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>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
そういう考えはあったと思います。実際江陵への急行は成功しました。
又、年齢による焦りもあったと思います。
「武帝紀」には、
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
と簡潔に記されているのみです。
演義の派手なストーリーはハ陽湖の戦い(朱元璋vs陳友諒)がモデルだと言われています。
赤壁の戦いは実際にはさほど規模が大きくなかったと思います。
荊州は7つの郡:南陽郡、南郡、江夏郡、未開発の南方4郡からなっておりましたが、
劉表亡き後の荊州争奪戦の一環として赤壁の戦いを捉えるのが宜しいかと思われます。
荊州には戦乱を避けて避難していたよそからの移住者と、地元出身者との間で意識の違いがありました。
魏は、劉砲鮃濾「気札献腑Ε茱シ襪抜楚綢亟澆瑠莨襪鮖拉曚靴泙后」
文聘の士官により、最大の人口を有する南陽郡の住民を安堵させました。
地元の豪族にとってはそもそも劉表自身(エン州山陽郡出身)がよそからの移住者で、良く統治してくれる為政者なら誰でも抵抗はありません。
但し、曹操は徐州での大虐殺で評判を落とし、魯粛、糜竺、諸葛亮をはじめとする徐州出身者に限っては無条件に敵視されています。
徐州出身者と、劉キを支持していた勢力は劉備を支援します。
劉キと関羽は漢水系の水軍を編成して要衝 夏口に向かうことに成功します。
劉備、趙雲、張飛、諸葛亮らは江陵へ向かい、守備兵と長江系の水軍を傘下に収めようと試みますが、
曹操軍の軽装騎兵が急行し、道中蹴散らされ失敗します。
(もし曹操が急がなければ、劉備軍は江陵を拠点にできたはずでした。)
曹操はさらに夏口の南東に位置する、銅貨幣などの生産地である湖北省銅緑山を支配下にする事を欲します。
そのためには長江を渡らなければなりません。
賈ク伝には、
今はまだ危ないが、数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、
そのときにはもう、軍を出すまでもなく、向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと進言したことが記されています。
(参考までに、曹操は屯田制度を確立し、兵糧を安定的に生産する体制が優れていました。)
賈詡は客観的に正確な状況を把握する能力に優れているので、
たとえ疫病が蔓延しなくても、曹操にとってそもそも不利な情勢だったのでしょう。
江陵確保に失敗しこれから荊州南部を経営して勢力を充実させたい劉備勢力にとって、
長江南部まで進出され、貨幣生産地まで奪われるのは致命的です。
恐らく曹操自身が長江を渡る戦いを指揮したと思われますが、負けて撤退しました。ただ、さほどの大軍は投入していなかったと思いますし、
疫病が流行さえしなければ、複数の路から侵攻する作戦を立てられたでしょう。
また、余り長く都を空けておくと反乱等が生じるという事情もあったかもしれません。留守を任せられる器量に一番すぐれた息子が死んでいます。
疫病が大流行した船は、人を載せるには使えないのでひとまとめに隔離されたでしょう。その中には官吏士卒の重病人が放置されたかもしれません。
焼かれるがままになったことでしょう。
また、南郡、江夏郡北部の住民で飢え死にしたものも多かったでしょうから、
赤壁の戦い後には相当数の遺体が散乱した凄惨な状況になったことでしょう。
▼R・Fさん:
>▼酒井さん:
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>浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。
>
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>一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。
>
>本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。
>
>後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
>実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。
>
>では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。
>
>良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
>後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。
>
>まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
>疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
>これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
>孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。
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>やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。
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>>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
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>>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
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>>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
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>>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>>
>>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
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>>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
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>>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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