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舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)
030421
<<一方、浙江以南では…(孫氏からみた三国志11)


   文台孫堅)も公偉朱儁)も揚州の官吏(役人)から、徐州下の県吏になった。
   だけど、まだ揚州にいる人が気になる。

   それは丹陽太守臧旻(字、不明)。
   この人が文台の手柄を中央へ報告したので、文台が鹽涜丞になれたって過去がある。
   えーと、臧旻のおさらいをする。
   彼は会稽郡の兵乱を鎮圧するため冀州中山國盧奴県の県令から揚州の刺史へ昇進。そして、熹平三年(西暦174年)に見事、兵乱を沈め、さらに丹陽太守に昇進した。

   で、また、移転となる、熹平六年(西暦177年)のこと。
   実は単なる移転じゃなくて、会稽郡の兵乱と同じパターン
   つまり、兵乱討伐の命令とともに官位が変わるってやつ
   お次はなんと、幽州ってところ。
   どこにあるかというと、揚州の北にある徐州。
   さらに北にある青州・冀州。この州に河水(黄河)が東西に横切っているし、東は勃海(渤海、太平洋)に面している。
   その州のさらに北にあるのが幽州なのだ。
   えらい、北に飛ばされた……もとい派遣されたなぁって気がするけど、ここで事件が起こったのだから、仕方ない。現地に赴かなければ。
州それぞれ
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   その幽州、あるいはその西隣の并州で何があったかというと、後漢書孝靈帝紀第八から引いてズラズラと並べてみると…

建寧元年(西暦168年)
十二月、鮮卑及[シ歳]貊寇幽并二州。
建寧二年十一月
鮮卑寇并州。
建寧四年
冬、鮮卑寇并州。
熹平元年(西暦172年)十二月
鮮卑寇并州。
熹平二年十二月
鮮卑寇幽并二州。
熹平三年
十二月、鮮卑寇北地、北地太守夏育追撃破之。鮮卑又寇并州。
熹平四年五月
鮮卑寇幽州。
熹平五年
是歳、鮮卑寇幽州。

   というようなことで、「鮮卑」というのがほぼ毎年、掠奪を行っている(「寇」の字ね)。
   この鮮卑というのは、文台や公偉、それに臧旻たちの漢民族と違う民族。
   漢民族は農耕民族だけど、鮮卑はどちらかというと遊牧民族。
   それから漢民族とは別の勢力だともいえる

   えーと、後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十を元に、鮮卑のことをちょっと書くと、東胡(人)の一派で、東胡とは別に鮮卑山に居たのでそう名付けている。
   他の東胡で烏桓山に居たのがいて、それは烏桓と名付けている。
   鮮卑はこの烏桓と習慣がほぼ同じで、騎射(馬に乗りながら弓で矢を射る)がうまくて、鳥や獣を狩っている。さらに放牧をしていて、居住を同じ場所にとどめることはないそうな1)

鮮卑寇三邊。2)

   迎えた熹平六年(西暦177年)の夏、この鮮卑がまた侵攻してきた。今度は東、北、西の辺境と大規模なもの。三十余り(回数?)、塞(今でいう「万里の長城」の一部)を乗り越えている3)

   秋八月。
   そこで、天子(皇帝)は田晏という人を破鮮卑中郎將4)、それと我らが臧旻を使匈奴中郎將にして、ほかに護烏桓校尉の夏育という人を討伐に向かわせている。

   お、ここで文台の登場?   と思われるだろうけど、今回の戦には文台の出番なし!
   あしからず。
   まだ文台の武はなく、文官の修行中って感じなのだ。

   その三人。それぞれ田晏を雲中というところから、夏育を高柳というところから、臧旻を鴈門というところから塞を出た。それぞれ、一万騎を率いていて、塞から二千里余り進んだ5)

   臧旻は他の二人と違うところがある。
   なんと、軍の中に南匈奴という異民族の王ともいうべき、南單于の「某」(名前がわからないってことかな?)がその軍がいるのだ6)
   この時期、鮮卑とは戦闘状態だけど、南匈奴とは同盟状態のようだ。

   そして、それを迎え撃つ鮮卑はというと。
   まず、ボスの名は檀石槐
   彼は東部の大人(位の名)、中部の大人、西部の大人に命じて戦わせた7)
対、鮮卑
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)

   勝負の行方の前にまず臧旻側の台所事情。
   後漢書志第十五   五行三によると、実は同じ歳の夏に七州(具体的にどこかわからないけど)で蝗(いなご)がでたとのこと。蝗といっても史書に載るぐらいだから、十匹や百匹ぐらいじゃなくて、それこそ、大量発生。作物を食い尽くすのだ。
   だから、当然、どこの官府(役所)も食糧不足で、大司農は盛んに郡や國から食糧を集め、軍糧(軍用の食糧)としていた3)

   臧旻たちは、そんな状態での遠征だから、それが一因となったか定かじゃないけど、三軍とも鮮卑に大敗を喫する。帰ってきたのが半分に満たなかったとか(後漢書志第十五   五行三より)、死者が十人中、七、八人とか(後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十より)、十人中、一人、帰ってきたとか(魏書)、死者が一万人にのぼったとか(後漢紀)もうどうしようもなく、やられてしまった8)

   後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十によると、あまりにもひどい負けなので、夏育、田晏、臧旻は罪に問われることになる。
   三人は囚人の車に乗せられ、檻に入れられる
   なんとか、庶人になるのはあがなったけど9)
   但し、 謝承後漢書では、臧旻には功があったとし、議郎となったとしている10)。どちらかが間違っているのか、それとも臧旻だけには功があったのか定かじゃない。

   一方、鮮卑は東へ動き、幽州の遼西というところで略奪行為をはたらく11)
 
   少々、強引な話の展開だけど、この遼西あたりには後に文台の部下になるものが二人居る。
   まず、遼西郡令支県出身の韓當。字(あざな)は義公という。弓や馬になれていて膂力(体力)がある。後にそのことが文台の目にとまることになるく12)

   そしてもう一人。遼西郡の西の境界付近にある、右北平郡土垠県には程普という人がいる。字は徳謀
   若いとき、州や郡の官吏(役人)をやっていたそうな(ちょうど、このころ?)
   容貌と計略があって(男前? 先見の明がある?)、人当たりが良かった。
   後に文台に従軍することになる13)

   おそらく、この二人も少なからず、鮮卑の被害にあったんだろう。

   そんな大変な北の方だけど、文台のところは至って平和のようだ。
   はっきりした年月はわからないけど、役職が変わっている。
   鹽涜丞からくい丞になっている。まぁ、説明しなくても大丈夫だと思うけど、くい県の丞(副官)のことね。つまり、またもやお引っ越し14)
   くい県は同じ、徐州の下ひ國にある。
   この場合の國は郡と同等の行政区域。
   但し、皇子(皇族)が王として封じられる土地の意味合いがある。
   でも、王が実際に政治に携わるわけじゃなく、相という役職が取り仕切る。この相が郡でいう太守になる15)

   と説明くさく脱線したんだけど、話、戻して平和な文台の話。
   これもはっきりした年月はわからないけど、この時期に長男・策に続き、長女が生まれたようだ16)

   文台が時代を救う手助けをするのはまだ時期が早そうだ。
お引っ越し2
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートの位置に根拠はありません




1)   後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十を元に、鮮卑のことをちょっと書くの下り。「鮮卑者、亦東胡之支也、別依鮮卑山、故因號焉。其言語習俗與烏桓同。」(後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十より)。この記述の上に烏桓の習俗についてあるんだけど、かなり長いです。興味のある方は後漢書で。   <<戻る

2)   先に本編で別のところを引用したように、元ネタは後漢書孝靈帝紀第八。いわゆる、本紀ってやつです。ここみたいに、簡素な記述で年表に近いところもあるので、引きやすいといえばひきやすい。   <<戻る

3)   迎えた熹平六年(西暦177年)の夏。「靈帝熹平六年夏、七州蝗。先是鮮卑前後三十餘犯塞、是歳護烏桓校尉夏育、破鮮卑中郎將田晏、使匈奴中郎將臧旻將南單于以下、三道並出討鮮卑。大司農經用不足、殷斂郡國、以給軍糧。三將無功、還者少半。」(後漢書志第十五 五行三より)。「先是鮮卑前後三十餘犯塞、」ってところだけど、何が、「三十餘」なんだって話だけど、手元にある後漢紀だと、「三十餘」の後に「(人)」って注釈が入っている。三十人余りだけなんすか!? それにしても「七州」って具体的にどこでしょ。私が知らないだけで、決まった表現なのでしょうかね。   <<戻る

4)   田晏さん。「帝乃拜晏為破鮮卑中郎將。」(後漢書志第十五 五行三より)。実はここの下り、本編で示したように単純じゃなく話が込み合っていて、それはそれで詳しく調べると面白いんだけど、それをやってしまうと、今でさえ、文台離れがひどいのに、これ以上やると、「孫氏からみた三国志」でも何でもなくなってしまうので、やらない(というか、まだ訳してない)。興味ある方はどうぞ。   <<戻る

5)   お三方の行方。「八月、遣破鮮卑中郎將田晏出雲中、使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門、護烏桓校尉夏育出高柳、並伐鮮卑、晏等大敗。」(後漢書孝靈帝紀第八より)。三國志卷三十魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十の注に引く魏書の記述「嘉〔熹〕平六年、遣護烏丸校尉夏育、破鮮卑中郎將田晏、匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門塞、三道並進、徑二千餘里征之。」をみると、三人とも「鴈門塞」から出たという表現に見えなくもないし、省略されていると見えなくもない。この違いは戦略的にかなりかわってくるような……   <<戻る

6)   南單于。脚注3)5)でも出したけど、「使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門、」(後漢書孝靈帝紀第八より)とか「使匈奴中郎將臧旻將南單于以下、」(後漢書志第十五 五行三より)とかの記述ね。名前は「屠特若尸逐就單于某、熹平元年立。六年、單于與中郎將臧旻出鴈門撃鮮卑檀石槐、大敗而還。」(後漢書卷八十九南匈奴列傳第七十九より)を参照している。   <<戻る

7)   檀石槐のくだり。「檀石槐命三部大人各帥衆逆戰、育等大敗、喪其節傳輜重、各將數十騎奔還、死者十七八。」(後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十より)のところ。本編でもかいたけど、「三部」ってのは「西部」「中部」「東部」のことらしい、「檀石槐拒不肯受、寇鈔滋甚。乃分其地為中東西三部。」(三國志卷三十魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十の注に引く魏書)をみると。   <<戻る

8)   やられた下り。本編の元ネタ(原文)を順に書いていくと「三將無功、還者少半。」3)(後漢書志第十五   五行三より)、「死者十七八。」7)(後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十より)、「檀石槐帥部衆逆撃、旻等敗走、兵馬還者什一而己。」(三國志卷三十魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十の注に引く魏書より)、「三軍敗績、士馬死者萬數。」(後漢靈皇帝紀中卷第二十四より)ってことね。   <<戻る

9)   三人の行方。「三將檻車徴下獄、贖為庶人。冬、鮮卑寇遼西。」(後漢書卷九十烏桓鮮卑列傳第八十より)。「孫氏からみた三国志」で、敗戦エピソードは二回目ぐらいでしたっけ。   <<戻る

10)   功があったバージョン。「是時邊方有警、羌、胡出寇、三府舉能、遷旻匈奴中郎將。討賊有功、徴拜議郎、還京師。」(三國志卷七魏書呂布臧洪傳第七の注に引く謝承後漢書より)。大敗したことには触れられてない。よくよく考えたら、後漢書卷八十九南匈奴列傳第七十九の記述6)と矛盾している……それか、大敗したけど、功はあったってこと?(苦笑)   <<戻る

11)   遼西の被害。「鮮卑寇遼西」(後漢靈皇帝紀中卷第二十四より)とか、あと脚注9)にある「冬、鮮卑寇遼西。」とか。「幽州」とか「并州」とかあるんだけど、今回のように郡レベルまで細かく書かれているのは珍しいかな。   <<戻る

12)   韓當紹介の巻。「韓當字義公、遼西令支人也。以便弓馬、有膂力、幸於孫堅、」(三國志卷五十五呉書程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁傳第十より←「凌」は本当はさんずいへん)のところね。どこで文台とあったか不明。まぁ、文台自身、これからいろんなところに赴くことになるので、そのうちどれかなんだろう。   <<戻る

13)   程普紹介の巻。「程普字コ謀、右北平土垠人也。初為州郡吏、有容貌計略、善於應對。」(三國志卷五十五呉書程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁傳第十より←「凌」は本当はさんずいへん)のところね。こちらは韓當と違って、文台さんと同じ官吏なんで、出会いはあれこれ想像つく……ってそれもかなり無理がある(汗)   <<戻る
14)   お引っ越し第二弾。「詔書除堅鹽涜丞、數歳徙くい丞、又徙下ひ丞。」(三國志卷四十六呉書孫破虜討逆傳弟一より)のところ……ってこれ、お引っ越し第三弾まで書いてて、ネタバレなんだけど(汗)   <<戻る

15)   國や相のこと。「皇子封王、其郡為國、毎置傅一人、相一人、皆二千石。本注曰:傅主導王以善、禮如師、不臣也。相如太守。有長史、如郡丞。」(後漢書志第二十八 百官五より)。これだけみると、わかんないけど、相は王のかわりに政治を取り仕切るとのこと。給料は二千石。太守と同じ。まぁ、やっていることも多分、太守と同じ。ところで「本注曰」って何? 「注」といえば、後世の人が付け足すってイメージがあるんだけど、元から書いてたやつなんだろうか……   <<戻る

16)   長女が生まれたようだ、のところ。実は生まれたという記述はなくて、前後関係から長女が居たんだろうなってこと。ちなみにもしかして、こちらの方が策より先に生まれているかもしれない。とりあえず、後に生まれる「権」という男の子に姉がいるってことぐらいしかわからない。その記述は「孫權姉婿曲阿弘咨見而異之、」(三國志卷五十二呉書張顧諸葛歩傳第七より)ってところ。ただ孫権に姉がいたってぐらいで。   <<戻る

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