長沙郡司馬? 軍体系としての司馬?)、長沙郡零陵郡桂陽郡など三郡の賊である周朝や蘇馬たちの討伐に従った、とのこと。先ほどあげた乱の首謀者の中で周朝は共通する名前。中平五年の何月のことか分からないまでも乱が起こってから年越ししていることは確かだ。
荊南関連
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、矢印の軌跡に根拠はありません



   話が急にとんで現代の話。西暦2004年に長沙市東牌楼の古井から後漢霊帝期の年号が多く記される木簡・木牘・封検・名刺・簽牌など数百枚が発見され、西暦2006年4月にそれらの写真と釈文が載せられた長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)が刊行されたんだけど、その中にこの時期この地域の上言文が載せられている。それは中平五年(西暦188年)の臨湘県。臨湘県とは続漢書郡国志7)に従うなら長沙郡の郡府のある県だ。
   その上言文には臨湘県の守令の肅(?)が次のように書かれている8)
(辞書にのっていないような単語があったり、現代語訳は執筆者の能力を軽く越えているので、ちゃんとしりたい人は引用元の釈文参照8)。)

   臨湘県の守令の肅(?)が上言します。荊南(荊州の南? 零陵郡や桂陽郡?)では軍隊により年貢や定められた賦貢をかすめとられることに頻繁に遭遇しており、民が運び入れられないので、罪を減免するような赦令を受けたいと願います。何年も長きに渡り滞納しており、倉には米がつきており、庫には銭や布がありません。郷吏(郷の役人)への課役の取り締まりは以前のようにします。そのため、以後、赦令があるといっても、徭役を免除しないでください。昭陵や連道にはまだ軍営があり、小さい冠で(原文「小き」。一人称?)とり急ぎ、職吏(役人)を見分けすみやかにおのおの家へ帰らせるなり、呼び寄せるなりし、再び戻すことはせず、[巾夾]弩に矢をおきます。

   ここでのポイントは中平五年においても零陵郡や桂陽郡だけじゃなく、長沙郡下の昭陵県や連道県など郡の南の方ではまだ戦乱があったということ(昭陵県や連道県については上記地図参照)。
   おそらく長沙郡内での討伐をしただけでは隣の郡から賊軍がやってくるため戦乱はおさまらず、零陵郡や桂陽郡を含めた三郡での総合的な討伐の必要に迫られていたんだろう。
   三国志呉書の孫堅伝に話を戻し、孫堅の郡の境界を越えた討伐により、三郡はおそれ平穏になった。

   さらに三国志呉書の孫堅伝の注に引く呉録9)にはこの三郡以外の別の場所の記述がある。
   廬江太守の陸康の一族の子ども世代に宜春県の県長がいたんだけど、賊に攻められていて、遣い送り、孫堅に救援を求めた。宜春とは続漢書郡国志10)によると、揚州の豫章郡にある県だ。郡境どころか州境も越えている
   孫堅は重々しくこれを救おうとした。長沙郡の主簿(官職名)はこれを進み諫めた。それに対し孫堅は答える。「太守(わたし)には文徳がなく、征伐で功をなした。境界を越え、攻撃討伐し、異郷をおさめることで、罪をかぶっても何を天下に恥じることがあろうか」
   こうして兵を進め救出に向かい、賊軍はそれを聞き敗走した

   このように長沙以南の反乱は広範囲にわたっていたようで、それを長い間、孫堅は反乱の鎮圧にあたっていたようだ。

   三国志呉書の孫堅伝によると漢の朝廷はこの前後の戦功をとりあげ、孫堅を烏程侯に封じたそうだ。
   烏程侯になったということは太守の給料とは別に呉郡の烏程県の一部を食邑としてもらえること。
   それより侯になったということ自体、孫堅が名声を得ることになったんだろう。

<2008年2月23日追記>
   時期ははっきりしないが、『後漢書』陸康伝11)によると、この頃、廬江太守の陸康(字、季寧)の方でも叛乱に対応していた。廬江郡は前述の豫章郡から見て北隣の郡だ。
   たまたま廬江賊の黄穰らと江夏蛮十万人あまり連結し、四県攻め落としたため、陸康は廬江太守を承けた。陸康は賞罰を充分に説き明らかにし、黄穰らを撃破し、余党は尽く下った。帝はその戦功を喜び、陸康の孫の陸尚を郎中にした。
<追記終了>





1)   後漢紀の記述。本文のネタバレあり。「(中平四年)冬十月、零陵盜賊寇長沙、太守孫堅討破之。封堅烏程侯。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
2)   後漢書本紀の記述。こちらも本文のネタバレあり。「(中平四年)冬十月、零陵人觀鵠自稱「平天將軍」、寇桂陽、長沙太守孫堅撃斬之。」(「後漢書孝靈帝紀」より)
3)   三国志呉書孫破虜討逆伝の記述。本文のネタバレあり。年月はわからないけど、これが一番詳しいね、さすがに。「時長沙賊區星自稱將軍、衆萬餘人、攻圍城邑、乃以堅為長沙太守。到郡親率將士、施設方略、旬月之間、克破星等。周朝・郭石亦帥徒衆起於零・桂、與星相應。遂越境尋討、三郡肅然。漢朝録前後功、封堅烏程侯。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」より)
4)   三国志呉書宗室伝の記述の孫堅の四男。歴史にあまり絡まないので、紹介するタイミングが難しい。「孫匡字季佐、翊弟也。」(「三國志卷五十一 呉書六 宗室傳第六」より)
5)   三国志呉書妃嬪伝の呉景の記述。「景常隨堅征伐有功」(「三國志卷五十 呉書五 妃嬪傳第五」より)
6)   三国志呉書朱治伝の朱治の記述。「中平五年、拜司馬、從討長沙・零・桂等三郡賊周朝・蘇馬等、有功、堅表治行都尉。」(「三國志卷五十六 呉書十一 朱治朱然呂範朱桓傳第十一」より)
7)   続漢書郡国志の長沙郡のところをみると初めに臨湘がくる。
8)   長沙市文物考古研究所・中国文物研究所編『長沙東牌楼東漢簡牘』(文物出版社、2006年4月、7-5010-1857-X)に写真と釈文があるらしいんだけど、このページの著者が直接、見た分けじゃなくて、2006年9月17日に開催された>>長沙呉簡国際シンポジウム「長沙呉簡の世界−三国志を超えて−」>>報告II「後漢孫呉交替期における臨湘県の統治機構と在地社会−走馬楼簡牘と東牌楼簡牘の記述の比較を通して−」のレジュメより。
「壹「公文」四「文書」(四)「中平五年後臨湘守令臣肅上言荊南頻遇軍寇文書」(簡牘番号 一二 1105号)

1 臨湘守令臣肅(?)上言。荊南頻遇軍寇、租た法賦、民不輸入、冀蒙赦令、云當虧除。連年長逋、倉空無米、庫無錢布。督課郷
2 吏如舊。故自今雖有赦令、不宜復除。昭陵・連道尚有營守、小き驚急、見職吏各便歸家、召喚不可復致、[巾夾]弩委矢。」

9)   三国志呉書孫破虜討逆伝の注に引く呉録の記述。「是時廬江太守陸康從子作宜春長、為賊所攻、遣使求救於堅。堅整嚴救之。主簿進諫、堅答曰:「太守無文コ、以征伐為功、越界攻討、以全異國。以此獲罪、何[女鬼]海内乎?」乃進兵往救、賊聞而走。」(『三國志』卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一の注に引く『呉録』より)
10)   宜春が続漢書郡国志の豫章郡のところにみえる。
11)   『後漢書』陸康伝の記述。「會廬江賊黄穰等與江夏蠻連結十餘萬人、攻沒四縣、拜康廬江太守。康申明賞罰、撃破穰等、餘黨悉降。帝嘉其功、拜康孫尚為郎中。」(『後漢書』陸康伝より)
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