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東方の黄巾(孫氏からみた三国志32)
040924
<<皇甫嵩、失脚(孫氏からみた三国志31)


   さて、中平二年八月に涼州の反乱を討伐する軍の総大将という意味で(多分)、司空の張温(字、伯慎)は車騎将軍に任命され、配下も集まりつつあった。
   張温が司空だった頃、何回も招こうとしていた人物がいる。それは張玄(字、處虚)という人1)。ところが張玄は張温の元へ行くこともなく、この中平二年八月でも同じく仕官することはなかった。

   そして、張温の軍は西へと出発することになる(もちろん、この軍には文台もいる)。ところがその間際に現れたのが張玄。田廬(いなかの家)から粗衣をきて縄をしめ(なぜこんな格好?!)、張温をさとそうとする。何も面識かなければ門前払いかな、と想像するんだけど、過去に何回も招いている手前、張温はあっさり張玄を通したんだろう。張玄は言う。
「天下の賊は雲のようにわき起こっていうのに、どうして黄門や常侍(ともに宦官の役職)によって無道がなされないといえましょうか。貴人・公卿以下、平樂觀で道祖を祭ると聞くなか、明公(あなた)は天下をおごそかでおもおもしくまとめ、六師(天子の軍)の要を掌握しました。もし酒宴のまっさかりのときに、金鼓(鐘と鼓)を鳴らし、布陣を整え、軍正(軍律の官)を招き、有罪者をさだめこれを誅し、兵を引き帰り都亭へ駐屯し、次々と中官(宦官)を排除し、天下が逆さ吊りになるのを防ぎ、海内(てんか)の深い恨みに報い、しかるに後で世を避けて隠れている真心ある士をはっきりと雇用すれば、邊章の徒党を自由に扱うことができるでしょう」
   張温はこれをきいて、事の恐ろしさからか、大いにふるえ、面と向かうことができず、かなり間をおいてから張玄に言う。
「處虚(張玄の字)よ、あなたの言葉を喜ばないわけではないが、私のことを考えると、実行することができない。どうだろうか?」
   それに応じ、張玄はなげいて言う
「事を行えばすなわちち至福となり、行わなければ、あだとなるでしょう。今、公(あなた)に長い別れを与えましょう」
   そう言うと、すぐに張玄はをあおぎ、それを飲もうとする。
   張温は進み出てその手をとらえ言う。
「あなたの私に対する忠義に私は応えられないし、それは私の罪なのに、あなたはどうしてそうすべきだと思うのか。その上、(あなたの)口から出て耳に入る言葉を、今、誰が知り得るのか」
   張玄はついに去り、魯陽の山中(魯山?)2)に隠居することになった。

   まるでドラマの一場面を見るようなんだけど、張玄が命を張ってまで示したこと、つまり涼州の乱を鎮めるより先に朝廷内の乱れを軍の力を使ってでも正すべきだ、ということは実行されず、結局、張温は西に軍を進める。
   やはり先の皇甫嵩の件といい(<<参照)、宦官との確執が根強いようだ。

   このときの出来事かこの随分、後の出来事かわかりかねるが、どうやら、東の遠方、徐州で黄巾が乱を起こしたとのこと。一年前(光和七年)に黄巾が居たところ(<<参照)、冀州、荊州、豫州から東へ離れたところだ(場所は下の地図参照)。
   ここで張温の配下の陶謙(字、恭祖)に白羽の矢が立てられる。陶謙は徐州刺史に任命され3)、黄巾討伐へ徐州に赴くことになる(例の乱が起こると刺史が送り込まれる形? >>参照1 >>参照2)。州府があるのが東海郡のたんというところ5)。ちなみに陶謙に従軍したのに臧霸(字、宣高、一名、奴寇)と孫観(字、仲台、一名、嬰子)という人が居たらしい4)。どれぐらいの時間がたったかわからないが、陶謙は黄巾を大破し敗走させ、徐州を穏やかにしたとのこと。ちなみに臧霸と孫観はともにその功績で騎都尉になった。
 
   ここで、こういった黄巾が他の地域にも居たのか?   ってことだけど、やっぱり居た。
   場所は揚州廬江郡(下の地図参照)。一年前、黄巾戦の戦場だった豫州より南東、だけど徐州より南西という地点だ。そのときの廬江郡の太守は羊續(字、興祖)という人6)。実は彼は黨人で十年余り、幽閉されて仕官をゆるされなかったそうな。それで昨年(光和七年)の黄巾の乱の影響で、黨禁が解かれ、ようやく太尉府(太尉の役所)に復帰し、それから四度、転勤し、廬江太守になったとのことなのだ。
   廬江郡の郡府(郡の役所)があるところはという県城なんだけど7)、そこに揚州の黄巾賊が攻めてきたそうな。
   最も、それがいつだったかは不明なんだけど、黨禁が解かれて四度も移転して、さらに今、書こうとしている出来事の次の出来事が中平三年(西暦186年)なので、ここでは中平二年(西暦185年)に揚州の黄巾賊が舒に攻めてきたことにする。
   その黄巾賊は城郭を焼いた。城郭を焼くっていうのはどういう状況か、わからないけど、城壁の内を城、外を郭と表現する場合があるので、それだと城壁の内外を焼いたってことなんだろうか?   どちらにしても黄巾賊に舒の県城はかなり攻め込まれていたんだろう。
   一年前、黄巾賊に攻められた多くの長吏(長官)たちのようにすぐ城を捨てて、逃亡したのではなかった。羊續は舒県で二十歳以上の男子を徴発し、彼らに武器を持たせ轡(くつわ)を並べた(騎兵を配備した?)。さらに二十歳に満たないものや弱者はことごとく水を背負わせ水をそそがせた。
   羊續により集まったのは数万人で、力と勢いを合わせ戦い、黄巾賊を大いにやぶり、郡の中を平定したそうな。

   で、まだ歴史の表舞台に出てないが、この揚州廬江郡舒県を出身地とする者がいる。それは周瑜(まだ成人してないと思うので、このときないと思うが、とりあえず字は公瑾8)。歳は孫堅(字、文台)の長男、孫策(字、伯符)と同じく、中平二年の段階で、十一歳。この黄巾との戦いに関わっていたがどうか不明。

   話を元に戻す。その後、黄巾賊と関係あるかどうかわからないが、安風(県)という地名(下の地図を参照)にいた賊の戴風という者たちが乱を起こし、羊續は再びこれを撃ちやぶり、三千級あまりの首を斬り、渠帥(大将)を生け捕りにし、残党を許し平民にし、賊に農具を与え、農業につかせたそうな。
三カ所一挙表示
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、陳国と徐州の戦マークに根拠はありません


   黄巾の話はまだある。
   お次は豫州陳国。こちらは前者二つと違って、光和七年(西暦184年)に黄巾の戦場になったところ(<<参照)。
   時期は中平中(西暦184年12月〜西暦190年)で、えらく幅があるんだけど、ついでだから、ここで紹介する9)
   陳国の王は劉寵って人で、弩(いしゆみ、クロスボウ)を射るのがうまかったようで、十発十中だったとのこと。しかも全部、同じところにあたったってことだ。中平中に黄巾賊が(陳国で?)蜂起したらしく、郡や県はみな城を棄て敗走した。劉寵の元には強弩が数千張あって、都亭(国の軍営?)へ出軍した。国中の人は王(劉寵)の射がうまいことを元から聞いていたので、反乱をあえて起こそうとしなかったので、陳国だけは傷つかず、帰ってきた百姓は十万人あまりにもなったそうだ。
   以上、劉寵の武芸が結果的に平和的解決へとつながったってお話。同じ反乱鎮圧でも羊續とは対照的で面白い。

   光和七年の黄巾の乱だけみていると、一過性のものに思われたが、実際はどうやら慢性化しつつあったようだ。
   それよりは涼州からの侵攻が官軍にとっての重要事項のようで、次回、その話に戻る。




1)   張玄のこと。文台さんが張温軍に居たってことでこの車騎将軍時代の張温について調べていて、この人のことを見かけた。薬を飲むのを止めたりビジュアル面で面白い。『(張)玄字處虚、沈深有才略、以時亂不仕。司空張温數以禮辟、不能致。中平二年、温以車騎將軍出征涼州賊邊章等、將行、玄自田廬被褐帶索、要説温曰:「天下寇賊雲起、豈不以黄門常侍無道故乎?聞中貴人公卿已下當出祖道於平樂觀、明公總天下威重、握六師之要、若於中坐酒酣、鳴金鼓、整行陣、召軍正執有罪者誅之、引兵還屯都亭、以次翦除中官、解天下之倒縣、報海内之怨毒、然後顯用隱逸忠正之士、則邊章之徒宛轉股掌之上矣。」温聞大震、不能對、良久謂玄曰:「處虚、非不ス子之言、顧吾不能行、如何!」玄乃歎曰:「事行則為福、不行則為賊。今與公長辭矣。」即仰藥欲飲之。温前執其手曰:「子忠於我、我不能用、是吾罪也、子何為當然!且出口入耳之言、誰今知之!」玄遂去、隱居魯陽山中。』(「後漢書卷三十六 鄭范陳賈張列傳第二十六」より)
2)   魯陽の山中(魯山?)。例によって続漢書の郡国志より。といってもこの山が魯山かどうかは不明。「(荊州南陽郡)魯陽 有魯山」(「続漢書志第二十二郡國四」より)
3)   陶謙が徐州刺史に。毎度おなじみの派遣ネタって気がしてくる。後漢書と三国志魏書より。「陶謙字恭祖、丹陽人也。少為諸生、仕州郡、四遷為車騎將軍張温司馬、西討邊章。會徐州黄巾起、以謙為徐州刺史、撃黄巾、大破走之、境内晏然。」(「後漢書卷七十三   劉虞公孫さん陶謙列傳第六十三」より)。「遷幽州剌史・徴拜議郎、參車騎將軍張温軍事、西討韓遂。會徐州黄巾起、以謙為徐州剌史、撃黄巾、破走之。」(「三國志卷八   魏書八   二公孫陶四張傳第八」より)。
4)   臧霸と孫観の黄巾討伐。「臧霸字宣高、泰山華人也」「黄巾起、(臧)霸從陶謙撃破之、拜騎都尉。」(「三國志卷十八   魏書十八   二李臧文呂許典二ほう閻傳第十八」より)。「孫觀字仲臺、泰山人。與臧霸倶起,討黄巾、拜騎都尉。」(「三國志卷十八   魏書十八   二李臧文呂許典二ほう閻傳第十八」の注に引く「魏書」より)。それからそれぞれの一名は三国志の注より。「霸一名奴寇。孫觀名嬰子。」(「三國志卷十八   魏書十八   二李臧文呂許典二ほう閻傳第十八」の注に引く「魏略」より)
5)   東海郡のたん。例によって続漢書の郡国志より。「(徐州東海郡)たん   本國、刺史治。」(「続漢書志第二十一郡國三」より)
6)   羊續の黄巾退治。本文のネタバレ。「羊續字興祖、太山平陽人也。其先七世二千石卿校。祖父侵、安帝時司隸校尉。父儒、桓帝時為太常。」「續以忠臣子孫拜郎中、去官後、辟大將軍竇武府。及武敗、坐黨事、禁錮十餘年、幽居守靜。及黨禁解、復辟太尉府、四遷為廬江太守。後揚州黄巾賊攻舒、焚燒城郭、續發縣中男子二十以上、皆持兵勒陳、其小弱者、悉使負水灌火、會集數萬人、并げい力戰、大破之、郡界平。後安風賊戴風等作亂、續復撃破之、斬首三千餘級、生獲渠帥、其餘黨輩原為平民、賦與佃器、使就農業。」(「後漢書卷三十一 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一」より)
7)   廬江郡舒県。例によってやっぱり続漢書の郡国志より(「続漢書志第二十二   郡國四」)。単に廬江郡の先頭にでてくる県だから。あっているのかな?
8)   周瑜。別にここで触れなくていいとおもうけど、歴史の多次元性を感じてもらいたかったので入れてみる。出身地・字(あざな)はやっぱり三国志より。「周瑜字公瑾、廬江舒人也。」(「三國志卷五十四   呉書九   周瑜魯肅呂蒙傳第九」より)
9)   陳王寵。本文のネタバレあり。「寵善弩射、十發十中、中皆同處。中平中、黄巾賊起、郡縣皆棄城走、寵有彊弩數千張、出軍都亭。國人素聞王善射、不敢反叛、故陳獨得完、百姓歸之者衆十餘萬人。」(「後漢書卷五十   孝明八王列傳第四十」より)。
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