<<
>>
来たれ、丹陽軍団!(孫氏からみた三国志7)
030201
<<錢唐慕情(孫氏からみた三国志6)

   一波乱があったけど、めでたく結婚した文台と呉夫人。
   そんな幸せな日々とは裏腹に別の地域では大きな事件が起ころうとしていた。

   えーと、その前に当時の暦(こよみ)の数え方だけど、みなさんご想像のとおり、西暦じゃなくて、元号を使ってる。元号というのは今でいう「平成」とか「昭和」ってやつ。但し、当時は皇帝(天皇にあたる?)一代に一元号じゃなくて、何かあれば結構、元号が改められている(改元されている)。
   西暦172年は建寧五年だったんだけど、その年の五月に熹平と改元されてる1)。今の元号と同じように改元された年を元年(一年)とするのだ。

   で、この熹平元年の十月。
   後漢書によると、この十月にけい惑(火星のこと)が南斗(南斗六星)に入ったとのこと。
   現在に生きる私たちにとって「何のこっちゃ?」って感じだけど、ちゃんとコメントが書いてある。占いがいうには、けい惑があるところ、兵乱がおこるとのこと。そして、南斗とは呉の地域とのこと2)

   占いどおりなのか、偶然なのか、はたまたその占いを利用したのかわからないけど、熹平元年の十一月、兵乱が起こる
   但し、呉と呼ばれる地域より、さらに南の会稽郡會稽郡)でその乱は起こった。一万人規模で、城が攻め破られている3)

   文台(孫堅)が住んでいた富春。そこより浙江沿い下流にあるのは、呉夫人が住んでいた錢唐。この二つの街はともに浙江より呉郡なんだけど、この会稽郡は浙江よりの地域なのだ。
   兵乱はこの会稽郡の句章というところで起こった。富春や錢唐よりさらに下流側(東の方)にある街で、富春から120キロメートル以上、離れている。

   兵乱の首謀者は許生許昭という親子。許昌許韶ともいうらしい。史書では妖賊と記されている。あやしい賊? 許生は自らを越王(from後漢書&後漢紀)とか陽明皇帝(from三國志)とか名乗っていて、息子は自らを大将軍(from後漢書)と言っていたらしい。まあ、それぞれ史書の間では名前に混乱が見られるけど、とにかく、自分たちで勝手に偉い位を名乗ったらしい4)

   これに我らが文台が関わってくるんだけど、今回は文台が登場しない。ええ!?って声が聞こえてきそうだけど、まず、真っ先に行動を起こした人から触れていこう。

   あ、文台の活躍だけ知りたいって方はこちらです。

   会稽郡でそんな大きな兵乱が起こったんだから、他の郡もうかうかしてられない。
   起こったその月、すぐに揚州刺史臧旻5)(字不明)って人が動き出す。

   ここでプチ復習。文台のいるところは呉郡富春県。
   そして兵乱の起こったのは会稽郡句章県。
   つまり県をつつむ行政区域は郡。で、さらにそれをつつむ行政区域は州ってこと。呉郡も会稽郡も同じ揚州6)に属する。
   郡の一番、偉い人は、太守って役職。
   それに対し、州の一番、偉い人は、刺史って役職なのだ。
   但し、この刺史って統治するっていうより、各郡を視察するって役割7)の方が強い。だからなのか知らないけど、刺史のお給料(俸禄)が六百石なのに対し、太守は二千石。だから、太守の方が位的に上なのかなあ。

   話戻す。
   この臧旻。実は兵乱が起こったとき、別に刺史じゃなかったんだけど、兵乱を沈める仕事を任されると共に刺史に抜擢される。それまでは「冀州中山國盧奴県」(國は郡と同レベルの行政区域8))の県令9)(県で一番えらい人)をしていたんだけど……ん?   つまり刺史って役職をエサに反乱討伐を押しつけられたのかな(汗)10)
   そして、臧旻は着任早々、自分の州の一大事とばかりに動こうとする。この刺史自体、兵を持たない役職なので(多分)、他から兵を要請する。
   そこで白羽の矢が立ったのが同じ揚州に属する丹陽郡、その太守・陳寅(字、不明)。
   太守の彼は、その時から約三年前、建寧二年(西暦169年)九月に山越(異民族の名称)の賊に包囲されちゃったんだけど、返り討ちにする11)強い!
   それも考慮されたのか、臧旻は陳寅を率いて(と書いてるけど、官位的にはお願いして?)、民衆たちを助けようと会稽郡に乗り込んだってわけ。
   勇ましきは、丹陽の兵卒たち!
丹陽軍
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦闘マークの位置に根拠はありません

   さて、お次は多少、こじつけ話。
   後に孫氏に関わってくる丹陽関連の人物を紹介。

   まず、ぜい祉(字、宣嗣)。
   と、書いた割に、実はこのとき、何をしてたのか、それに年齢も定かじゃない。
   ただ、丹陽人(丹陽県出身の意)ということぐらいしか、わからない(汗)12)

   さて、二人目は朱治(字、君理)。 丹陽郡の故しょう県出身13)
   この人の素性はだいたいわかっている。おそらくこのころ、県吏(県の役人)か、孝廉になっていて、揚州に招かれ、從事という役職をやっていたんだろう。
   孝廉というのは郡で人口二十万人あたり一人、選ばれるんだけど14)、これに選ばれると官吏(やくにん)で出世しやすくなのみたい。当時の推薦制度みたいなものなのだ。
   何だかこう書くと、君理はエリートさんのようだ。

   役職はどれだったんだろうと、首を傾げるが、年齢ははっきりしている。
   三国志の死亡年と寿命から逆算すると、熹平元年に17歳ということになる15)。ほぼ文台と同世代。

   後には文台の部下となる人物。この時期にこの二人が主従関係になるどころか会ったかどうかもわからないけど、それだけにあれこれ想像してしまう。


   こういった人物がいることから、ポテンシャルの高さを感じてしまう丹陽郡。
   その丹陽軍団VS許生・許昭親子の行方はどうあったかというと、丹陽軍団の勝利!

   それで無事、兵乱がおさまったかというとそうではない。
   許昭は再び兵乱の軍を集める16)
   さて、会稽郡の行く末は如何に?!


   ちなみに、この臧旻&陳寅、率いる丹陽軍団。    翌々年(熹平三年)の冬、盜賊の苴康って人が率いる軍勢と戦っているんだけど(もちろん、勝利)17)、この盜賊って許生・許昭親子と関係、あるんだろうか………



1)   建寧→熹平の改元。「夏五月己巳、大赦天下、改元熹平。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)。史書では紛らわしいことに、改元後の元号がその年に使われる。例えば、中平元年黄巾の乱が起こったとか。実際は光和七年のこと。あ、この例えの内容、まだ「孫氏からみた三国志」ではとりあげてないところ。   <<戻る

2)   天文と占いのこと。「熹平元年十月、けい惑入南斗中。占曰:『けい惑所守為兵亂。』斗為呉。其十一月、會稽賊許昭聚衆自稱大將軍、昭父生為越王、攻破郡縣。」(後漢書志第十二天文下より)。星占いのいっぱいあったいわれのうち一つがたまたま当たったから、史書に残したような印象を受けてしまうんだけど、どでしょ?   <<戻る

3)   兵乱のこと。いろんなところに載っているけど、日付と規模について順にそれぞれ一つずつ引用。「十一月、會稽人許生自稱『越王』、寇郡縣、遣楊州刺史臧旻・丹陽太守陳寅討破之。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より。但し「寅」の字は表示されるように改変後の字)。「熹平元年、會稽妖賊許昭起兵句章、自稱『大將軍』立其父生為越王、攻破城邑、衆以萬數。」(後漢書卷五十八虞傅蓋臧列傳第四十八より)。「萬數」は今の字に書き換えると「万数」ね。一万人。あ、臧旻陳寅って人は本文で後述。   <<戻る

4)   各史書の注や校勘記を見ると、許生=許昌および許昭=許韶と思っている。後者は晋の創始者の一人ともいえる司馬昭の諱をさけて「韶」に改めた結果らしい。だけど、 三國志卷四十六呉書孫破虜討逆傳弟一の注にある靈帝紀によると「昌以其父為越王也。」というふうに昌は自分の父を越王とした、とあるので、これと、許昌=越王としている文献とが矛盾し先にあげた関係式は成り立たないような気がする。それか許生(=許昌)が越王と名乗る前に自分の父親を越王にしたのかなぁ。あ、ちなみに後漢書卷八孝靈帝紀第八の注にでてくる東觀記では「會稽許昭聚衆自稱大將軍、立父生為越王、攻破郡縣。」というように、昭が父・生を越王にしてる。それぞれの名前と位はいろいろあってその組み合わせもいっぱいあるけど、実は許生も許昌も許昭も許韶も同一人物が一つもなかったというシュールなオチを思いついてしまう。   <<戻る

5)   臧旻。実は以前、ここのサイトの「気になるアイツ」というコーナーでとりあげたことがあるのだ(>>参照)。なので、今回、書いていることと重なる部分がある。あと互いにネタバレ。先を知りたくない人はお気を付けくださいませ。まぁ、歴史でネタバレなんて変なはなしやけど。ちょうど、塾と学校の授業みたいな関係になるのかな。   <<戻る

6)   揚州。この州がもつ郡は九江、丹陽、廬江、會稽、呉郡、豫章とはっきりしてるんだけど、州府(州の役所)がどこにあるかというのが結構、疑問。後漢書志第二十二郡國四によると、「歴陽侯國、刺史治。」で歴陽にあるんだけど、漢官一卷によると、「九江郡壽春刺史治」で壽春にある。三國志で袁術の記述をみると、壽春みたいな扱い方をしている関係で三国志ファンの間では「壽春=揚州の州府がある」てな感じになっているんだけど、ほんとのところはどうなんだろう。ある程度、時代の変遷はあると思うんだけど。   <<戻る

7)   刺史。各郡を視察するって役割。 「外十二州、毎州刺史一人、六百石。本注曰:秦有監御史、監諸郡、漢興省之。但遣丞相史分刺諸州、無常官。孝武帝初置刺史十三人、秩六百石。」(後漢書志第二十八 百官五より)に書いてある。あ、この文は刺史の制度に至るまでの変遷が書いてる。秦の監御史から始まって、漢を経て、武帝時期にようやく刺史をおいたってこと。諸郡を監する役目はそのまま。あ、お給料は六百石ね。   <<戻る

8)   國は郡と同レベルの行政区域。なんて書いてしまうと語弊がある。「皇子封王、其郡為國、毎置傅一人、相一人、皆二千石。本注曰:傅主導王以善、禮如師、不臣也。相如太守。有長史、如郡丞。」(後漢書志第二十八 百官五より)。つまり、皇族を王にしてその土地をあげる(その土地に封じる)とき、「郡」が「國」と呼ばれるようになる。で、皇族が太守みたいな役割を担うのではなく、別に「相」という役職をおくのだ。だから「太守」は「相」に対応する。そういう意味で「國は郡と同レベルの行政区域」ってことね。あと、「國」の県バージョンがあるからややこしい。   <<戻る

9)   「冀州中山國盧奴県」の県令。「旻有幹事才、達於從政、為漢良吏。初從徐州從事、辟司徒府、除盧奴令、冀州舉尤異、遷揚州刺吏、丹陽太守。」(謝承後漢書卷二臧旻傳より)。あ、ちょっとネタバレでしょうか。これが一番、臧旻の経歴に詳しい。「盧奴令」という文字の前後に着目ね。   <<戻る

10)   はい、やってしまいました。以前の書いたコンテンツのオチにつかったやつです(>>参照)。でもけっこうこういうことってあるみたい。史書を見ると。   <<戻る

11)   陳寅VS山越。「九月、江夏蠻叛、州郡討平之。丹陽山越賊圍太守陳寅、寅撃破之。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より。但し、「寅」の本来の字は出ないので、かえてる)。   <<戻る

12)   ぜい祉(字、宣嗣)。この人のことも「気になるアイツ」で取り上げているので、そちらをよろしく(>>ここ)。この人、文台配下で活躍してそうなんだけどなぁ。   <<戻る

13)   朱治(字、君理)。「朱治字君理、丹楊故しょう人也。初為縣吏、後察孝廉、州辟從事、隨孫堅征伐。」(三國志卷五十六呉書朱治朱然呂範朱桓傳第十一より)。みてのとおり、三国志では伝を立てられている人。以下の記述もここによる。一カ所しか出てこないぜい祉とは対照的。   <<戻る

14)   孝廉制度。「并舉孝廉、郡口二十萬舉一人。」(後漢書志第二十八   百官五より)とか、いろいろ探せば出てきそうだけど、まとまったことの書いてある引用ができないです。   <<戻る

15)   君理の年齢。「黄武三年卒、在郡三十一年、年六十九。」(三國志卷五十六呉書朱治朱然呂範朱桓傳第十一より)。ネタバレのような気がするけど、ま、いいいか。黄武三年とは西暦でいう224年ね。   <<戻る

16)   兵乱再び。 「拜旻揚州刺史。旻率丹陽太守陳寅撃昭、破之。昭遂復更屯結、大為人患。」(後漢書卷五十八虞傅蓋臧列傳第四十八より)。上の脚注3)の続きね。ここらへんは大体、本文中で語ってる。   <<戻る

17)   別の乱。「白氣衝北斗為大戰。明年冬、揚州刺史臧旻、丹陽太守陳寅、攻盜賊苴康、斬首數千級。」(後漢書志第十二天文下より)。上の脚注2)の続きね。占いのやつ。でも、この乱、ここでしか見たことない。他の史書にあるのかなあ。   <<戻る

<<
>>