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出世のあり方(孫氏からみた三国志35)
050501
<<張温&董卓vs辺章&韓遂(孫氏からみた三国志34)


   しばらく涼州の乱の話をしていたが、京師(地名でいう、らく陽のこと)に話を戻す。
   ちょうど「<<京師でゴタゴタと(孫氏からみた三国志29)」の<<司馬直の話の続きになる。
   後漢書の本紀と宦者列伝1)後漢紀2)によるとこの中平二年に皇帝は西園(後漢紀では後園)に万金堂(後漢紀では黄金堂)を作っていた。この中へ、私財にしようと、農業関連の金銭や絹をおさめ、積んでいた。また、皇帝は河間(冀州河間国?)を巡り、農業を設け、邸宅と楼観を起こした。
   農業関係のお金を私財にするだなんて、皇帝の公私を厳密にするなら横領なんだけど(汗)。河間で農業を設けるってのは土地開発といったところだろうか。といってもこちらも公的な目的じゃなく私的目的。南宮雲台が火災で燃えちゃったんで(<<参照)お金をつくる必要性があるのかな。
   元々、皇帝自身の家は貧乏だったようで、先代の皇帝である桓帝のことを嘆いていた。
「桓帝はあまり家をつくることができず、かつて自分の銭はなかった。」

   まぁ、だから自分が貧乏だと言うことを常日頃からアピールしていたようだ。
   さらにそれだけではなく、小黄門常侍(共に宮中の役職、宦官)からそれぞれ銭数千万、財を取り寄せた。皇帝は常に口にしていたのが、
「張常侍(張讓)は私の長老で、趙常侍(趙忠)は私の母だ」
ということだ。張讓と趙忠は前々から出ていた宦官たち。いろいろ権力争いにいそしんでいる人々(<<例えばここの話とか)。そこまで言ってまでお金がほしいか、なんて思ってしまう。

   最高権力者である皇帝から頼られた宦官たちはやっぱり良い気分だったようで、我々はすごいんだ、とばかりに恐れるところはなかったようだ。
   そういった気持ちはすぐに行動に表れていた。宦官たちはならんで邸宅をつくっていた。それは皇帝の住まいの宮室をなぞらえたようなものだったとのこと。

   皇帝はいつも永安侯臺(高いところ?)に居たんだけど、宦官たちは自分たちの邸宅がそんな豪勢なものだから皇帝に高いところから見られることを恐れていた。そのため、宦官たちは中大人(何かの役職?)の尚但という人(後漢紀では「左右」)をやって皇帝を諫めた。
「天子(皇帝のこと)は高いところへ登っているべきではなく、高いところへ登れば、人々はいつわり離れていくでしょう」3)
   この言葉に皇帝は納得したのか、ふたたび、うてな(高いところ)へのぼることはなくなった。

   まぁ、何にせよ、涼州の乱とは無関係に、皇帝は私財を蓄えはじめ、皇帝を取り巻く宦官たちはさらに私財を蓄えていたんだけど、乱の方は待ってくれなかった。
   涼州方面とは別のところで乱が起こる。
 
   年を改めた中平三年二月、江夏の兵である趙慈は反乱を起こした4)
   江夏といえば荊州の郡の一つ。京師より南に位置する(下の地図参照)。
   その乱は小規模なものではなかったようで、隣の郡まで影響が及んでいた。
   南陽太守の秦頡が殺された。秦頡といえば、一年あまり前に朱儁(字、公偉)や孫堅(字、文台)と共に南陽郡の黄巾賊を鎮圧した人物だ(<<参照)。江夏郡の太守の記述は特になく隣の南陽郡の太守が出てくるんだから、もしかするとこの趙慈って人は黄巾と何かつながりがあって秦頡を殺したのかと勘ぐってしまう。南陽郡で再び殺し殺されの連鎖が始まるのかもしれない。

   ともかく、趙慈によって六つの県が陥落したそうだ。そこで廬江郡で黄巾賊退治に実績のある南陽太守として羊續(字、興祖)が派遣されることになる(<<羊續についての参照)。この戦いの行方は次回以降に出てくる。

   そして先ほどの乱とどちらが先かわからないけど、同じ中平三年二月
   太尉の張延(字、公威)は久しく病気になっていたので辞めさせられた5)<<太尉の張延が太尉になった記述)。
 
   続けて庚戌の日(二月十六日)に天下を大赦(たいしゃ)する6)。この大赦というのはよくわからないんだけど(大いにゆるすと書く)、囚人の減刑を行ったりすることだそうな。それを天下で一斉に行うとのこと。
   大赦するのは何らかの理由があるんだけど、特に明記はされていない。涼州の乱がおさまってとして、おこなったのかな。

   中平三年三月。太尉が空位だったためか、次の太尉が決まる7)
   それは張温(字、伯慎)だ。
   張温はまだ戦の任務についていたようで、長安に居た。そこに節を持った使者がやってきて、太尉に任命した8)
   現代の我々には大したことではないのだけど、実は三公(三つの最高位、司徒、司空、太尉)は常に京師にいるもののようで、京師以外のところにいるのはどうやらこれから先、張温から始まったようだ。

   張温が太尉になったので、今度は車騎将軍が空位になる。
   そこにおさまったのが、宦官の趙忠だ。
   元々、車騎将軍は皇甫嵩(字、義真)がついていた官位であり、趙忠の政略で皇甫嵩からその車騎将軍の位が取り上げられた形になったので、趙忠が車騎将軍になるのは何か、皮肉めいたものを感じる(<<そのときのいきさつはここ参照)。

   後漢紀(但し、この史書では年代がずれて中平四年秋九月)や後漢書では車騎将軍になった趙忠の仕事はやっぱり軍務関係のようだ9)
   皇帝は詔(みことのり)で趙忠に黄巾の討伐の戦功を論じさせた。その中で執金吾の甄舉たちは趙忠に言う。
「傅南容は以前、東軍(黄巾討伐の東方面軍?)に居て、戦功があったのに侯に封じられなかったので、天下が失望しています。今、将軍(趙忠のこと)は自ら重任について、多くの心をかいぞえすることでほとんど賢者や道理をすすめました」

   ここで出てくる傅燮(字、南容)は「孫氏からみた三国志」で何度もでてきた人物。以前、趙忠の恨みを買い、黄巾の討伐で戦功があったんだけど、恩賞のなかった人だ(<<そのときのいきさつはここ参照)。
   それが今になって、その話がでてくるだなんて、これまた皮肉な話。

   趙忠はその言葉を受け入れ、弟の城門校尉の趙延に書を持たせ、傅燮に昇進の話を持ちかけに行かせた。
   趙延は傅燮にいう。
「南容は少なからず私の常侍(趙忠のこと)に答えてくれました。万戸の侯につく人が不足しているのですが…」
   つまり趙延は傅燮に万戸の侯をちらつかせていた。黄巾討伐の戦功では皇甫嵩(字、義真)でも八千戸の侯なのに(<<食邑についてここ参照)過分ともいえる待遇!

   ところが傅燮は顔色を正し、これを拒んで言う。
「遇と不遇は命(さだめ)です。戦功があるのに論じられないのはその時々です。傅燮が功が無いのにどうして私賞を求めましょうか」
   今までの傅燮と趙忠との経緯から、やはりまともに受けることはなかった。これにより傅燮は趙忠の顔に泥を塗るようなことになる。
   そのため趙忠はますます恨みを抱いたが、傅燮の名をおそれ、あえて害をなそうとはしなかった。
   もちろん、どちらかというと趙忠側の権勢ある顕貴な人たちはまたこれを大いに憎み、そのため傅燮を京師に留めておくことができず、正確にいつかわからないけど、これ以後に傅燮を漢陽太守にした。
   漢陽郡は涼州にあって、おそらく未だ戦乱がおさまっていない地域だったんだろう。安定都尉のときといい(<<ここ参照)、またまた左遷まがいの目にあうのだった。
まぁ各地でいろいろと
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、ルートに根拠はありません







1)   まず後漢書本紀の記述。「(中平二年)是歳、造萬金堂於西園。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。後漢書宦者列伝の記述。ちょうど司馬直の話040504-08)の続きになる。にしても「登高」がうまく訳せない。。。 『又造萬金堂於西園、引司農金錢鋤蛛A仞積其中。又還河間買田宅、起第觀。帝本侯家、宿貧、毎歎桓帝不能作家居、故聚為私臧、復臧寄小黄門常侍錢各數千萬。常云:「張常侍是我公、趙常侍是我母。」宦官得志、無所憚畏、並起第宅、擬則宮室。帝常登永安侯臺、宦官恐其望見居處、使中大人尚但諫曰:「天子不當登高、登高則百姓虚散。」自是不敢復升臺[木射]。』(「後漢書卷七十八 宦者列傳第六十八」より)
2)   後漢紀の記述。後漢紀は列伝がない分、本紀にあたるところがくわしい。名称が違うのがひっかかるけど。 『是歳於後園造黄金堂、以為私藏、閉司農金錢鋤蛛A積之於中。又還河間置田業、起第觀。上本侯家、居貧。即位常曰:「桓帝不能作家、曾無私錢。」故為私藏、復寄小黄門・常侍家錢至數千萬。由是中官專朝、奢僭無度、各起第宅、擬制宮室。上嘗登永安(樂)候臺、黄門・常侍惡其登高、望見居處樓殿、乃使左右諫曰:「天子不當登高、登高則百姓虚。」自是之後、遂不敢復登臺[木射]。』(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
3)   ここらへんは後漢書と後漢紀の漢文から主語がうまくわからず、変な訳になっていて、それをそのままサイトに載せそうになっていた。何気なく、ネットで「永安侯」と検索すると、ニセクロさんのサイトの「>>偽黒武堂の三国志探訪」のコンテンツ「ほぼ訳!後漢書」が引っかかって、それが大いに参考になって、えらく助かった。
4)   江夏兵・趙慈の反乱。後漢書の本紀と列伝(羊續のところ)より。「(中平)三年春二月、江夏兵趙慈反、殺南陽太守秦頡。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「中平三年、江夏兵趙慈反叛、殺南陽太守秦頡、攻沒六縣、拜續為南陽太守。」(「後漢書卷三十一 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一」より)。
5)   太尉の張延のこと。後漢紀では張延がやめさせられたことと次の太尉の人を別個に書いている。。「(三年)春二月、太尉張延久病罷。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。他の史書、後漢書は、張延がやめ、次に誰が太尉になったか続けて書かれている。注釈07)参照。
6)   大赦のこと。まず後漢紀より注釈05)の続き。「(中平二年二月)庚戌、大赦天下。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。「庚戌」を「二月十六日」としたのはサイト「台湾中央研究院」の「學術資源」→「中央研究院兩千年中西歴轉換」をつかって調べている。後漢書本紀では注釈04)の続きで「(中平三年二月)庚戌、大赦天下。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)となっている。
7)   次の太尉。まず後漢紀より注釈06)の続き。「三月、車騎將軍張温為太尉」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。後漢書本紀より注釈06)の続き。「(中平三年二月の項目)太尉張延罷。車騎將軍張温為太尉、中常侍趙忠為車騎將軍。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
8)   張温が長安において太尉につく記述。これは後漢書の董卓伝より。「三年春、遣使者持節就長安拜張温為太尉。三公在外、始之於温。」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」より)
9)   車騎将軍になった趙忠の仕事(本文のネタバレあり)……趙延のセリフがうまく訳せないんだけど(汗)。ここでは後漢書基準。車騎将軍になった時期からして後漢書本紀07)と後漢紀はずれてる。まず後漢書の傅燮伝から。『頃之、趙忠為車騎將軍、詔忠論討黄巾之功、執金吾甄舉等謂忠曰 :「傅南容前在東軍、有功不侯、故天下失望。今將軍親當重任、宜進賢理屈、以副衆心。」忠納其言、遣弟城門校尉延致殷勤。延謂燮曰:「南容少荅我常侍、萬戸侯不足得也。」燮正色拒之曰:「遇與不遇、命也;有功不論、時也。傅燮豈求私賞哉!」忠愈懷恨、然憚其名、不敢害。權貴亦多疾之、是以不得留、出為漢陽太守。』(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)。その次が後漢紀。『(中平四年)秋九月、大長秋趙忠為車騎將軍。執金吾甄舉為太僕、因謂忠曰:「傅南容有古人之節、前在軍有功不封、天下失望。今將軍當其任、宜進賢理枉、以副衆望。」忠納其言、遣弟延齎書致殷勤曰:「南容少答我常侍、萬戸侯不足得也。」燮正色拒之曰:「遇與不遇、命也;有功不論、時也。傅燮豈無功而求私賞哉!」遂不答其書。忠愈恨燮、然憚其高明、不敢害、出為漢陽太守。』(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)
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